目の前に現れたそれは紛れもなく、戦闘艦であった。
左前方、距離にしておよそ500m、軍艦同士としては目と鼻の先も同然の距離。
普通、水中から浮上してくる艦船と言えば誰しもが潜水艦を思い浮かべるだろう。
潜水艦は深海のその強烈な水圧に耐えるため、通常の艦船とは全く異なる構造、外見をしている。
通常の艦船が潜水する時は、撃沈されたときだけだ。
だが、
突如目の前に現れたそれは、潜水艦とはかけ離れた姿をしていた。
ドロドロに溶け落ちているようにも見える外見を差し置いても、通常の駆逐艦にしか見えない。
甲板上に設けられた複数の主砲塔、ボイラー艦特有の濛々とした真っ黒な排煙。
第二次世界大戦の時代によく見られた典型的な駆逐艦の様相であることが確認できる。
しかしその丸みを帯びた艦橋には二つの目のようなものが妖しく輝き、
その艦首には白い……歯のようなものが、黒い船体と相まって不気味にその存在感を醸していた。
恐らくあれが、先ほど電が言っていた「私以外のフネ」……なのだろう。
何故あのような恐ろしげな姿をしているのかは分からないが。
「やっぱり……現れたのです」
そう呟いた電は、喜びと悲しみが入り混じった複雑な表情をしていた。
「これを……知ってたの?」
「はい。横須賀に曳航される途中、あの艦の音が私の音探に聞こえたのです」
音探、とは音波探針儀の略で、いわゆる対潜ソナーのことである。
旧海軍艦艇の対潜能力はお粗末なものだと聞いていたのだが、電はなかなか優秀なようである。
「でも……やっぱり……」
再び、電は泣きそうな表情になる。
この顔を見るのは、もう何度目だろうか。
ドオォン!!!
突然、大気をビリビリと震わせ、爆音が鳴り響く。
目の前の駆逐艦が発砲した音だ。
放たれた砲弾は、遙か後方、護衛艦いかづちの手前に着弾する。
「……やっぱり、戦うしか、ないのですね」
電の頬に一筋、涙が伝うのが見えた。
「……! あいつ……!」
それは、目の前の駆逐艦が完全に敵であることを物語っていた。
ドオォン! と再びの砲撃音。
いかづちとの距離はおよそ5kmほど、旧式駆逐艦の主砲でも十分な射程圏内だ。
今度はいかづちの左およそ100mに着弾し、大きな水柱を上げた。
だが、いかづちは反撃をためらっているらしい。蛇行して回避運動は取りつつも一発も撃ち返さないでいる。
おそらく周囲を航行している民間の船舶や電を攻撃に巻き込まないためだろう。
しかし、
この近距離では、対艦ミサイルも最短有効射程に引っかかりうまく誘導しきれない。こんなに近い場合、対艦ミサイルは当たらないのだ。
即座に使用できるのは主砲のみ。レーダーを使って精密射撃ができるとはいえ誤射の可能性は捨て切れない。
自衛隊としての弱点と現代軍艦の弱点が丁度噛み合ってしまっている。現代の軍艦は、ここまで敵に接近されることをそもそも想定していないのだ。
至近距離、というよりも水上艦との砲撃戦そのものが想定されていない。本来ならばアウトレンジからのミサイル攻撃で方が付くハズなのだ。
このまま敵の砲撃が続けばいずれいかづちに命中弾が発生してしまうだろう。
「千島三尉! 手を!」
焦燥を浮かべつつ、逃げ回るいかづちを見つめていた春樹の耳に、再び電の声が聞こえた。
