「電……って、えっ、何? 君のあだ名とか?」
千島春樹はこの状況を理解するため必死に情報をかき集め、考える。
電。いなづま。
女の子の名前としては随分と仰々しい響きだ。
最近流行りのキラキラネームとかなのだろうか、と思い至ったところで再び女の子の声がかかる。
「えっと……すみません早く乗ってください、もう時間が無いのです」
例の女の子……電の様子は目に見えるほどに焦っている。
もう日は暮れているし、自分としては自らの所属している艦に帰らなくてはならないのだが、どうにもこういうのには弱い。
別にフェミニストというわけではないのだが、女っ気の少ない人生を歩んできた春樹にとって、こういう女の子の頼みは断りがたいものがあった。
今は一応、休暇中だということもある。門限までには帰れると思いたいが。
それに、自分は海上自衛官だ。目の前の困っている人間を助けないわけにはいかない。
そう自らに言い聞かせ、春樹はタラップを上がった。
つま先がコツ、コツとタラップの鋼板と叩き、小気味良い音を立てる。
この感触は良く知っている。護衛艦のタラップと同じ感触。鋼鉄の、感触だ。
上り切った先は、艦橋の左脇だった。すぐ左には主砲が鎮座し、右側には二本の煙突や魚雷発射管のようなものが確認できる。
足の裏に伝わる感触は、やはり鋼鉄。
その全てが存在感をもって、私は戦闘艦だぞと言わんばかりに主張していた。
春樹がタラップを上り切ったことを確認し、電は表情を柔らかくする。
くるりと正面、艦首の方向へ向き、まるで艦長のように凛々しく出港の号令をかける。
「左舷前進半速、おもーかーじ」
船乗り特有の、語間を伸ばす独特なイントネーション。海上自衛隊でも、その前身たる旧日本海軍でも使われていた伝統的な発音だ。
その号令の迷いの無さは間違いなく軍関係者のものである。
更によく見れば、背中に背負っていた武器のようなものがいつの間にか消えている。目の前の少女が何者なのか疑問が深まるばかりだ。
「出港します。急ぎますのでしっかり掴まっていてください」
電がそう言うのと同じくして、ぐん、と全身に慣性がかかる。
乗っている駆逐艦がゆっくりと、だが着実に岸から離れ前へと進みだす。
春樹は一瞬よろけるが、手摺に掴まり体勢を整える。
電の方へ目をやるが、艦の動揺に全く動じていないようだ。その視線は真っ直ぐ前方、海を見つめていた。
先ほどまでいた場所を振り返れば既に、鋼鉄の主張が嘘だったかのようにふわふわと、タラップは光の粒になって消えていた。
どうやら、もう後戻りはできないようだ。
「両舷前進全速、進路そのまま、ヨーソロー」
電の言葉と同調するように駆逐艦は進みだす。
スクリューを回す蒸気タービンは低く唸りを上げ、艦は波を荒立て速度を上げる。
と、正面に小さな船が向かってくるのが見えた。先ほどこの艦を曳航していたタグボートのようだ。
『貴艦に航行の許可は出ていない。停船せよ。繰り返す、停船せよ』
タグボートの拡声器から警告が発せられる。
「停船命令……」
警告を聞き、春樹は我に返る。
もしかして今、自分は何かとんでもないことをしでかしているのではないだろうか、という不安が脳裏をよぎる。
自衛隊は軍隊ではないが、その規律は厳しい。
指示されたこと以外は決してやってはいけない。
最初こそはセーラー服を着た女の子の助けを求める声に応えるため、もとい一般市民を助けるためだと春樹は思っていたのだが。
多少の独断専行は許されるだろうという甘い考えが、こんな状況を招いたのかもしれない。
もしも、これで何かがあったならば、確実に海上自衛隊幹部のエリートコースからは脱落するだろう。
そうなってしまっては……
「仕方がありません、あのタグボートを振り切ります」
そこに追い打ちをかけるように電の声が響く。
「振り切るって、え?」
「両舷前進一杯!」
タービンの唸る音が大きくなるのと同時に、艦は更に増速する。
状況は、落ち着いて考える暇すら与えてくれないようだ。
直前にタグボートが迫っているのに対し、こちらは全く速度を落としていない。
互いに白波を立てつつ、あっという間に距離を縮めていく。
電が叫ぶ。
「速度そのまま、取ぉーりかーじ!」
進路は取り舵、タグボートに対し右舷を向ける形になる。
そしてそれを受け、こちらの進路を塞ぐためにタグボートは正面に向かって舵を切ってくる。
タグボートとしては、こちらを何とか停船させてしまえば後は自由に曳航できるという魂胆なのだろう、衝突も辞さないらしい。
「ぶつかる!?」
「面舵一杯急げ! 衝撃に備えてください!」
衝突の寸前、電が操る駆逐艦は、急速に舵を切り替えす。
ゴゥン!!
