逆行オイフェ   作:クワトロ体位

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誤字報告をして頂いた方々に感謝致します。


第19話『悪魔オイフェ』

  

 ああ──寒いな──

 こっちへおいで──ディアドラ──

 

 秋の空が見せる、独特の青白い夜明けの光が差し込む。

 寒冷地であるシレジア王国程ではないが、エバンスの秋口も相応の冷え込みを見せている。

 早暁のこの時間帯は、部屋の中でも薄着ではいられないほどの寒さに包まれていた。

 

「ん……」

 

 窓枠から僅かに差し込む光で目を覚ましたシグルド。

 衣服は何も身につけておらず、寝具からこぼれた素肌にひやりとした冷気を感じ、僅かに身を震わせた。

 

「ディアドラ……」

 

 寝ぼけ眼を浮かべたまま、隣で眠るこの世で誰よりも大切な存在の名を呟くシグルド。その隣では、すうすうと静かな寝息を立て眠るディアドラの姿があった。

 彼女もまた夫と同じように、裸身で寝具の中に包まっている。

 シグルドの暖かい体温を求めるように、その身をピッタリと寄せながら眠っていた。

 

「……」

 

 シグルドはディアドラを起こさないように、優しい手付きで愛妻の銀髪を撫でる。

 そのまま、その美しい額に口づけをした。僅かに浮かぶ()にも、愛おしそうに唇を這わせる。

 

「んぅ……」

 

 少しだけ身じろぎをするディアドラ。その様子がひどく可愛らしいものに見えたシグルドは、ディアドラを抱え込むように抱きしめると、しっとりとヴェーブがかかった銀髪に口づけを重ねる。

 

 ああ、このまま、永遠に──

 

 シグルドの逞しい胸板に頭を乗せ、幸せそうに眠るディアドラ。それを、慈しむよう可愛がるシグルド。

 このままずっと、ディアドラと眠り続けたい衝動に駆られる。

 

(……でも、嫌われてしまわないだろうか)

 

 ふと、シグルドの心に不安な気持ちが沸き起こる。

 飽きもせずディアドラの美しい肢体に溺れる毎日。婚礼を上げてから同衾をしない日は無く、寝ても覚めても常にディアドラの香りを求めていた。

 見かねたエスリンが「仲が良いのは結構ですが、流石に節度を弁えてください! ディアドラ義姉様も!」と、顔を真っ赤にしながら叱りつけるほど、シグルドは人目を憚る事なくディアドラを愛していたのだ。

 

 ちなみに、ぷりぷりと頬を膨らませるエスリンに、夫であるキュアンは「逢いたいが情、見たいが病ともいうではないか。俺達もあまり人の事は言えないと思うが」と、エスリンを抱きながらそう囁き、エスリンは耳まで真っ赤に染まりながら夫の腕の中でもじもじと身体を捩らせており、レンスター夫妻(バカップル)を目の当たりにしたフィンは砂糖を吐き出した。

 

(うーん……)

 

 とはいえ、エスリンの言う事はもっともだと、シグルドはディアドラを抱き締めながら懊悩する。

 政務中でも常にディアドラがそばにおり、重要書類に判を押しながら時々ディアドラの髪を撫でる。城下を巡察する時は、領民の生暖かい視線に晒されながら、ディアドラと指を絡め合い街を歩く。それは、ともすると実に政務に不誠実な姿。

 それほどまでに、精霊の如き儚げな美しさを見せるディアドラは、これまでの人生で女を知らなかったシグルドにとって抗い難い魅力であり。夕餉を終え、寝室へ向かうと直ぐにディアドラをベッドに引き込み、その身体を激しく求めてしまう。エスリンに言われなくとも、いささか()()が過ぎているのを自覚していた。

 

 もちろん、シグルドはディアドラが少しでも嫌がる素振りを見せれば共寝すらも控えようとしていた。だが、顔を赤らめつつも、ディアドラはシグルドの情交の求めに素直に応じている。

 いじらしいまでの愛敬を見せるディアドラに、若い滾りを持て余すシグルドが止まるはずもない。

 

(嫌われたくない……嫌われたくないが……)

 

 どうしても、この身体はディアドラを求めてしまう。

 恋は病とは言い得て妙であり、シグルドは極めて重篤な病変に罹患していたのだ。

 

