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「ええっと……それじゃあ、もう一回やってみようか」
「うん……」
アリーナの一つで、俺と簪さんはそれぞれの専用機を展開し訓練をしていた。と言っても、模擬戦やら射撃訓練やらではなく、飛行訓練……それも技術を高めるためのものですらない。
本当に、ただ飛ぶだけ。それはISで飛ぶということに心と感覚を慣れさせるような、俺たち一年生ですらとっくに授業で終えている訓練だ。
「……大丈夫か?」
「……多分……ううん、今度こそ……」
「よし、その意気だ」
簪さんの名誉のために言っておくと、簪さんがそんな初歩すらできないというわけではない。むしろ基本は俺よりもよほどしっかり出来ていて、地味ながらも安定した技術を持っている。
が。それは大前提として、扱うのが通常のISなら、だ。
「……本当に空っぽだったんだなあ……」
「…………うん」
以前楯無さんから聞いたし、簪さんも言っていたけど。打鉄弐式には、ISコア以外にプログラム的なものは何も入っていなかった。駆動系、武装、スラスター、etc.一つ一つは完成しているが、それらを一機のISとして動かすための制御能力が、打鉄弐式には備わっていないのだ。
「……普段自分がやってることが、どれだけ機械に助けられてたかが良くわかるぜ……」
「…………」
例えば。人間が立って歩くことができるのは、脳が全身の筋肉を無意識の内に連動させて、バランスを取っているからだ。これはあまりにも当たり前過ぎて、普段は誰も意識しない。
だが考えて見て欲しい。人型のロボットを操作するとしよう。操作方法は至って簡単、自分の身体を動かすのと同じだ。自分の身体と違うのは一つだけ、一体のロボットを、複数の人間で動かすということ。
両手両足と頭と胴、全部で六人。それぞれがそれぞれ別の
断言しよう。絶対にこげない。少なくとも、何度か練習した程度ではこげるようにならない。それこそ、六人が一人の人間であるかのようなチームワークが発揮できるようになるまでは。
そしてプログラムによる統制のないISは、まさにこの六人で動かすロボットの状態だ。普通はそういったプログラムもデフォルトで入っているものらしいが、打鉄弐式は山嵐のマルチロックシステムがメモリを馬鹿食いするため、他のプログラムを一旦全部取り払ったそうな。が、結局マルチロックシステムは完成せず、完成しないうちから他のプログラムを戻すわけもなく。そのタイミングで、簪さんに打鉄弐式が渡った、というわけだ。
もはやどこから突っ込めばよいのかわからぬ。
「それじゃあ……あの……」
「ん?」
そんなわけで、今簪さんは、まともに飛ぶためのプログラムを作っているところだ。といっても、そう簡単にどうにかなるわけじゃない。スラスターの出力やその配分、姿勢制御、PIC、ハイパーセンサー……ただ飛ぶだけでも、とんでもない量の演算が必要になる。打鉄とラファールのプログラムをベースに試作してみたものの、やはり違う機体のものではそう上手くいかないらしい。直すべき箇所は無数にあるようだ。
「また、飛ぶから……その……」
「オッケー、任せとけって。失敗しても、ちゃんと受けとめるから」
「………………うん」
こうしてテスト飛行を見ているだけで、打鉄弐式の飛行能力が安定していないのがわかる。ちょっとしたことで体勢を崩してしまうし、それを立て直そうとスラスターを噴かせばさらに大きく体勢を崩して加速してしまうこともある。ISの保護機能があるとはいえ、変な姿勢で壁やら地面やらに激突すれば関節が外れかねない。下手すりゃ骨折だ。それを防ぐため、俺が簪さんの前を飛び、危なくなったら受け止めていたのだが。
(いくらIS展開してても、これはヤバい……)
俺は後ろを向きながら簪さんの前を飛ぶ。簪さんは前を向きながら俺の後に続く。
そんな状態で、バランスを崩した簪さんを咄嗟に受け止めればどうなるか。
(ああくそ、単に事故るよりよっぽど心臓に悪いぞ!)
