逆行オイフェ 作:クワトロ体位
第21話『歴史オイフェ』
「はぁ……」
グラン歴757年が暮れようとするこの時分。
エバンス城の物見台にて、物憂げなため息をひとつ吐く黒髪の乙女。
イザークの王女、アイラ。ここ数日、彼女は甥であるシャナンとの稽古を終えると、こうして一人物見台に立ち彼方を見つめていた。
イザーク人の中でも一際黒く、美しい輝きを見せるその瞳は、エバンスを発ち、イザークへ旅立ったオイフェ達がいるであろう方角へ向けられていた。
「ホリン……」
乙女の心に僅かな火を灯す男。同郷の剣術を操る金髪の若き剣豪、ホリン。
闘技場での熱戦。
アイラと紙一重の差で敗れたホリンは、直後にアイラへ自身の剣を捧げている。
曰く、金だけの為に戦っていた自分がひどく虚しくなり、アイラに負けたことでその剣を誰かの為に使いたくなったと。
ホリンの真っ直ぐな瞳に戸惑うアイラ。
逃げるようにホリンの処遇をオイフェへ一任した。
オイフェは初めからこの事が分かっていたかのように、ホリンをシグルド軍の客将として迎え入れる段取りを整えていた。
その後は新編のソードファイター隊の隊長に就任したアイラの補佐を務めていたホリン。
軍務で顔を会わせる度に、アイラはホリンへある感情を抱くようになる。
共に、演習で剣を振るうホリン。
共に、シャナンへの稽古をつけるホリン。
その後、二人きりでの稽古。
自身と滾るような修練を積む、ホリン。
それらを見ていく内に、アイラの心の中に熱く、もどかしいまでの感情が湧き上がっていた。
乙女がそれを恋だと気づくには、そう時間はかからなかった。
「……そういえば、あいつは結局アレを身に着けてくれたのだろうか」
ふと、アイラは自身の長い髪を指先で弄る。
ホリンがオイフェの特命を受け旅立つ前夜。
アイラは急な出立が決まったホリンへ、自身の髪で拵えた指輪を贈っている。
エバンス城の門前で、旅立つホリンへ半ば強引へ渡したその指輪。
イザーク人ならば、その意味は理解るはずだ。
「うっ……」
ふと、アイラは己のしでかした行為を今更ながら思い起こし、徐々に頬を赤く染める。
「うおおお……っ!」
そして、物見台の上で蹲ると、両手で顔を覆い隠しながらジタバタと悶え始める。
「い、今更、だが! ここ、恋人でもないのに、あ、あんなのを渡してしまうなんて……!」
イザークにて女性が自身の髪で拵えた指輪を送る風習。
それは、戦地へ赴く
「これじゃ私はただの重たい女ではないか!!」
早朝、一人物見台の上で身悶えするアイラ。
羞恥が全身へと広がり、その様子は傍から見てかなり奇妙なものとなっていた。
「……あいつは、私の事をどう想っているんだろう」
ふと、アイラは肝心のホリンの想いに胸をはせる。
指輪を渡すというわかり易すぎる行為を受けても、ホリンは眉ひとつ動かさず黙って受け取っていた。
いや、受け取ったからには、アイラの想いを受け入れているのは確かだ。
『お前に俺の剣を捧げる』
闘技場で敗れた際、アイラへそう告げていたホリン。
思い返すと、この言葉はアイラにとって劇薬といっても差し支えない、甘美な響きとなって思い起こされていた。
「はぁ……」
再び悩ましげなため息をひとつ吐くアイラ。
ホリンが旅立ってから、幾度となく繰り返された悩ましい想いは、剣姫の心をかき乱し続けていたのだ。
「む……あれは……?」
しばらく物見台の上でぼんやりと遠くへ視線を向けていたアイラ。
すると、郊外から二騎の騎士が駆けてくるのが見えた。
「あれは……アゼル公子に、
剣姫の優秀な視力は、遥か遠くに位置する二人の貴公子の姿を正確に捉える。
早朝の遠乗りへでかけたヴェルトマー公子アゼル、そしてドズルのいい男の姿が、アイラの瞳に映し出されていた。
「そういえば、彼らはいつもこの時間に遠乗りに出かけていたな……」