「ん……シグルド様……」

 

 寝言のような呟き声を上げるディアドラ。もぞりと身体を捩らせ、スリスリとシグルドの胸に頭を擦りつけている様子が、シグルドの庇護欲めいた愛情をより昂ぶらせる。

 抱き抱く力を強め、愛妻の銀髪に顔を埋めた。

 

「シグルド様……おはようございます……」

「うん……おはよう、ディアドラ……」

 

 むにゃむにゃと呟きながら目覚めの挨拶をするディアドラに、シグルドは啄むようなキスを交わす。

 未だ半覚醒状態なのか、ディアドラもまた雛鳥が餌を求めるようにシグルドの唇を求めた。

 

「シグルド様……」

 

 ふにゃりと蕩けるような笑顔を浮かべるディアドラ。ころころと子猫のように喉を鳴らし、全身を使ってシグルドに甘える。

 腕の中のディアドラがたまらなく愛おしくなったシグルドは、もう今日はこのまま政務を休もうかという誘惑に駆られていた。

 

「……いや。それは駄目だ」

「……?」

 

 しかし。

 清廉な精神を持つシグルドは、その悪魔の誘惑に打ち勝つ。

 確かに政務を一日休んでも領地運営に支障は無い。優秀な官僚団……主にオイフェが、領地運営を一手に担い、的確な施政を施していたからだ。

 だが、弟のように可愛がるオイフェだけに苦労をかけるのは、兄として、そして主君としてあるまじき姿。

 やたらとディアドラのそばにいるよう進言するオイフェだったが、それに甘え続けるわけにはいかないのだ。

 

 シグルドの前から去る悪魔の顔は、少しだけオイフェに似ていた。

 

「起きよう、ディアドラ」

「はい……ひゃっ」

 

 そのままディアドラを抱きかかえながら、シグルドはガバリと上半身を起こす。

 戸惑うディアドラに構わず、妻を横抱きにしながら寝台から起き上がった。

 

「身支度をしよう」

「はい」

 

 寝台の脇でディアドラを横抱きにし、仁王立ちをしてそう言ったシグルド。お姫様抱っこをされたディアドラは、火照らせた顔をシグルドへ向けていた。

 お互いに寝具の中で散々甘えていたのもあり、衣服を纏わぬ状態でも部屋の寒さは気にならないほど身体は火照っている。

 

「……」

「あの……シグルド様……?」

 

 そう。

 火照っているのだ。

 シグルドのシグルドが。

 

 男性特有の朝の生理現象と言い張る事もできたかもしれない。しかし、今現在シグルドが主に下半身を硬直させ動きを止めていた理由は、直前まで営んでいた夫婦のスキンシップによる所が大きい。

 凄まじい羞恥に襲われたシグルドは、煩悩を打ち払うかのようにぎゅっと目を瞑っていた。

 

「あ……」

 

 中々動き出そうとしないシグルドに怪訝な表情を浮かべていたディアドラであったが、直後に腰の部分に灼熱の体温を感じる。

 そして、火照らせた顔を更に赤く染めた。

 

「あ、あの……お辛いようでしたら、その……わ、わたしが……」

 

 ゆでダコのように真っ赤に染まったディアドラは、恥ずかしそうにシグルドのシグルドを慰めようとか細い声を上げる。

 悪魔の誘惑第二陣である。

 

(神よ──!)

 

 シグルドは腕の中でもじもじと恥ずかしそうに身体を捩らせる裸身のディアドラを視界に入れぬよう、必死になって目を瞑り続ける。やや額に汗を垂らすほど、この誘惑は度し難きものであった。

 婚礼を上げ、身も心も結ばれてから半年は経とうとしているのに、ディアドラは出会った頃の初々しさを未だに見せており。これでは、シグルドは常に新鮮な春気に晒されるばかりである。

 懊悩し続けるシグルドは、今すぐにでもベッドに戻るよう囁く悪魔の幻影を、神に縋りながら必死になって打ち払っていた。

 

「いや! 服を着る!」

「は、はい」

 

