逆行オイフェ 作:クワトロ体位
十二聖戦士が一人、大司祭ブラギがロプト教から人々を解き放つ為に興したエッダ教。
ユグドラル大陸に数千年前から存在する土着宗教を土台としたこの宗教は、ロプトの圧政に苛まれた民衆にとって、文字通り救いの神となっていた。
自然崇拝を基本としたエッダ教の教えはロプト帝国崩壊後も広く民衆に浸透し、グランベルだけではなくユグドラル大陸全土の人々から信仰されている。
同時に、大司教ブラギの末裔である代々のエッダ家当主、エッダ教教主もまた人々からの崇拝の対象となっていた。
ブラギは幼少の頃、ロプト教団の生贄として処刑される身の上だった。だが、教団内部の良心──ロプト教マイラ派の神官によりその命を救われ、マイラ派の拠点であるアグストリア北方の小島にて秘密裏に育てられる。
マイラ派の神官から聖杖や魔導書の生産、使用の教えを受け成長したブラギは、聖者ヘイムが率いる解放軍に参加。その後、十二聖戦士の一人として“ダーナの奇跡”に出会う。
竜族の力により“運命と生命を司る者”となったブラギは、その超常の力をもって聖戦に多大な貢献を果たした。
そして、ブラギは聖戦後、共に戦った聖戦士達の協力も得て、各地にエッダ教の布教に従事する事となる。
十二聖戦士を率いた聖者ヘイムも、その称号の通り、元はブラギと同じく聖職者としての身分を持っていた。
しかし、その偉業は聖職者というよりも、武力で世界を救った英雄として人々に認識されていた。
故に、ヘイムの血を引くバーハラ王家は政治力と武力にて俗世の権威を持ち、宗教的な権威はブラギのエッダ家が補完する形となり、他の国家も同じような権威関係が構築されるようになる。
見方を変えれば、教皇であるエッダ家の方が各国王家より権力を持ち得る構造であったが、ブラギが世俗的な野心に一切関心が無かったのも手伝い、エッダ家は特に各国の国政に参与することは無く、粛々と国家の宗教儀礼に殉じるのみであった。
とはいえ、エッダ教が全く政治に関わっていないかというと、そういうわけでもなく。
各地に設けられたエッダ教の教会。
信仰の拠点である教会は、見方を変えれば国家の行政機関としての側面も持ち合わせていた。
教会は葬祭や布教の拠点だけではなく、国家による教育、文化、福祉の拠点としても活用されており、戸籍の管理も教会が行っている。
新生児に行われる洗礼儀式は、そのまま領民の出生届として処理され、結婚や死亡の届けもそのまま教会で処理されいるのだ。
そしてこれらの教会の運営資金は主に信徒からの喜捨により賄われている。
そしてこの喜捨金は領民のみならず、グランベル王国をはじめ各国の国庫からも支払われていた。いわば、司法立法徴税以外の行政サービスをエッダ教が金銭で肩代わりしている形となっていた。
民衆に広く支持されるエッダ教が行政を執り行うのは、ロプトの圧政で疲弊した民衆の感情を鑑みたという背景もあり、ユグドラル大陸の一般的な行政形式となっている。
各地の教会を取り仕切る司教はエッダで教育を受けた者が派遣されており、基本的には各国の意思に従い布教活動、そして行政を執行していた。
しかし本質的にはエッダ家が各国の行政を握っているといっても過言ではなく、人別帳や地図など国家の基幹情報はエッダ家に筒抜けとなっている。
これが、グランベルが覇権国家たらしめる要因のひとつとなっていたのだ。
当然ではあるが、これに危機感を覚える為政者は少なくなく、自国のエッダ教司祭の掌握に様々な手段を用いるようになる。
アグストリア諸侯連合でエッダ教を統括するマッキリー王家など一部の者たちは、世俗的な野心を捨てきれず、金銭の収受を受け自国の便宜を過度に図るようになっていた。
だが、これはあくまで一部の者達だけであり、大半のエッダ教司祭は、開祖ブラギや現エッダ家当主の意向を受け、政治的な中立の立場を堅持していた。
