僕とキリトとSAO   作:MUUK

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第八十七話「黒白のラストワルツ」

瞼を開く。

 

昏い昏い部屋だった。喩えるなら、深い海の底のようだ。壁と床は黒曜石のような素材だろうか。光源が無いので手触りでしか判断できない。どこを見ても光など無く、出口も無く、暗黒と静寂だけが世界を支配していた。

自分の息遣いと鼓動だけが嫌に大きく聞こえた。ここには僕以外誰もいない。誰も踏み込んではこない。ここが現実じゃないってことは分かる。だったらここはどこなんだ?

どうでもいいか。そんなことは。今はただ、微睡みに身を託そう。外界の何もかもを閉ざすように、重く瞼を閉じた。

これはきっと罰だ。牢獄だ。狂気に身を任せ、獣に堕ちた僕の理性への、永遠の罪業なのだ。

瞳を閉じると外界と断絶されたよう。ただ、自分の鼓動にのみ耳をすませて。

それからどのくらい時間が経ったのだろうか。いや、そも時間の概念など無いのかもしれないが。

 

──────!

 

脳髄に響く声がした。

閉塞した心を突き破るような、太陽みたいな声。

 

──────!!

 

声の主は近づいてくる。頭痛がするくらいに叫びが身体を揺さぶってきて、睡魔なんて裸足で逃げ出してしまう。

けれどこの声は、包み込む心地よさも携えていた。この声を聞くと心が幸福で満たされていく。

もう分かってる。誰の声なのかは明白だ。大切な人。最愛の人。ああ、彼女は僕を追って、こんなところまでやってきたのか。

重い瞼を開くと、束になった光があった。それはふわりと拡散し、朧げな輪郭を形作る。そして────

 

「ライト!!」

「…………優子!!」

 

そこに、優子がいた。

優子の細くて折れそうな身体を引き寄せて、力一杯抱きしめた。

暗黒の深海に陽が差し込み、無数のマリンスノーが煌めいた。

 

「優子……僕は……優子を……」

 

同時に思い出してしまった。狂乱の檻に囚われた僕は、この手で優子を貫いた。

思い返すだけで胸が潰れそうになる。彼女を手にかけた度し難さに、自分の首を絞めたくなる。

そんな卑屈な気持ちさえも受け入れるかのように、優子は僕の背中に手を回し、腕に籠められた力を温かく感じるくらいに抱擁してくれた。

 

「大丈夫よ。アタシは生きてる。ここでこうして、ライトと喋ってるんだもの」

「じゃあ、ここがもし死後の世界だったら?」

「んー、そしたら付き合い出した翌日に心中ってことになるわね。美談というか怪談というか……」

「僕は真剣なのに……」

「バカなのに真剣に考えても意味無いわよ」

 

さもありなんとばかりに、バッサリと優子は言ってのける。雑言のはずなのに、そう言われるとなんだか元気が湧いてきた。いつもの優子であるのが、たまらなく嬉しかった。

腕を解き、しばし2人で見つめ合う。段々と気恥ずかしくなってきて、照れ隠しに笑いながらどちらからともなく視線を外した。

意識が僕から外れた優子は、いかにも不思議そうに周囲をキョロキョロと見回した。

 

「ところで、ここどこ?」

「わかんないや。僕もさっき、いきなりここで目覚めたばっかりだし」

「うーん……でも、うん。たぶんそうよね」

「どうしたの?」

「な、なんでもない! さあ、こっから出るわよ!」

 

優子は威勢良く、右拳を左の掌に打ち付けてみせる。お、男らしい……。だがその行動には、どうしても疑問が1つ付きまとう。

 

「出るって、どうやって?」

「決まってんじゃない! 壁に囲まれてるんだから、それをぶち壊すだけよ!」

「ぶち壊すって……どうやって……?」

「そりゃ、コレに決まってんじゃない」

 

