アラクネの脚全部にチェーンソー取り付けたら、グラインドブレードっぽくなるんじゃね?
「――ふざけんなっ!!」
怒号と共に、頬を殴られる。その一撃は重く、しかし体よりも心に衝撃を受けた。
「宗太、やめなさい!」
「うるせえ!」
唐沢さんが宗太を止めるが、宗太はさらにもう一撃、拳を叩き込んだ。
「アンタ知ってんだろうがよ! シン姉がどんだけ一生懸命剣を練習してるか! そのシン姉の腕もいで、ゴメンで済むかっ!!」
「宗太! 一夏君だってわざとじゃないんだ、運が悪かったんだよ」
「そんな簡単に片付けられるほどなあ、シン姉の腕は安くねえんだよっ!!」
「やめてくれ、宗太!」
再び拳を振り上げた宗太の前に、千冬姉が割り込む。
……その表情は、今まで見たことのないものだった。
「宗太、一夏を責めないでくれ。……全部、私の責任なんだ」
千冬姉の表情を見て、宗太は拳を下ろした。
だがここまで音が聞こえるほどに、強く奥歯を噛み締めている。
「……シン姉が、何をしたって言うんだよ」
「何もしていない。悪いことは、何も。……悪いのは私だ。私のせいなんだ」
「……くそっ、くそぉ……!」
宗太は呻くように呟いて、眠るシンの横に泣き崩れる。宗太だけじゃない、小夜も、隆さんも、唐沢さんも、他のみんなも、涙を流している。
その様子から目を逸らさずに見ながら、千冬姉は両手を握り締めた。
どれほどの力を込めているのか、両手からは血が流れていて。
俺の大切な人たちが、みんな泣いている。
なのに俺には、何も出来なくて。
シンはまだ、目を覚まさない。
――――――――――
「……本当に、申し訳ありませんでした」
「…………」
唐沢さんに頭を下げる。今は病室の外で、二人だけで話をしている。
「……ごめん、千冬ちゃん。私は、何を言えばいいのか分からない」
「……申し訳ありません」
私も何を言えばいいのか分からなくて、ただ謝ることしか出来なかった。
唐沢さんが、孤児院の子供たちをどれだけ大事に思っているかは知っている。それこそ、自分の子供のように。
――唐沢さんは三十年ほど前、奥さんを出産の際に亡くしている。孤児院を開設したのはその数年後。初めはただ自分の子供の代わりとして、心の傷を癒やすために迎え入れたが、いつしか本当に愛するようになった――
自分の罪を告白するように、そう語っていた。
その唐沢さんは、真改の怪我を自分のことのように苦しんでいる。本当なら、子供たちと一緒に、泣き崩れてしまいたいだろうに。
――なのに。
「……真改は、変わった子でね。ほとんど喋らなくてとっつきにくいのに、一度繋がりを持つとどんどん仲良くなっていく」
「……誠実なやつですから。人となりが分かれば、すぐに信頼される」
「うん、私も信頼しているよ。だから真改なら大丈夫だろうと思って、千冬ちゃんに連れて行ってもらった。珍しく真改からお願いされた、ていうのもあるけれどね。
……それが、君に重荷を背負わせることになってしまった」
「……真改の左腕は、私の責任です。私が背負わなければならない」
「そうだね、千冬ちゃんの責任もある。一夏君にもある。私にだってあるし、無茶をした真改本人にもある。……だから、みんなで背負わないと」
「……唐沢さん……」
許されていたら、私は自分で抱え込んで、いずれ壊れていたかもしれない。
責められていたら、私は痛みに耐えきれずに、折れてしまっていたかもしれない。
私を許すのではなく、ただ責めるのでもなく。
共に背負い、共に償おうと。
その言葉で、私がどれほど救われたか。
「……子供たちのことは、私に任せてほしい。千冬ちゃんも忙しいだろうけど……出来るだけでいい、一夏君に付いていてあげるんだ。そして真改が目を覚ましたら、またみんなで話をしよう」
「……分かりました」
促されて、また病室に入る。子供たちはまだ泣き続けており、一夏は部屋の隅に、虚ろな眼をして立っていた。