そも、元々は俗世を疎うブラギが教会による行政執行を容認したのは、前述の民衆感情を考慮したのもあるが、本来はグランベル王国の監視を目的としていたのもあり。
ロプトという巨悪を打倒しても、人と人との摩擦から生じる災いは無くなったわけではなく、グランベルがロプトのような暴虐国家に変貌しないという保証はない。
聖者ヘイムの独善的な思想を見抜いていたブラギは、最終的な抑止力として、教団に行政的な役割を与えていたのだ。
教祖の号令があれば、各国の行政機能はたちまち麻痺せしめ、安定した国家運営を維持するのは難しい。もちろんそれを行えば大権力からの報復は免れないが、元々失うものが少ないエッダ家にとってそれは些細な問題であり。
トラキアの内戦を除き、イザーク征伐までは各国は軍事衝突を起こさず、平和な治世を保ち続けている。
エッダ家は、その宗教的基盤をもって代々世界の安定に寄与し続けていたのだ。
しかし、現在その安定は暗黒教団の暗躍により綻びを見せている。
これは現エッダ当主が、ともするとブラギよりも俗世への関心が少なく、政治的な介入を嫌い続けていたから起こり得た事でもあり。
人の野心へ直接干渉することで世を乱す暗黒教団。
その存在に気づく事は、現在のエッダ当主では難しかったのだ。
そして、現在のエッダ教教祖であり、グランベル王国エッダ公爵家当主の名は、大司祭ブラギの直系。
神器“聖杖バルキリー”の継承者──クロード・ギュルヴィ・エッダ。
敬虔に神への祈りを捧げるクロードの元へ、悲願を胸に秘める少年軍師──オイフェが現れたのは、グラン歴757年が暮れようとする時だった。
エッダ公国
エッダ城
「初めまして。私はスルーフと申します。皆さまの滞在中のお世話を仰せつかりました。ご用命の際はお気軽にお申し付けください」
齢十二歳程だろうか。オイフェより少し年若の少年
行儀正しく出迎える侍者──スルーフ少年を見て、オイフェは
スルーフに案内され、オイフェ達は馬車を預けると旅装をそのままに城内へと案内される。
エッダ城はバーハラ王宮などとは違い、過度な装飾はされず質素な造りとなっている。また、ドズル城のような堅牢な要塞とは違い、城壁を含め城郭内部にはろくな防衛設備はなく、ともすると大商家の屋敷といっても差し支えないほどの脆弱性を持っていた。
戦闘城塞としての機能が一切ないエッダ城の構造は、エッダの祖であるブラギの穏健な性格を如実に現しており、その
「申し訳ありません。クロード神父は現在領内の巡幸に出かけていまして……お戻りになるまで、このまま城内でおくつろぎください」
「ええ、わかりました」
柔らかな金髪を揺らし頭を下げるスルーフ。それに、オイフェもまた丁寧に応える。
年の瀬というのもあってか、城主であり教主でもあるクロードは領内の教会を巡幸中だ。
元々、月の半分は王宮内にて祭事に従事するクロード。
エッダに戻れば領内の宗教儀式に赴くのが常であり、その身は六公爵家の中でも特に多忙だ。
年に一回のブラギの塔、聖地巡礼以外でも国外を巡幸する事も多々あり、忙しなさでいえばユグドラル随一の身といっても過言ではなかった。
若くしてエッダを継いだクロードは、その若さゆえのフットワークの軽さを活かし、精力的な活動を行っていたのだ。
オイフェは事前に書簡を送っており、滞在中にエッダへ訪問しクロードと会見する約定を取り付けている。
もちろん、この時期にクロードがエッダへ戻っている事は、ミレトス商会からの情報を通して把握済だ。もっとも、クロードの動静は非公然のものではないため、その情報を得るのは容易かったのだが。
スルーフのクロード不在の言を受け、人見知りのしないデューが無邪気に疑問を上げた。
「戻るって、どれくらいかかるの?」