それは迷うことを止め、戦う覚悟を決めた声だった。
「私の手を掴んで下さい!」
言われるがままに春樹は差し出された電の手を掴む。
すると、
先ほど見たのと同じ淡い光が一瞬、電の体を包み込み、艦の駆動音も大きくその勢いを増した。
そしてそれと同時に春樹は全身から力が抜けていくような奇妙な感触を感じた。
すぐに手は放したが、離れてもなお脱力感と、手先から指先にかけて雪の中に手を突っ込んだかのような冷えがじんじんと残り続けていた。
電の方は手を離した後、先ほどとは人が変わったかのような獰猛さを帯びた目つきで敵艦を睨みつける。
「
そのまま叫ぶように号令をかけ、艦は左へ回頭、敵艦の後ろを回り込むように進路を取った。
そして、
「左砲戦! 第一主砲、撃ちぃ方始めー!」
電の主砲が相手の駆逐艦へと指向され、間髪入れずその連装砲が火を噴いた。
ドゴォン! と凄まじい音と熱風と爆圧が、春樹の全身を押し潰すように一気に圧迫する。
「うおっ! い、電!?」
艦橋のすぐ傍にいたためか、キィィィンという酷い耳鳴りのせいで自分の声がくぐもって聞こえる。
「すみません、大丈夫ですか? 千島三尉さん」
やはり電は全く動じていないようだ。春樹を心配する余裕まであるらしい。
「大丈夫! 敵はどうなった!?」
春樹も海上自衛官として、このくらいの距離での砲撃には慣れている。身構えていなければ多少はキツイが。
敵駆逐艦を見やれば、その煙突が一つ吹き飛んで火災が発生している。電の砲撃は命中したようだ。
だが、
「まだなのです!」
今までこちらには見向きもしなかった駆逐艦が、主砲塔を旋回し始めた。
「……っ! 敵砲撃、来ます!」
ドドゥッ! という音がしたほんの数瞬、轟音と共にまるで地震のような衝撃が艦を襲う。
身をかがめて衝撃に耐えつつ、自衛官としての性分か春樹は被弾箇所をしっかりと確認する。
「左舷後部に被弾! 電! 被害状況は!?」
「後部四番機銃座全損! 損害軽微、反撃します!」
ドガァ、ドガァン!
再び強烈な爆圧が全身を包み込む。
今度は春樹も、両耳を塞ぎ口を開けて砲撃に備えていた。
電の放った砲弾は吸い込まれるように敵艦に次々と命中していく。
敵艦から赤い炎と黒煙がいくつも立ち上がるのが見える。
こういった一対一での殴り合いの場合、先に相手に重大な被害を与え、反撃手段を奪った方が勝ちとなる。
今の攻撃でどこか被害が発生したのだろうか、敵駆逐艦は散発的に撃ち返してはくるが激しい反撃をしてこない。
これを好機とばかりに電は声高に叫ぶ。
「ここで仕留めます! 左雷撃戦! 魚雷一番二番、撃ちぃ方用ぉー意!」
艦橋後ろ、煙突と煙突の間にある魚雷発射管が敵艦へ向け旋回を始める。
「てーっ!!」
発射管内で圧搾空気が炸裂し、シュコン、と小気味の良い音と共に二本の魚雷が海へ飛び込んだ。
「離脱します! 撃ちぃ方止めー!
ぐらりと慣性に揺られながら、電は舵を切り返す。
魚雷の爆発から逃れるためだ。艦船にとって水圧は何よりの敵である。
敵駆逐艦も魚雷を避けようと転舵を始めるが、機関故障を起こしているのか思うように艦が進まない。
そして、
ゴバァッ!!!
