しょうがないので、今回はだいぶ多めです。
「…………チッ。気が変わった。おい、クラディール! その女、起こせ!」
「なっ………!?」
唐突なPoHの言葉に、僕ら二人は驚愕することしか出来なかった。
さっきまで殺る気満々だったPoHが出し抜けにそんな事を言い出せば、そりゃ当惑もするだろう。
洞窟の最奥で、下命を受けたクラディールは、悪逆に富んだ笑いを見せる。
「了解した、ボス! そろそろ待ちきれないとこだったぜ。こんないい女、ほっぽっとくのはよぉ!」
途端、下卑た笑い声と共に、容赦無い拳が放たれた。
「ぁ…………くっ………」
ティアが吐く苦痛の吐息。溶けるような魅惑の声音に混ぜ込まれた、痛々しい呻き。
それに、僕の理性は瓦解した。
「や………やめろ!」
「おいおい、ライト。黙って見とけよ。ショーは始まったばっかだぜ?」
くぐもった笑いを洩らしながら、背後の殺人鬼が諌めるような口調で言った。
「くっ…………」
耐えるしか、無いのだろうか。
今動いても、どうにもならない事は歴然だ。
だがここで動かなければ、どの道ティアは殺される。
だったら……
その時、紅白の騎士装束を身に着けた男が、粘着質な笑顔で僕を見た。
「いいぃねぇ! そうこなくっちゃ! リアクションのデカい観客は嫌いじゃない! じゃあ、お前のパフォーマンスに免じて、もう一蹴り、入れてやらぁ──ッ!」
誠意も無ければ技量も無い。
ただただ穢すような蹴りだった。
それがティアの脇腹に突き刺さり、ティアの身体はもんどりうった。
そうして中を舞ったあと、硬くて冷たい岩盤に叩きつけられる。
「なんだ、コイツ。こんだけやってもまだ起きねぇのかよ。よっぽど睡眠薬がキマッてんのか。ほら、起きろよ」
貪汚の脚が、彼女の美貌を汚毒する。
それは同時に、僕の心をも陵辱されているような屈辱を喚起した。
そこが、我慢の限界だった。
「…………っざけんな、テメェ───ッッ!!
ティアの顔はな、テメェみたいな薄汚い奴が触れていいようなモンじゃねぇんだよッ!!」
僕の口から、罵詈雑言の弾丸が弾けた。
そんな僕に同調するかのように、洞窟中に、
『そうだ! 足を退けろ!』
『幾らなんでもやり過ぎだろ!』
そんな声が満たされていく。
いつしかそれらは非難の嵐となっていた。だがむしろ、その反応はクラディールを興奮させる結果しか生まなかった。
「ヒヒッ! ────あっハァ。お前らの歓声だけで達しちまいそうだぁッ! ほぅら! もう一声、聞かせろよ!」
クラディールは、更に右脚で踏み込んだ。
ガンガンガン。ティアの顔は、汚濁した足に蹂躙される。
全身の血液が沸騰する。
ティアの痛みを映す視神経が、張り裂けそうに訴える。
それを脳が聞き入れた時、
─────グルルッ!
