大湊鎮守府は青森県むつ市にある。この地は恐山の麓にあり、りんごの生産地や温泉地として、また霊山に残るいたこが存在し続けることが有名であろうか。
この鎮守府は国内外にある他の拠点とは違い完全な安全地帯であった。
理由は明確ではないが深海棲艦が出現する地点から最も遠い、とされていた。それは霊山の影響であるとの説が強いが、本当のところは全く持って謎である。
ただこの地、むつ湾内では太平洋上で行えない船による漁が今でも続いていた。水揚げされる魚介類は高級品として本土の南に向かう。それほど青森は平和な、穿った見方をするのであれば僻地といえるだろう。
だが大湊には鎮守府が置かれていた。
主にこの地へ赴任してくる提督は降格処分を受けたもの、能力に問題ありと判断されたものが派遣される窓際として使われている。よってこの地を希望して赴任してくる人物は皆無ではあるが、たったひとり、願ってやってきた男が居た。
濃紺の軍服に防寒外套、外出時の制帽は実用一端張りのロシア帽という痩せぎすの男は『指令』とこの鎮守府では呼ばれている。
表情を晒す事を嫌がる様に無愛想、臭いが強い煙草を好むチェーンスモーカーだ。故に軍務以外で関わりを持とうする部下も好意的な艦娘も居らず、様々な噂だけで語られる人物だった。
当の本人も別段そのその名を気にする様子も無く好きなように呼べばいいと放置しており、沈黙をもっての了承である、と誰もが使う。
ただひとり、指令の下に配属された秘書艦、艦娘達の取り纏めである「鳳翔」だけが軍務以上には立ち入れない男にある、高い心理の壁に戸惑いを隠せないでいた。
「あのー、そろそろお茶にしましょうか」
「いらん、先にこの後にある訓練予定と遠征部隊の出港予定の報告を頼む」
「はい、訓練予定ですが――」
取り付く島もないとはこの事だろう。業務連絡が落ち着いた声音をもって報告される。
聞き終え、しばしの沈黙の後に指令が言葉するのは、
「では、いつも通り貴女が訓練の指揮監督を執ってください。本日寄港の艦隊で備蓄資材が規定数を上回りますので訓練の燃料は気にせず、次第点ならやり直す様に」
という淡々とした命令のみだ。
いつも通り、変わらない。
「はい、訓練の指揮権をお借りします。……あの」
「訓練の加減等は一任します、離隊治療にならないのであれば結構」
言いたい事の先を言われ、会話をさせてくれない相手に鳳翔は敬礼するしかできなかった。
答礼し、外套とロシア帽を持った指令は鳳翔を執務室に残して、部屋を出る。
鳳翔はその背を見送り、ため息をついた。今日も振り返ってはくれなかった。
上司としては理想だ。この鎮守府に在する一部の無茶な命令を出す上官より、出来る事を正しく続ける彼はとても良い指揮官でもある。
ただ人であれ、艦娘であれ、彼に笑いかけ、怒ったように、また悲しそうな表情で話しかけたとしても、指令はその表情を変えない。
何があの人をそのようにしているのか。鳳翔には分からなかった。
知りたいと思ったとしても、そのとっかっかりが無い。
そしてここ、大湊の指令は以前、赴いたことがある他の鎮守府にある提督とは違い、この執務室にほとんどいない。
絶えずどこかを巡回していた。どこに向かっていったのかは知っている。
だが同伴させてもらったことは、今の今まで一日として無かった。
存在としては必要とされているのだろう。だが支えとはなれない。
「……これでは、任務に支障が。マイナス思考はいけません、ダメです」
パチリと小さな音が立つ。両の手で頬を軽く叩いたのだ。
下を向き、落ち込んでいてはこれからの訓練に障が出てしまう。
鳳翔は背筋を伸ばし、上を向いた。
今日という日はまだ始まったばかりだ。悲しい顔をしては、いられない。
潮の香りが強い。
男は理由を捜し、空を見上げる。
風が止んでいた。本来ならばこの季節、風が止むことはない。
何かが起こるのか。何かを起こす誰かが動いたのか。
男は視線を地上に戻す。
歩きたどり着いたのは艦船の入港・出港を管理する港の『湾岸指揮所』だ。その場にて働く係員に混じり、指令の姿があった。
「毎度毎度、こんな退屈な所に来れるねぇ。訓練の方がいいんじゃないのかい?」
「だよな~ 艦娘さん達が必死に頑張る姿もいいし、それに~~」
顔を歪ませて笑う係員達の話を全く反応せず、指令は双眼鏡で陸奥湾を覗き続けている。