……その姿に、また泣きそうになって。
歯を食いしばって、涙をこらえた。
「……一夏、帰るぞ」
「……千冬姉? でも……」
「帰るんだ。私たちがここにいても、今は何も出来ない。……それにお前、昨日から何も食べていないだろう。このままではお前まで倒れてしまう」
「……分かった」
そうして、一夏を連れて病室を出る。
思ったより素直に付いて来たが、それがまた、不安を感じさせて。
扉が閉まる瞬間まで、一夏は真改を見ていた。
――――――――――
翌日。平日だったが、俺は学校を休んだ。無断欠席だった。
千冬姉はいない。モンド・グロッソの決勝戦を放り出したことで、色々なところから呼び出されているのだ。俺を残して行くことを最後まで心配していたが、しかし国からの呼び出しを無視することはさすがに出来なかった。
そこで俺は、今更になって気付いた。俺はシンの左腕だけじゃない、千冬姉の栄光、
「…………」
部屋の中に引きこもって、膝を抱えて、ずっと同じことを考えていた。
――俺さえ、いなければ。
「……シン……」
幼い頃、あの孤児院に初めて行った時、アイツに出会った。
第一印象は変なヤツ。次は、無口なヤツ。黙っているシンに話し続けて、遅れて自己紹介したら名前だけ答えてくれて、キレイな声だな、なんて思った。
その後孤児院に遊びに行くと、シンはいつも、木の枝を振っていた。なんの遊びかと訊けば鍛錬と答え、その意味が分からずにいる俺に剣の練習だと教え、じゃあ勝負しようぜと挑めば瞬く間に返り討ちにされた。
悔しくて何度も挑戦したが、結果はいつも同じだった。なんとかして勝てないものかと考えて、千冬姉に剣を教わったり、篠ノ之道場に通ったりした。
そうやって、剣に対する理解が深まるに連れ、分かった。シンがどれだけ凄いのか。
気付けば憧れていて、目標になっていて、追い掛けていて、今でも挑戦し続けている。
そのシンの、左腕は。
俺の、せいで。
「……千冬姉……」
三年前、第一回モンド・グロッソ。千冬姉は、優勝した。
世界最強と賞賛されて、千冬姉は世界中を忙しく飛び回っていた。家に帰れない日も多く、帰って来ても夜遅くだったり、またすぐに出なくちゃいけなかったり。
そんな千冬姉のために、家事を覚えた。初めのうちは失敗ばかりで、出来上がった料理はひどい味だった。それでも千冬姉は、不味い不味いと文句を言いながら、一度も残したことはなかった。
たまの休みには、俺の剣の鍛錬に付き合ってくれた。疲れているだろうに、一切手抜きのない、厳しい指導だった。そうして次の日には、また出掛けて行くのだ。
千冬姉は色々なものを犠牲にして、ISに打ち込んで来た。恋人だっていたこともないし、友達と遊びに行くこともない。
そうまでして、自分を鍛えていたのに。
その実力を、世界に示す絶好の舞台だったのに。
――俺の、せいで。
「……俺さえ……」
始めから、いなければ。
こんなことには、ならなかった。
シンはまだ、両手で剣を振っていて。
千冬姉はまた、世界最強になっていた。
ただ一人、俺だけが。
始めから、いなければ。
「……シン……千冬姉……」
どうすればいい? 俺は、どうすればいいんだ?
シンも千冬姉も、俺なんかより全然強くて、二人が失ったものには、俺がどんなに頑張っても届かないのに。
謝って取り戻せるのなら、いくらでも謝る。喉が枯れて声が出なくなるまで謝って、腰が曲がって戻らなくなるまで頭を下げて、頭蓋骨に穴が空くまで地べたに額を擦り付ける。
償って取り戻せるのなら、いくらでも償う。この先の俺の人生に、何も得るものがなくても構わない。代わりに得る筈だったもの全てを二人に捧げられるのなら、それでいい。
――だけど。
「……そんなことして……なんになるんだよ……」
二人とも、そんなことは、望まない。きっと怒り心頭に発しながら、拳と共に突っ返してくるだろう。
なら俺は、どうすればいい? どうすればいいんだ――?