「明日にはお戻りになりますよ。えっと……」
「おいらはデューっていうんだ。こっちはホリンで、こっちはベオっちゃん。よろしくねスルーフ」
「はい。よろしくお願いします。デューさんに、ホリンさんに、ベオっ……ちゃんさん」
「ちょっと待て。なんでその呼び方押し通した?」
スルーフはデュー達へ、オイフェへ向けたのと同じように丁寧な挨拶をする。
誰に対しても誠実な態度で接するのは、聖職者としての教育を十分に受けているのと同時に、スルーフが持つ人としての美徳であろう。
これもまた、オイフェは十分に知っていた事であり。
リーフ軍の従軍司祭として兵士達の慰安を行っていた前回のスルーフは、その人徳により兵士個々人と部隊全体の精神状態を良好な状態に促す役割を果たしていた。
またセリス軍と合流してからは、当時は心身共に未熟だったクロードの実子、コープルの指導役にもついており、後にクロードの後を継ぎエッダ教教主となったコープルの実務面、精神面での補佐も務めている。
このスルーフの性格は、クロードの薫陶を幼少の頃から受けていたからこそ培われたものであり。
それ故、クロードの死後もその霊言を聞くことができ、人々の心の安寧を保ち続けることが出来たのだろう。
信憑性が疑わしき怪しい宗教家では決してないのだ。
「こちらが皆様がお泊りになる部屋になります。少し狭いかもしれませんが……」
「いえ、十分です。ありがとうございます」
やがて、オイフェ達は用意された客間へと通される。
四人が旅の疲れを癒やすには十分なスペースがあり、簡素ではあるが清潔に整えられた調度品の品々がオイフェ達を出迎えていた。
「三日ぶりのおふとん!」
「デュー、行儀が悪いぞ」
真っ白なシーツが敷かれたベッドへ、デューが勢いよく飛び込む。嗜めるホリンも、苦笑が混じった表情を浮かべながら自身の荷物を片付けていた。
スルーフはその様子を見ても、穏やかな微笑を崩さずにいた。
「では、お食事の際にまた。それまではごゆるりとおくつろぎください、オイフェ様、デューさん、ホリンさん、ベオっ……ちゃんさん」
「お前さっきから絶対わざとだろ! なんでちょっと半笑いなんだよ!」
行儀よく一礼し、スルーフは部屋から退出する。
誠実な性格がちょっとした所作からも滲みでており、オイフェは感心したように表情を和ませていた。
とはいえ、目下の目的を忘れたわけではない。
「皆さん、私は少し用を足してきますね」
「ほーい」
「了解した」
「くそぅ……あのガキ絶対性格悪いぞ……」
荷物を下ろし、装具を外して寛ぐデュー達を背に、オイフェはスルーフの後を追うように部屋を退出する。
その懐には、ある重要な文書が携えられていた。
「スルーフさん」
「あ、オイフェ様。部屋になにか不備でも?」
そう離れてはいなかったのか、オイフェは直ぐにスルーフに追いつく。
疑問を浮かべるスルーフに、オイフェは表情を引き締めながら懐へと手を入れた。
「これをクロード様にお渡し願いたく」
「はあ。手紙、ですか?」
「はい。会見の前に、クロード様へお伝えしたい事がありまして」
此度の会見の名目は、戦後の属州総督領でのエッダ教信徒の状況、そして布教状況の報告といった差し障りない内容となっている。その会見にはクロード以外にも幾人かのエッダ教側の人間が参加する予定だ。
だが、オイフェの真の目的はそのような慣習的な内容ではない。
「その、恥ずかしながらシグルド様の件でして……」
「シグルド総督の?」
「はい。シグルド様と、御妻君であるディアドラ様の、その……」
「ああ……」
言いよどむオイフェを見て、スルーフは少しばかり頬を染める。
総督となったシグルドが妻を迎えた事は、当然のことながら各公爵家にも伝わっている。
そして、その美しい
