最後に願い、掴んだモノ   作:六花

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一章
捲られる台本を


 両親が死んでから入る事の出来なかった二人の寝室。中途半端に閉められたカーテンから漏れた光が室内を照らす。暖かく悲しいものがはやての胸中に去来する。僅かに零れ落ちた涙がラプスの毛並みに落ちる。抱っこされていたラプスは器用に腕の中から抜け出して、はやての肩へと登ると濡れた頬を拭う様に、自身の額を摺り寄せる。

 小さくも優しい気使いに感謝しながら、はやては主の居なくなった部屋のカーテンを開け放った。

 

 八神家の二階。足の不自由なはやては、漸く屋内での許可が出た飛行魔法を使うと真っ先にこの部屋を目指した。ふよふよと飛び――どちらかと言えば飛ぶよりも浮くと言った具合だが――ながら、褪せかけている記憶を頼りに部屋を見つけて戸を開けた。

 ヘルパーがいた頃は定期的に掃除して貰っていたが、ラプスと暮らすようになってからヘルパーは断っていたので、約一年ぶりに戸は開かれたのだ。

 そう、ラプスがはやてと暮らすようになってから約一年。段々と暖かくなり始めているが、まだ寒い3月の終わりだ。

 

 はやてはもっと早く二階に来たがっていた。だが、飛行魔法が安定しない事が理由で中々来る事が出来なかったのだ。ラプスが浮遊魔法を掛けて押す案もあったが、それははやて本人が否定した。自力で行きたい、そう言ったのだ。だからラプスもレイも一日でも早く、飛行魔法が安定する様に協力を惜しまなかった。

 そして今日。念願かなってはやては自力で二階へとやってきたのだ。

 

 カーテンに付いていた埃が舞う。窓を開けて新鮮な空気が寝室に入りこむ。冷たい空気がはやての胸を冷やす。振り返って久しぶりに新しい空気を取り込んだ部屋を見渡した。

 ベッドが二つ。棚に幾つかの写真立て。何もかもあの頃のまま。至ってシンプルな部屋だった。

 潤んだ目を乱暴に拭い、持ってきた掃除用具を廊下から取りだす。掃除機に伸ばした手を茶色い尻尾が叩く。ラプスを見ればハタキが浮いてパタパタと振られている。手伝うかどうか聞いているらしい。

 はやては微笑んでラプスを一撫ですると、お願いなと言った。それに一鳴きする事で返事をし、ハタキを咥えてカーテンレールの上に飛び乗った。首を振りハタキを掛ける。魔法を使わないのはラプスなりの礼儀か、こだわりか。愛しい猫を暫く見つめてはやては棚を拭く事にした。

 

 

 

 写真立ての中身を見て手が止まった。幸せそうに、嬉しそうに笑う男女。悲しい事が多すぎて、早すぎる時間の中で何もかも流れて行ってしまって、もう薄らとしか思い出せなかったお父さんとお母さん。二人の本当に嬉しそうに生まれたばかりであろう赤ん坊を抱っこして涙目で喜んでいる姿が、そこにしっかりと写されていた。

 

 嬉しかったんや。私が生まれて、本当に嬉しかったんや。

 

 隣の写真立てには少しだけ大きくなった自分。つかまり立ちをしているはやてと、それを見て無邪気にはしゃぐ父親の横顔。

 はやてが五歳くらいの写真。車椅子に座るはやてと、両隣にしゃがみ微笑む両親。歩けなくなったはやてを見て二人はどれ程悲しんだだろう。そしてそれ以上の愛情を注いでくれていたのだろう。

 愛情をくれた人達はもう居ない。それがこんなにも悲しい。止めど無く涙が溢れてきた。早く泣きやまねばラプスにまた心配をかけるのに。なのに一向に止まる気配を見せない涙。

 悲しい。会いたい。抱きしめて欲しい。話をしたい。溢れる思いに呼応するように、涙が止まらない。

 遂には声をあげて泣き出したはやては、後ろから優しく抱きしめられた。身を反転させられて、腕の持ち主の胸元に顔をうずめて泣きじゃくる。嗚咽が隙間から洩れ、嘆きの言葉が紡がれる。はやてを抱きしめた存在は、優しくはやての頭を撫でながらその言葉に小さく相槌を打ち続けた。