優子はウインクして握り拳を作ってみせる。それは僕の専売特許のつもりだったのだが。

つくづく敵わないと思いつつ、優子の挙動を見守る。一緒に脱出を模索することは憚られた。僕にはその資格が無い気がして。

優子は肩慣らしに腕をくるくる回してから、体重の乗った鋭いパンチを撃ち込んだ。果たして────

 

「痛あああぁぁ!!」

「痛い!? そんなバカな!」

 

優子の右拳は赤熱していた。ドクンドクンと脈動し、みるみるうちに膨れ上がってくる。このとき、僕はやっと目覚めてから感じていた違和感に気付いた。

リアル過ぎる。

匂いがある。心臓が鼓動している。肌は周囲の環境を敏感に感じ取り、目は映像を超越した画素を写し取る。この五感の感覚は、明らかに現実のソレだ。あまりにも自然過ぎて今の今まで気がつかなかった。

 

「うぐぅ……ヒリヒリするぅ……」

 

うずくまる優子の肩を抱く。同時に、試しに自分の頬をつねってみた。あ、ほんとだ。痛い。

じゃあここはゲームの中じゃないのか? 現実世界? まさか本当に死後の世界だったりして。

恐らく杞憂な妄想に戦々恐々としていると、優子は悩ましげに逡巡していた。

 

「あのね、ライト。さっきから考えてたんだけど、きっとここ、ライトの心の中だと思うのよ」

「心の中? なんでいきなりそんな……」

「勘。強いて言うなら、それ以外の可能性が思いつかないのよね」

「勘って……。じゃあなんで僕の心の中に優子がいるのさ?」

「は、恥ずかしいこと言わせないでよ、バカっ!」

 

赤らめたほほに手を添える優子。だいぶキてるな……。言動の突飛さに姫路さんと同様のモノを感じる。

僕の微妙な視線に気づいたのか、優子は軽く咳払いして続けた。

 

「『鎧』が暴走するトリガーって、たぶん心じゃない?」

「うん。だと思う」

 

ラフィンコフィンとの戦争や、たった今の凶行を思い返しながら首を縦に振った。

 

「でね、思ったのよ。このゲームには、心を実際のステータスかなにかに反映させるシステムがあるんじゃないかって」

「……うん、そうだと思う」

 

考えてみれば、この2年の間にステータス以上の力が出たことは幾つもあった。スキル『神耀』の獲得がその最たるものだろう。あまりにも都合良く、欲しいと思った力が欲しいと思った場面で獲得できた。それを僕は気のせいで封殺していた。だって、考えても分からなかったのだ。

だが今思い返すと、それらは常に激情と寄り添っていた。優子の推論が正しければ、僕の心が生み出した新たな力だったとでもいうのだろうか。

 

「心が1つのゲームシステムとして組み込まれてる。だったら、心の中の世界があっても不思議じゃない。……とは言ってみたものの、確定的な証拠は全く無いんだけどね」

「うーん……でもそう言われるとなんかそんな気がしてきたよ」

「でしょ? 中々筋が通ってそうよね」

 

正直言って、今の状況をこれ以上無く説明できる仮説だと思う。でも1つ疑問が付き纏う。此処が心の中というなら、なぜ閉じ込められなければならないのか。

四方を不安になるほど黒い壁で囲まれたここが僕の心だっていうなら、僕は今、何を思っているのか。────それは、簡単だ。

 

「アンタの心の中から出れないってことは、アンタ自身が出たくないってことなんじゃないの?」

 

俯く僕を優子は覗き込んだ。翡翠の瞳は、奥が知れぬ深さを湛えている。一度は飲み込もうとした決心を、その目は引きずり出させた。

 

「ううん。僕は出たく無いんじゃなくて、出るべきじゃないんだ」

「同じじゃない?」

「違うよ。だって僕はアレックスを救えなかった。そして、優子を傷つけた。僕はね、僕を許せないんだ。僕はここから出るべきじゃ────」

「アタシだってアレックスを救えなかった!」

 

僕の言葉を遮った優子の声は、黒い壁を揺らすように響いた。弱い僕は優子の顔を直視できない。

 

「それに、鎧に負けてライトを傷つけた!」

 

