「……アラフェンか、彼女と訪れた時以来だが……たかが20年では、そう変わらんか」
薄汚れた外套に、深くフードをかぶった男の呟きが、兵士の雑踏に巻かれて消える。
近くを通った兵士が、わずかに男を警戒するような視線を向けるが、戦争が近いという事実が兵士の背を押し、男に声をかけることなく足早に立ち去っていった。
「……本当に、戦争が起こるのか?」
そんな兵士の様子に男が疑問の声を上げるが、残念なことに答える者はいなかった。
ただ、男にとっては、この事態は限りなく誤算であり、憤りすら覚えるものであった。
「こんな怪しげな恰好をした男を無視するなんて、警戒なんてあってないようなものじゃないか……!」
そう、男が立っているのは、今回の戦いでリキア同盟側の防衛拠点となるアラフェン城の目の前である。それにもかかわらず、顔を隠した自分に声すらかけない兵士の質は、最悪と言っても間違いではないだろう。
「くそっ! アイツは、こんな状況で防衛をやるつもりなのか!?」
あまりの無謀さに、思わず悪態を口にするが、やはりそれを咎める者はいなかった。
そのことにさらに怒りを募らせつつも、男は踵を返し、城を後にする。
「(いくらアイツに会うためとはいえ、強行突破は不味い……なるべく穏便に、それでいて無視できない方法は……)」
兵士が信用できない以上、正面から会いに行っても上に話は伝わらないだろうと見切りをつける。かといって武力行使は問題外であるし、まともな手段では目的の人物に会えない事を男は理解する。
「仕方無い、兵舎の仕掛けを使うか」
改めて目的を果たす手段を構築し直した男は、迷いなく歩を進める。そして意外な事に、その歩みに先程までの怒りは感じられず、むしろ祭りへ向かう子供のような軽快さが見えていた。
一方そのころ目的の人物は、迫りくる絶望を覆そうと声を荒げていた。
「くどいっ! ベルン国王の目的も見えずに降伏など、断じてありえん!」
「し、しかし、諸侯の動きはあまりにも悪うございます! いまだ予定の7割に満たぬ軍では、迎撃はおろか、籠城すらままなりません!」
「失礼ながらアラフェン候よ、イリアとサカを問答無用で攻め滅ぼしたベルンに、どのような交渉を持ちかけるおつもりで?」
「そ、それは……」
オスティア候の怒声に何とか反論するアラフェン候であったが、続くサンタルス候の言葉に、声を詰まらせる。
「いまさら戦う戦わぬの議論をする暇はない! 陣の設営と兵の配置を急がせろ!」
「は、はいぃぃ……!」
本来このアラフェン城において最も位の高い中年の男が、転がるように玉座の間から走り去る。その足音が完全に聞こえなくなったのを確認し、リキア同盟の盟主であるオスティア候ヘクトルは玉座へと腰を落とし、頭を抱える。
「リキア同盟の諸侯は、ここまで落ちぶれていたのか……」
「平和な時が長く続きましたからな。それも致し方ありませぬ」
「……貴方のような方がいくらかでもいることが、せめてもの救いか」
「ご冗談を。この身は所詮、ヘクトル殿の号令が無ければ、右往左往するしかなかった凡愚に過ぎませぬ」
今回集まった諸侯の中でも若手であるサンタルス候は、期待に応える器量は無いと頭を下げる。ヘクトルとてそれは十分に理解しており、それでも頼りにならない老害どもを思い出し、眉を顰める。
「……兵糧の確認を頼む」
「……了解いたしました」
結局、軍を動かすのに最も重要な兵糧の責任者と言う大役を任せる。ヘクトルとて、若いものに大役を任せ委縮させるのは本意でなかったが、他に選択肢は無かった。
「せめて、エリウッドが……」
数年前病に倒れた親友の名を出し、すぐに口をつぐむ。もしこの先を言ってしまえば、その親友への恨み言になってしまいそうだったためだ。それだけは、ヘクトルの矜持にかけてしないと誓ったのだ。
(何も病になったのはエリウッドの所為じゃねーしな)
肺を患った友人は、治める領地のほとんどの戦力をすでに送ってきている。これ以上を求めるのは、完全に甘えでしかないだろう。