 

 

 

 真っ赤に腫らした目ではやては見る。視線は何処か険しい。そんな目で見られてラプスは耳と尻尾を項垂れさせた。

 

「人間モードなれるんやん」

「……はい」

 

 ベッドに腰掛けたはやてと対峙するのは、床に正座をしている十五、六歳ほどの少女。力無く倒された耳と尾、髪は亜麻色。服はシンプルに黒ズボンと白ブラウス。上目遣いではやてを見ている瞳の色は青みの強い紫と、特徴的な純色の青。人間の姿を取ったラプスである。

 はやてはラプスの人間モードを見るのが初めてではない。かつて夢の中で飛行の練習をしていた頃――その頃にはもう、はやての協力もあってラプスの調子はほぼ全快だった。加えて言えば夢での制限は非常に低い――に、一度だけ見た事があった。その時のはやての驚き様はそれはもう素晴らしいもので、筆舌にし難いほどのものだった。

 勿論、夢で無くともその姿になれないのかとはやては聞いた。その姿で一緒に暮らせたらきっともっと楽しいだろうと思ったからだ。だがその質問の返答はNO。曰く、いくら調子が良くなったとはいえそんな簡単な魔法じゃない、と言う事らしい。一応はやては残念がりながらもそれを受け入れた。時折、人間モードになれないか聞く事はあっても、我が儘は言わなかった。

 それなのにこれは一体どうした事か。はやてが嗚咽を漏らす程泣きだしたら人間モードで抱きしめたのだ。難しい魔法ではなかったのか。安易に使えないと言って、はやての提案を一蹴したのはラプス本人だったのに。

 さらにむすっとした表情を浮かべるはやてに、ラプスは居心地悪そうに身じろぐ。

 別にはやては怒っているのではない。勿論誤魔化されていた事に不満はあるが、ラプスのする事だ、きっと理由があるのだろうと思う。怒っているのではなく、少しだけ拗ねているだけなのだ。

 だからラプスの足元に急に魔法陣が現れて何時も()の姿に戻った時、はやては驚いたし心配もした。

 

「ごめんね。あんまり長く持たない上、凄くだるくなるから、ならなかっただけなんだ」

 

 そう言ったラプスは何処か辛そうで、はやては自身の膝の上にラプスを呼び抱っこする。

 

「大丈夫なん?」

「へいき。だるいだけだから、お掃除手伝わせてね」

 

 色の違う瞳を見つめて確認する。瞳に疲労の色は見えずはやてはちょっとだけ安心できた。

 無理だけはせんといてね。そう言って抱きしめた。

 

 

 掛けられる掃除機の音を聞きながら、気だるい体をクローゼットの棒に預けたラプスは思案していた。

 思わず抱きしめてしまった。あまりにも悲しそうに、苦しそうに泣くのだから、抱きしめてしまった。自分があんな風に泣いたのは何時だっただろう。あぁ、多分父の腕が動かないと知ったあの日だ。一人部屋に籠り泣きに泣いたのが恐らく最初で最後だ。そして多分あの日から自身の歪みは生まれたのだ。

 きっとはやては知ってしまったのだろう。“ラプスが今際の際に悟ってしまった事(“愛されていたという事”)”を。写真を見て気が付いてしまったのだろう。聡い子だから。押し潰されはしないだろうか。……きっと大丈夫。はやてにはこれから愛して、愛される大切な家族が出来るから。

 でもそこにラプスが入っていない事は、他の誰よりもラプス自身が分かっていた。

 

 小さな箱を見つけた。クローゼットの埃を尻尾で拭っている時の事だった。はやては掃除機を掛けていて気付いていない。浮いて掃除機を掛ける様は、掃除機を掛けているというより、掃除機に憑いている幽霊の様だ。

 箱を開けて中を確認すれば空だった。小箱の用途を考えれば、空という事は無いだろう。良く観察すれば幾つか足りないモノが他にもちらほらと。心無い人間も居るのだ。探し物をしている半身にこれ以上頼むのは気が引ける。この一年の間に構築した猫社会のネットワークが活用できそうだった。それに加えて、例の姉妹に映像の提供を求めよう。釘も刺せば一石二鳥である。