――ピンポーン――
「……?」
突然、家のチャイムが鳴った。誰か来たようだが、今は宅配業者さえ相手にする気力はない。騙すようで悪いが、居留守を使わせてもらう。
――ピンポーン――
二度目のチャイム。俺の経験上、大抵の人は二回鳴らして出なければ帰る。今回もそうだろうと思っていたんだけど――
――ピンポピンポピンポピンポピンピンピンピンピンピピピピピピピピピピピンポーン――
「おいこら一夏ぁっ! 開けなさい! 開けろっつってんのよ!!」
バンバンバンバンッ!!
「おい鈴、やり過ぎだって! 見ろよ、近所の人たちが何事かと思ってるじゃないか。警察呼ばれるぞ?」
「その前に玄関をぶち破るわ」
「じゃあ俺はその前に逃げるわ」
下から聞こえてくる、馬鹿な遣り取り。それは聞き慣れた、親友たちの声だった。
「……鈴と、弾……?」
フラフラと立ち上がり、玄関に向かう。別に彼らと話そうと思ったわけではなく、適当にあしらって帰ってもらうつもりだった。おそらく鈴がやっているのだろうピンポンラッシュとドア叩きは激しさを増しており、冗談抜きでチャイムを破壊しドアを破りそうな勢いだ。
もしそうなれば、また千冬姉の負担が増える。それだけは、嫌だから。
「……今開ける」
ガチャリ。玄関先には、中学の制服姿の二人がいた。
……もう学校が終わる時間だったのか。全然気付かなかった。
「やっと出てきたわね」
「よ、一夏。ひどい顔だな」
「……なんの用だよ」
「なんの用って、アンタが無断欠席なんかするから様子を見に来てやったんじゃない」
「モンド・グロッソ、こないだ終わったよな? なんか千冬さんが決勝棄権してたから、何かあったんじゃないかってさ」
「……それは」
「そうそう、それにシンも休みだったし」
「……っ!!」
「シンも一緒に行ってたよな? 先生に聞いても、まともに答えてくれねえんだよ。……本当に、何があったんだ?」
「……シンは」
……ああ、そうだ。孤児院のみんなだけじゃない。学校にも、シンと仲が良いやつは大勢いる。
そしてみんなが知っている。シンがいつも、剣の鍛錬をしていることも。
「……シン、は……」
俺はこれから、何人の泣き顔を見ればいいんだろう。シンが左腕を失ったと、もう二度と治らないと、伝えればいいんだろう。
……嫌だ。そんなものは見たくない。誰かが、俺のせいで傷付く様なんて。
「……シン……は……」
なら、逃げてしまえばいい。簡単だ、このドアを閉めて二人を追い返し、目を閉じ口を閉ざし耳を塞げばいい。
……だが、逃げてどうなる? みんないずれ知るだろう、シンのことを。俺が逃げても、どうにもならない。ただ嫌なモノを見なくて言わなくて聞かなくて済むだけ。
「……アイツは」
なら、俺が自分でやらないと。
それはとても、辛いことだけど。
――逃げることだけは。
それだけは、したくないから――
「……シンは、入院してる」
「……え?」
「……マジかよ、ひどいのか?」
「案内する。ちょっと待っててくれ」
一旦中に戻り、洗面所で頭に冷水を浴びた。部屋に戻って外出用の服に着替え、朝から何も食べていないことを思い出して食パンを一枚掴み、外に出た。
口にパンを放り込み、ろくに噛まずに呑み込んで――
「待たせた。……行こう、付いて来てくれ」
謝っても許されない。
償おうにも償い切れない。
なら、せめて――
(……背負うよ。これは、俺の罪だから)
……それが。
俺の、最初の決意。
――――――――――
「……えぐ、ううぅ……」
「……ぐす……あんまりだろ、これは……」
「…………」
シンの病室に案内すると、鈴も弾も、シンの姿に涙を流した。俺は二人の様子を両目に焼き付けるために、俯くのを必死にこらえていた。
「……俺のせいなんだ。モンド・グロッソの決勝戦前にさらわれて、シンは俺を助けるために戦って……こうなった」
