テストは一週間前に終わったんですが、どうも、風邪引いてゲロ吐いて寝込んじゃったんですよね。
バカは風邪引かない、とはなんだったのか。
鈍色の人型。
碧に染る世界。
稀薄された意識。
感じるのは、水の中にでも居るような浮遊感。
何も触れない。
熱くないし暑くない。
寒くないし冷たくもない。
まるで、身体と魂が遊離していると錯覚するほど『何もない』。
何もかもが静止している。
人も。モノも。空間も。
────時すらも。
いや、違う。
これは『加速』だ。
────眼前のカウントダウンが十から九に切り替わる。
外部の停滞ではなく、自己の加速。
つまり、あまりに疾い僕の意識が、周囲の有象無象を止まっていると誤認しているのだ。
これが、現状の正体。
──────あれ?
何故、僕にそんなコトが解るのだろう?
予測か?
────いや、違う。
ならば勘か?
────それも違う。
これは、元から知っていただけ。
ただ、僕の脳髄が加速という現象の本質を理解しているに過ぎない。
然るに、何故そのような識知が?
そんなの、経験があるからに決まっている。
細胞の一つ一つに至るまでが、時間の深化を許容している。
どこで体験したのかは分からない。
以前の加速で、どんな行動をしたのかも憶えていない。
けれども、過去に加速をしたことだけは識っている。
────今度は末広がりの八になった。
過去に加速したこと?
自分の思念に、不可解な疑念を抱く。
本当に『過去』なのか?
僕が経験した加速とは、昔の話なのだろうか?
────何を言っている。知識として知っているのなら、過去の出来事に決まっている。
いや、それは当たり前だ。
当たり前……なんだけど、そうじゃないんだ。
つまり、僕が言いたいのは、僕は現在進行形で加速しているのではないか、という事だ。
────それも当たり前だろう。現に、僕は今、加速しているではないか。
そうじゃない。この現状を指して、僕は加速していると言ってる訳じゃないんだ。
そうじゃない。そうじゃなくて。
──僕じゃない
────更に数字が摩り替わる。
自分が何を言っているのか分からない。
僕はあくまで僕だし、僕以外の僕なんて存在する筈がない。
けれども何故だろう。
今、この瞬間、僕の預かり知らぬ処に
そんな確信が僕の意識を捉えて離さないのだ。
────またもや数字が一つ減る。
バカな事を云っているというのは自覚している。
けれど、どうしても、僕は何かと繋がっている。そうとしか思えないほどに……
────垣間見た景色は鮮明だった。
緑豊かな高原に、僕と女の子が肩を並べて牧歌的に笑い合う。
畑仕事を抜け出しては、二人で悪さばかり。僕らはその度に父さんとおじさんから大目玉を食らっている。
そんな風に育まれた、温かな日々の記憶。
そうして、穏やかに月日は流れ、僕は父さんの後を継いで農家に。
彼女は最高司祭様に神聖術の腕を見込まれて、セントラル・カセドラルへと……。
────ついに数字は残すところ半分となった。
…………?
最高司祭様?
神聖術?
セントラル・カセドラル?
何だ、それ。
未聞である筈の単語が、何故こうもスラスラと脳裏を流れるのか。
いや、そんな事はどうでもいい。
それよりも、『彼女』って誰だ?
彼女は彼女だ。
いつでも、僕の隣に居た彼女。
同じ村で育ち、瞳を、手を、心を、身体を重ねた彼女を。
────どうしても思い出せない。
彼女と歩んだ道程も、彼女と培った思い出も、手に取るように想起できるのに────!!
なのに、肝心の実像が、ボヤけたレンズのように不鮮明な映像となって沈んでいく。
幾度となく梳いた彼女の髪も。
数え切れぬほど僕を呼んだ彼女の声も。
際限無く目に焼き付けた彼女の顔も。
握った彼女の手の温かみも。
何もかも、記憶を抱くことさえ許されない。
……いや、何もかも、と云うのは正確ではない。
実際はたった一つだけ、ほんとに些細な感情の機微だけが記憶の奥底に淀んでいる。
けれどそれがどんな意味を持つのかも分からないし、そもそも意味なんて無いのかもしれない。
ただ、最高司祭様とやらに手を引かれて村を去る時、彼女は微かに、けれど明らかに…………悲しげな顔を浮かべたのだ。
────ああ、今度の数字は不吉である。
それ以降の記憶はクラックに塗れ、鮮明に想起することは叶わなかった。
しかし、これだけは言える。
────僕は、彼女を愛していた。
彼女の微笑みが好きだった。
彼女の心に恋していた。
彼女と過ごす時間が愛おしかった。
そんな大切な記憶達は、流水のように僕の掌から零れていく。
結局、今の僕には何も遺されていない。
彼女は何者なのか。
あの村はどこにあるのか。
何もかも分からないけれど、でも、彼女を助けなきゃいけないと思った。
しがらみも戦いも何もかもをすっ飛ばして、今すぐ彼女の下へと駆け付ける。それこそが、僕の果たすべき使命なのだと。
けれど、どうしていいのか分からない。
どうすれば彼女と逢えるのか。
どうしたらあの世界へ行けるのか。
僕には何も分からないのだ。
彼女の
諦観を浮かべた儚げな笑顔を、否定するように、そっと────
────ん。
なんだ?