巨大な水柱と共に、鋼鉄の艦がまるで粘土細工のように曲がり、浮き上がり、ひしゃげ、そして爆発を起こす。
爆音と共に巨大な黒煙が巻き上がる。その爆風は電にまで届きそうなほど大きかった。
吹き飛んだ船体の破片や備品が海へ投げ出されていく。
「…………」
この光景を見て春樹は、何も、言葉に出せなかった。
ゲームや映画では、何度も見た光景。
自衛官として、来てはならないいつかが来たとき、見ることになるかもしれなかった光景。
それを目の当たりにして春樹は、恐れを覚えた。
ああ、これが、戦うことなのだ、と。
まだ動悸が収まらない。
電はというと、爆発し沈みゆく敵駆逐艦をただただ静かに、じっ、と見つめていた。
「……電?」
声をかけても反応が無い。
再び爆発が起き、次々と破片が投げ出されていく。
とは言ってもそれほど大きな爆発ではない、駆逐艦ほどの規模ならもっと大きくてもいい筈なのだが。
と、それを見ていた電の目の色が変わった。
「舵そのまま! あの艦のところへ向かいます!」
「え、ちょっと……!?」
沈みゆく敵艦を見つめる電の目は、最初に出会った時と同じ焦燥しきった目をしていた。
右に舵が切られたまま、電はぐるりと大きな弧を描いてゆっくりと敵艦へ近づいていく。
近づくにつれて敵駆逐艦の詳細がはっきりと見えてきた。
その船体はぬめり気を帯びていて、深い鉛色をしていて、黒光りしていた。まるで沈没船がそのまま浮き上がってきたかのような姿だった。
大きく破損していてよく分からない部分もあるが、昔の駆逐艦と基本構造は変わらないようだ……が、
殆どが直線ではなく曲線で構成されたその質感は、軍艦というよりは生き物に近く感じた。
そして
50mほどの距離にまで近づいたその時、引き止める間もなく突然電は海へと飛び込んだ。
「ッ!? 電!?」
電はそのまま真っ直ぐと、沈んでいく敵艦に向かって泳いでいく。
「ちょっと! おい、電待て!!」
制止の声を完全に無視しているようだ、電は止まる気配を全く見せない。
春樹の額に冷や汗が走る。
船が沈む時はその周囲に大渦を引き起こしながら沈んでいく。
そのため、退艦の際はなるべく船から離れることが船乗りにとっては常識である。
もし渦に巻き込まれたならば、海中に引き込まれ、上下感覚を失い、船と共に沈んでしまうだろう。
そうでなくとも、爆発轟沈している最中の艦に近づく事など言語道断である。
急いで周囲を見回す。……と、艦橋脇見張り台のところに救命用の浮き輪が掛かっているのが見えた。
そのまま鋼鉄のドアを突き破る勢いで春樹は艦内へと入った。
勿論、旧海軍の駆逐艦内の構造なんてものは知らない。
とりあえず上の方だ、としか頭の中に入っていなかったが、入って最初に見つけた階段を駆け上がると無事に艦橋へ着いた。
すぐさま救命浮き輪とロープを入手し、艦橋脇の甲板まで戻った。
焦りつつも海面を見回すと、ちょうど電はこちらに向かって戻ってきているところのようだ。
無事でいることに安堵を覚えつつ、春樹は手にした浮き輪とロープを海へ投げ入れた。
「電! これに掴まって!」
返事は聞こえなかったが、電は浮き輪に向かって真っすぐ泳ぎ始めた。
そして電が浮き輪をしっかりと掴んだことを確認し、春樹は全力を尽くしロープを手繰り寄せ始めた。
海面から艦上まで数メートル、歯を食いしばり電を引き上げる。
甲板までもう少しというところで電も甲板の縁を掴んでよじ登り、無事電を救出することができた。
「ありがとう……なのです」
ずぶ濡れのまま電は甲板に座り込む。
なんとか艦上まで引き上げることができた。
見た目中学生程度の女の子とはいえ、人一人を甲板まで引き上げるのは非常に辛かった。
だがこの程度、自衛官たる者できて当然であると春樹は心に刻んでいた。
「本当に無事で良かった……とは言え、一体どうしてあんなことをしたんだ。運が悪ければ巻き込まれて電も沈んでいたかもしてないんだ」
春樹は強めの口調で電に当たる。命がかかっていたことだから当然の反応だと言える。
「すみません……」
ビクッ、と電は肩ををすぼめるが、
「でも……沈んだフネも、できれば、助けたかったのです」
大事そうに手に持っていたものを、春樹に差し出した。
それは、木彫りの小さな船だった。そして海水に濡れてしわくちゃになっているが、紙でかたどられた人型のようなものが船に乗っていた。
「これは?」
「艦内神社に祭られている御神体なのです」