 そう決めたラプスは小箱をはやての目に触れぬ場所へそっと隠した。

 

 

 

 

 

 

 久しぶりに大泣きしたからか、その晩はやてはラプスがそっとベッドを抜け出した事に気が付く事無く、ぐっすりと眠っていた。

 小窓から出て庭に下りると、そこには一匹の猫がいた。サバ虎柄の顔に傷のある典型的なボス猫だ。

 ボス猫、銀条(ぎんじょう)――名前は近くの老人会に所属する、ある老人が若い頃に付けた名だ――はラプスが目の前に来ると小さく頭を下げた。そしてニタリと笑う。

 

(あね)さんから呼びだしたぁ、また珍しい」

「……いい加減その姐さんって呼び方止めない?」

「無理ですな」

 

 この銀条、実はただの猫では無い。実は今の老人達が子供の頃から生きている化生なのだ。一見普通の猫だが、気配やそういったものに敏感な人ならば、良く目を凝らす事でもう一本の尾を見る事が出来るだろう。そしてその尾を見る事が出来れば、彼の毛並みの縞に沿う形で銀色の粒子が散っている事に気が付ける。それこそ彼の名の由来だ。無名のままだった彼はその名を気に入り、銀条と名乗る様になったのだ。

 そもそも海鳴市は銀条を始めとした、普通ではないもの達が過ごしやすい土地であると、化生達の間では有名である。土地柄なのかは不明だが、化生を比較的容易に受け入れる人間が多い為だ。銀条に名を付けた人間にしてもそうだろう。そして、化生の存在を許さないと躍起になる人間達もいるが、そんな人間は海鳴ではあまり歓迎されない。その事も彼らの住みやすさの一因となっている。

 小さな化生達が集まれば、其々の持つ力が集まって大きなものとなる。そしてその大きな力に更に大きな力が集まる。故に、ここには特に強いもの達が集まる。特に有名なのが久遠と言う名の狐なのだが、彼女の場合は少々事情が異なる。銀条は海鳴市に住む猫と、猫に近い化生達に顔の利く、大御所である。

 集まる力は何も化生達だけではない。人並み外れた力を持つ人間も無意識で集まる。そして次元を越えて魔法と言う力でさえも、この海鳴市に集まるのだ。

 閑話休題。

 

 ふてぶてしく言い切った銀条にラプスは溜息を吐く。ずっと訂正をお願いしているのに。改めさせるのはもう無理そうだった。

 

「記憶は良い方?」

「あっしですかい? まぁ、悪くはありやせんが」

「私が来る前。はやての両親が死んでから、八神家に出入りした人間を思い出せる?」

 

 ふむ。とだけ呟いて考え込んだ銀条の返答を待つ。返事をする事無く背を向けた銀条の後を着いて行く。歩む道筋には何度か歩いた事があり、向かっている場所に心当たりがあった。二、三角を曲がり、他人の家の庭を横切る。壁に開いた小さな隙間を抜ければ、開けた場所に出た。

 銀条とラプスがその場に入れば、銀条を一回り小さくした様な猫が外へ向けて駆けだして行った。それに続く様に何匹かの猫が四方へと駆けだした。

 集会の声がけだ。

 

「悪いね」

「問題ありやせん。姐さんの頼みなら何時だって。それで、八神の譲ちゃんとこでしたか」

「うん」

「ちょっと怪しい部分もありやすが、だいたいは覚えていますぜ」

 

 良かった。そう呟いてラプスは、近くにあったブロックに乗り体を横たえ目を閉じて休んだ。

 

「姐さん!?」

 

 慌てたのは銀条だ。

 ラプスと出会ってかれこれ一年以上。彼女がこんな風に休む姿を彼は見た事がない。何時も上品に座っているのに。良く見て見れば、何時もは張りのあるひげも何だか萎れている様に見えた。尾も耳も元気がなさそうで。

 心配そうに伏せったラプスの近くを落ち着きなく動き回る。

 

「大丈夫。ちょっと昼に無茶した結果だから。それで頼みたいって言うのはね……」

 