ヴェルダンを瞬く間に征服した属州総督殿の豪傑ぶりは、色事にも及んでいるようだ。
クロードの愛弟子ともいえるスルーフも、そのような風聞を聞く機会があったのだろう。
言いよどむオイフェを見て諸々を察したスルーフは、オイフェの手紙を大事そうに受け取っていた。
「かしこまりました。クロード神父に直接お渡しいたします」
「はい。よろしくお願いします」
そのようなシグルドの悪しき風評が立っているのは、ノイッシュがオイフェへ苦言を呈している事からも、シグルド陣営にとって無視できぬ事なのだろう。
そう如才なく察したスルーフ。
自身とそう変わらない年頃のオイフェが、主君の房事にまで頭を悩ませているのだろうかと、やや同情めいた眼差しを向けていた。
(よし。スルーフ殿ならば手紙を余人に見られることなく、直接クロード様に渡してくれるだろう……)
当然のことながら、オイフェの手紙に記載されているのは、全く異なる内容であり。
そして、シグルドの風評については、オイフェが
ユングヴィを奪還し、ヴェルダンを征伐したシグルドの実力。
それは、レプトール宰相、アルヴィスら国家転覆を企む連中……そして、世界を再び闇の時代に陥れようとする暗黒教団の謀略とは違った結果を生んでいた。
せいぜいエバンス領だけを与え、その後予定しているアグストリア征伐の尖兵にするはずだった彼らの謀略。
しかし、結果を見れば、シグルドはヴェルダン全土を統括する属州総督にまで登り詰めている。
その実力を、自身の謀略の結果とはいえ、警戒しないはずがない。
そこで、オイフェは一計を案じる。
シグルドがディアドラとの愛を以前よりもより深く育むのは、オイフェの願望でもあるが、計略のひとつでもあった。
あえてシグルドが色に溺れているという風評を流し、
流言飛語を逆手にとったこの計略。
シグルドに好意的な者にとって微笑ましい内容となり、シグルドに敵対する者にとっては侮りとなる。そのように、オイフェは風評を絶妙にコントロールしていた。
これらは実に上手く作用しており、バーハラ王宮内ではシグルド陣営の軍拡が、この風評により巧妙に迷彩が施される事となり。
ある程度の軍拡は、敵対勢力にとって許容範囲。しかし、実態はその許容を遥かに超える陣容となっている。
だが、この計略により“色に溺れた小僧如きに何ができる”と、軍拡について問題視する者を減らす事に成功していたのだ。
外聞はシグルドの色欲に頭を悩ませる体裁を取らねばならず、オイフェは己の心を殺しながらその計略を実行し続けていた。
己の願望を、強かに
もっともその本音は、恥も外聞もなく、お二人には大いにイチャイチャして頂きたい。日が昇り日が沈むまで、何事にも遮られることなく、お二人だけの時間を過ごして頂きたい。ああ、早くセリス様に会わせて頂きたい。いや、お子はセリス様だけはなく、もう二人や三人……否、一個小隊を組める程拵えて頂きたい。それを成し遂げる為に、己の生命、己の全てを捧げ奉らん。
と、やや常軌を逸したものとなってはいたが。
狂気ともいえる願望を孕んだオイフェの計略に気づく事なく、スルーフはオイフェへ一礼した。
「では、また後ほど」
「はい」
目下の布石を打てたことで、オイフェはほっと一息をつく。
そのままスルーフへ返礼し、部屋へ戻ろうとした。
すると。
「スルーフさま!」
「おや」
廊下の向こうから、ふわふわとした銀髪を揺らした可愛らしい少女が現れる。
「アマルダさんじゃないですか。どうしたんですか、そんなに慌てて?」
スルーフの口から、アマルダという名を聞いたオイフェ。
またも懐かしい思いが、その胸の内から湧き上がる。
そして、少女から発せられた言葉で、その想いはより深みを増していった。
「あ、あの、姫さまを見なかったですか!?」
怒りの雷神乙女の姿が、オイフェの中に映し出されていた。