衝撃と共に、フネとフネがぶつかり合う音が響く。
右舷正面にタグボートが衝突した音だ。
春樹はあまりの衝撃に艦から投げ出されそうになるが、必死に踏ん張る。書類が入ったスーツケースも無事だ。
今、春樹達がいるのは左舷艦橋脇。衝突点の反対側だとはいえ、気を抜いたら海に投げ出されそうなほどだ。
右へ進路を変えた駆逐艦はそのまま、ギギギ……と嫌な音を立てながらも回頭を進める。
煙突や魚雷発射管の間から、船体やクッションのゴムタイヤを擦り合わせる音を立てながら、右舷に滑らせるように後方へすれ違っていくタグボートの姿を確認できた。
やがてフネ同士が擦れる音が止み、徐々に互いの距離を離していく。
背後に未だ続く停船命令をよそに、電と春樹二人を乗せた駆逐艦はそのまま横須賀港を後にした。
◇
「はぅ…… 進路1-1-0、ヨーソロー、なのです……」
港を出たところで、一気に緊張が解けたのかぺたりと座り込む電。
うつむきながら、また衝突してしまったのです……と小さく呟いた。
この艦に乗って三十分は経っただろうか。横須賀はもうずっと後ろだ。
このまま進めば、後は浦賀水道を通り太平洋に出るだけとなる。
現在、この艦の航行を邪魔するものは無い。強いて言えば民間の大型タンカーに気をつけなければならない程度だろう。
正面に見える青々とした水平線はどこまでも続いているように感じられる。
普段だったら護衛艦に乗っていて、仕事ながらに心躍る航海となるはずなのだが、あいにく今は違う。
未だ正体も分かっていない謎の駆逐艦に乗せられ、しかも女の子と二人きりでの出港だ。
この状況はハッキリ言って異常である。通常、駆逐艦ほどのフネには200名ほどの乗員が乗り込み、艦を操作しているものだ。
だがこの艦には春樹と電以外の人の気配が全く無いのである。甲板上にいないのは分からなくもないが、艦橋にいるはずの見張り員の姿さえ見えない。
それなのに今もこうして艦は着々と陸を離れていく。
海風と波の音が少々騒々しいが、互いの声が聞こえないほどではない。
春樹は改めて、ごちゃごちゃした現状を、目の前で腰を抜かしている女の子に訊くことにした。
「もう一度訊くよ。君は一体何者で、目的は一体何なんだ?」
電は座り込んだままこちらへ体を向き直し、春樹の言葉に答える。
「私は大日本帝国海軍の特Ⅲ型駆逐艦、電です。えと、目的……ですか? それは……」
「ちょっと待って、駆逐艦、とかじゃなくて君自身の名前を教えてくれる?」
春樹はまだ、この状況に混乱していた。
ただでさえ海将から任された書類の重圧で苦しいというのに、よく分からないまま状況に流され続けて気が付けば海の上だ。
溺れる者は藁をも掴むとはよく言うが、ひとまず縋り付く藁として目の前の女の子の名前くらいは知っておきたかった。
電、というのはどうやらこの駆逐艦の名前らしい。大日本なんとかと聞こえたのはこの際置いておく。
名前くらいはしっかりしているだろう、という甘い期待があった。が、
「ですから、私が駆逐艦電なのです」
その期待は脆くも崩れ去ることとなった。
「……えっと、それは冗談とかでは」
「ないのです」
きっぱりと、断言されてしまった。
「私は、駆逐艦、電なのです。嘘じゃないのです。信じてください……」
その瞳は真っ直ぐこちらを見つめている。
見つめられ慣れていない春樹は、少し目を逸らしてしまった。
大日本帝国海軍の、駆逐艦電。
海上自衛官たる者の教養として、話には聞いたことがある。
太平洋戦争当時の駆逐艦「雷」と「電」が、撃沈された敵艦の乗員救助を行った話。
幹部学校でも、教員がたまに例として挙げていた。
これこそが海上自衛官の規範であり、武士道精神の鑑である、と。
だが、それはあくまでも過去の戦争の話だ。
旧海軍のフネはその殆どが撃沈されたか戦後解体されたかして、今には残っていないハズである。