係員たちの会話は続く。羨ましいと。近くで触れる機会もあるのだろうと。そして。
「デュヒヒ、訓練弾で被弾して服が破ける様なんて~ もうね、もうね~」
指令を煽って下品な笑いを浮かべる彼らに対し、指令は無視し続ける。だがある瞬間、いつ動いたのだとばかりに振り返り彼らへと向かう。
無表情で凶悪な人相を隠さない様に係員達が気圧される。
「本日の遠征部隊、貨物船3隻・タンカー1隻が護衛の艦娘4人と湾内に入ってきたぞ。
本日中に荷降ろしを開始したい。後、昨日連絡した通り、本日夕刻前に艦娘護衛付きの遠征任務艦隊を出港させるから出港コースを開けておいてくれ」
指令の言った要求を聞く船員達はあっけに取られた。
なぜならば無理があったからだ。言う通りにするとしても本日中命一杯、独楽鼠の様に働いて可能かどうかというレベルだ。
「ちょ、横暴だろ。そんなこと出来るかどうかギリギリじゃ」
声を上げる係員を指令は見る。
凝視する、と表現するほうがよいだろう。
その眼光には強い光が宿っている。
怒りではない。そしてまた悲しみでもない。
「将官は戦時任務を遂行中であります。……戦争をしているのです、将官に何を言っても構いません。深海棲艦はあなた達の要求など聞きもしませんが」
指令は口籠る係員達を含めそれらの仕事に従事する者らを放ったまま、接岸場所へと指令所を出て行った。
係員達は互いの、そして誰の胸の中にも湧き上がっただろう不平の気分を隠しきれず、だがそれでも残業確定の業務に取り掛かりはじめる。
なぜなら尤もであったからだ。敵は人間の都合など全く考慮などしない。してくれない。
やるしか、なかった。
そして指令は備蓄倉庫群の出入り口、本土の道路側にある事務所の所長席に座っていた。
事務所内のデスクには各倉庫の内線電話がひっ切無しに鳴り響き、事務員たちが対応に追われている。
[備蓄倉庫 総備蓄数]
艦娘用鋼材 二十四万トン
艦娘機関燃料 二十八万トン
艦娘砲弾薬 二十二万トン
艦娘航空機材 十九万トン
開発資材 八百八十八
開発バーナー 四百
修理バケツ 千五百
壁一面の巨大ホワイトボードには大きな文字で備蓄総数が書きなぐられ、電話が終わる度に書き直しされる。
指令も電話かけているが内線では無いようだ。
「……判った。佐世保で大型艦建造に着手したんだな? 運営に支障が出るまで時間がないなら海上輸送を…
うん、納期がそれなら陸上輸送で送る。……なに、元々そちらから預かっていたものだ。気にしなくていい。
また装備開発したら結果報告を送ってくれ。うん電話を操作する、待ってくれ」
チン、と耳につく高い音がひとつ立つ。
それはこの鎮守府を仕切る、最高責任者からの伝達がある場合にのみ鳴らされる。
「指令から達する、佐世保鎮守府へ備蓄資材を各三万、陸上輸送で移送させる。輸送計画の選定に入れ。無駄に資源を余らせることあたわず、時間を無駄にするな」
慌しい時間が訪れ、一定後にぴたりと止んだ。
それが合図だったとばかりに、備蓄倉庫群から巨大なトラックが次々と姿を表わし高速道路入口へと長い行列を作っていく。
この鎮守府は国内にある艦娘の停泊施設の中で最も貧弱であり、更に出撃するとなれば最も航行時間がかかる攻撃に不向きな軍港である。
当然、鎮守府の設備構成も他の鎮守府とは違ってきて当たり前であるのだが……国内本土の鎮守府はどこであろうがすべて同じ様に使えなくてはならない、という理由不明のルールが暗黙で制定されていた。そのためルール通りに建設されていれば、特にこの地では配備された艦娘は遊兵となりやすく、無駄な設備すら高額なコストがかかっていただろう。
指令、が着任し、拒否をせねば他と同じく設置されている予定だった。
計画の見直しが承諾され、国内にある鎮守府の中でもっとも閑散とした感もあるが、ここでしか出来ない業務もまた生まれている。
指令の目的を果たすためには、必要な出来事であった。
またこの鎮守府には目の上のたんこぶ的な問題がある。
問題とするのも億劫であるが、この地に着任される官は、いわゆる他の本土鎮守府の混雑から整理された寄せ集めの集団であったからだ。いわゆるつまはじかれた者たち、である。
海外の前線近い基地や泊地からも「本土鎮守府のオミソ」扱いが定着している。だが今や内情を知る者には、国内鎮守府の要と言うべき場所になっている事に気づくだろう。