 内容を告げれば足を止め、目を丸くする銀条。そして僅かばかりの憤慨をはらんだ口調で言い放つ。

 

「酷い人間も居るもんだ」

「……お願い、大丈夫そう?」

「もちろんでさぁ。あっしらにお任せ下せえ。ネズミ一匹見逃しやせん!」

 

 そう言って踏ん反り返った銀条に、ラプスは小さな笑みを零す。関係無い銀条に頼むのは少し気が引けていたが、彼の喜びようを見るに、良い判断だったらしい。

 

 ラプスと銀条の出会いは一年ほど前になる。詳しくは語らないが、ラプスがはやてに拾われるひと月以上前にはもう知り合いだった。その時は未だこんな関係では無かったが。

 銀条がラプスを慕う様になったのは、リーゼ姉妹との喧嘩にラプスが勝利したからだ。

 銀条達の持つ化生の力は魔法と相性が悪いらしく、リーゼ姉妹に中々どうして勝てないでいた。挨拶も無く、八神家のある中丘町をうろうろする余所者は銀条達が“侵入者()”であると認識するのに十分だった。普通の猫の喧嘩なら一度争った相手に手は出さない事が多いが、銀条達は余所者を排除する為に、リーゼ姉妹は目的の障害を排除する為に。双方は何度もぶつかっていた。魔法や化生の力ではリーゼ達に分があり、純粋な力比べでは銀条達に分があり。決着は中々着く事は無く膠着状態だったそこに、唐突に横槍を入れたのがラプスである。

 始め、銀条は怒った。戦いを邪魔されたと感じて銀条はラプスに大層怒った。だが、ラプスにはラプスの事情があるのだと知ると、怒りは少しばかり収まった。さらにラプスの目的が縄張りではない事も怒りを治めた。

 結局、リーゼ姉妹を退散させたのはラプスだった。銀条は、自分達だけでは勝てないと気が付いていた。いつかは負ける。中丘を離れる事も考えて、傷つけられた仲間を思うとそれを中々選択できずに迷っていた頃の事だ。ラプスは魔法戦も純粋な猫としての戦闘も勝ってしまった。その上、威張る事も無く、巻き込まれたり今までの戦いで傷付いたりした猫や化生を癒してくれた。化生に治癒魔法とやらは利きにくかったが、それでも何とか治そうと頑張ってくれた。

 結果。銀条はラプスに惚れ込んだ。愛だとかそういう惚れたでは無く、そのあり方と心根に惚れこんだ。いまではラプスの舎弟の様な事も喜んでする。他の猫達はそんな銀条に失望せず、むしろ「銀条兄貴が慕う(ヒト)だ、すげぇ」といった感情を抱いた。

 

 

 

 

 

 続々と集会の為に集まる中丘に住む猫や化生を横眼で確認しながら、未だ重い体を起こす。行動に支障は出ないだろうが、何となく気分が滅入る。

 

「銀条。あとをお願いね」

「へい。出来る限り早く見つけて見せやす。……って、姐さん、どちらに?」

「例の、姉妹の所」

 

 集まった古株の猫と話していた銀条が声を掛けられて振り向けば、広場から去ろうとしているラプスの後姿。例の姉妹と聞いて僅かに首を傾げた。

 

「多分、記録を持っている筈だから、全部、吐き出させる」

「ああ成程、確かに連中なら……って、姐さん! ちょっとだけ待って下せぇ」

 

 ラプスの言葉に納得して、しかし銀条はラプスを止めた。振り返って銀条を見れば彼は配下を従えるものの顔をしていた。支配者的ではなく、どちらかと言えば家長的な――つまり、家族や仲間を守ろうとする意味での――上に立つ存在としての表情である。彼は彼を慕うものを思う時良くこの表情をする。

 

「誰かに、何かあった?」

「……お産が酷い子が居やして。これで二度目なんですが、前回はそりゃ酷いのなんのって……死ぬんじゃねえかと思いやした。結局死産になりやして」

 

 心配そうに、本当に心配そうに語る銀条。こういう所が、銀条が好かれる理由だ等と思いながらラプスは続きを促す。

 