エバンス城に入城して以降、騎乗が得意でないアゼルに、いい男は気前よく早朝の乗馬訓練に付き合っていた。
ドズルのいい男は、いい男特有の男前な騎乗法を惜しみなく親友に伝授しており、そのおかげかアゼルはめきめきと乗馬を上達させている。
ただ、鐙を蹴る際の「あおおっー!」だとか「ンアーッ!」というドズル式の掛け声には未だに慣れていなかったが。
ちなみに、ドズル公国騎士団グラオリッターの騎士達もまた同様の掛け声をもって手綱を操っており、万馬のグレートナイトの勇ましい掛け声は、大地を震わすと共に相対する敵兵の尻を震え上がらせる程の武威を放っていた。
物見台の上にいるアイラに気づかないアゼル達は、そのまま馬の手綱を引きながら厩舎へと歩を進めている。
鋭い五感を備えるアイラは、数十メートル上の物見台にいながらも、二人の会話を鮮明に拾う。
余人に聞かれていると気づかぬ二人は、普段通りのあけすけな物言いで会話を交わしていた。
「いいこと思いついた。アゼル、お前俺の勇者の斧にファイアーしろ」
「なんで!?」
「ファイアーまみれで
「ああ
「だろうな。俺も初めてだよ。とりあえず遠慮しないでぶっかけろ」
「微妙に会話が噛み合ってないしあと言い方ァ!!」
「ああ……次はライナロックだ……」
「聞けよ人の話!!!」
気さくな会話を交わすアゼルといい男。
まるで市井に棲まう平民の若者達のような、親しげな様子が見て取れた。
「いいな……あいつら悩みなさそうで……」
そう呟くアイラ。
アイラから見れば、この二人が自身が抱えるような悶々とした想いに囚われているとは到底思えず。
いつも通り鍛錬に励む姿を、アイラはやや眩しそうに見つめていた。
「……いや、違うか」
即座に頭を振る。
彼らはグランベル人。
自身の故国、イザークとの戦時中だ。
いい男の故国、ドズル公国も主力騎士団をイザークへと派遣している。アゼルの故国、ヴェルトマー公国は直接戦闘には関わっていないものの、ロートリッターはバーハラからイード砂漠方面での兵站を担うべく兵力を展開をしている。
平時ではなく、今は戦時。
それ故、安穏と過ごすのを良しとせず、こうして試行錯誤を交えながら鍛錬に励んでいるのだ。
真っ直ぐな若者達は、悩みを抱えつつ、己が出来る事を懸命にこなしていただけだ。
「私は、思ってたより弱かったのだな……」
膝を抱えながら、弱々しい呟きを放つアイラ。
自身は故国の存亡の危機にも関わらず、恋にうつつを抜かす有様。
今この瞬間でも、イザークの一族郎党が斃れているかもしれないのに。
「……度胸か」
ふと、先程のいい男の言葉が思い起こされる。
男は度胸。つまり、女にも度胸は備えられて然るべきなのだ。
「私は……シャナンを立派に育て……そして、イザークへ帰る」
それ以外の感情は、今の己には不要。それを成し遂げる為の、度胸を備えるのみ。
故国を離れ、孤独な生き様を強いられていた己は、闇夜に輝く月光に、一時惑わされただけ。
そう思ったアイラ。
思った後は、ホリンへの恋情は、幾ばくか薄れていた。
「帰ってきたら、指輪を返してもらおう……」
寂しげに呟きつつ、アイラは立ち上がる。
全てはシャナン──イザークの為に、命を燃やすべく。
孤高の剣姫は、大いに後ろ髪を引かれながら、自身の想いに蓋をしようと決意していた。
この世で一番大切な存在は何かと問われれば、エスリンは迷わず娘のアルテナと答えるだろう。
だが、この世で一番愛しているのは誰かと問われれば、迷わずキュアンと答える。
ある種の二律背反的な思考ではあるが、結婚し、一児をもうけても尚、エスリンが恋する乙女なのは変わらない。
つまるところ、エスリンはキュアンが大好きなのだ。
「キュアン、いる?」
エバンス城に充てがわれたレンスター夫妻の部屋。