では今乗っているこの駆逐艦は一体何なのか。
そもそも目の前の女の子が駆逐艦だなんて、一体全体、意味が分からない。
本当のことが知りたくて、春樹は質問を続ける。
「君が旧海軍の駆逐艦電なのだとしたら、どうして君は今ここにいるの?」
その言葉を聞いて、電は少し考え込んだ後、今までの自信が嘘だったかのように弱々しく話し出す。
「……実は、私にもよく分からないのです。気が付いた時には、さっきのタグボートに曳かれていました」
「つまり、どうしてかは分からないけど、君は元の軍艦と一緒に人の姿をもって……生き返ったってこと?」
「はい。多分そういうことになると思うのです。……でも」
少しずつその表情に陰りが強くなっていく。
「でも、その前のことはよく覚えているのです。戦争で戦っていたことも、撃沈されたことも、……暗い海の底で、ずっと眠っていたことも」
その様子は、今にも泣き出しそうなほどだ。
見ているこちらまで沈んだ気持ちになってしまう。
「ごめん、言いづらいことならこれ以上は……」
電はふるふると頭を横に振りつつ、ぺたんこ座りだった状態から立ち上がる。
「いえ、全部、本当のことですから、気にしないでください」
「あ、あぁ、……大丈夫?」
「大丈夫、なのです」
これ以上心配させまいと思ってか、にこりと微笑む電。
少し、心苦しいものを感じる。見た目が中学生くらいの女の子だからか余計に。
「そういえば、士官さんのお名前を聞いていなかったのです」
気を利かせてくれたのか、電は話題を変えてくれた。
だがそれを聞いて春樹はハッとした表情になる。
確かに、相手のことを訊き出してばかりだった。
自分のことに必死で、自己紹介すらせずにいたことが情けない。
これまでを挽回するかのように背筋を伸ばして気を付けをし、
「申し遅れてごめん、僕は、千島春樹三等海尉、であります。所属は海上自衛隊護衛艦いかづち、であります」
ビシッと敬礼を決めつつ、自らの所属と階級を述べる。
「雷……、護衛艦、ですか? それに海上自衛隊って……なんなのですか?」
さっきまでの表情から一変して眉を寄せ首をかしげる電。
弱気そうな見た目に反して表情は豊かなようだ。
「いかづちは、むらさめ型護衛艦の七番艦で、いかづちって名前としては四代目。で、海上自衛隊っていうのは、日本海軍の子孫みたいなもの、かな」
「そう、なのですか」
更に首をかしげる電。
彼女の言っていることが本当なら、これくらい戸惑って当然だろう。
何せ太平洋戦争が終わってからもう七十年近く経っているのだから、その時代にいた電としてはタイムスリップをしたのと同じことだ。
まだ春樹は電の言う事を信じ切れていないのだが、この反応を見ていると段々と本当のことに思えてくる。
様子だけ見ればまず嘘だとは思えない。
「で、そう。三等海尉っていうと、昔でいう少尉かな」
昔の知識だけでも分かるよう説明をする。
旧海軍と海上自衛隊では階級の名前こそ違うが、地位や立場はほとんど同じである。
「千島三等海尉さん……は少尉さんだったのですね」
口元に手を当て、電がクスリと笑う。
「ちょっ、笑うなよ……」
三等海尉は一応、艦の中の幹部ではあるのだが、その中では下っ端である。
自らの役職に誇りを持ってはいるが、早く下っ端を脱出したいのも事実だ。
そこを突かれると痛い。
「はわわわ、ごめんなさい悪気は無かったのです」
電は両手を横に振り慌てふためく。
「あー、うん。下っ端なのは事実だから別にいいんだ」
少しへこんだ後、体裁を建て直し春樹は話を続ける。
「で、僕の自己紹介はこんなもんかな。よろしく、電ちゃん」
と右手を差し出す。
「あ、こちらこそよろしくお願いしますなのです、千島三等海尉さん」
表情を笑顔に戻し、電はぎゅっとその手を握り返す。