僕は何を見ていたんだ?
夢、だろうか。
脳裏に去来した数多の映像は、他人の日記を覗いたような後ろめたさを齎した。
頭をブンブンと振り、頬を叩いて正気に戻る。
不可思議な夢は忘れろ。まずは状況分析だ。
危機管理能力無くしては、とてもSAOで生き残ることなど出来はしない。
まず、この青い景色はなんだろう。
あらゆる物が、人が、単調な青色に染まっている。
まるで絵を上から、薄めた水色で塗りつぶしたような不自然さ。
何故、周囲がこんなことになっているのか、全くもって理解不能だ。
とりあえず現状を整理しよう。
そう思い、辺りを見回す。
すると視界に入ったのは────
「うぇ!?僕?」
僕の身体だった。
それは動く気配を見せず、ひたすら岩窟の床に倒れ伏している。
寝転がる僕は黒い霧のような物に覆われ、表情までは判然としない。
何故、僕は謎のモヤに包まれているのか、そもそもどうして洞窟に寝そべっているのか。
いやそれ以前に、僕の目の前で僕の身体が倒れていることに突っ込むべきだろう。
当然、この意識を持った僕には身体がある。
当たり前だ。無いと困る。
そして、目の前に僕の二つ目の身体がある。
コイツはぴくりとも動かず、生物としての機能を果たしていない。
更に──これはただの夢かもしれないが──何処かの世界に僕の第三の身体があるらしい。
いや……一体全体、幾つあるんだ、僕の身体……。軽く頭がパンクしそうなので、どうにか一つに纏まってくれはしないだろうか。
というか、どういう状態なんだ、コレ?
悉皆検討もつかず、どうにも仕様が無いので、更にくるくると目を走らせる。
いずこかにヒントは落ちていないものか。
「ラフィン・コフィン?」
目の前にでっかいヒントが落ちていた。
間違い無い。
あれは、PoH、ザザ、ジョニーブラックの三人。ラフィン・コフィンの主要メンバー達。
そんな彼らが揃いも揃って、僕の身体に視線を落とし、やにさがっている。
……………………あれ?
これってもしかして、相当逼迫しているんじゃないだろうか。
倒れ伏す僕の身体。
それを囲む殺人者達。
────うん。
これはとてもマズイ。
どのくらいマズイかって、姫路さんの料理くらいマズイ。
いやいやいやいや。冗談抜きに命の危機だ!
というか、もう死んでるんじゃないのか、僕。
いや、こうして意識があるのだから、僕の脳みそはまだ死んじゃいない筈。
ということは────まさか!
この時間はアバターの死亡から生身の死亡までの猶予、ということなのか!?
だとしたらこのゲームは、やはりトコトン残酷だ。
どうせなら、さっさと殺してくれればいいのに、わざわざ絶望の時間を引き延ばすだなんて。悪趣味という言葉しか見つからない。
まあ、死んでしまったのなら仕方無いし、もう諦めはついてしまった。
いや、諦めがついたと云うより、実感が湧かないと云った方が正しい。
きっと、先ほどまで異国の情景に浸っていたせいだろう。
おかげで、現実感がすっぽりと抜けてしまっているのだ。
いやむしろ、この世界だからこそ死の気配が感じられないのかもしれない。
これがゲームだからこそ、老いや病と云った生の息吹、もとい死の香りが漂わないのだ。
そう考えると、無機質な環境と云うのは、死に征く者にとって安寧と成り得るのかもしれない。
そんな、僕にはあるまじき小難しい話を思考しかけたところで、僕の眼はあるものを捉えた。
「これなんだ?数字?────あ、2が1になった」
目の前に浮かんでいたのは、直径二十センチほどの円盤型のホログラムで、そこには数字が記載されている。
いやしかし、こんなにも我が物顔で、コレは僕の視界を陣取っているのに、今の今まで、コレの存在を意識しなかった事に笑ってしまう。
僕というのは、これほどにも注意力の無い人間だったろうか。
いや、普段はもうちょっと……
うーん……生来そんな感じだった気がしてきた。
まあ、それは兎も角、これは何だろう?
きっと、この状況に関連した何かなのだろうが。
「この状況っていうのは、死の間際って事だよね」
こんなにも平和ボケした死の間際が、未だかつて存在しただろうか。
そんなセルフツッコミをしながら、現状分析を再開する。
「さっき二から一になったことから鑑みるに、何かのカウントダウンかな?