「ノラなんで医者に診てもらえるか分からず、かと言ってあっしらが人化術使って飼い猫の振りをするにしても、人間はいろいろ面倒で……姐さんならその辺上手くやってくれるかと思いやして。お願いしやす! 今度こそ母親にしてやりたいんでさぁ!」

 

 分かりやすく言えば、ラプスが人間の姿で医者に連れて行け、そういう事なのだろう。化生である銀条達には、当たり前だが戸籍や住所と言ったものは無い。いくら人間に化けようと住所不定の不審者にしかなりえない。誤魔化す事が出来無くも無いが、過去、幾度かそれで痛い目を見ている。一応、化生の医者はいるが、あくまで“化生を見る化生の医者”でしかなく、普通の猫を見るのは人間に任せた方が良いのだ。

 ラプスにも勿論戸籍は無い。だが、ラプスには銀条達がするよりは比較的安全な誤魔化し方がある。加えて、別にそれを使わなくても他にやり様はいくらでもあった。

 

「分かった、何とかしてみるよ。もう連れて行った方が良い?」

「へい。頼みます」

 

 

 

 

 

 

 

 姉妹は海鳴に拠点を持っていたがラプスに負けて以降、銀条達の妨害等にあった為、近くの遠見市に拠点を移した。あの会話の後件の猫は直ぐに広場に到着したが、近いとは言っても市から市への往復は、身重の()を連れて歩く様な距離では無い。遠見に連れて行く理由も無い為彼女には広場で待っていてもらう事にして、ラプスは今遠見の街中を駆けていた。

 海鳴寄りの住宅地、あるマンションの壁を登る。上手い事、出っ張りやベランダに飛び乗りながらそれ程高くないマンションの一番上を目指す。深夜であるが目撃者が居るかも知れないので、認識阻害用の小さなフィールド を纏う事を忘れない。

 

 十分以上かけてゆっくりと登り、目的の部屋のベランダに乗る。硝子戸をカリカリと爪で金きり音が出ない様に引っ掻いてやれば、中の住人がラプスを見た。

 とてつもなく嫌そうな顔をされた。取り繕うつもりも無いのが見て取れて、少しだけ機嫌が降下する。ただでさえ、だるい体を叱咤して此処まで登ってきたというのに。歓迎されない事くらい始めから分かっていたが、あからさまな態度は少々、いや、結構ラプスの癪に触った。

 中々開かない硝子戸にイライラが募る。もうぶち破ろうか、なんて危険な考えが浮かんだ時、漸く戸が開かれた。

 

「何の用?」

 

 引き攣った声が上から降る。リーゼアリアは不機嫌そうだ。室内に気配が一つしかない事からどうやらロッテは出かけているらしい。先程まで彼女が見ていた空間モニターはまだ健在だ。

 

「こんな遅くまでお仕事? 御苦労さま」

「……用がないなら帰って頂戴」

 

 ラプスは喉の奥で可笑しそうに笑う。アリアの表情がさらに険しくなるのを見て溜飲が下がった。

 良い性格をしているとアリアは思う。決して部屋の中に足を踏み入れようとしないラプス。巧妙に隠した筈の“それ”に恐らく気付いているから、無理矢理入ってくることも無かったのだろう。敵対者へ向き合う時の性格に難はあるが、優秀だ。

 敵対する行動を取らなければ、きっと八神や化け猫(銀条)達に向ける優しい表情を、自分達にも向けただろう。成程、確かに本人が言った通り、敵に対しては厳しい。

 改めてそんな評価を下していると、ラプスが本題を切り出した。

 

「八神はやての両親が死んでからあの家に出入りした人間の足跡、その情報を」

 

 全て、よこしなさい。

 最後まで紡がれはしなかったが、青い瞳は雄弁だった。否定はさせない。貴方は差し出さなければならない。そうアリアに語る。

 この猫は得体が知れない。魔法戦で負けた時、心底怖かった。だってリーゼ達は人の姿を取っている上、二人がかりだった。それなのにラプスは悠々と二人を退けた。猫の姿で、“攻撃魔法”を使わずに。それは二人の本能を驚怖(きょうふ)させるのに十分なものだった。