大湊鎮守府は建造も修理も行わない為ドックは最低限しかない、なのにも関わらず備蓄倉庫は常に上限数を上回る備蓄を管理していた。
横須賀・呉・佐世保・舞鶴、各鎮守府では管理の上限を上回る資源は生産しない方針になっているが、本来資源の生成工場は無限供給可能であり、管理の上限がある事が運営の足かせになっていた。
其処で大湊鎮守府の指令が各鎮守府に「上限過剰分の備蓄庫」を大湊に設置する事を提案したのだ。
横須賀の元帥もこの案には諸手で賛成し、各本土鎮守府は備蓄可能数の60%~80%を保持、それ以上の備蓄が集まりそうになった時は大湊の倉庫群にまとめる様になったのだ。
本土内は高速道路網を使って安全に輸送でき、建造と修理機能を削った大湊鎮守府は最低備蓄で運営できる。
この利点が大湊鎮守府を劇的に変貌させる最初となる。
夕方近く、母港編成岸壁には出港間際の喧騒で溢れていた。
物資を満載した大型貨物艦2隻がエンジンのテストを繰り返す中、岸壁には八人ほどの集まりがあった。
「編成を発表する。旗艦、麻耶を筆頭に龍田、長月、曙、満潮、霞の以上6名はこれから出る貨物船をパラオ泊地に『海上護衛』せよ」
呼び出されたのはつい先ほどであった。
何のために召集されるのかすら教えられぬまま、やってきていた艦娘たちが顔をお互いに見合う。
そして前起きなく、指令に向け罵詈雑言を吐き出し始めた。
艦娘たちは自分達の上官である指令に向ける怒りを隠そうともしない。誰もがあからさまな嫌悪感を、命令を告げた男へと向けていた。
「ほらみんな、そんな怖い顔をしないで。きつくて大変な訓練ばかりでしたけど、改修を受けられる程に強くなったでしょ? それにちゃんと……」
母、という形容がもっとも似合うであろう女性、指令の秘書官である鳳翔が憤る各々に声をかける。
だがしかし、
「鳳翔は黙って」
「クソ指令。修理をけちっておれ達を沈める心算だったんだろ!」
「大破状態で延々と演習を繰り返したり 中破しているのに武装取り上げて通常の海上を航行させたり!」
「ろくな休憩も取らせずに損害を受けたままで生活とか、服が破れているのに青森市街から見える様に航行とか! これって完全なセクハラ!!」
目覚め、己の職務を受け入れ、今の今まで労いの言葉ひとつ無く、雑巾のように使い古された彼女達の胸の内に溜まった鬱憤は、留まることなく流れ爆発し続ける。
「改修改造を受けるレベルになるまで鍛えられたの事実だけど、改修後の装備を全部没収ってこの任務で死ねって事?」
「貴方の指揮で戦うのは絶対にいや。今後絶対」
腹の底から、何度も何度も悩み反芻してきた娘達の心が指令にぶつけられる。
鳳翔はおろおろと指令と仲間の交互を見た。かける言葉を探し、口にしようとして止まる。
そうではないのだ、と言いたかった。
指令が一歩、前に動く。
艦娘たちが戦闘態勢をとった。
「大変元気でよろしい。貴殿らが今から向かうのはパラオ泊地である。入港後、六艦は全てパラオ鎮守府所属と決定されている。到着後はパラオ提督の指揮下に転属、指示を仰げ」
ぽかんと誰もが口を開いたまま、ぱくぱくと、さながら陸に吊り上げられた魚の如く呆気にとられていた。
怒りがすべて消え去ったわけではない。ただ言葉の内容が頭で理解できなかった。
「今から新規装備を配布する。任務中に各装備を習熟する様に、麻耶、」
「はへ?え、あ。はい」
「15.5cm三連装副砲二門、61cm四連装酸素魚雷二基、22号対水上電探、三式弾を」
運ばれてきた装備に声が喉で止まる。
「これって…え―――!!」
触れて、初めて実感が伴ってきた。
「続いて龍田、15.5cm三連装副砲二門、61cm五連装酸素魚雷一基、三式水中探信儀、三式爆雷投射機、各駆逐艦は61cm四連装酸素魚雷二基、三式水中探信儀、三式爆雷投射機だ」
艦娘達に配られた装備はそう滅多に手に入らない新兵器である。
それぞれが装備を手にとり、くるりとひっくり返せば真新しい油の臭いがした。
「これ、あたしの名前?」
麻耶がふと見つけた凹みを指でなぞる。それは全員の装備にあった。たった一人、彼女らのためだけに作られた装備であることを、暗に示すものだ。
表情をほころばせた鳳翔がやっとと口を開く。
深呼吸し、慈愛を込めた瞳がひとりひとりに向いた。