思い出すのは3層での出来事。初めてファルコンに……いや、『鎧』に出会ったときのこと。優子が鎧に憑かれたときのこと。

そのとき僕は何を思った? 優子を憎んだ? そんなわけ無い。優子を守りたい、守れるように強くなりたいって思ったんだ。結局、僕は……

 

「弱いことは罪じゃない! アンタはバカなんだから、何も考えず真っ直ぐ進んでれば良いの! そしたらアタシが、背中を押してあげるから。前に進めばそのうち強くなるわよ」

「今までそう思ってたよ! でも結果がこれじゃないか! 結局取り零すばっかりだった! 何も救えちゃいなかったし、何も成長してなかった! だから僕は────」

「うだうだうっさいわね! だった見てなさい!」

 

ピシャリと会話を打ち切った。憮然と憤怒がない交ぜになった優子の瞳は、それでも僕を見据えていた。

優子は僕に背を向けた。小さな背中が憤然たる決意を持って歩みを進める。黒壁にまで達すると、優子はもう一度拳骨を握った。

またさっきの繰り返し。優子は壁に向かって拳を繰り出した。

 

「ふん!」

 

右拳が壁に打たれる。壁は少しばかり揺れるのみで、その出で立ちに一部の乱れも無い。

きっとこの行為に意味は無い。そんなこと、バカでもわかるはずなのに。

 

「やめようよ、優子。そんなことしても……。きっと僕が死ねば、優子はここから出られる。だからそれで……」

「うりゃあ!」

 

僕の言葉なんて聞こえない、とばかりに優子は声を上げる。

左右左右左右。順番に、がむしゃらに、パンチはひたすら壁に刺さる。先に悲鳴をあげたのは優子の身体の方だった。

皮膚が裂け、殴る度に血が壁に付着していく。指の付け根は皮と肉がぐちゃぐちゃになって、破裂した内臓を想わせる。

 

「っ……くっ……」

 

優子は痛みに耐える為に唇を噛み、その唇からも血が流れ出ている。

もう何十回殴ったかわからない。華奢で今にも折れそうだった手はソフトボール大にまで腫れ上がっている。

むしろよく意識が飛んで無いものだとさえ思う。

止めるべきだ。無為を重ねて痛みを感じて、いったい何の得があるんだ。

そう思うのに身体が動かない。優子が浮かべる鬼神の如き表情が、僕に静止させることを許さない。

 

「あああああ!!」

 

殴るペースが更に上がった。威力は一向に衰えない。血飛沫が飛び散り、優子の栗色の髪を染めていく。

 

「もういいよ……僕はここにいる。これは僕の問題だ。優子が無理する必要は無い!」

「僕の問題? だったらアタシの問題でもあるわよ!」

 

身体の回転が乗ったストレートパンチ。一層の力を込めた打撃も、虚しい残響を残して消える。

 

「うああああ!」

 

痛みを忘れるための喚き声。そのせいで喉が裂けたのか、優子の口元から血が滴った。

それでも連撃は衰えを知らない。

もう限界だ!

 

「優子! もうやめて! その壁は壊れない! だって、僕はこっから出る気が無いんだから。無駄に優子が傷つくことない!」

「黙って見てなさいって……言ったでしょ!誰が……誰がアタシのこと救い上げたと思ってんのよ! 何も救えなかった? バカ言わないで! アタシはアンタに救われた。取り零した物を見るのも良いわよ! けどね、ちゃんと救った物も見なさい! アタシのことを目に焼き付けなさい! アタシはね、バカ正直に真っ直ぐなアンタが好きなのよ! こんな暗いアンタの心なんて、何度だって殴り飛ばしてやるんだから!」

 

絶叫しながら、優子はいつの間にか泣いていた。その涙は痛みによるものなのか、それとも。

ぐずぐずになった拳を連打しながら、優子は絶叫した。血と汗と涙を撒き散って煌めく。

もう何度目かもわからないパンチ。骨まで見えた拳を肩より深く振りかぶったとき、僕は優子の腕を掴んだ。

優子が愕然として呟く。

 

「なんで……アタシじゃダメなの……?」

 

優子の目尻から、ポロポロと大粒の涙が零れる。眉宇に皺を刻み、悔悟に耐え切れるとばかりに歯嚙みしている。声を張り上げ、血を流し、それでも自分の言葉は届かなかったと。

ああ、僕はバカだ。大バカだ。大好きな人にここまで心配かけるなんて。

だったらせめて、優子が好きでいてくれる僕に戻らなきゃ────!