誓って言うが、俺に下心はない。ないが、しかし哀しきかな、男という生き物は一度意識してしまうと無視できないものなのだ。
ただ簪さんが飛び込んでくるだけだったなら、あるいはなんともなかったかもしれない。だが控えめながらも柔らかな二つの膨らみが押し付けられたり危うくマウスチューマウスしそうになったりすれば、完全に無視するなど不可能だ。顔と声は平静を装えてると思うが、内心はもういっぱいいっぱいだった。
(落ち着け、織斑一夏。落ち着くんだ。これは訓練、訓練だ。とても大事で、必要不可欠で、しかし事故の危険がある訓練なんだ。集中だ、集中しろ。心頭滅却煩悩退散色即是空空即是色……)
頭の中で色々唱えつつ、飛行開始。俺の白式は機動力も高いので、後ろ向きでも全速力で飛べば、打鉄弐式の前に出られる。もちろん、打鉄弐式が全速力を出してはいないからだが。
『まず、上昇』
『上昇、了解!』
飛び始めると肉声は聞こえなくなるので、プライベート・チャネルに切り替える。簪さんの指示を復唱し、進行方向に回り込むように一足早く上昇する。その直後、簪さんも機首を上げて――お? なんか今回スムーズだぞ、いい感じじゃないか?
『設定高度到達。右旋回三十度』
『右旋回三十、了解!』
続いて身体を傾けて風を受け、右へと旋回していく。うん、間違いなくスムーズになってる。さっきまでもやるたびに少しずつ改善されてたけど、今回のプログラムは機体と上手く噛み合ってるみたいだ。
『いい調子だな!』
『……まだ、わからない……次、左旋回百二十度』
『左旋回百二十、了解!』
なんだか事務報告的な時だけ妙にハキハキと喋る簪さんに苦笑しながら、大きく左に旋回する。ここまで大きな角度だと、ただ身体を傾けただけでは曲がりきれない。飛行機のロールと同じように、倒した身体を軌道をなぞるように反らせて飛ぶのだ。当然難易度は高く、今のところまだ成功していない。
けど、今度は――
『……っ!』
『ぃよしっ! 完璧だ、簪さん!』
滑らかな弧を描きながら、打鉄弐式が飛ぶ。その姿に、危うさは微塵も感じられない。百二十度の旋回を終え停止すると、続いて来た簪さんの手を取った。
「や、やった……! やったよ織斑くん!」
「ああ、今のは良かったな!」
勢いそのままにくるくると回りながら、成功に喜ぶ。
今のは飛行における基礎の基礎で、戦闘機動となるとまた違ってくるが、それでも間違いなく、簪さんは前進している。打鉄弐式は少しずつ、実戦に耐えられる機体へと成長している。その過程を間近で見てきた俺としても、この成功は自分のことのように嬉しい。こんな形で、俺が誰かの役に立てるとは思っていなかったしな。
「よぅし、それじゃこのまま、戦闘機動にも挑戦して――」
「だめだよ~」
ドゴォッ!
「げぶぁっ!?」
ヘビー級のコークスクリューブローを食らったかのような衝撃に、空中で吹っ飛ばされた。ISのおかげで身体にダメージこそないが、脳が揺らされてクラクラする。
なんだ一体、と視線を向けると、直径三十センチはありそうな金属球が浮かんでいた。これがライフル弾のように回転しながら俺の頬に突き刺さったのだろう。
「十六夜……のほほんさんか」
それは如月重工の如月重工によるのほほんさんのためのIS整備ユニット、十六夜。今まで俺も何回か世話になってるし助かってるんだが、これを手に入れてからのほほんさんがちょっと怖い。元々物理攻撃をするのにためらいとか容赦が足りない子だったのだが、その威力が上がってしまったのだ。まあその被害を受けるのは主に俺なんだけれども。
現に今の一撃は、ISがなければ確実にノックアウトされていただろう。ピットの出口でのろのろと手を振っている少女に非難の視線を向けながら、簪さんと一緒に降りていった。
「ほ、本音……どうしたの……?」
「かんちゃーん、だめだよ~。ちゃんとこまめにメンテしないと~」
「……メンテナンスなら……さっき、やった……」
「んーふっふっふ~。かんちゃん、メカニックとしてはまだまだですな~。慣れないことすると~、変に力が入ったりして~、機体に負荷がかかるんだよ~?」