政経学を学びながら夫シグルドの補佐を努めるディアドラは、城内の家政には中々手が回らない。故に、エスリンがディアドラに代わりエバンス城の家政を一切取り仕切っていた。
ちょうど業務が一段落しており。麾下の槍騎兵隊の練兵を終えたであろうキュアンと共に、お茶でも飲もうかしらと部屋へと戻っていた。
「いないのかしら……?」
しかし、お目当ての夫の姿は部屋のどこにも見当たらず、部屋にはエスリンしかいない。
見ると、ソファやテーブルには夫が脱ぎ散らかした衣服が乱雑とした状態で放置されていた。
「もう、キュアンったら、どうしてこんなにだらしないの」
ぷりぷりと頬を膨らませつつ、エスリンはキュアンが散らかした衣服を手早く集めていく。
大方部隊の教練を終え、戎衣から軽服に着替えてそのままフィンを連れてどこかへ出かけてしまったのだろう。
「最近、フィンばっかり連れ歩いてて……ずるい」
ヴェルダン征伐を終え、エバンスへ腰を落ち着けてから……特に、シグルドの披露宴以降、キュアンはことフィンの育成に熱心だった。
腹心の部下である為、軍務では常に傍らにいるのは当然として、食事の時ですらエスリンよりもフィンとの会話が多い。
もちろんエスリンもフィンの事を弟のように可愛がってはいるのだが、それにつけてもキュアンの熱心さは、流石に乙女の嫉妬心を多いに煽っていた。
「むぅ……」
そして、キュアンがフィンを鍛えるのに熱心な理由も、エスリンは十分に承知している。
シグルドとディアドラの披露宴の翌日。
何やら思いつめた表情のフィンが、自身を徹底的に……大陸一の槍騎士になれるよう、徹底的に鍛えるようキュアンに直訴していた。
その理由は明言していなかったのだが、披露宴での金髪の美姫──ラケシス王女と、たどたどしくも至純なダンスを踊っていたのを見れば、その理由は推して知るべしである。
レンスターでキュアンに仕えて以来、私心を押し殺し忠実に主へ尽くしてきたフィン。
それが、初めて見せた純粋な想い。
あの御方に相応しい騎士になりたい──
ラケシスへの恋慕。十五歳の騎士見習いが、初めて見せた自儘。
フィンがラケシスと結ばれるには、厳格な身分の差、実妹を溺愛する兄王の許可、そしてそもそものラケシスの気持ちなど、超えるべき大きなハードルがいくつもある。
しかし、キュアンはこの純粋な想いに応えぬほど、冷血な男ではなかった。
フィンの申し出を受け、己が持つ槍術の真髄、騎士としての心構えを惜しみなく伝授していた。
『ちょっと、無茶じゃないかしら』
以前、エスリンはキュアンへフィンがラケシスと結ばれるのは非常に難しいのではないかと述べている。
しかし、キュアンはそれに対し。
『愛に超えられない壁などない! 俺の目の黒い内はフィンに悲恋なんてさせないぞ!』
と、実に良い笑顔、歯の浮くような台詞で愛する妻に言葉を返していた。
もちろん、エスリンもレンスターへ嫁いで以降、何かにつけて健気に尽くしてくれるフィンが幸せになれるよう願っている。
とはいえ、キュアンの熱意はいささか熱心が過ぎるとも思っていた。
特に、自身という可愛い奥さんを差し置いてまでやることかとも。
「……まぁ、仕方ないか」
キュアンが着ていたシャツを抱え、エスリンはため息を吐きながらソファへ腰をかける。
フィンへの想いもそうだが、キュアン……レンスターの人間が持つ、ある種の恋愛観を思えば、あの熱心さも理解はできるのだ。
「悲恋かぁ……」
ふと、エスリンはレンスターで過ごした日々に思いを馳せる。
レンスターは豊かな生産力を背景としたユグドラル大陸有数の文化先進国。市井の劇場では、演劇や歌曲の為の劇場がいくつも建てられ、そこでは男女の恋愛をテーマにした作品が多く上演されている。
エスリンもキュアンに誘われ何度も城を抜け出し、お忍びでそれらを観賞していた。
しかし。
ある時、エスリンは恋愛物の作劇に、こと悲恋物が全く存在しない事に気付く。