 

「理由は?」

「必要?」

 

 当たり前だ。そう言うつもりだったのに、ピリピリとした空気が声を掻き消す。

 本当に、恐ろしい。何度も感じている事だが、やはりこの猫の姿をした何かは恐ろしい。会うたびに恐れはどんどん強くなる。その青に射抜かれれば呼吸さえ上手く出来ない。いくら調べてもこれに関する情報は一つも出てこない上、正体も目的も不明。分かっている事は名前と「拾ってくれた八神はやてに恩を感じ、彼女の為に、彼女を害そうとする者達を排除している」と言う事だけ。

 

「遺品が無い」

「ん?」

「はやての両親の遺品。明らかに足りない物がある。はやては、気付かなかったけど」

 

 恐怖に怯えたアリアをどう思ったのか、ラプスが理由を述べる。はやての事を話す際、氷より冷たい声音と瞳に熱が通ったが、アリアに向き直ればすぐに熱は霧散した。

 

「……関係無い、とは言わせない。はやてを孤独に追いやった使い魔と主人(貴方達とそのマスター)には絶対に言わせない」

 

 苛烈な色を宿す凍てついた青は、アリアの眠らせた筈の良心を叩き起こす。

 何故、必要な犠牲だと割り切った?

 何故、その方が遣り易いからと見捨てた?

 何故、伸ばせば届いた手を伸ばさなかった?

 何故、あんな年端もいかない幼い少女が、一人孤独に耐えなければいけない?

 青によって起こされ荒れ狂う良心が、過去のアリアの行いを責め立てる。無視できない程大きくなっていく胸の痛みは良心の呵責。嫌な汗が背中をつたう。上手く出来ない呼吸の所為も相まって、意識が朦朧とし始める。胸に手を当てたまま、アリアは立ち続ける事が出来ずに膝を付いた。

 

「苦しむくらいなら、やらなきゃいいのに」

 

 呆れた様な、蔑む様なラプスの声。少しだけ交じった自嘲の感情が、彼女も“何か”を抱えているのだと教える。

 簡単に心を覗きこんできて、暴き、的確に心を抉る言葉をよこす。知りながら、知らない振りをしていた事を知らしめる。異常な魔法も怖いが、それが何よりアリアの本能を怖れさせるのだ。

 薄れゆく意識の中、宵闇を背景に暗い光を湛える青い瞳が記憶に焼き付いた。

 

 

 

 意識を取り戻したアリアがまず見たのは、展開中だった空間モニターを何故か苦しそうに見ているラプスの姿だった。気を失っていたのは五分にも満たなかっただろうに、拠点に施していた対侵入者用の魔法が全て綺麗に取り払われていた。魔力残滓も無い。仕掛けたアリアでなければ、魔法があった事さえ気が付かない程の綺麗さだ。

 体を起してそれに気が付いたアリアは溜息を飲み込む。気付かれているとは分かっていたが、時間をかけて構築し丁寧に隠した筈の罠までもがこの短時間でこうも綺麗に無くなっていると、最早笑いしか出てこない

 

「窓の仕掛けが、一番面倒だった」

 

 気を失うより少しだけ温かみある声は、仕掛けの評価を告げる。対象に評価されるのは何とも言えない気持ちになるが、随分前に忘れた向上心とやらが刺激され、結果的にアリア自身の為になっている。

 モニターを見つめたままのラプス。その顔には何の感情も浮かんでいない。先程のは見間違いだったのだろうか?

 

「勝手に見ないで頂戴」

「……見て欲しくなかったのなら、モニターは消しておくべきだった」

 

 貴女の不手際でしょう。そう言い切られアリアは言い返す事が出来なかった。モニターに映っているデータは、管理局内の横領等の不法行為を行った局員名簿だ。別画面に映るにはパスワードの入力が必要になる。ラプスがそのパスワードを知っている訳も無いと、取りあえずアリアは安心した。

 

「はぁ。五日以内に纏めるから、取りに来て」

 