 えらく勇ましい声で衣服の装着を宣言するシグルド。その声にちょっとだけびっくりしつつも、ディアドラは確りと首肯した。

 バルドの末裔は、悪魔の誘惑に打ち勝ったのだ。

 その内面世界での凄まじい戦いは、まさしく()戦といっても過言ではないほど。

 悪魔は恨めしそうな表情を浮かべ、シグルドの前から消え去る。

 その顔は、オイフェに酷似していた。

 

「……くしゅんっ」

「あ、すまないディアドラ。寒かったかい?」

 

 夫の熱い体温に包まれているとはいえ、素肌を晒すディアドラは冷気を感じ、くしゃみをひとつする。

 シグルドは慌ててディアドラを下ろし、手早くを毛布に包むと自身の衣服と共に愛妻の衣服を整えていた。

 

「あの……ディアドラ」

「はい、何でしょう?」

 

 いそいそと政務服を身に着けつつ、シグルドは恐る恐るディアドラの顔色を伺う。ゆったりとしたシフトドレスを纏い、簡素な装飾が施されたローブを羽織りつつ、ディアドラはまっすぐにシグルドの瞳を覗いていた。

 

「毎晩、嫌じゃないか?」

「? 嫌って……?」

「その……と……共寝をするのが」

 

 語彙力を喪失したかのようにたどたどしく言葉を述べるシグルド。

 ディアドラは「あっ……」と何かを察したかのように顔を赤らめるも、夫とは違いはっきりとした口調で言葉を返した。

 

「嫌じゃありません」

「しかし……」

「わたしは、シグルド様と一緒にいられる事が嬉しいのです」

 

 そう言いながら、ディアドラはそっとシグルドの背中へ抱きつく。

 

「わたしは、人と交わってはいけない運命(さだめ)にありました」

「……」

 

 ディアドラの中に眠る、暗黒神の血。

 聖者マイラの末裔であるのを、ディアドラは婚礼前にシグルドへ打ち明けている。

 呪われた血筋を持つ乙女を、シグルドは受け入れていた。

 

 暗黒神復活を目論む暗黒教団。

 かの者達に、ディアドラの存在が露呈すれば。

 関わった者全てが不幸な運命を辿る事となる。

 

 そして、ディアドラ自身が知らない、もうひとつの血筋。

 ディアドラが聖者ヘイム……バーハラ王家の血を引く事は、シグルド陣営で知るのはただ一人だけ。

 血筋を大団円への切り札にせんべく、悪魔の如き冷徹な策謀を巡らすオイフェだけだった。

 

「それでも、シグルド様はわたしを守ってくれると……そう仰ってくれました」

「ディアドラ……」

 

 シグルドはディアドラへと振り返る。

 何かを耐えるように、悲しげに顔を歪めるディアドラ。

 シグルドは、愛する妻を抱きしめていた。

 

「でも……わたしは、怖いのです」

「ディアドラ……何度でも言う。君は、必ず私が守る」

「いえ、違うの。理解っているの……シグルド様が、わたしを守ってくれることは……」

 

 シグルドの胸の中で、精霊の森の乙女は一筋の涙を流す。

 不安が、乙女の心をかき乱す。

 

「でも……シグルド様と、わたしの為に……()()()犠牲になる気がして……怖いのです……」

「ディアドラ……」

 

 優れたシャーマンでもある乙女が、超常の力で予感した漠然とした不安。シグルドは、ただ抱きしめる事でしか、その不安を和らげる事は出来なかった。

 

 朝日が抱き合う二人を照らす。

 全ての生きとし生けるものへ活力を与えてくれるはずの光は、暗澹たる予感に苛まれたディアドラの心を晴らすことは無かった。

 

 

 


 

「オイフェ。少しいいか?」

 

 執務室で大量に積まれた陳情書を捌くオイフェの前に、少々苦い顔を浮かべたノイッシュが現れる。

 オイフェは書類に目を通すのを中断し、軍装姿のノイッシュへと目を向けた。

 

「練兵はもうよろしいので?」

「アーダンに引き継いでいる。お前が考案した軍制は中々効率的だが、少しばかり急進的すぎるな」

「それは、慣れていただくしか」

「いや、咎めているわけではない。ただ、グリューンリッターの諸先輩方には受け入れられないだろうな」

 