深く響く獣声が、脳髄を破壊するように染み渡った。
だがそれは同時に、天上の琴が奏でる音色のようでもあった。
内在する二律背反は、うねる蛇の毒牙のように/草木から滴る甘露のように、非道く蠱惑的に僕を誘う。
そこに手を伸ばせば、きっと、何もかも解決して────
僕は、自分の右頬を力いっぱいぶん殴った。
「なんだ、ライト。ついに頭がイカれたか?」
「煩い」
嗤うPoHに、僕が吐いたのは怨嗟に近い命令だった。
それだけで殺人鬼は何かを察したらしく、
「ああ、なるほど。そういう事情か」
とだけ呟いて、掌返しに押し黙った。
「どうした、ライト」
キリトが気遣わしげな様子で覗き込んできた。
それに僕は、膝に手をつきながら右手を上げて大丈夫だと合図した。
それ以降、キリトは何も訊いてはこなかった。
これで、良かったのだろう。
ここで意識を引き渡してしまえば、きっとティアは救われる。
けれどもそれ以上に、僕は命を奪ってしまうだろう。
そんな未来、誰も望んじゃいない。
何より、あんなモノを宿すことが、僕自身にとって耐えられない。
あんなモノにはもう頼らないと、そう決断を下した。
その時だった。
「………え?……ぃ……イヤ! 嫌! やめて!」
玲瓏たる声音が響かせる、恐慌の叫びが洞窟を駆けた。
それに発破をかけられて、形振り構わず僕は彼女の名を叫んだ。
「ティア!」
「やだ! っ………助け……雄二ぃ!」
顔面を踏みつけられ、息も絶え絶えになりながら、僕の声など気にも留めず、彼女は最愛の名を呼んだ。
だが、それに応えられる者は、今、この場には居ない。
「おおっと! すまんすまん。起きてるのに気付かった。踏み続けちまったよ」
薄ら笑いを浮かべながら、クラディールは形だけの謝罪を口にする。
しばらくすると、ティアは荒げた息を落ち着け始めた。普通ならまだ錯乱していても不思議ではないが、どうやらもう状況を理解したようだ。
それは、ティアの顔がどんどんと青ざめていくことが如実に語っていた。
「それで、どうするんですか、ボス」
肩を上下させながら、クラディールが言った。
問われたPoHは、顎に手を当て思案顔を作る。
数秒後、考えがまとまったのか、PoHは大仰な動作で放言した。
「キリト、ライト、リンド、そしてヒースクリフ! お前らに問おう。
ティアを見捨てて、この場を立ち去るか、ティアを救おうともがいて俺たちに殺されるか!? さあ、選べ!」
PoHの声が、洞窟をぐわんぐわんと揺らした。
目眩がする。
ただでさえ暗かった洞窟が、PoHの周りだけ靄がかかったように霞んで見えた。
あまりに理不尽な選択。
しかし、このまますごすごと帰路に着いたところで、ティアが不帰となることは明白だ。
それにラフコフのことだ。僕らを大人しく帰してくれるとも思えない。
いや、それ以前にこのまま帰ってしまったら、僕らは何故こんなことをしたのかという話になる。
なら、まだ諦めず闘う?
それも絶望的だ。
ティアは人質に取られているし、それに……
「囲まれてるな……」
キリトがボソリと呟いた。
洞窟の入り口を見遣る。そこには、群を形成するラフコフのメンバー達が居た。
その数、目算で三十ほど。
いや、それどころか、今も夕暮れの蝙蝠のようにわらわらと集まっている最中だ。
そんな彼らは、秀吉やムッツリーニ率いる入口付近のプレイヤー達と睨み合いを繰り広げている。
彼らの中には、知ってる顔も見受けられた。
恐らく彼らは、PoHの言う他ギルドに潜伏させたラフコフなのだろう。
進退窮まる現状を打破する一手は、僕には見つけられそうにもなかった。
その時。澱んだ暗闇を、清廉たる騎士の声音が切り裂いた。
「ライト君! キリト君! 判断は君達に任せる!」
たったそれだけの一言だった。
ヒースクリフの表情には色彩が無く、何の斟酌も許されなかった。
だが、そこ言葉に籠められた意味は容易に推測出来る。そしてそれが、重要な決断の末に下された答えであることも。
だが、それに対するキリトの返答は、意外極まるものだった。
「いや、その必要は無いぜ。騎士団長殿」
刹那。世界に雷轟が奔った。
☆
挨拶代わりに一発。
そのくらいのつもりだったのに、どうやら派手にやり過ぎたみたいだ。
けたたましい爆裂と地割れの入った洞窟の入口。そのどちらもが、俺の放った剣が成した結果だった。
「ユウ!」
奥の方から、バカの声がした。
俺はそれに、何も言わなかった。いや、言えなかった。もはや俺の内情は、口を開けば飛び出してしまいそうなほどだった。
「やっと来おったか。待ちくたびれたぞい」
「………重役出勤。借りはツケとく」
いつもの如く好き勝手言う悪友達。
だが、奴らにも相槌すら打たず、俺が見据える先はたった一点のみだった。
「雄二!」
岩窟に哀叫が響く。
たったそれだけで、心がガリガリと削られる。