故国のシアルフィや王都バーハラでは、悲劇的な男女の恋愛物が大いに流行った時期もあり、文化的な繋がりが深いレンスターでもその手の作品が上演されていると思っていた。
しかし、不自然なほど悲恋の物語は見受けられない。
まるで、レンスター全体が悲恋アレルギーを患っているのかと思ってしまうほど、見ているこちらが恥ずかしくなるような甘酸っぱい物語のみが演じられている。
だが、レンスター──地槍ゲイボルグにまつわる悲哀の物語と共に、トラキア半島の歴史を紐解くことで、その理由は察せられた。
グラン歴632年。
ダーナの砦にて古代竜族と
竜族の力──神器を得た聖戦士達は、十六年の時を経て晴れてロプト帝国を打倒する。
戦いを終えた聖戦士達は、それぞれの地にてグランベル七公国、周辺五王国を建国した。
トラキア半島では十二聖戦士が一人、竜騎士ダインを国王としたトラキア王国が建国された。
同じ聖戦士の一人、ダインの実妹でもある槍騎士ノヴァがこれを支え、実際の統治は兄ダインがトラキア半島南部、妹ノヴァがトラキア半島北部をそれぞれ統括する。
これは地政学的な要件が重なり取られた統治形態であり、豊富な鉱物資源を有するが故に峻険な山岳地帯が殆どの南部は、野良飛竜の生息地というのもあり、世界最強の竜騎士であるダインでしか安泰に統べる事が出来なかった。
豊穣な穀倉地帯である北部は、平原も多いこともあり優秀な槍騎士であるノヴァが治め、その人なりを十全に活かし穏やかな統治を施していた。
食料などの生活物資を南部へ、鉄鋼などの鉱物資源は北部へ。トラキアは建国初期から安定した経済活動、そして兄妹による平穏な治世が施されていたのだ。
だが、その平和は、ノヴァが夫を迎えた時に綻びを見せる。
ノヴァの伴侶となった男は、元はダインの腹心の部下であった。だが、義兄弟となった後も、ダインは変わらず己の部下としてノヴァの夫を粗略に扱う。
ダインからしてみれば、今まで通りの気さくな関係を維持していたつもりなのだろうが、ノヴァの夫からしてみればその態度は驕慢な君主のそれでしかなく。
そして、ノヴァが夫を迎えてから数年後。
ある日、グランベル王国の外交使の面前で、ノヴァの夫はダインに手酷い叱責を受ける。
衆目の前で己の頬を叩かれたノヴァの夫は、それまでの積もりに積もった鬱積が爆発する。ノヴァを連れレンスターの領地に戻ると、トラキア王国からの離脱、独立を宣言。
ダインへ反旗を翻した。
これに北部の領主達、そして南部へ生活物資を卸していた豪商、豪農が同調。
領主達もダインが南部優先の施政方針を取り続ける事に不満を覚えており、生活物資の卸値などでその影響を露骨に受けていた豪商達は、ある意味領主達以上にダインへ不満を抱えていた。
折しも凶作の年が続いたのもあり、そもそも南部へ回す食料が少なかったという背景もある。自分達ですら飢えているのに、なぜ南部の連中に格安で食料を渡さなければならないのかと。
反旗を翻したノヴァの夫ら北部領主達に対し、ダインが下した決断は“見せしめ”を起こす事だった。
既に水面下で独立工作を進めていたコノート領主を、策を弄しトラキア王城へ呼び出し、そのまま謀殺。その後、コノートへ麾下の竜騎士団を進駐させ、領民の為に蓄えられていた食料を南部へ回した。
見せしめで行われた誅殺と略奪。
ダインの中では、これで北部の叛逆は終わりを告げるはずだった。
だが、これを受け北部領主達はノヴァの夫を盟主とした軍事同盟、マンスター同盟を結成。即座にコノート奪還の軍を起こす。
血で血を洗う、トラキア内戦の勃発である。
ノヴァは始めは夫と兄の間に立ち、平和的な紛争解決に尽力していた。
しかしノヴァの努力も虚しく、両軍の争いは日に日に熾烈を極める。そして、とうとう夫とダインが直接槍を交える瞬間が訪れた。