 そう言ったノイッシュ。

 エバンス領で新たに募兵し、シグルド軍を再編成したオイフェの手腕を、褒めるとも貶すともいえない微妙な評価を下してた。

 その軍制改革は、若い世代が集まったシグルド軍でしか受け入れられないであろう革新的な内容となっている。

 一言でいえば、オイフェは志願兵制度による歩兵部隊を新たに編成していたのだ。

 

 グランベルの一般的な軍制では、騎士階級に従兵する一般兵卒は、基本的に領民の強制徴募により充足が成されている。

 彼らは当然のことながら職業軍人では無い。戦陣に赴く前にある程度の練兵は施されるも、隊列を守らせる為の歩行訓練がせいぜいであり、まともな戦闘訓練を経ずに戦地へ投入されるのが常である。

 兵役の際の必要な武具も必要最低限しか支給されないのが往々にしてあり、これはシアルフィ騎士団グリューンリッターでも見られる光景である。

 前線に配置しても質も士気も低い平民兵士では使い物にならず、質も士気も高い騎士階級の軍勢や百戦錬磨の傭兵隊に蹴散らされるのが常であった。

 

 それを、オイフェは良質な武具を与え、十分な訓練を積ませ、更には退役後には多額の恩給を支給するなど、社会的な成功を望む平民を登用するべく様々な施策を施した。

 兵役期間は二十年。エバンス領はおろか、ジェノア領からも志願者が続出したのは言うまでもない。

 かつて戦った解放戦争にて、多くの平民が義勇兵として参戦していたのを記憶していたオイフェ。それ故、平民の永続軍事登用に何も忌避感は無かった。

 積極的に戦う平民が、優れた国防意識を持つことを十分に理解していたからだ。

 

 槍歩兵(ソルジャー)剣歩兵(ソードファイター)弓歩兵(ボウファイター)を中核とした歩兵部隊には、ナイトキラー、斬鉄剣、キラーボウなど高額の武具を多数配備している。

 アゼル率いる魔道士隊にもエルファイヤー、エルウィンドなど希少性の高い魔導書が支給され、レックスを隊長とした斧兵部隊ではいい男たちがハンマーやポールアクスを振り回し日々の練兵をこなしていた。

 これらの装備調達、兵士への俸給等は、ミレトス商会からの借款により賄われていた。

 

 オイフェはそれぞれの兵種毎にノイッシュら騎士階級を隊長格につけ、日々の練兵を施している。

 最終的にはその兵科をまとめ、諸兵科連合(コンバイントアームズ)の組織を目指していたが、流石に練度が整っていない内にそれをするのは躊躇われた。

 複数の兵科が集まった戦闘集団の強さは、あのシレジアでの()()で散々味わっており。あの傭兵部隊が、ある意味オイフェが目指す諸兵科連合のモデルケースとなっていた。

 

 また、オイフェは戦術研究目的という名目でシューターを二門購入している。

 ユグドラル大陸で普遍的に扱われているシューターだが、搭載兵器はロングアーチなどの一般的な投擲兵器ではない。

 アンナを通じてミレトスから秘密裏に招聘した武器職人に多額の研究費用を与え、シューターに搭載させる新兵器を開発させていた。

 試作品の完成は半年以上先になる見通しだが、すでに新兵器の名称は武器職人により提案されている。

 新兵器の名称は、“エレファント”と名付けられていた。

 

 これらの軍拡は、オイフェの内政面の補佐を務めるパルマーク司祭がグランベル本国に“叛意あり”と見做される恐れがあると懸念していた。だが、オイフェ自身はその点について全く心配しておらず。

 本国──レプトール宰相や、アルヴィス公爵ら、王権の簒奪を狙う者達。そして、それらを裏で操る暗黒司祭にとって、むしろシグルド軍のある程度の戦力拡充は歓迎すべき事なのだ。

 無論、対アグストリアの尖兵に立たせるという思惑があってこその話である。

 

「私としてはもう少し騎兵を増やして欲しかったのだが」

「それは流石に……騎兵はもっとお金がかかりますから」

 

 オイフェの言葉に気落ちするノイッシュ。

 多額の資金を使い軍拡をしているのならば、自身の兵科である騎兵の拡充にも予算を回してくれればいいのにと、やんわりと不満を露にしていた。

 しかし、歩兵やシューターとは違い、騎兵は非常に手のかかる“金食い虫”である。

 