手のひらに伝わる感触は柔らかく温かく、こういう事に慣れていない春樹は思わず顔を赤らめる。
「え、えっと、三等海尉、じゃ呼びづらいでしょ? 省略して千島三尉でいいよ?」
自衛官は名前を呼ぶとき、苗字と階級で呼ぶのが普通である。その習慣もあってか春樹はそんな提案をした。
「じゃあ、千島三尉さん、その、ちゃんづけはなんだか……恥ずかしいので……」
顔を逸らし、春樹よりも顔を真っ赤にする電。
「そうか、じゃあ電、でいいかな?」
「はい」
そんな取り止めのないやり取りをした後、どちらともなく握手をする手が離れる。
「それで、電。君の目的は?」
聞きそびれたことをもう一度訊きなおす。先ほどは春樹から話を逸らしたのだが。
「はい、私の目的……はですね、この国を守ること、なのです」
「え? それって……」
国を守る。それはつまり軍隊の、そして軍艦の使命でもある。
海上自衛隊も同じく、この国を守るためにのみ戦闘行為が許されいる。
だがそれは軍艦なら等しく当然に備えているはずの使命だ。
それを敢えて口にする意味を、春樹は疑問に思ったのだ。
「日本が、いえ、世界中が今、危険なのです」
「……どういうこと?」
春樹は心の中に生まれたシンプルな疑問を口に出す。
「私が今ここにいるということは、私以外のフネも同じようなことになっていると思うのです。それに……」
「……それに?」
「私は、……私たちは、酷い戦争の中で沈みました。敵艦を撃沈してたくさんの人の命を奪ったことも、目の前で大切な仲間を失ったことも、何も出来ずに、自分の無力さを恨んだこともありました。撃沈された後、海底で眠っていた時も、そういった報われない想いや怨みの声がずっと聞こえていたのです。だから、きっと……」
電は春樹の目をじっ、と見つめる。
「きっと、戦いを始めるフネがでてくると思うのです。でもそんなことをしてはいけないのです。……だから、私が止めなくてはいけないのです。」
それが自分に与えられた使命だ、とでもいうように、電の瞳は真っ直ぐこちらを見つめていた。
春樹は何か言おうと思ったが、かける言葉が出てこない。
少し前の自分だったなら、少年少女特有の妄想だ、中二病だ、どこからか駆逐艦を手に入れて調子に乗っただけだ、どこからかは知らないけど、と一蹴していただろう。
だが、
現代に甦った駆逐艦、世界中が危険、フネの怨念。
殉職した自衛官、ドックから未だ出てこない護衛艦。
春樹の脳裏にあの海将の言葉が浮かぶ。
『だってさぁ、海の底から亡霊まがいの謎のフネが襲ってくる、って漫画やゲームにありそうじゃんか』
歯車がどこかで、噛み合ったような気がした。
ああ、これは現実なんだ。
この駆逐艦も、この女の子も、
あの報告書も、あの護衛艦も、
心のどこかで、
「日本が密かに建造していた駆逐艦だ」とか
「映画の撮影の為に作られた実物大模型だ」とか
勝手に思い込んでいたのかもしれない。
なぜなら、
これまでの人生で漫画やアニメのような出来事が起きたことも、どこかで起こったとも聞いたことが無いからだ。
そんなことはフィクションで、現実に有り得ないことは常識だ。
海将から預かった報告書を読んだって、某国の新型艦か、くらいにしか思っていなかった。
これまでの人生で漫画やアニメのような出来事が起きたことも、どこかで起こったとも聞いたことが無い。
だから、「そんなことはあり得ない」と勝手に思い込んでいたのかもしれない。
だけどそれは今、目の前でこうして起こっている。
やっと目の前の状況を、春樹は現実だと認識することができた気がした。
「そんなに辛そうな顔をしないで、大丈夫、僕も手伝うよ!」
春樹は電の手を取り宣言する。
自分も海上自衛官だ、日本を防衛するのは職務上の義務でもある。
電のやることを手伝うのも、自衛官の仕事の内である!