 

「はああぁぁ───ッッ!!」

 

腕に力を。拳に技を。軌跡に疾さを!

無限に繰り返した動作。けれどそのパンチは、今までで1番重かった。

音速を超えた拳が衝撃波を放つ。精一杯の気持ちを籠める。僕のために砕身してくれた、優子への有りっ丈の想いを!

最速の一打は壁を抉った。打撃点を中心に黒壁がひび割れていく。

 

「ありがとう、優子。大好きだよ」

 

きっと今の僕は、締まらない顔をしてるんだと思う。笑顔を見せたいのに、優子への罪悪感と感謝で泣きそうだった。

優子は涙と鼻水を袖で拭う。それでも滂沱は次から次に溢れる。ぐちゃぐちゃの顔のまま優子は見せた。いつも僕を救ってくれた、煌めくような笑顔を。

 

「すっごい痛かったんだからね、バーカ!」

 

宙に浮くような軽やかさで、優子は僕に飛びついてきた。互いを感じるように抱き寄せ合い、優子は耳元で囁いた。

 

「アタシも大好きよ、明久」

 

暗室は砕け散り、世界を極光が包んだ。

 

 

瞼を開く。

 

爛々と光る部屋だった。世界の全ては真っ白で、過量の光に目が痛みを訴える。地平と空の境界は無い。不気味なほどの純白が見渡す限りに続いている。先ほどまで隣にいたはずの、優子の姿はどこにも無い。

純粋培養の空間にたった1つ、歪な人工物があった。金属でできた多段構造の円錐台の上に、巨大な光る立方体が浮遊している。差し渡しは5メートルと言ったところか。キューブは不規則に明滅を繰り返す。

他に何も無いからでもあろうか、巨大立方体は誘蛾灯のように僕を惹きつけた。それは魂そのものが引っ張られるような錯覚。手を伸ばす。指先が頂点に触れる、瞬間。

 

「待って! それには触れないで下さい!」

 

心臓が跳ね上がる。

止められたことにじゃない。僕を止めた声、そのものにだ。

何度も何度も耳にした。もはや魂に刻まれた声。呼吸すら覚束ない。逸る気持ちと裏腹に、身体は緩慢な動きで方向を変える。

ああ、彼女の名は────

 

「アレ……ックス?」

「ええ、アレックスちゃんですよ?」

 

春の木漏れ日を想起させる微笑は、僕の心を深く揺さぶった。語り合いたいのに、聞きたいことがありすぎて言葉にならない。

絹のような壮麗の黒髪も、宝石のような蒼穹の瞳も、枝のような細い身体も、何もかもがもう目見えることが叶わないモノと。絶望はしきり、前に進もうと決心したというのに。目の前に出てこられては、僕は。

震える唇に何とか言の葉を刻もうとした、その寸前、アレックスは勢い良く頭を下げた。

 

「ごめんなさいっ!」

「い、いきなりどうしたの!?」

「ライトさんをここに呼んだのは私の身勝手です。だから、とりあえず謝っておこうと思いましてっ! 謝罪はタダですしねっ!」

「なんて軽薄な謝罪なんだ……!」

「冗談はこのくらいにしておきまして、ライトさんをお呼びしたのは他でもありません」

 

アレックスの声音も表情もガラリと変わる。ここからが本題だと分かりやすく提示されていた。

 

「その前にちょっといいかな?」

「はい?」

 

小首を傾げるアレックス。だが説明なんてしていられない。もう限界だ。

アレックスの背に手を回し、強く強く抱き締めた。

 