 騎兵中心の騎士団では、騎馬の維持に莫大なコストがかかるのだ。馬は従順な性格から古来より家畜動物として人に飼育され、軍事面でも優秀な軍用動物として運用されている。

 だが、軍用馬は一般的な家畜とは違い、とにかく金がかかる。

 輸送用の馬車馬ですら馬糧は一頭につき一日で10kg以上は消費し、飲水量も人間の十倍以上は必要だ。馬具も定期的な交換が必要な消耗品であり、そもそもの世話にも人を使う。

 騎兵を大量運用する国家は、常に軍用馬の維持に頭を悩ませているのだ。

 

 尚余談ではあるが、ペガサス騎兵を大量運用しているシレジア王国では、国家が輸入する品目の半数以上がペガサス用の飼料で、その大半はグランベルが輸出している。寒冷地であるシレジアでは、十分な量の飼葉を栽培するのが難しいからだ。

 そして、オイフェの前世。バーハラの悲劇の後、シレジアの天馬騎士団がグランベル帝国軍に蹂躙されたのは、内戦による騎士団の消耗、そして弓騎士団バイゲリッターの猛攻に晒されたのもあるが、この飼料の輸出を止められペガサス騎兵の本来の性能を発揮できなかったことも大きい。

 またトラキア王国でも、領内の生産性の低さに加え、ペガサスよりも維持コストがかかる飛竜騎兵を多く抱えているが故に、慢性的な財政難に陥っている。

 それほど、軍用騎獣の維持には多大な資金と物資が必要なのだ。

 

 

「ところでオイフェ。少し話があるのだが……」

 

 ノイッシュは本来訪れた目的を話すべく、紅顔の美少年軍師の瞳を覗く。

 

「なんでしょう?」

「……シグルド様と、ディアドラ様の事だ」

 

 言い辛そうな体でそう述べるノイッシュ。

 オイフェは、少しばかり目を細めた。

 

「シグルド様とディアドラ様がどうかされましたか?」

「オイフェ。お前、シグルド様にディアドラ様を常にお側に控えさせるように進言したな」

「それが、何か問題でも?」

「問題だらけだ」

 

 少々語気を荒げるノイッシュ。

 同輩のアレクとは違い、質実剛健にして愚直なまでに誠実な性格を持つ騎士は、近頃の主君の姿に不満を隠せずにいた。

 

「仲睦まじいのは結構。だが、何事も節度というものがある」

 

 ノイッシュからしてみれば、近頃のシグルドは少々色に溺れている。エスリンが文句を言ったのも、ノイッシュら一部の騎士達の不満を代弁したという側面もある。

 城内の人間ですら、少々シグルドのディアドラに対する愛情は度を越したものとなりつつあったのだ。

 

「節度とは?」

 

 オイフェはあくまで淡々とした調子を崩さない。

 ノイッシュはオイフェという可愛い後輩に対する想いもあり、その様子にやや苛立ちを見せた。

 

「政務中、特に城下の巡察では、お二人には毅然とした態度を取ってもらいたいのだ。知っているか? 街雀共は皆シグルド様とディアドラ様の仲を面白おかしく揶揄している。吟遊詩人などは、お二人の事を歯の浮くような恋唄で吟じているそうではないか」

「冷えた仲を噂されるよりかはよっぽどマシだと思いますが」

「そういう事ではない! シグルド様には属州総督としてあるべき姿を取ってもらいたいのだ!」

 

 声を張り上げる赤鎧の騎士。

 ひとつため息を吐いたオイフェは、この誠実な騎士の不満も幾ばくかは理解できた。

 しかし──

 

「このままでは政務にも大いに影響が出る。醜聞が出る前に、オイフェもシグルド様に──」

「ノイッシュ殿」

 

 言葉を荒くするノイッシュを、オイフェは冷えた声で遮った。

 

「政務に支障が出る。だから何だというのです」

「なに?」

「支障が出る前に、支障が出ないよう十全に支えるのが、本来の臣下としての有り様だと思いますが」

「む……」

 

 主君の有り様を正す前に、まずは己の有り様を見直せ──

 そう言外に述べるオイフェ。

 権力者を支える臣下、官僚としてのあり方は、私心の入り込む余地は一切無い。

 己の命、心は、全て主君の為にある。主君が望む全てを整えるのが、忠臣としての有り方なのだ。

 