(……この上ロイまで送って来るって言うんだから、あいつも歯がゆいんだろうな)
病になったことを一番苦しく思っているのは、エリウッドだ。だからこそ、この戦いを老後の笑い話にしなくてはと、ヘクトルは決めていたのだ。
「……ま、無茶だって言うのはわかっているがな」
「ヘクトル様、そのような事は……」
ヘクトルの弱音とも取れる一言を咎めたのは、彼に長く付き従う重騎士のオズインであった。先代であるヘクトルの兄の代から騎士を務めていた彼は、今は相談役としてヘクトルに仕えていた。
もちろん、このたびの戦においては往年の鎧を着こみ、主の盾となって死ぬ覚悟でいた。
「わかってる……だが、現状は正しく認識なきゃいけねぇ。希望的観測で、軍は動かせないからな」
「……お言葉が崩れております」
「お前しか居ねぇんだ。……最後ぐらい、自由にさせろ」
「……」
オズインは何も言えなかった。それだけ、ヘクトル率いるリキア同盟の質は落ちていたのだ。
もはや、どうしようもない。
それが、ヘクトル達の総意であった。ただ、それでも希望を持つのであれば……
「あの時の仲間がいれば……ってな」
「……イリアとサカで、あの方々が戦わなかったとは思えません。おそらくは……」
「……」
みなまで言わずとも、伝わった。それでも、あの往生際の悪い奴らならとも思うが、絶望的であるのには変わりない。
20年前、古の火竜と戦ったあの時を思えば……
「……ったく、リンディスの奴が羨ましいぜ! なんせ、ぎりっぎりのタイミングであの軍師を拾ったんだからなぁ!」
「マーク殿ですか……」
「呼んだか?」
「「!?」」
その愚痴に、かつて風のように現れた軍師の名に、応える声があった。
それは玉座の裏から、その城の主と、限られた信用された騎士にしか知らされていなかっただろう隠し通路から、その姿を現した。
「……おい、これは夢か何かか?」
「……さて、ここ最近まとまった睡眠をとっていなかったので、答えかねますな」
長らく使われていなかった通路だからか、男のフードにはクモの巣と大量の埃がかぶっていた。
それらが顔にかからないように丁寧に、男はゆっくりとフードを脱ぐ。
そこから現れたのは、見間違うはずもない。20年前に毎日見た、懐かしい戦友の顔があった。
「久しいな、ヘクトル、オズイン……また会えるとは、正直思ってなかったぞ?」
「ああ、本当に……タイミング狙いすぎだろ……」
「……軍議の準備をしてまいります」
視界が歪む。
声がかすれる。
感動のあまり手が震え、ヘクトルは膝から崩れ落ちそうになった。
だが、膝をつくことはない。そこには、ヘクトルを支える心強い友の手があったのだ。
「はっ! ずいぶん老け込んだな!」
「やかましい! 20年も経ったんだ、お前が変わらな過ぎるんだよ!」
もう40歳に近いヘクトルに対し、マークは20年前と何ら変わりない青年の姿である。だが、それも当然だろう。
何せマークは、ただの人ではないのだから。
「……力を貸してくれるか?」
「当然。そのために来たんだからな」
そしてヘクトルは、かすかな希望を胸に再び立ち上がる。その傍らに立つのは、神とまで称された戦略の妙を持つ一人の軍師。
その二人の胸中に浮かぶのは、かつて伝説と呼ばれた老人の言葉であった。
「ベルンより来る凶星、か……」
「そして、リキアからいずる炎の子、だろ?」
それは偉大なる賢者が残した預言であると同時に、呪いでもあった。そして、気にかけるべきは、それだけではなかった。
(戦場が死に場、か……俺が戦場に出るなんてこと、こんな大規模な戦いじゃなきゃありえねぇし、あまりいい予感はしねーな)
それは、かつて手にした狂戦士の斧の呪いというべきものだろうか。ヘクトルは、かつてない予感を抱きつつも、無言でオズインが連れてくるだろう頼りない諸侯を待つ。
そして、徐々に聞こえてきた足音と共に、この戦いの趨勢を決める策を練るのであった。