「また会えて嬉しいよ……アレックス……」

 

なぜ生きてるのか、なんてどうでもいい。これが夢なら僕はよっぽど弱い男だ。それでも今は、アレックスの温もりを感じたかった。

 

「…………っ」

 

アレックスからの返答は無い。いきなり抱きついて困らせてしまっただろうか。力を緩めると、アレックスは僕を突き飛ばすように押し離れた。

考えていたより遥かに強く突っ撥ねられて、思考がうまく纏まらない。やばい。ちょっと泣きそうだ。

アレックスの方はというと、俯いてしまって良く表情は見えない。とにかく、まずは謝るべきだろうか。

 

「ご、ごめ……」

「ライトさんに伝えるべきことが2つあります」

 

謝罪すら拒むようにアレックスはピシャリと言った。

 

「つ、伝えることって……?」

「1つ、私は死んでいません。あの時点で私は目標を達成していました。アインクラッドに存在している必要が無かったので、ああいった行動を取りました。それによってライトさんを悲しませてしまったことは重ねて謝罪致します」

 

普段のアレックスからは想像もつかない、事務的で抑揚の無い言葉。僕には口出しもできぬまま、アレックスは続けて予想だにしないことを口にした。

 

「2つ、ヒースクリフは茅場晶彦です」

「な、なんだって!?」

 

青天の霹靂という比喩すら生温い。ヒースクリフといえば押しも押されもせぬトップギルド、血盟騎士団のリーダーだ。プレイヤー誰もが抱く希望の星。絶対強者たる彼こそが全ての敵だったのだと提示された。これで困惑しない者はいない。

 

「証拠とかは、あるのかな?」

「証明する能力は今の私にはありません。信じるかどうかはライトさん次第です」

「信じるよ」

 

僕の即答に驚いたのか、アレックスはハッと顔を上げた。

アレックスを疑う理由なんて無い。理由が無いなら、信じないより信じる方が良いに決まってる。

 

「な、なんで何の迷いも無く……」

「だってアレックスのことが好きだから。信じたいし、信じても良いって思えるんだよ」

 

冷静だったらアレックスが見る見るうちに上気していく。口をパクパクさせたあと一度ムッと噤むと、蚊の鳴くような声を絞り出した。

 

「そういうとこですよ……いつか酷いことになるんですからぁ……」

「ん……何て言ったの?」

「何でもありませんっ! これからライトさんを元の世界に戻しますから、私の言うことを良く聞いて下さいねっ!」

「うん」

「まずヒースクリフに殴りかかって下さい。彼には体力が半分以下になると発動する絶対防御があります。それを発現させてプレイヤー全員に知らしめて下さい。こうすれば貴方の正当性が保証されます。次にインカーネイトシステムの使用を……ああ、その名称をご存知ありませんでしたね」

「うん。なにその、ええと……インカーネイトシステムだっけ? 使うってどうするの?」

 

アレックスは難しい顔をした。答を探すように首を捻っていたが、満足のいく物は得られなかったみたいだ。

嘆息してからアレックスは顔を上げた。

その表情を僕は忘れないだろう。双眸は深く絶望を湛えていた。それでも僕の目をしっかりと見据えていて、悲壮な決意に背筋が凍りつく。彼女は、何をしようとしてるんだ?

 

「ライトさん。このキューブに触れて下さい」

 

アレックスが指さしたのは、僕の左の巨大浮遊物。明暗のグラデーションに瞬く光の箱だ。その光は命の鳴動にも見えた。

 

「いいの?」

「…………ええ」

 

荘厳な首肯。

ならば触れないという選択は無い。彼女がある種決定的な決断を下したのだということは僕にだって分かる。なら、僕がその選択を無にすることは、僕自身が許せない。

光がその紋様を変える。魂の旋律であったそれは、憤怒にも慟哭にも見えた。

指先が、触れる。

 

────瞬間。

 