「へー、そうなのか」
「そーなのだよ~。逆に言えばね~、機体のどこに負荷がかかってるかを見れば、どういう風に力が入っちゃってるかもわかるのだよ~」
「へー……知らなかった」
のろのろとピットに入って行ったのほほんさんについて行くと、のほほんさんは残りの十六夜も展開し、変形させた。なんかスパナやらドライバーやらの見慣れた工具もあれば、なんに使うのかもわからない謎の工具まで。それらで打鉄弐式のスラスターを分解し、細かな部品の一つ一つまで素早く、かつ丁寧に点検していく。
その横顔は真剣そのもので、いつもは眠たそうに半開きになっている目が鋭く細められている。……のほほんさん、こんな顔もするんだなあ。白式整備する時はいつも通りの顔なのに。
「……う~ん。ちょーっと付け根のあたりに負荷がかかってるね~」
「……それは……どういうことなの……?」
「翼を広げすぎ……かな~? 空気抵抗とか大きくなっちゃって、スピードも落ちちゃうし~、色々もったいないんだよね~」
「そう……なの……?」
「ああ、まあ広げた方がバランスは取りやすいんだけどな。けど確かにのほほんさんの言う通り、翼はできるだけ畳んだ方が速く飛べるよ。負荷云々は気づかなかったけど……」
「……翼を、畳む……」
「でも畳み過ぎると~、今度は安定しなくなっちゃうんだよ~。そうするとかえって遅くなっちゃうから~、どれくらい畳むか、っていうのが大事だね~」
「……そう……なんだ……」
「まあ~、私は畳むと飛べないんだけど~」
「「…………」」
あれか。知ってるけどできない、わかってるけど体がついて行かないという、努力しているみんなの悩みか。
「でもまあ、それは一朝一夕で身に付く技術でもないし、少しずつ練習してけばいいんじゃないか? 今はまず、タッグマッチにむけて戦闘機動ができるようなプログラムを作らないと」
「うん……そう、ね……」
だが、これはなかなか大変だぞ。戦闘機動は攻撃、防御、回避その他諸々を考慮に入れなきゃならない。防御と回避はともかく、攻撃が問題だ。なにせ俺の白式は接近戦特化、と言うよりオンリーの機体で、打鉄弐式は近接武器こそあるものの基本的には射撃戦型だ。射撃武器を命中させるための戦闘機動なんて俺は知らないし、切り札である山嵐、つまりミサイルの効率的な運用法なんてもっと知らない。
となれば、誰かにアドバイスを求めなきゃ話にならないんだが……。
(一応、みんな敵だしなあ……)
そう、俺の交友関係上、それは対戦相手にアドバイスを求める、ということになる。それで教えるのを渋るほど器の小さい連中じゃないんだが、どちらかと言うと俺のプライドの問題だ。とは言っても簪さんの機体のことなので、必要ならもちろん訊きに――
「……あ」
そう言えば。
一人いるじゃないか、アドバイスを求めるのに最適な人物が。なんで今まで忘れてたんだ。
「うん、そうしよう」
「へ……?」
「いや、いいアドバイスくれそうな人のあてがあるんだ。簪さんさえ良ければ、明日にでもちょっと見てもらおうと思ったんだけど……どうかな?」
「……………………」
簪さんはどうしてか、なんとも表現しにくい顔になった。けどすぐに、真面目な顔に戻る。
「私は……構わないけど……」
「そっか、わかった。じゃあ明日、話してみるよ」
「……うん」
ふむふむ。簪さんも少しずつ、人に頼ろうとしてくれてるみたいだな。以前は何が何でも一人でやる、って感じだったから、色々心配だったんだ。まあそんなこと考えてる俺は一体何様なんだ、ってところだが。
「それじゃ~、今日はおひらき、てことで~」
「あ、うん。お疲れ、簪さん。のほほんさんも、ありがとうな」
「どういたしまして~。私はかんちゃんのためなら、呼ばれなくても飛び出るよ~。飛び出ないほうが面白そうな状況の時はその限りじゃないけど~」
「「……………………」」
なんともリアクションに困る一言を残して、のほほんさんはピットから立ち去った。どうやら打鉄弐式のメンテナンスだけしに来たらしい。タイミングがバッチリだったことを考えると、見てたんだろうか? 普段はほわほわしてるけど、友達に対しては結構心配性だし、のほほんさんなりの気遣いなのかもしれない。