「みんな、指令はみんなのことをちゃんと理解してくださっています。わたし達から見れば意味のない、恥ずかしいとも思える事でしたけどちゃんと意味があったのだ、と。パラオの先輩達に聞いて御覧なさい。訓練の内容を確認してみれば必ず分かります」
武器に関してもそうだ。倉庫に保管された資材には手をつけず、艦娘たちが集めてきたわずかなそれを使い、何度も失敗し続けようやく手にした装備を、過去から一度もそれを伝えず変えず、初任務の際に手渡し続けてきていた。
しん、と静まり返る。
艦娘たちはなんともいえぬ表情をしていた。
怒りはすでに、無い。
「各自、装備受領したら整列!……転属先は戦闘地区にある。必ず戦闘命令が出されるだろう。
敵である深海棲艦は君達を撃沈する事が任務であり、其処に遠慮なぞない。……「恥ずかしがる」と言う贅沢は生き残ってからにするんだ。君達の武運長久を願っている」
鳳翔の話のおかげだろうか。それとも新装備の所為か、艦娘達は整列し指令の強面の顔を初めて正面から見た。
誰もがその顔を初めて真正面から見るのだと、気づいたであろうか。
その背後で汽笛が鳴る。ゆっくりと舫綱と碇が巻かれて貨物船の出港が始まろうとしていた。
「やばい、もうそんな時間って、出港じゃないの!」
「まって、まって! 装備!」
「みんな、元気でね」
貨物船が動く前に着かなくてはいけない護衛地点に慌てて、海上に走り出す艦娘達の背を鳳翔がにこやかに見送る。
慌しい別れである。だがその方が良いのであろう。
指令はふと海に走り出す各々の背を、その光景を見、確認してから靴音を立て始める。
「見送らないのですか?」
鳳翔が指令にいつもかける言葉のひとつだ。
装備の件も出発するまで口外を禁じられている。
不器用な男であるのだろう。だが全く、艦娘の身を案じていないわけでもない、ようにも見える。
言葉をもっとかけてやればいいのに。そう思うが忠言したとしても、指令はきっとその言を受け入れない。
「見送りは任せる。工廠に行っているから君は見送ったら上がってくれ。今日の訓練の結果は明日でいい」
鳳翔は頭を下げる。
敬礼ではなく、頭を下げた。
「君が真剣に育てた子達だ、君の手腕を信じる事と同じ様に不安など無い」
何気なく放たれた言葉に、鳳翔は長い間、顔を上げられずにいた。
熱をもったままの目頭を押さえ、海へと振り返る。
「元気で。いつでも、いつまでも武運を祈っています」
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深夜、草木も眠る静かな刻。
大湊鎮守府では艦娘の就寝時間はとうに過ぎ、起きている者は夜間任務か歩哨のみという時刻、無人であるはずのの工廠になぜか光が灯っていた。
工廠と呼ばれてはいるが他の鎮守府や基地と比べ規模的に造船工廠と言うには余りにも小さいその場所で、こつこつと足音が響く。
ここにあるものは軍備施設や造船所の範囲には入らない異質なものである。まさしくそれは『艦娘』専用の施設に相応しい名称であるといえるだろう。時代が時代でなければ、道徳的にも法に則しても明らかに逸脱した犯罪の証拠であり現場だ。
本土の鎮守府に設置されている『工廠』の中央に設置されている機材は、高さ20~30Mという巨大化したミキサーのような外見であった。
上の逆円錐の中には艦娘の治療保護を担うリンゲル液が詰まっている。緑色の液体は人間が飲んでも無害であるが、艦娘達の治癒速度を高めるという効果を持たせた特殊な配合が成されている。
下部の長方形は正面が操作盤だ、右手面は資材投入口と装備品取り出し口、左手面が回復用リンゲル液放出口がある
此方から見えない背面側は建造艦排出口となっていた。
このシステムを構成した人物はよほどの天才か狂人か。指令自身は会った事は無いが、なかなかに癖のある人物であったそうだ。元々その人物は横須賀にある元帥府にいたらしい。しかしある日忽然と消え失せたと囁かれている。
秘密裏に捜索が行われたという。元帥と並んで、軍部には無くてはならぬ人であったからだ。
しかし伝え聞いた噂という名の批判では、元帥は先月、構築者の行方を捜査していた部署を縮小したという。
それはなぜか。元帥がトカゲの尻尾きりに使ったのであろう、とかまたなにやら怪しい実験を行なうために身を潜ませているのだろう、とか根も葉もない噂が飛び交っている。