彼女の声を聴く度、彼女の悲痛な顔を見る度、心がはち切れそうな程────煮え繰り返る。
「待っとけ、ティア。一瞬でカタをつける」
「………うん。待ってる」
俺たちのコミュニケーションは、これだけで充分だった。もはや言葉など必要無い。今、俺に求められるのは、ティアを助ける結果のみ。
「さあ行くぞ、皆の衆。ワシらは是が非でも王道をこじ開けるだけ。後はこの男に全てなすりつけるのじゃ!」
秀吉が声を上げる。
それに味方の誰もが首肯し、敵の誰もが睥睨した。
そして────
「うぉぉおおぉ───ッッ!」
誰からともなく伝播した鬨の声と共に、攻略組対ラフコフの戦闘が再開した。
秀吉の宣言通り、見る見るうちに道が形作られていった。
そこを、俺はただひたすらに奥へ奥へと歩き続けた。
俺を進ませるために、殺人鬼の刃をその身に受けた仲間達を一顧だにせずに。
やがて、次なる敵が俺の前に立ちはだかった。
「おおっと、残念だがここまでだ。大人しく首を差し出しやがれ」
元凶は頬を綻ばす。
その笑顔に何が籠められているのかは分からない。分かろうとも思わない。
だが、この男は分かっているのだろうか。自分の相手は、俺ではなく────
「コイツは俺が倒す。お前はただ、バカみたいに真っ直ぐ進め」
俺に背を向け平然と言い放つ、この最強の剣士だということが。
「ハッ───。出来るモンなら………」
「ああ、露払いは任せたぞ」
口上を述べようとするPoHを遮って、俺は黒の剣士に信頼の言葉を寄せた。
キリトは薄く笑った。
瞬間。剣士の左手に青白色の極光が顕現した。
光は一種の生命が如く唸りを上げる。その光景は、新たに生まれ出づる何かを暗示するようでもあった。
そして具現した物は、闇をも切り裂く光輝そのものだった。
銘を、
プレイヤーメイドでありながら、魔剣とも並ぶ力を持つ、『聖剣』だ。
だがその光景に、この場の誰もが首を傾げた。
両手にそれぞれ武器を持つ。それは双剣スキルの専売特許である筈。
ならば何故、黒の剣士はそんな真似を?
「…………クッ…………クックックッハハハ───ッッ!!
バカだバカだとは思っていたが、よもやここまでのバカとはな! 双剣スキルに勝てないと知って苦肉の策か?
そんなことをしちまえば、ソードスキルも発動できねぇってのによ!」
「御託はいい。さっさと始めるぞ」
静かに過ぎるその声音は、己が勝利を微塵たりとも疑っていない。
そんなキリトへの嘲笑と共に、殺人鬼は岩屋を蹴った。
「行くぞ、黒の剣士!」
最強と最凶の最終決戦。
それの開幕と同時に、俺も洞窟の奥へと駆け出した。
☆
紅い、血を彷彿とさせるライトエフェクト。
それを迎える対の剣もまた、鮮紅の剣筋を見せた。
「!?」
それは紛れもなくソードスキル。
PoHは、得心いかぬという表情を見せる。片手剣を両手に持つソードスキルなど、未知であるに違いない。
それもその筈。
この剣技は、キリトにのみ許された究極のスキル。
『二刀流』。
それは、短剣より重く長い片手剣を、短剣と同等の速度で揮う、『双剣』の完全上位互換。
この瞬間、もはや勝利は決したも同然だった。
「───ッ」
だが、尚もPoHは食い下がる。
スキルを性能に差異が在するというのなら、技術でそれを補えばいい。
ああ、確かにそうだろう。
だがしかし。PoHは決定的に勘違いしていた。
自分とキリトが、同じ土俵で闘っているのだと、そう思っていたのだ。
「ハァアアァァ──ッ!」
PoHの気勢が奔る。
双剣スキル十五連撃『ルナ・フォーミング』。
現状、アインクラッドにおいて最大コンボ数を誇る、双剣スキル最上位技。
PoHはこの一撃で、勝敗を決しようとしていた。
────この瞬間に、己の技が最大連撃数でなくなるとも知らずに。
「スターバースト………ストリームッ!!」
キリトが放った技名は、味方ならば勝利の福音に、そして、PoHには死神の足音に聞こえたのだろう。
一撃目。エリュシデータの横薙ぎと、友切包丁の袈裟斬りがかち合った。
激突の火花が、太陽となって辺りを照らす。
それに遅れて、ジェット機もかくやという爆音が洞窟を支配した。
僅かにキリトが上回り、殺人鬼は体軸をぐらつかせた。
だがその程度のブレならば、ソードスキルは続行される。
二撃目、三撃目と打ち合いが重ねられる。
そのどれも、キリトが微小の優位を保っていた。
湧き上がる焦燥感。
どこかでリードを奪わなければ。
もし、自分の方が連続攻撃回数少なければ、勝敗は明瞭なものとなる。
PoHの憂慮など御構い無しに、両者の剣は重なり合う。
そして、運命の十五撃目。
PoHは二刀を高く振り上げ、急転直下の裁断をする。
その攻撃力たるや、時空を抉るかと思うほど。
それと剣戟を演じるのは、エリュシデータの一本のみ。
─────勝った!