 主君が間違った方向に向かうのを正そうとするノイッシュ。それもまた正しい忠臣としての有り方。

 しかし、オイフェはこの件に関しては絶対に譲れなかった。

 

 シグルドがディアドラとの情交を深めるのを、何人足りとも邪魔はさせぬ。

 何事にも、邪魔はさせぬ。

 お二人には、()()()()()仲睦まじく添い遂げてもらわねばならぬのだ。

 

「……お前の言うことは一理ある。だが──」

 

 オイフェの執念にも似たこの感情。

 それを感じ取ったノイッシュは慄きつつも、その為に多大な労苦を背負うオイフェへ諭すような言い方をした。

 

「だからといって、お前が何もかもを背負わなくてもいいではないか」

 

 机に積まれた膨大な陳述書。

 オイフェはシグルドの政務を最低限に整えるべく、こうして事前の処理を行っている。

 そして、その量は、武官であるノイッシュから見ても尋常ではない。

 

「これくらいは大した事ではありません。内務に関してはパルマーク司祭にも十分働いて頂いておりますし」

「では聞くが、オイフェ。お前は昨日いつ寝た?」

 

 このノイッシュの問いに、今度はオイフェが言葉を詰まらせる。

 

「……日が沈んでから、少しして」

「嘘をつくな」

 

 ふるりと、肩を震わせる。

 その様子を抜け目なく見たノイッシュは、更に詰問するように言葉を重ねた。

 

「デューから聞いたぞ。お前、毎日毎日ほとんど寝ていないそうじゃないか」

「……」

 

 デュー殿め、口の軽い!

 そう内心毒づくオイフェ。

 オイフェの直属となったデューは、あちこちへと飛び回り、近頃ではアグストリア方面での様々な調略活動に従事している。

 時折エーディンにも協力してもらい、ワープとレスキューを駆使してアグスティ城下へもデューを潜入させ、主にアグストリア諸侯連合の盟主、イムカ王の嫡子シャガール王子の動向を逐一調べさせていた。

 デューがオイフェの元へ報告に訪れるのは、皆が寝静まった深夜の時間が多く。デューは報告後、さっさと床につき昼まで寝ているのが常であったが、オイフェは少しばかりの仮眠を取るだけで、朝日が昇ると共に政務に従事している。

 

『ちゃんと眠らないと死んじゃうよ』

 

 余人が見ればオイフェの顔色は瑞々しく張りのある壮健ぶりを見せている。

 だが、デューは持ち前の鋭い観察眼で、オイフェの睡眠不足を見抜いていた。

 心配そうにそう言ったデューに、オイフェは笑いながら『心配には及びません』と言い放ち、そのまま政務を継続していた。

 

「お前が倒れたら、誰がシグルド様を支えるんだ」

 

 エバンス、そしてヴェルダンを豊かにし、曲者揃いのミレトス商人と渡り合いながら、精強な軍隊を育成する。

 もはや属州領、シグルド軍はオイフェ抜きでは立ち行かなくなると言っても過言ではないほど、優れた才幹を見せていた。

 その才能をただ闇雲に酷使するのは、清廉な騎士であるノイッシュは見過ごすわけにはいかなかった。

 

「……わかりました。シグルド様には、私からも話をします」

 

 根負けしたようにノイッシュへ頭を垂れるオイフェ。

 とりあえずの言質を得た事で、ノイッシュはため息を吐きつつ、安堵の表情を浮かべていた。

 

「なら、もう言うことはない。私は練兵に戻る」

「はい。宜しくおねがいします」

 

 短い言葉を交わし、ノイッシュは政務室から退出しようとドアへと向かう。

 

「オイフェ。あまり物事を焦りすぎるな」

 

 去り際にそう言葉を残したノイッシュ。

 先輩騎士からの労りの言葉に、オイフェはただ黙って頭を下げていた。

 

 

「……足りないんですよ、時間が」

 

 ノイッシュが去った後、一人そう呟くオイフェ。

 かつて味わった、最悪の結末。その最後の分水嶺ともいえる、アグストリア動乱。

 デューからの情報では、その動乱の徴候が既に現れている。

 安眠を貪れる程の、時間的な余裕はもう残されていないのだ。

 