間に立ったノヴァは、地槍ゲイボルグを持って両者の争いを止めようとする。
だが、夫の槍がダインを穿とうとしたその時。
ノヴァは、夫をゲイボルグで貫いていた。
止めようとしたつもりが、誤って愛する夫を刺し貫く悲劇。
直後、狂乱したノヴァはゲイボルグにて己の命を断った。
その後、ダインも謎の死を遂げ、南北は互いの盟主の弔い合戦に燃え骨肉の争いを演じるようになる。
天槍グングニルと共にトラキア王位を継いだダインの息子は、やがて北部征伐──北伐をトラキア王国の国是と定め、ノヴァの遺児もまたゲイボルグを継承し南部と対抗する。
紛争は長期化しつつあったが、やがてグランベル王国による調停が入り、休戦協定に加え様々な経済協定が南北で結ばれた。
こうして、兄妹が手を取り合って生まれたトラキア王国は、完全に南北に分断された国家となった。
だが、分断された後も、トラキア半島の悲劇は終わらない。
休戦後、幾ばくか頭が冷えたのか、ダインとノヴァの息子達はそれぞれの妹──互いの従妹を娶り、南北の緩やかな融和を図ろうとした。
しかし、既に経済的な南北格差が生まれていたことで、北部の領主達──既に独立した国家群を形成していたマンスター諸国の思惑が、南北の再統一を良しとせず。
様々な謀略の末、レンスターに嫁いだダインの娘は毒殺される事となる。
これに激怒したダインの息子は、自ら天槍グングニルを用い自身の妻……ノヴァの娘を殺害すると、休戦協定を無視し再度北伐を開始する。
グランベル王国を始め周辺国が調停軍を派遣し両軍の争いを止めるまで、南北は激しい攻防を続けた。
その後も小競り合いを続けながら今日に至る南北トラキア。
もはやトラキア半島は、南北のどちらかが絶滅しなければ、再統一が果たされる事はなかったのだ。
「悲しい……とても哀しい話……」
エスリンはソファに腰掛けながら、トラキア半島で繰り広げられた悲劇の歴史に思いを馳せる。
この悲劇の歴史により、レンスターでは“地槍ゲイボルグを持つ者は愛する者を失う”という伝説が生まれていた。
固い絆で結ばれていたはずの兄妹、同胞が。
天の槍と、地の槍が、互いに呼び合い、血で血を洗う殺し合いを演じる。
その結果、それぞれが愛する人を失った、トラキアの歴史。
それが、レンスター民の悲恋アレルギーとなって現れていたのだ。
「お養父様は……なぜ私に……」
エスリンはふと、厳重に封印された自身の行李へ視線を向ける。
その中にあるのは、悲劇の象徴……神器、地槍ゲイボルグが収められていた。
『必要となったら、地槍の力を使いなさい』
レンスター現国王、カルフ王よりそう言われ、内々に渡されたゲイボルグ。息子の出征を受け、万が一を考えカルフはゲイボルグを持たせたのだろう。
事実、ゲイボルグの継承を済ませたキュアンがそれを用いれば、先のヴェルダン征伐はもっと早く終わっていた。
だが、エスリンは行李の封印を解こうとは思わなかった。
解けば、この悲劇の物語が、自身にも降り掛かってくるのではないかと恐れたから。
「……迷信、よね」
そう呟きながら、キュアンのシャツをぎゅっと抱きしめるエスリン。
ゲイボルグを用いれば、キュアンがいなくなってしまう。そのような事など考えたくはない。
「それに……オイフェもそう言ってたし……」
エスリンは、先日旅立ったオイフェの姿も思い起こす。
ゲイボルグの秘匿は、シグルド陣営の中ではエスリンしか知らぬ事実。しかしあの紅顔の少年軍師は、なぜだか分からないがゲイボルグがエスリンの手にある事を知っていた節があった。
ヴェルダン征伐が終わりしばらくしてから。
オイフェは真剣な表情を浮かべ、ある事をエスリンへ告げている。
『エスリン様。神器は強大な力を持つ武具ですが、所詮武具でしかありません。努、迷信などに惑わされぬよう』
そう述べたオイフェ。
曰く、神器の力は強大なれど、それにまつわる逸話を恐れる必要は無い。