通常、軍艦には艦内神社が備え付けられている。船乗りとは昔から迷信深いもので、航海安全やゲン担ぎのために神様を船内に祭ったのだ。
旧海軍の軍艦にも、現在の海自の護衛艦にも艦内神社は設置されている、のだが
「この御神体を取りに行くために、海へ飛び込んだのか? でもどうして?」
大切な物だということは分かったが、これは命を懸けるほどの物だったのか、という疑問が浮かんだ。
「私たちフネの魂は、ここに宿るのです。だから、これが海面に漂っているのを見つけた時、居ても立ってもいられなくなってしまって……」
まだ電のことを完全に理解しているわけではないが、もし自分が同じ立場だったとしたら同じように助けに行っていただろう。
「いや、それならいいんだ……でも、もうこんな危ない事はしないでくれよ?」
「はい……すみません」
注意を受けつつもどこか上の空で、懐かしそうな目で手にした木船を見つめ続ける電。
二度三度、やさしく木船を撫で、名残惜しそうにそれを春樹に差し出す。
「あの、これは千島三尉が持っていてください。なんとなくですが、その方が良い気がするのです」
「あ、あぁ……」
言われるがままに、春樹は恐る恐る手を伸ばす。
そして
指先が木船に触れた瞬間、
女の子がそこに、横たわっていた。
先ほど電が実体化させたこの艦と同様に、淡い光に包まれて、
木船は女の子になっていた。
度重なる超常現象に、春樹は今までの常識や現実が信じられなくなってきた。
こうなってしまってはもう慣れたものかもしれないが、それでも驚きは隠せない。
その女の子の外見は、電より少し年下程度だろうか、表情には幼い少女特有のあどけなさがまだ残っている。
意識はないようだが、胸は上下に動いている、呼吸はしているようだ。
「……長月、だったのですね」
小さく電が呟く。
昔馴染みのような口ぶりで、電は語る。
「長月……あなたのような艦でさえ、ああなってしまうのですね……」
長月、それがおそらくこの女の子……いや艦の名前なのだろう。
海上自衛官として多少は教養を付けたが、旧海軍の艦船がパッと出てくるほど精通している訳ではない。
夕焼けの色はぼんやりと、電と春樹と女の子に長い影を映していた。
と、再び視界の端にチカチカと光が点滅した。
『救援感謝す、貴艦の所属を明らかにせよ』と、事態を遠巻きに見ていたいかづちからの発行信号だ。
春樹は電に目配せすると、いかづちの方を向き手旗信号で返信を行った。
『こちらは、駆逐艦電である。敵対の意志はなし』
手旗は持っていなかったので素手なのだが、意味は伝わっただろう。
すると程なくして返事が再び、
『貴艦を横須賀まで曳航する。機関停止して待機せよ』
と帰ってきた。
返事を聞いた春樹の背中に寒気が走る。
横須賀に曳航、ということはこちらの意志は関係なく、警察に連行される犯人の図のようになるのである。
航行の許可が出ていないからとはいえ、自衛隊の決まりを現時点でいくつも破っている春樹にとって、横須賀に連行されるということは気分の良いものではなかった。
そして、
いかづちが電の距離100m未満まで近づき、その後ろ甲板上にもやい銃を持った隊員数人が集まった。
『貴艦を曳航す、曳航準備せよ』との連絡の後、もやい銃が発射され曳航索のロープが電の甲板に落とされた。
「僕らだけで曳航索を結べってか……」
それを見て春樹は溜息をついた。自分と電しか動ける人員がいないとはいえ、たった二人で、しかも一人は女の子なのに曳航索を結ぶのはできないことではないが本当に重労働である。
軍艦一隻を引っ張るためのロープを結ぶのだ、しっかり結ばないと曳航などできない。
更なる溜息をつきつつも春樹は曳航索を艦に結び付ける作業を始めた。
ロープは太く硬く重く、巻き付けるのも一苦労だ。それを外れないようにしっかりと結ばないといけない。
「私も手伝います」
と電も曳航索を手に取る。
それを見ていた春樹は、電に無理はさせまいと声をかけようとした、が。
電はまるで靴ひもを結ぶかのような手つきで簡単に曳航索を艦に結び付けていく。
……どうやら心配無用だったようだ。むしろ心配されるのは自分の方のようだ。
改めて、電たちは人間ではないのだと春樹は思い知った。
曳航索を結び終わりいかづちに合図を送ると、いかづちは機関を始動しガスタービンエンジンの甲高い音を唸らせて前進を始めた。
先ほど張った曳航索もピンと引き伸ばされ、ほどけることなく電の船体を引っ張っていく。
まだ収まらない心の高揚と不安を胸に、春樹と電は横須賀港へ帰還していく。