PoHの顔色が高揚に染まる。
これまで一本同士でほぼ互角の攻防だったのだ。
ならば、二本で斬れば、一本では堪えられぬのが道理だろう。
そう。その筈なのだが────
「セェヤァアァァ──ッッ!!」
キリトの気合が岩窟を揺らす。
破れる筈だった剣の壁は、むしろ二刀を押し返した。
今までとは次元の違う力。
自分の短剣と同等だった片手剣。それが、打ち合うことすら許されぬ爆発力を発揮した。
どうして、急にこれほどまでパワーアップしたのか。
いや、違う。逆だ。
今までが弱すぎたのだ。
片手剣と短剣の間には、絶望的なまでの攻撃力の開きがある。
それなのにどうして、この瞬間までまともに剣を交えられたのか。
PoHはそれを、己が剣技と武器の性能だと過信していた。
ならばキリトは手を抜いていたのか?
それも違う。黒の剣士は明らかに必死だった。
では、何故?
それに答えを出す間も無く、キリトの手から更なる一撃が繰り出された。
────ああ、まだ続くのか。
殺人鬼に諦観の念が湧いた。
自分のコンボは途切れた。ならばPoHには敗北を迎えることしか出来はしない。
振りかざされるは二刀の刃。それらは寸分の狂い無く、PoHを穿つに違いない。
そして────
────二振りの片手剣は、二振りの短剣を打ち据えた。
甲高い金属音が鳴り響く。
蒼白のライトエフェクトが、花弁のように咲き乱れる。
今度こそ意味不明だった。
今のは絶対にPoHに止めを刺せた筈。なのに何故、わざわざ剣を狙ったのか。
その解答は、すぐに知れた。
───ギギ。
嫌な音が鳴る。
────ギギギ。
それはまるで、蠱毒壷が鳴らす死の息吹。
─────ギリギリギリギリ。
──────バリィィイイィン!!
瞬間、親愛を断つ妖魔の刃は、この浮遊城から消失した。
そして、PoHは全てを悟ったのだろう。何故、自分は今までキリトと剣を交えられたのかを。
「
殺人鬼の口から、憤怒の籠った怨嗟が飛んだ。
そう。PoHとキリトは、始めから目指す物が違ったのだ。
キリトが狙っていたものは、PoHの命などではなく、
PoHは全力でキリトを殺しにかかり、キリトは全力でPoHの剣を壊しにかかった。
かかる力のベクトルが違えば、当然、PoHのがキリトの剣から受ける力積は減少する。
PoHが本気の勝負だと思っていたものは、キリトにとっては児戯だった。
つまり、キリトにはPoHを殺すことなどいつでも出来た。それをしなかったのは、ひとえに────
「ふっ…………ざけんな! テメェ───ッッ!!」
殺人鬼が初めて見せた、人間らしい怒声。
衝撃で吹き飛んだ体を立て直し、PoHはキリトに向かって衝突と言える速度で足を回した。
そして、空虚になった右手で、キリトの右頬をぶった。
キリトは微動だにせずそれを受け止め、言った。
「お前は………お前らは、人を殺し過ぎた」
「ああ! それが何か悪いか!」
「悪いに決まってんだろ、クソ野郎!」
罵声を吐きながら、黒の剣士は殴り返す。
痛打は鼻頭を打ち、PoHは数歩だけよろめいた。
「お前自身が簡単に死んだら、死んだ奴らに申し訳が立たないだろうが!」
ふらつく殺人鬼に、キリトは追い討ちをかけた。
子供の喧嘩のようだった。
駆け引きも技術も無く、ただお互いが渾身で殴った。
それでも現実なら、拳も頭蓋も破れているほどの威力だった。