迷信は、あくまで迷信。
あるのはこの世に生きる人と人との摩擦から生じる災いだけであり、天災などは自然の摂理である。
この超現実的な言葉に加え、オイフェはトラキア半島の歴史について自身の“所感”も述べている。
それは、生々しい“人と人との摩擦”であった。
ロプト帝国を打倒した十二聖戦士の一人、初代グランベル王国国王でもある聖者ヘイム。
彼はロプト帝国打倒の旗頭として聖戦士達を率いていたが、その実、やや利己的で猜疑心の強い政治家でもあった。
ロプト帝国打倒後、同じ聖戦士──ダインとノヴァが建てたトラキア王国は、繁栄を遂げるにつれ、グランベル王国を脅かす潜在的な驚異としてヘイムの目に映っていた。
“民草の安寧を脅かす邪悪なる勢力に抗するには、大国主導による盤石な指導力こそが肝要である”
晩年、側近の一人にそう漏らしていたヘイム。
この事大主義思想は、ヘイムが持つ本質をよく現していた。
十二聖戦士の内、五人の聖戦士がヘイムと袂を分かち、それぞれの独立国家を建国したことからも、ヘイムの独善的な思想に反発をもつ聖戦士は少なくなかった。そして、そのような“離反的”な聖戦士達を、ヘイムが警戒しないはずもなく。
ある意味、ロプト帝国打倒末期から、十二聖戦士達には不協和音が生じていたのだ。
故に、潜在的な国力でグランベルを凌駕しかねないトラキアの内部分裂を、ヘイムが画策した陰謀と言われても否定は出来ない。
ノヴァの夫へ独立を唆し、秘密裏に資金物資を支援したのは、ヘイムの意向を受けたグランベルの外交使ではないか。
その後の調停も、ダインとノヴァが死亡し、両軍が疲弊しきった状況を見計らっており、あまりにもタイミングが良すぎる。
また、融和を図ろうとした南北を、再び決裂させた要因はマンスター諸国の謀略だったが、外交的圧力をかけそのようにさせたのもグランベル王国──ヘイムの差し金だったのではと。
今でこそグランベルとマンスター諸国……特にレンスターとは、シアルフィからエスリンが嫁いだことからも蜜月といえる友好関係を築いている。
だが、それはあくまで表面的なもの。
軍事、そして経済でも、隙きあらば互いの足を容赦なく引っ張り合う状況だ。
国家間での真の友好は存在せず、常に片手で握手し、片手で殴り合う状態が続くものであるのは、エスリンですら感じる非情な現実である。
そして、それらの謀略の歴史を看破したオイフェ。
証拠は無い。
だが、確たる説得力が、オイフェの言葉にはあった。
いや、それらの謀略の決定的な証拠の存在すら、オイフェは知っているように思えた。言葉の節々に、明確な証拠を匂わせる具体的な話があったからだ。
「オイフェって……」
変わったわ。本当に。
エスリンは、そう独りごちる。
オイフェがスサール卿の死去に伴いシアルフィへ来たのは、ちょうどエスリンがレンスターへ嫁いだ時分。
里帰りの時でしか接する機会はなかったが、あの頃のオイフェは同年代の子供に比べ賢くはあれ、年相応の無垢な少年だった。
だが、ユングヴィ救援にシグルドが立ち上がった時。
エスリンが夫と共に駆けつけ、シアルフィで再会した少年軍師は、自身が知る無垢な少年とは一線を画する存在になっていた。
時折シグルドへ甘える仕草を見せていたが、それでも様々な献策、そして老獪な政治手腕でシグルドを支え、ヴェルダン総督まで押し上げたオイフェの才覚は、天真爛漫な気質を持つエスリンですら若干の悍ましさを感じるものであった。
そして、先日旅立ったオイフェの思惑。
父バイロン、グランベル王子クルトへ陣中見舞いに伺う名目で、オイフェはシグルドへ出立の許可を申し出ている。
道中
渋るシグルドであったが、既に事前の根回しをしていたのか、もはやいつも通りの光景となったパルマーク司祭の言葉も受け、オイフェの出立を許可していた。