ただ指令がとある人物から聞いた話では、行方不明になったこと、が問題ではない、と言っていた。
構築されたシステムの中には、構築者だけが知りえる情報があり、システムが吐き出すその数字羅列の正体を把握し、証明し、説明できる人物が自発的に消えたのか、それとも何かに巻き込まれて消えたのか。それが問題であるのだという。
指令にすれば、天才であり狂人であるたったひとりのみが解析し、知りえる情報形態を構築している時点で、危険であると判断するだろう。それに唯一しか使えないシステムである、という時点で待ったをかけなかった上層部にも責任があると考えられた。
どちらにしろ手が出せない状態が続くのは、何者かに付け入る隙を与えるよいきっかけとなりかねない。
ただ天才であり狂人である人物が作ったシステムは完璧であった。
なぜなら作成した設計者が居ないとシステムの新規作成・既存システムの維持が出来ない訳ではなく、軍令部から派遣されシステムの調整を行う技師は存在するし、使い続けるだけであれば全く問題などないように成型されていたからだ。
ただこのシステムのあらゆる部分には、軍機という壁に覆われた秘密で満たされており、全体の内容を知る者は技師の中にも居なかった。
「ふむ。これの正体を軍機で隠そうとするのは自衛の為には仕方なく、法としても正義だろう…が、人間としての観点からすれば、全くもって正義ではないな」
臭いの濃い煙草を煙らせながら、人のいない工廠内の天井部、ミキサーの頂部分を見下ろせる足場に指令は立ちリンゲル液が満たされている内部を見やる。
天井部分には内部作業用のハッチがあった。其処に以前、知識欲に駆られてそれを開け、内部を調べてしまった技師が居たのだ。
その男の事はよく覚えている。この大湊に派遣されたことを、なぜか喜んでいた。だから印象に強く残ったのであろう。
一日二日であれば気づかれなかっただろう。技師は指令が知る情報に照らし合わせても、約十日ほど、このミキサーに篭もってしまった。
そしてその行為が、ばれた。誰かが告発したのか、それとも本営からの監視者が居たのか、事情はわからない。
技師の男はいつの間にか居なくなっていた。ふと姿を消したのだ。
まるでちょっとそこまで出かけてくる、といった気軽さで、だ。
その後、彼はこの大湊に在籍していたという情報すらら抹消され行方不明となった。
後日、大湊鎮守府に機密漏えいの罪状による政府の監査が入った。調査の対象は技師の男が暮らしていた部屋と仕事場としていた周辺であったが、探索の為と称して執拗に来訪する軍令部の捜査員の余りの馴れ馴れしさに指令の堪忍袋の緒が切れるまでさほどの時間は必要なかった。
月に二十日も滞在されては任務が全う出きず、予定の延滞も多く発生していたのだ。
探しているものが見つかれば、二度と来ないであろう。そう判断した指令が彼らが滞在せぬ十日ほどの間に彼方此方を見て回ったのだ。
彼らを追い返す手段となるならば、隠された何かを探すという手間も苦にはならなかった。
執務を終え、残業者が残る時間に指令がとある場所を調べると……技師の男が残したであろう資料、というには粗末な、走り書きのメモの数々を張り付けた冊子を指令が発見したのだ。
調査官らの目がモノを見ていないとはっきり分かった日であった。
あれから年をいくつも超えてきたが、捜査員は未だに監査と称して指令を含む数名の監視と、鎮守府内の捜査を続けている。
見つけた資料は結局、彼らには渡してはいない。中身を寸分違わず暗記し、そのコピーを通信記録簿保管室の未整理書類の山に紛れさせている。たとえ今、見つかったとしてもそもそも大量の紙の山を保管している倉庫だ。当時見つからなかったとするのは、おかしくは無い。それに本物の資料はすでにショートランドの補給資材の目録書類に紛れ込ませて輸送していた。
かの男が気づくか、そうでないかはどうでもいい話だ。
ここに無い、という事実があればそれだけでいい。
「君達は…眠っているのか? 眠っているとするなら、夢もみるのだろうか?」
ミキサーの内部のリンゲル液の中に漂う人型の軟体物質、形を失い球状に更に圧迫され液状になっているソレ――素体に指令は語りかける。
ただそれは静かに緑の中で多くがたゆたい、あるだけであった。