と、春樹の脳内では根拠の無い結論が出ていた。
「ふぁ……は、はい! ありがとう、なのです!」
突然自分の手を握られた電は、一気に驚いた表情になりながらもそれに答えた。
それを見て満足げな顔をする春樹。傍目に見れば完全に不審者である。だが春樹は全く気づかない。
「……あ、あの、千島三尉さん、そろそろ……手を……」
「ああっ、ごめん!」
言われて気付いた。
春樹はそそくさと自分の手をひっこめる。
「千島三尉さんは、面白いですね」
恥ずかしくてまともに電のことを見れない。
自分は一体どうしてしまったのだろう、少し頭を冷やそう。
気恥ずかしさを紛らわすため、頭を軽く掻く。
「あはは、改めてよろしく」
「こちらこそ、なのです」
この様子を見るに、電はあまり気にしていないようだ。
春樹は気を取り直し、話題を変える。
「にしても何で僕だったの? あの時、僕の方へ一直線に向かってきたけどさ」
臨海公園にて、颯爽と海の上を滑っていた姿を思い出す。
今日は何故だか、自分にばかり厄介事、といってはなんだが大事ばかりが舞い込んでくる日だ。
あの海将に、目の前の女の子。
願わくばこれが厄介事でなく、良い方向に転がるものであれば、と春樹は切に願う。
「それはですね、千島三尉さんが――――」
ボオォーー……
遠く、大きく、そして腹の底から鳴り響いてくる音。船の汽笛が鳴った音だ。
聴き慣れた音に、二人は思わず音のした方向、フネの後ろへ振り向く。
船舶の往来が激しい浦賀水道、今も貨物船や大型タンカーが数隻確認できる、が。
その中に一隻、真っ直ぐとこちらへ向かってきているフネがいた。
「あれは……」
灰色で、角張った艦上構造物に、背の高いマスト。
少し遠いが、その細部まで確認できる。
海上自衛隊の護衛艦だ。自衛官たる春樹が見間違えるはずがない。
そして、艦首に書かれた艦番号は107。
間違いない。
「いかづちだ……追ってきたのか……」
電も、駆逐艦についている海上レーダーから気を逸らしていたらしい。
お喋りに夢中で全く気が付かなかった。
遠く、いかづちのマストにカラフルな信号旗が翻っているのが見える。
掲げられている旗の意味は、『貴船は即時停船せよ』と『本船は貴船との通信を求める』だ。
チカチカと光っているのも確認できる。発光信号だ。内容は同じく『停船セヨ』
短気なことで有名ないかづち航海長の怒鳴っている姿が目に浮かぶようだ。少し寒気がする。
信号を見た電はムッとした表情をし、左手を上に挙げた。
バタバタ、と布が風に叩かれる音。
電の意志に応えるように、駆逐艦のマストに信号旗がひとりでに昇っていく。
その旗が示す意味は『信号を確認した』と『否定。ノー』だ。
電に停船する気は無いらしい。気弱な見た目に反してその意志は強い。
春樹は頭を抱え込む。戻ったら間違いなく航海長や班長に怒鳴られ回される光景が目に浮かんだからだ。
だが今は電の味方だ、電の考えには従わないとならない。
しかし、速度ではこちらが優っているが、航続距離ではいかづちの方が上だ。
どう考えても逃げ切ることは不可能だろう。
どうするつもりなのか。
「ねぇ電、そう言えばこれ、どこまで向かうつもりなのさ?」
春樹の問いかけに口を開こうとした電だったが、何かを察したのか、急に真剣な目つきになり辺りを見回し出した。
そして、
「総員、対水上戦闘用意、なのです」
電がそう発すると同時に、カーン、カーンと甲高くアラームの音が鳴り響く。
何事か、と春樹が電に確認する前に、艦の前方の海面から何か巨大なものが飛び出してきた。
ズアァァ、ドバァー……ン!!
クジラが海面をジャンプするように激しい音と水飛沫を上げ、それは海上に浮上した。
それはまるで潜水艦が急速浮上した時のような挙動だった、が。
それはまるで昔の駆逐艦のような姿をしていた。
それはまるで冷たい海の底で錆びてボロボロに溶け落ちたような、灼熱の怨嗟に熱されドロドロに溶け落ちたような姿で、
そしてそれは、生き物のように、深海魚のように、酷く有機的な姿をしていた。
電は、春樹の問いに答える。
「ここまで、なのです」