パルマークとしてはシグルドがオイフェから離れ、本当の意味で独り立ちする良い機会と捉えており、内務の完璧な引き継ぎを条件にオイフェに賛同していた。
こうして、護衛に手練の剣闘士ホリン、そしてエルトシャンの推挙で雇った自由騎士ベオウルフ、更にオイフェの耳目となり才覚を働かせるデューを引き連れ、オイフェはイザークへと旅立っていった。
なにか重大な、世界を揺るがしかねないその思惑に、エスリンは言いしれぬ不安に苛まれていた。
「キュアン……」
不安を誤魔化すように、エスリンは強く夫のシャツを抱きしめる。
そして、夫の匂いが強く残るシャツに顔を埋める。
こうしていれば、キュアンが抱きしめてくれるような──キュアンに、包み込まれるような──
そのような得も言われぬ安心感が、エスリンの心を慰める。
そのまま、夫の香りを求め、シャツに顔を埋め続けた。
「……スン」
そして。
「スゥゥゥゥ……!」
エスリンのやや倒錯めいた性癖が、キュアンの匂いで炸裂した。
「はぁぁ~~……♥」
女一人、密室、汗くさシャツ。
何も起きないはずがなく……。
「これ……やっばぁ……♥」
存分にキュアンの汗を吸ったシャツ。
その匂いを嗅ぎ、脳天へ痺れるような快楽を覚えるエスリン。
傍から見れば、王侯貴族に相応しからぬ、変態そのものである。
「スゥゥ~~……フッ……ホァァ~~♥♥」
しかし、エスリンは止めない。止まらない。
先程までのシリアスな空気は霧散しており、エスリンは鼻孔を大きく開き、シャツを貪り続ける。
まるでソムリエのように匂いを堪能し、官能的な吐息を漏らしては変態行為を継続せしめる。
愛する夫の香ばしい香りは、結婚し、経産を経ても尚、恋する乙女にとって強烈な麻薬に等しい効能を発揮していた。
つまるところ、エスリンはキュアンが大好きなのだ。
「エスリン様、何をされているのですか?」
「ノヴァアアアアアアッッッ!!??」
行為に耽っていたエスリンへ、不意打ち気味に声をかけたのは、義姉となったディアドラ。
突然声をかけられた事により、エスリンは素っ頓狂なレンスター式の叫びを発していた。
「ディディディディディアドラ義姉さま!? なななななん……ッッ!!??」
唐突に現れたディアドラに、滑稽な程の狼狽を見せるエスリン。
キョトンと首をかしげながらエスリンの様子を見つめるディドラは、不思議そうに言葉を返した。
「ごめんなさい、ノックをしてもお返事が無かったから……それで、キュアン様のシャツを抱き締めて変な声を上げてたから、何をされているのかと思って……」
「えええええーーーーッと! こ、これは! 深い! ワケが! あって!!」
行為に没頭するあまり、エスリンはディアドラの来室に気付くことはなく。
がっつりと己の痴態を、無垢な精霊の乙女に目撃されていた。
慌ててキュアンのシャツを放り出すエスリンの様は、先程の「だらしない」という夫への言葉を、見事なブーメランに昇華させていた。
「あ……」
「へ……?」
しかし。
ある意味では夫シグルド以上に天然乙女であるディアドラ。
だが、彼女は同時に優秀なシャーマンでもある。
狼狽するエスリンの姿を見て、義妹が何をしていたのか、その精霊的な直感で察することが出来た。出来てしまった。
「ああ、キュアン様の匂いを嗅いでいらしたのですね」
「ワアアアアアアッッ!?(羞恥)」
「大丈夫です。わたしもよくシグルド様のを嗅いでいますから」
「ナアアアアアアッッ!?(驚愕)」
「最近はシグルド様の……その、下着の匂いも好きで……」
「ハアアアアアアッッ!?(畏怖)」
精霊の乙女が自身の性癖を看破し、更に唐突に開陳した性癖。
自身より遥かにレベルの高いそれに、エスリンは錯乱するばかりであった。
シアルフィ産レンスター乙女の叫び声は、オイフェ不在のエバンス城内によく響き渡ったという。