となると……死亡までのタイムリミットってとこか」
ああ、その可能性は大だろう。
死へのカウントダウンだなんて、これほど今の状況に適した設備は無いだろう。
そして、そのカウントダウンが示しているのは一という数字だ。
「じゃあ、僕は後一秒で死ぬってこと?」
それこそ可笑しな話だ。一秒なんてとっくに経ってるじゃないか。
なら、単位が一秒ではないのか?
考えられる線としては……百秒が一に換算されている、とか。
うん。それっぽい。
となると、僕の寿命はあと五十秒ってとこか。
なんだろう。あまりにも余生が短過ぎて、何もやることが浮かばない。
でもそれにしたって、約一分を呆けて過すのも味気ない。
とりあえず、生きている間にやりたかった事を列挙してみるかな。
まずは、童貞は卒業しときたかったなぁ……。
いきなり下世話だけど、男としてはこれに尽きる。
どのくらい気持ち良いんだろう。
自分でするのとはどう違うのかな。
ああ、ダメだ。この妄想は悲しくなる……。
他にしてみたかった事といえば、高級料理をこれでもかってくらい食べてみたかった。
中華にフレンチ、イタリアン。
どれか選べと言われたら迷うけど、やっぱりフレンチかな。日本人的に。
あとは、一度でいいからテストで学年トップを取ってみたかったな。
学年中の皆を上から見下ろす感覚って、どんなのだろうか。
もしかすると、これが一番現実的じゃないかもしれない……。
「ああ、生きたいな」
知らず、口から声が零れていた。
そうしてやっと気がついた。
僕は、生に執着しているのだ。
そんなの、人として当たり前じゃないか。
生きたいなんて、誰だって、何時でも抱く願いだろう?
生存を観念してしまっては、それはもう生物じゃない。ただの有機物の塊だ。
なのに、僕はさっき何て言った?
もう諦めはついてしまった?
冗談。
達観なんて糞喰らえ。
諦観なんざ溺死しろ。
────1という数字のドットが崩れる。
そして、円を縁取った『無』を象徴する文字が、少しづつ、けれども急速に構成されて征く。
認めない。認めたくない。
こんな
「僕はまだ、生きたいんだよ────!」
雄叫びを上げたその瞬間。
何の因果か、如何なる偶然か。
僕の身体、その一ドットに至るまでが極光の去来に覆われた。
「アイテム『レムの心』使用!
対象、プレイヤーネーム『Right』!」
どこか遠くで、そんな声が響いた気がした。
──────そうして、景色は色づいた。
背中には安心感のある土の感触。
そうか。そういえば、僕の『本体』は倒れこんでたんだっけ。
右腕を支えにして起き上がる。
霞んだ眼に埃っぽい洞窟を映しながら、生の実感を噛み締めた。
ああ────僕は、生きている、
その事実が、途轍もなく嬉しかった。
世界はこんなにも色鮮やかで、僕を歓待するように温かだ。
今一度この目に焼き付けよう。
この素晴らしき世界を。
僕は力の限り目を見開いた。
そうして見えた物は────
────眼球から一尺の間断も無く、鈍色の刃が振り下ろされる現状だった。
刀の銘は『メイト・チョッパー』。
剣士は勿論、PoHだ。
もうどうにもならなかった。
この距離で防ぐ事など、どうして出来ようか。
高速で右腕を繰り出そうが、音速で打突を放とうが、最早遅過ぎる。
音よりも速い光速で、狂気の刃は予断無く僕を穿つだろう。
ああ、何故こんなにも早く、また死ななくちゃならないんだろう。
どうして生き返ったのかも、どうやって生きているのかも、まだ見当さえつかないのに。
短刀が迫る。
身を切るような圧迫感。
殺意のベクトルは、凶刃というカタチとなって襲い来る。
既に鋒は目と鼻の先。
僕を助けてくれた誰かに、心の中でゴメンとだけ謝って、僕はそっと目を閉じた。
────────瞬間。
力と力、想いと想いの相克が、僕の耳朶を鐘楼が如く打ち鳴らした。
直ぐには音の正体を理解出来なかった。
それはきっと、生を諦めた僕には無限に遠い、命の息吹だったから。
その音は、剣戟だった。
振り下ろされるは死色のダガー。
迎え撃つは紫色のメイス────。
「良かった……。間に合って、本当に良かった」
その声音は明らかに震えていた。
眼前で揺れる黒髪は、雫に濡れた瞳のよう。
僕を助けたメイサーは、恐怖を堪える子供のように、掠れた声を繰り出した。
予想打にしなかった迎撃を受けたPoHは、俊敏な動作で飛び退る。
その形相には、心無しか焦燥の色が見て取れた。
それを確認してから、黒髪のメイサーは振り返る。
「ライトさん。貴方を、助けに来ました」
そう言い切ったアレックスの顔には、あまりに堅固な決意が在った。
今回のお話の個人的な印象としては、短いスパンで見ればあんまり進んでないけど、大きなスパンで見れば、物語全体が大幅に進んだ回って感じです。
それではまた次回!