全て、思い出した。

なぜ、今の今までこんな事を忘れていたのか。もはや魂に刻み込まれた因果。僕と彼女の人生を。

ああ、追いかけても、追いかけても、追いかけても届かなかった。その女が目の前にいる。

アレックス。その本当の名前は────

 

「君は、君は!」

 

アレックスは微笑に悲しみを載せる。予定調和の悲劇。今なら彼女の不可解な行動に、全て辻褄が合ってしまう。

そう、彼女は───

 

「君は、ア────」

 

その先の言葉は、僕の口から消えた。

魂が穿たれたような喪失感。何物にも代えがたい思い出を抉り取られた。

口が動かなかったんじゃない。忘れたんだ。数秒前まで衝撃と絶望が渦巻いていた記憶が、すっぽりと抜け落ちていた。

頭が割れるように痛い。

頭蓋を押さえようとした掌に、紫色の光が投射される。その光源は僕の額らしい。光線は魔法陣のような幾何学的な形をとっているが、その意味するところは今の僕には見当もつかない。

何も覚えていないのに、『インカーネイトシステム』のことだけは、綺麗に脳裏に残されていた。それ以外の記憶が、ごっそりと奪われたんだ。

自然と、涙が頬を伝う。何が悲しいのか分からないのに、途轍も無く心が痛かった。

 

「う……ぐぅ……」

「ごめん……なさい」

 

何度目かも分からないアレックスの『ごめんなさい』。嗚咽交じりの謝罪が、殊更僕の心を貫いた。

白の世界で、2人で泣き合う。同じ行動なのに、2人の心はどこまでも乖離して。

 

「さようなら、ライトさん」

 

別れの言葉が宙に浮く。

それを受け取るのは嫌だった。だって応えてしまえば、これで終わりな気さえする。何が何だか分からないけど、その予感は裏切れなかった。

それに、アレックスの表情は、

 

「嫌だ」

「…………もう、お別れなんです」

「それでも嫌なものは嫌なんだ。だって、アレックス、助けてって言ってるじゃないか」

「言ってません! そんなこと、一言も!」

「言ってる! そんな目をして、そんな顔をして、見捨てられるわけないだろ!」

 

アレックスの容貌はくしゃくしゃで、今にも何かに押し潰されそうだった。そんな彼女を放っておけるはずがない!

 

「君が何者かは分からない。何に絶望しているのかも分からない。けど、おせっかいだって言われても、絶対君に会いに行く! 君がどこにいようと必ず君を見つけてやる! 僕は! 必ず! 君を救う!」

 

大声で喉が裂けそうだ。

救いたいだなんて言えるほどアレックスが弱くはないのは知ってるし、僕が彼女を救えるほど強くはないのは分かってる。それでも救うって言い切りたかった。何よりも彼女が遠くへ行くのが怖かったんだ。

だって僕は、

 

「君が大事だから」

 

アレックスは唇をきつく噛んだ。目尻を服の袖でゴシゴシと拭う。そんな風に強がるアレックスの姿が、今はとても悲しい物に思えた。

アレックスはニコリと口の端を吊る。その表情はどこかぎこちない。あえて指摘はしない。しても意味なんて無いと思ったから。

彼女はきっとこれからも、色んな物を自分だけで抱えていくんだろう。その一端でも担ってあげられなかった自分の不甲斐なさに、やり場の無い怒りが込み上げる。

なんて、孤独な強さ。

 

「ワガママですね、ライトさんは」

「うん。そうだね。僕は僕のワガママで君を助けるんだ」

「その時を楽しみにしています」

 

嘘だ。

期待なんてこれっぽっちもしていない。そも、立っている視座が違うのだ、と言わんばかりの溝さえある。

だからきっと、そんな彼女の心をこじ開けるのが、これからの僕の役目なんだ。

空元気で自らを鼓舞する。

アレックスの姿を目に焼き付ける。どこへ行っても、彼女を探しに行けるように。

 

「またね。アレックス」

「……さようなら」

 

食い違う別れの言葉。寄せては返す波のように、互いの心に痕を残して。

 

────世界は、光に包まれた。


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