「……それじゃ、上がろうか」
「あ……うん。……その、織斑くん……」
「ん?」
どうやらまだ何かあるらしい。けれど簪さんは、ちょっと言いにくそうにしていた。一体どんな内容なのかと内心身構えていると。
「明日も……一緒に訓練、お願いできる……?」
……拍子抜けした。だってそんなのは当たり前というか、わざわざ訊くまでもないことだから。
「当たり前だろ。俺たちはチームなんだから、訓練だって整備だって、付き合うよ」
「……うん。ありがとう……」
けどそんな当然の返答にも、簪さんは安心したように頷いた。人付き合いがあまり得意じゃないようだし、ちょっとしたことでも不安に感じるんだろうか。
そうだとしたら、これを機に、どんどん積極的になってほしい。アイツらほどとは言わないけれど。
……まあ、そのうちこの前みたいに、あのテンションに巻き込まれることになるだろうし。何度か繰り返してれば、嫌でも元気になるかな。
――――――――――
さて。突然だが困ったことになった。己自身のタッグパートナーを誰にするか、全く考えていなかったのである。
(……ふむ……)
実戦訓練の趣が強い今大会であるが、しかし大会と名が付く以上、勝負であることに変わりはない。勝負であるならば、己には全力を尽くす以外の選択肢は存在しない。
そしてタッグマッチとは、誰と組むかという選択もまた勝負の一部であると言えよう。
(……むう……)
では、誰と組むべきか。単純に戦力で考えるのならば楯無会長一択なのだが、この選択をした場合各所から凄まじい抗議を受ける気がするのでやめておく。己とて命は惜しいのである。
(……却下……)
というわけで、次に上がった候補はセシリアだ。彼女は中距離以上での射撃戦を得意とし、特に超長距離狙撃においては最早学園に並ぶ者はいまい。世界全体で見ても五指に入るほどだろう。更に二次移行して手に入れた
(……保留……)
その次は鈴。彼女の専用機、
(……後は……)
残るは箒だ。束さん手製の超高性能IS
(……迷う……)
どいつもこいつも魅力的で困る。友人に恵まれていることを実感し僅かに頬が緩むが、今はそんなことをしている暇はない。
利点を上げていってはきりがない。欠点を比較する方が手っ取り早そうだ。
(……欠点、か……)
まずセシリアだが。彼女の場合、欠点と言うよりは、厄介な事情がある、と言うべきだ。
セシリアの専用機は、既に二次移行を果たしている。それは己も同様であり、加えて言えば一夏もだ。現在IS学園に在籍している専用機持ちは十一人、その内二次移行しているのは己たち三人。これでも奇跡としか呼べないほどの数だが、だからこそその三人の内二人が組むというのはいかがなものか。
無論、制約を課せられているわけではないし、問題があるわけでもない。だが人の感情として、そういった偏りは避けるべきだと感じてしまう。セシリアに非はないが、候補としての順位は下がってしまうだろう。
(……ふむ……)
では鈴と組んだ場合、どんな欠点が生じるか。まず思い浮かぶのは遠距離での攻撃手段が乏しいことか。ほぼ皆無と言っていい。
己の持つ銃火器は散弾を使う〔月影〕のみだ、遠距離どころか中距離でも話にならん。そして鈴の〔龍咆〕だが、衝撃波を撃ち出すというその特性上、ある一定以遠の距離では急速に威力が減じてしまう。無論、そこまで敵を逃がさないだけの機動力と技術は持ち合わせているが……ううむ。
(……難儀……)
最後に箒だが。これはもう、言うまでもなく燃費が悪い。己の朧月も月光やスラスターが高出力なのでエネルギーを湯水の如く消費するが、搭載されているジェネレータが特別製で、継戦能力は高い。二対二の戦いであれば、途中でエネルギーが尽きることはあるまい。敵に粘られれば、箒だけ戦闘不能になる可能性は否定出来ないだろう。戦闘可能時間が合わないというのは、致命的な――
(……む……?)
今、何かが引っかかった。
戦闘可能時間が合わない? 何故?
朧月は元々、一騎打ちに特化した、短期決戦型なのに――?