 どうせ拒否権はないのだからと、アリアは諦めた。それにさっさと帰ってもらいたい。

 モニターからアリアへと移された視線。一瞥を寄こしてラプスは開け放たれたままの窓へ向かう。サッシに前足がかかった時、ラプスは急に振り返った。まるで悪戯を思い浮かべた時のロッテの様な――つまり、アリアにとって嫌な予感しかしない――笑みを浮かべて、ラプスは振り返ったのだ。

 

「そうだ。貴方達が拠点にしていた海鳴の一軒家。もう使わないでしょうし、私に頂戴?」

「……使えなくしたんでしょう、あんた達が」

「くれるの? くれないの?」

 

 嫌な予感は見事に的中した。事もあろうにこの(けだもの)は、アリア達が使っていた家を寄こせと言ったのだ。八神はやて(闇の書の主)を監視する為に、買い取ったあの家を。

 ラプスに負かされる前、二人はその家を拠点としてはやてを監視していたのだ。敗北後は前述の通り遠見に拠点を移さざるを得なかったが。たまにしか過ごさなかったとはいえ、愛着はある。そこを住めなくした元凶に明け渡すなど認められない。

 認められない……のだが。

 

「……お父様の名前に傷を負わせるような事があれば、返してもらう」

 

 アリアは小さな小物入れから銀色の鍵を取りだして、ラプスの方へと投げた。鍵は放物線を描いて、見事ラプスの歯の間に収まった。

 

『それと、“お父様”の名前も使う』

「…………もう好きにして」

 

 口が塞がれ使えない為念話でそう伝えれば、諦めの極致に立たされたのか、非常に弱々しい声が返ってきた。

 それを確認して、ラプスは今度こそベランダへと出て、未だ暗い夜の中へと身を躍らせた。

 

 起きてからずっと続いていた酷い頭痛。ラプスが部屋から居なくなった途端、傷みが嘘のように消えた。代わりに別の意味で頭が痛くなってくる。額に手を当てたまま立ち上がり、ラプスの壁下りの痕跡を辿れば、もう地面に着き駆け初めていた。

 溜息を飲み殺し、窓を閉める。一応の臨時用魔法を組み立てて侵入者対策の魔法を部屋に張り巡らす。穴だらけのトラップだが仕方がない。日が昇る前までに、モニターの情報を纏めなければならないのだ。一段落ついたら本気で手直しする事にした。面倒と言われた窓にかけていたものは、徹底的に改良してやろうと思いながら、モニターに手を伸ばして愕然とする。

 見開かれた瞳に映る画面は、彼女が最後に見ていた画面とは全く別の画面だった。

 

 

 

 

 

 

 翌日。リーゼ姉妹の拠点を出たのが十二時過ぎだった為、正確には今日の昼。昨日に引き続き人間モードになったラプスは、大きめの籠を抱えてとある場所にいた。彼女にとってある意味で始まりの場所である、槙原動物病院。その院内、診察室。

 

「二度目なんでしょう?」

「はい。前回は全部死産で……随分苦しんだらしいです」

「……レントゲン結果にもよりますが、切る事も頭に入れておいて下さい」

 

 院長・槙原愛がそう言った途端、診察台上の三毛猫は大きく身を震わせた。抱えた籠を床に置き、ラプスは震えた猫の背をゆっくりと撫でてやった。強張りが抜け、震えも収まると、猫は撫でる手に縋る様にその身を寄せた。

 

 銀条に頼まれた通り、ラプスは件の三毛猫を連れて病院まで来ていた。「近所に住んでいた老人が飼っていたが、老人が息子夫婦の元へと引っ越す事になり譲り受けた猫」と言う事にして、前回のお産が危険だった為に連れてきたと理由を付けた。

 住所はリーゼ達の使っていた拠点のものを使った。良く調べれば穴が開いている話だが、そこを認識させない様外にいる化生が術を使い、ラプスもまた、違和を感じさせない様に話をした。

 

 

 

 三毛猫を病院に連れて行ったその六日後。帝王切開で子猫を取り上げた。中にいたのは四匹。うち一匹が胎内で既に死んでおり、取り上げてから数時間後、一匹がまた死んで。最終的に生き残ったのは二匹だった。

 