殴り抜ける音が虚しく響く。
それに口出しするものは誰もいなかった。
やがて、
「…………取り乱した。回廊結晶でもなんでも、早くだしやがれ」
殺人鬼だった男の気の抜けた声には何も応答せず、キリトはメニューウィンドウを操作した。
取り出した物はPoHの言う通り、黒鉄宮行きの回廊結晶だった。
それをキリトは、片手で無造作に発動する。
空間が歪み、向こう側には冷ややかな漆黒の石畳が広がっていた。
ワープゾーンへと、確かな足取りでPoHは歩む。
キリトとすれ違った時、二人は何も口にしなかった。ただPoHは、不敵な笑いだけを浮かべていた。
そして、歪曲した時空に足を踏み入れかけたその時。
「またな、黒の剣士」
そう言い残し、災禍の元凶は戦場を去った。
☆
────走る。
暗澹たる洞窟を、ただ只管に走り抜ける。
解放する。
その為に走る。
彼女を守る。
その為に走る。
奴を討つ。
その為に走る。
そうしなければ────殺される。
「オイ! それ以上近づくな! 近づけばコイツを、今すぐにでもぶっ刺すぞ!」
耳障りな警告音。
もはやそんなもの、聞こうとも思わない。
俺は、ティアが救えればそれでいい。
須くが余分。
世界に具象する有象無象は、塵芥に他ならない。
そう────俺と彼女以外は。
「ここまで言ってもまだ分からねぇか! だったらーーー」
紅白の騎士は、ティアの手を乱暴に掴んだ。
そして、ティアの右腕が切り落とされた。
「…………っ」
ティアが眉根を寄せる。
それでも爛々と輝く目は、微塵の逡巡も無く俺だけを見つめていた。
信じてる。そう言われた気がした。
脚に力が籠る。
必ず、お前を救ってみせる。
その想いを視線に込める。
伝わったのかは分からないが、ティアが微かに頷いた。
「お前バカかよ! 近づいたら殺すって言ってんだぞ!
…………ああ、もういい! お前らムカつくんだよ! 死ねよボケ!」
俺に罵声を浴びせながら、痩身の男は高く大剣を振り上げた。
このままいけば、確実にティアは両断される。
たがしかし、彼我の距離、十三メートル。
どうあれ絶対に届かぬ間合い。
ここまで絶望的な距離ならば、もはや手の打ちようがない。
このまま黙って指を咥えて、ティアの処刑を見守ることしか俺には出来ない。
────だがそれは、俺一人ならばの話だ。
そう。俺には─────
「
相棒がいる。
「ああ、任せた!」
一足飛びに十メートル。
最速の男が味方なのだ。
十三メートル程度など、有って無いようなものだろう。
そして移動後、少し、背中を押された。
後はお前の仕事だ。そんな思いが、背骨に当たる掌からひしと伝わってきた。
ああ、その期待に応えよう。
俺は剣を振り上げる。
この一刀に全てを託す。アインクラッドに跋扈する腐敗の温床を、この俺の手で叩き斬ろう。
だがまだ奴までの距離は三メートル。
対して、俺の大剣の間合いは二メートルと少し。
瞬間移動によって焦っていたクラディールの顔が、少しずつ余裕を取り戻し始めた。
確かに、ここからでは奴を断つことは叶わない。
だが、そんなものは誰が決めた?
システムに規定されているのなら、世界に抗えば良いだけのこと。
俺が届くと確信しているのだ。
ならば────
「うおぉぉおおぉーーーッッ!!」
この刃が、奴を抉るのは必定だ───!!