(……そうか……)
身体にかかる負荷を考慮して、今までは大人しい戦い方をしていたが……果たしてそれで、朧月の性能を十全に発揮出来ていたと言えるのだろうか。如月社長たちの趣味を考えれば、そうではない筈。機体も搭乗者も限界まで力を絞り尽くす、そんな、命を懸けた本来の「闘い」こそ、社長たちの求めたものの筈だ。
(……面白い……)
箒との戦闘可能時間が合わない。それは、己が回避を重視し、倒されずに倒すことを考えていたからだ。
そうではない。倒される前に倒す、肉を斬らせて骨を断つ。それこそが己の、朧月の戦い方だ。
「……く……」
朧月の機動力を、回避ではなく攻撃に使う。多少のダメージなど気にせず、体勢を崩されようと強引に斬り込む。装甲の薄さと相まってシールドエネルギーは瞬く間に消耗するだろうが――それくらいで、丁度良い。
「……面白い……!」
決まりだ。箒と組もう。長々と続けるよりも、短時間で全てを燃やし尽くすような戦いをする為に。
「……さて……」
となれば、今からでも箒を誘いに行かねば。箒と組めなければ、今までの考えはただの皮算用だ。以前の学年別トーナメントでは箒から誘いに来てくれたのだから、断られることはないと思いたいが……他の誰かに先に組まれては、話は別だ。
善は急げ。訓練による汗を洗い流した己は、今度は忘れずに持ち込んだ服を身に着け、脱衣所を後にした。
「ほら~、おいでいのっち~。髪梳くよ~」
「……………………」
ええい、急いでいるというにっ。
――――――――――
ドアの前で、深呼吸。右手を持ち上げ、一度ためらい、意を決してノックする。
コンコン。
「は~い」
中から間延びした、けれど明るい声が返ってくる。幼い頃から聞き慣れた、私の数少ない友達の声だ。
少し待つと、カチャリとドアノブが回る。ほとんど音を立てずに開いたドアの向こうから、キツネかなにかの着ぐるみを着た女の子が顔を出した。
「あれ~? かんちゃんだ~、いらっしゃい~」
「あ、えと……おじゃまします」
私が訪ねて来たことが不思議だったのか、本音は一瞬――と言うにはあまりに長い時間キョトンとしたあと、にへらと笑って迎えてくれた。
「おじゃまされます~。どぞどぞ~」
ドアを大きく開けてくれたので、部屋に入る。すると、部屋の真ん中で椅子に座る女の子と目が合った。
「…………」
「あの……おじゃまします……井上さん」
「…………」
無言ではあったけれど、井上さんは軽く手を上げて応えてくれた。
そんな井上さんは、パジャマ代わりなのか白いジャージを着ている。お風呂上がりなんだろう、長い髪が艶やかに輝き、ジャージの白との対比で黒色が深みを増している。
綺麗だな、と思った。私の髪は色素が薄く青っぽく見えるので、こういう日本人らしい髪はちょっと憧れる。
「あの……」
「は~い、お茶で~す」
「……ありがとう」
自分で思っているより長い時間、尻込みしてたみたい。とりあえず、本音がお茶に続いて椅子を出してくれたのでそれに座る。
「…………」
「…………」
「……あの……」
「…………?」
「……邪魔じゃ……なかった……?」
就寝前のこの時間は、多くの人にとって一番リラックスできる時間だ。読書する人や音楽を聴く人、友達の部屋に遊びに行く人など。私も、録画したアニメを見るのはこの時間だ。
井上さんにちょっと相談というか、お願いがあったので、こんな時間に突然訪ねてしまったけれど……大丈夫だっただろうか。
「……構わない……」
「そ~そ~。今ね~、いのっちの髪のお手入れタイムなんだよ~」
「……お手入れタイム?」
本音は着ぐるみのお腹に付いてるポケット(キツネの着ぐるみだと思ってたけどどうやら別の生き物みたい)から、ブラシを取り出した。そしてぺたぺたと井上さんの後ろに移動すると、井上さんの髪をブラッシングし始めた。
……井上さんの髪の手入れは本音がしてる、っていうのは聞いてたけど……こうして実際に見ると、不思議な光景だ。なんだか井上さん、不機嫌そうに見えるし。
「いのっちはね~、あまり髪を大事にしてくれないのだよ~」
「え? そうなの……?」
「……邪魔……」
「え……」
本当にそう思っているんだろう、無表情な顔の眉間に、少しだけしわが寄っている。確かに長い髪は色々と邪魔になることもあるし、手間もかかる。井上さんは剣術一筋だって聞いたし、髪を大事にしている印象はないけれど。
それでもやっぱり、もったいないと思ってしまう。だって――
「そんなに、綺麗なのに……」
…………あ。
声に出ちゃった。
「…………」
「あ、あの、その、違うの。ええと、井上さんの髪にとやかく言うつもりはなくて……」
ああっ、自分でも何を言っているのかわからないっ。
「じゃあ、かんちゃん、梳いてみる~?」
「……え?」
「…………」
「……え? え?」
言って、ブラシを差し出してくる本音。井上さんは何を言うでもなく、諦めたかのように溜め息を吐くだけ。
どうするべきか困ってしまい井上さんと本音を交互に見ても、二人ともなんの反応もしてくれない。井上さんは黙って私を見てるだけだし、本音は気の抜ける笑顔でブラシを差し出しているだけだ。
これは、梳くしかないの? ああでも、井上さんの髪ならちょっと触ってみたいかも……。
「えっと……いいの……?」
「どぞどぞ~」
「……………………」
ノリノリの本音とは対照的に、井上さんはむすっとしている。さっきもこんな顔をしていたし、私に髪に触られるのが嫌なんじゃなく、髪の手入れに時間を使うのが嫌なのかもしれない。
そう思うことにして、本音からブラシを受け取り、仏頂面で座る井上さんの後ろに立った。
「……い……」
「…………」
「いきますっ……!」
「……………………」
自分でもよくわからないけれど、なんだか私は今すごいことをしているんじゃないのかと思う。自然、ブラシを待つ手にも力が入るというものだ。
私は空いている左手で、うなじのあたりから髪を持ち上げ――
(うわ、さらさら……!)