 母猫と子猫を大事を取って預かってもらった帰り道。銀条共に塀の上を歩くラプス。流石に最近は人間モードを使いすぎて、体の調子がかなり悪い。そうでなくともアリアから渡された情報に夜通し目を通している。寝不足と体調不良になろうとも、ラプスは行動を改めなかった。

 

「ありがとうございやす」

 

 不意に銀条が言った。

 思わず歩みを止め、銀条を見た。

 

「おかげであいつは母親になれやした」

「……でもまた子供を産むときは切る事になるはず。そうでなくとも避妊を勧められた」

「あいつ自身を思えばその方がいいんでしょうが」

「まぁ、あとはあの子の意思次第。新しい子を産むって言うのなら、協力はするよ」

 

 一度切れば、自然分娩は難しくなる。加えて帝王切開で生まれた子供を、自身の子供と認める事が出来ない母も居る。三毛猫はラプス達の説明もあって我が子として育てる事にしたが、他の母猫に比べて少しばかり母性が低くなってしまった。

 それでも銀条はラプスに感謝したかったのだ。

 

「それと、例のはもう少しだけ時間がかかりやす」

「急がなくていいから。出来るだけ正確な情報をお願いね」

 

 お願いを聞いてもらっている立場のラプスには強く言える事など何もない。

 柔らかく微笑んで再び歩き出そうとした時、“それ”は来た。

 

 背筋をかけ上る悪寒。二本の尾が直立し、全身の毛が逆立った。銀色の瞳は空の果てに固定されて微動だにしない。

 そんな銀条の隣でラプスは、リーゼ達の拠点の壁を登った時に使った阻害フィールドと同じ効果を持った小さな結界――封時結界とは別物――を銀条も巻き込んで張る。張り終えた瞬間にSound Onlyとミッド語で表示された空間モニターが現れ、半身の声を伝えた。

 

『マスター、映像を回します』

「うん」

 

 硬直する銀条は、結界に入りこんでいる事さえも気が付いておらず、ラプス達の会話も聞こえていない様だった。

 レイの言葉が終わってから数秒後、文字は消え、黒い画面にノイズが走る。そのまま十数秒待てば画面は完全に切り替わった。

 

 夜に星の光を反射する海面の様な、だが夜の海にしてはやけに眩しい背景。そこに似合わない人工的な破片の数々。未だ空間内に残る、紫色の雷 。そして何よりも一際異彩を放つ小さな青い光達。

 隣で漸く自我を取り戻した銀条が、「あ、姐さん」とラプスを呼ぶがそれを黙殺し、ラプスはモニター内の光景を睨みつける。

 やがて紫雷が収まった頃、青い光達は移動を始める。ゆっくりとだが確実に“まるで何かに惹き付けられている様”に移動を始める。一瞬だけ紫色の転送用の魔法陣が現れたが直ぐに掻き消え、青い光はその空間から出て行ってしまった。

 恐らくあの魔法陣を作った存在はさぞ忌々しく感じている事だろう。何故なら、21個の青い光が目指すのは青い星だという事を知っているのは、今はラプスとレイだけだから。

 

 半身は二、三声をかけると通信を遮断し、やるべき事の為に行動を再開した。

 空間モニターが消え、やっとラプスは銀条を見た。

 

「姐さん。今のは?」

「……銀条」

 

 質問に答える事無く、ラプスは空を見上げた。正確には惹かれて落ちて来ている遥か彼方の青い光がある方向を。

 

「これから一ヶ月と少し、変なものに近づかない様に。……特に青い菱形の宝石には絶対に近づかず、触れない事」

「…………分かりやした。海鳴全域に通達しやす。姐さん、お気を付けて」

 

 彼は深く事情を聴く事はしなかった。ただ一度、深く頭を垂れて礼を取り、結界の外へと飛び出して行った。

 

 

 

 残されたラプスは一人呟く。

 声音は限りなく平坦に抑え込んで。

 心の波を何とか宥めて。

 

「繰り返させるものか」

 

 それでも尚、震えは隠しきれなかった。

 




『書き換えるペンを持つ』


読んで下さりありがとうございます。
じわじわと増えるお気に入り数に喜ぶ半面、戦々恐々としています。
本当にありがとうございます。

それと、宣言通り今回から無印に入りました。

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