─────刹那。
何か、道理の通らぬ事が起きた。
俺の刃から生じたものは、『衝撃波』だった。
かと言って、剣が音速を超えたとか、そんな物理現象がここで起こり得る筈がない。
ならば、何故そんなことが起きたのか。それは瑣末事だろう。
今重要なのは、奴に勝利したという結果だ。
「ああぁぁあぁああ────ッッ!!」
俺の喉から雄叫びが上がる。
「ヒッ………ヒイィィイイッッ!!」
奴の喉から悲鳴が上がる。
俺が断ち切ったものは、奴が剣を掴む腕、そのものだった。
瞬間移動の慣性で、俺はそのまま前のめり、ティアを抱き締めながら、地面をゴロゴロと転がった。
褐色の粉塵を撒きながら、どうにか輪転に歯止めがかかった。
ティアを抱擁しながら、彼女の耳元で囁いた。
「怖かったか、翔子?」
その質問に返事は、ヒマワリのような笑顔だった。
「……ううん。信じてたから。雄二が助けてくれるって。だから、全然」
「そうか」
素っ気ない返事をしたものの、その言葉を聞いた途端、頬が緩むのを禁じ得なかった。
それを誤魔化す為に、ティアの頭を掴んでワシャワシャと強引に撫でた。
それでも、ティアはいかにも嬉しそうに目を細めた。
その目から、一粒だけ真珠のような水滴が溢れた。
「………泣いてんのか?」
「……大丈夫。嬉し泣きだから」
そう言うティアの表情には、確かに笑みが宿っていた。
「泣くか笑うかどっちかにしやがれ」
我ながら、なんとも見当違いな指摘だった。
それがどんな心理から零れ落ちたものなのか、自分にも詳細は不明瞭だった。
ただ、ティアは優しく微笑んで、
「………ダメ。捨てられない。だって、涙も笑顔も、どちらも女の武器だもん。雄二のために、取っておかなきゃ」
「……………っ! は、恥ずかしいこと言うな! それに俺は、笑顔だけで……」
その後は、どうにも言葉に出来なかった。
もう顔がカンカンだ。火が出そうな程上気して、呂律も碌に回らない。
「…………雄二。顔赤い」
微笑みながら、翔子は俺の頬を突っついた。そんな自分の失態をはぐらかすために、翔子を一層強く抱きしめた。
その時だった。
「うっ………ぅああぁ! 殺す! 殺してやる! お前ら全員!」
幽鬼のような歩調で、隻腕の殺人鬼が近づいてくる。
三白眼は落ちそうな程に見開かれ、歯はガチガチとリズムを刻んでいる。
しょうがねぇ。もうちょっと痛めつけてやるか。
右手の大剣に力が籠る。
「いただけないな。クラディール。そういうことすると、馬に蹴られて殺されるよ?」
突如現れたライトは、そう言いながらクラディールの脇腹を一蹴した。
「お前が蹴ってんじゃねぇか」
「む。流石はユウ。鋭いディスカッションだね」
「意味が分かってねぇのに英単語を使おうとするな。バカが露見す……いや、もう手遅れか」
「失礼なっ! これでもSAOに入ってから、ちょっとは進歩したんだぞ!」
「へえ。じゃあ、城は英語で?」
「クラッド」
「予想通りの返答ありがとう」
「ああ! 違う! 今のは、反射的に答えちゃっただけで………」
ライトの弁明を無視して後ろへ振り返る。
そこには、馬だったか鹿だったかの一撃を受けた裏切り者の騎士が倒れ伏していた。
奴は俺の視線に気がつくと、目を泳がせ、錯乱しながら口早に言った。
「ま、待ってくれ! もう体力が赤なんだ! 頼む!」
悪辣な騎士は人を不快にさせる懇願をした。
もう、いや俺には初めから、この男に微塵も興味などなかった。
だからこそ味気なく、
「キリトの横に穴が空いてるだろ。死にたくないならあそこに入れ」
指を指しながら、それだけを口にした。
「…………」
クラディールは、反抗しているのか、承服しているのか、分かりかねる目を俺に向ける。
そうして無言のまま、ワープホールへ向けて歩いて行った。
「良かったの? アイツをみすみす見逃しちゃって」
「良いんだよ。禍根は静かに断つもんだ」
「…………そっか。ユウらしいね」
さて。
最後の仕事だ。
洞窟の湿潤な空気を、乾ききった胸一杯に吸い込んで、
「命が惜しけりゃ、今すぐ回廊結晶の中に入れ! まだ戦いたい奴は思う存分かかってきやがれ! 全員纏めて、瀕死にして牢獄にぶち込んでやる!」
そうして、アインクラッド史上最大の『戦争は』終結した。
これにて、ラフコフ編終了です。
この話、連載初期からずっと描きたかったんですよねー。
その割に多少とっちらかっているのは、色々と後乗せサクサクし過ぎちゃぅたと言いますか。
ザザ対ヒースクリフを書き出そうとした時は、さすがに自分を押し留めました。
ですが、やりたかったのはティアとユウのラヴロマンスです!
それについてはやり切りました!
もはや悔いはありません!