最近の本音のお小遣いはヘアケアグッズに注がれているらしい。長身の井上さんの腰まであるほど長いのに、毛先までしっかりと手入れが行き届いてる。
うーん……けどこんな髪なら、本音が夢中になるのもわかる気がする。
「えと、それじゃ……始めます……」
「…………」
ごくり。なぜか唾を飲み込んでしまった。
そして、髪にブラシを通していく。
さら……さら……
さら……さら……
(ぜ……全然引っかからない……)
本音の頑張りが垣間見えるほどの髪質。自分の髪にはここまで手をかけてないくせに……。
さら……さら……
さら……さら……
(……あ……)
そうして数分続けていると、気づいた。
ジャージの襟の隙間から見える、細い首。
そこに、左肩から這い上がるように、無惨な傷痕があることに。
「……う……く……」
ああ、どうしよう。泣いてしまいそう。
どれだけ深く傷つけられたのか、もう塞がっているはずなのに、肉が抉りとられたようにへこんでしまっている。
……ああ。こんなに酷い、傷だったんだ。こんな傷が、なくなってしまった左腕に無数にあるのだとすれば。
それはもう、現代の医学では、どうにもならない。
(……なんで……?)
さらり。さらり。
滑らかな髪の感触さえ、今は物悲しい。
なんでこの人は、戦えるんだろう?
一生懸命に歩いてきた道、それを、こんなカタチで断ち切られて。
なんでまだ、戦えるんだろう――?
「……ただ……」
「……え……?」
私が何を考えていたのか、お見通しなのだろうか。
井上さんは、静かに呟いた。
「……諦められないだけだ……」
「……っ」
ああ、なんて。
なんて、強い想いなんだろう。
諦めてしまえば、楽になるのに。苦しまなくて済むのに。
諦められないから、足掻くだなんて。
「……お前は……」
「……?」
「……違うのか……?」
「……え……?」
私? なんで?
私には、そんなに強い想いなんて――
「……あ……」
……そうか。
なんで私が、自分でも無理かもしれないと思いながら、打鉄弐式を完成させようとしてたのか。
それは、諦められないからじゃないの?
また、お姉ちゃんと一緒に――
(あ、れ……?)
どうしてだろう。こんな風に誰かの髪を梳くのなんて、初めてのはずなのに。
なんだかとても、懐かしいような気がする。
『簪ちゃん、大丈夫? 痛くない?』
『うん……平気』
『ちゃんと毎日、お手入れしてるのね。大変じゃない?』
『大変じゃないよ……私、この髪、大好きだもん』
……ああ、そうだ。
私たちがまだ小さくて、お姉ちゃんがまだ楯無じゃなかった頃に。
あの時は、私が梳いてもらうほうだったけれど。
『だって、この髪……お姉ちゃんの髪と、おんなじだから』
「……ねえ……井上さん」
「…………」
問いかけても、井上さんは黙ったまま。ただ気配だけで、続きを促してくる。
「諦められないって……良いことなの? それとも……悪いこと……なのかな……?」
「…………」
井上さんは、少し間を置いた。それは答を考えているというより、「何を当たり前のことを訊いているのか」と、呆れていたんだと思う。
「……良し悪しは、知らん……」
ぶっきらぼうな言葉は、けれどとても真摯に響いて。
「……ただ……」
だからこそ、すとんと胸に落ちる。
「……どうしても、諦められないものを……」
ああ、そうだったんだ、と。
私は、あの日々を――
「……夢と、言うのだろう……?」
――夢見ていたんだ。
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