 前回では、無惨にも閉じられた運命の扉。

 それを()()()()()べく、オイフェは自身の命を限界まで燃やす覚悟を決めていた。

 例え敬愛する先輩騎士に言われようとも、それを覆すつもりはない。

 

 そして、愛する主君。その主君が愛する、大切な存在。

 二人の幸せな時間を守り通す覚悟も、オイフェは固く決意していた。

 

 

 

「あ、ノイッシュ兄さん、お疲れ様~」

「デューか……その、兄さんというのは止めろと言ったはずだが」

「えーいいじゃん。ラブリーでおいら気に入っているんだけどなー」

「ラ、ラブリー……」

 

 執務室から出たノイッシュ。廊下を歩いていると、程なくしてデューと出くわした。

 あけすけな物言いをするデューに、生真面目なノイッシュはいつも弄られているが、これはシグルド軍ではよくある光景である。

 オイフェ直参とはいえ、平民身分でしかないデューがこのような無礼講を許されているのは、シグルドの度量の深さに加え、オイフェの個人的な忖度が多大に働いているのは言うまでもない。

 

「ククク……騎士様を兄さん呼ばわりとはね……」

 

 ふと、締まりのない軽薄な声が響く。

 見ると、デューの後ろでくつくつと忍び笑いを漏らす、無精髭を生やした金髪の傭兵の姿が見えた。

 

「お前は?」

 

 物腰から優れた実力を感じ取ったノイッシュは、やや剣呑な顔つきで傭兵の姿を見やる。

 

「ベオウルフ。しがない自由騎士さ」

 

 シニカルな態度を崩さない傭兵の男──ベオウルフ。

 嘲るような笑みを浮かべながらそう自己紹介するベオウルフに、ノイッシュは増々眉に皺を寄せた。

 

「傭兵風情が、このエバンス城に何の用だ?」

「傭兵風情ねぇ……そりゃ、傭兵なんだから雇われに来ただけなんだがな」

「なに?」

 

 この男──!

 挑発的な態度を崩さないベオウルフに、ノイッシュは更に警戒心を込めた眼差しを向ける。

 殺気めいた視線を受けても、ベオウルフの態度は変わらない。だが、僅かではあるが、ベオウルフからも抜き身の刀身のような殺気が漏れ出る。

 エバンス城の廊下では、騎士と傭兵による一触即発の事態が起こっていた。

 

 が。

 

「ぷ、ぷぷぷ……じ、自由騎士って、ベオのおっちゃん、そりゃカッコつけすぎだって!」

 

 それまで傍観していたデューが、堪えきれず笑いを漏らす。

 エバンス城を訪れたベオウルフを、オイフェの元まで案内していたデュー。天真爛漫な盗賊少年は、一癖も二癖もあるこの傭兵にすら、あけすけな態度を貫いていた。

 

「お前ほんと無礼な奴だな! あとそのおっちゃんっていうの止めろ! 俺はまだそんな歳じゃない!」

「えーいいじゃん。ラブリーでおいら気に入っているんだけどなー」

「ラ、ラブリー……」

 

 ラブリーな盗賊少年の発言に毒気を抜かれたベオウルフ。同時に、それを見ていたノイッシュもまた警戒心が霧散する。

 冷静に考えてみれば、シグルド軍で誰よりも警戒心が強いデューが同行している時点で、ベオウルフが害意を持つ人間ではないのは分かりきっていた事ではあった。

 

「……とにかく、城内では粗相はするなよ」

「……わかったよ」

 

 微妙な空気が流れる中、ノイッシュは差し障りの無い言葉を残し練兵場へと足を向ける。

 雑な返答をしたベオウルフも、デューを伴いオイフェの元へと向かっていった。

 

(ホリンといい、あのベオウルフといい……オイフェは一体何を考えているのやら……)

 

 シグルドの懐刀として、日々頭脳を働かせる少年軍師。

 その卓越した頭脳の元へ、着々と集う在野の猛者達。

 それらを使い、オイフェは一体何をするつもりなのか。

 

 ノイッシュは何か大きな動乱の予感を感じ、不穏な気持ちを抱えながら練兵場へと向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 


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