「……それは、お前のせいじゃないだろ」
「俺のせいなんだよ。シンは俺を助けて、一緒に逃げた。……その時シンは俺に注意した。油断するな、警戒しろって。けど俺は千冬姉の試合に間に合いたくて、安全も確かめずに急いで進んで……見つかった」
「「…………」」
「俺はすぐに気絶して、その後何があったかは知らない。それで、起きたら――何もかもが、終わっていた」
「……わかった。わかったから、もういいよ、一夏……」
「そんな情けない顔するなよ。……しないでくれよ、頼むから」
「…………」
鈴も弾も、俺の様子に辛そうにする。よほど参ってるように見えるんだろう。……実際に、参ってるしな。
「……もう、治らないって。義手も使えないくらい、酷い怪我だって」
「……っ」
「俺は、どうすればいいか分からない。けど逃げるのだけは嫌なんだ。だから……シンが起きたら、話しをしないと。
……なんの話をすればいいのかも、分からないけど」
「……うん。その時は、あたしも呼びなさいよね」
「俺もだぞ。忘れんなよ」
「ああ、分かった。……あと、俺が攫われた話は、誰にも言わないでくれ。本当はお前らにも話しちゃいけないことになってるんだ」
「な、それどういうことよ!?」
「シンは交通事故に遭ったことになってるんだ。ひしゃげた車に腕を挟まれたってな。……それが、ドイツの方針なんだ」
「なんだよっ、奴らがちゃんと警備してりゃあ何事もなかったんだろうが! こんな目に遭わせといて、その原因まで隠すつもりかよ!」
鈴も弾も、さっきまでの悲しみを塗り潰すほどに怒っている。
参加者、それも最有力優勝候補者の身内の誘拐を許し、当局に先んじて救出に向かった少女は一生治らない怪我を負い、それらの失態全てを隠蔽しようとする――怒るのは、当然だろう。
「俺だって許せない。ドイツにはちゃんと、何があったか発表してほしい。……だけどそうすると、ドイツは世界中から責められる。警備とは関係ない大勢の人たちまで煽りを受ける。
……そういうの、嫌がるだろ、アイツは」
「「…………」」
シンは、騒がしいのは苦手だ。遠くから眺めていることは良くあるが、自分が巻き込まれそうになるとするすると逃げて行く。
そのシンが、世界を震わせ国家を揺るがすほどの騒ぎの当事者になることを望む筈がない。ましてや、それにより多くの人が傷付くとなれば。
「だから、みんなドイツの申し出を受け入れた。千冬姉の決勝戦棄権の理由は不明、シンはそれとは関係ないところで事故に遭って、左腕を失った。
……納得なんて、誰もしてない。けど今回のことを穏便に収めるには、これが一番なんだよ」
「「…………」」
「千冬姉はドイツに行くって言ってた。俺が攫われたことは千冬姉にも非がある、なら俺とシンの居場所を見つけてくれた分は借りになるって。まずはそれを清算するってな」
頭では理解してても、心では納得していないんだろう。千冬姉はドイツを信用出来ず、だからこそ早めに縁を切りたがっているのかもしれない。
「……このことを提案して来たのは、確かにドイツからだけど。でもそれを受けたのは俺たちだ。俺と、千冬姉と、唐沢さんと、孤児院のみんなが選んだんだ。
――シンの怪我は、その理由は、世界には知らせないって」
「……いいのかよ、それで。シンのことを、シン抜きで決めちまって」
「いいわけないだろ。けど時間がなかった。世界中が説明を求めていて、正直に言えばドイツは大打撃だ。……シンが目を覚ますのを、待っていられなかった」
「「…………」」
「みんなで決めたんだ。シンにこれ以上負担を掛けないために、俺たちの不満くらい飲み込もうって」
「……わかったわよ。あたしも黙ってる。それでいいんでしょ?」
「俺も約束する。墓まで持ってくよ」
「……ありがとう」
悔しいだろうに、二人とも承諾してくれた。俺たちが勝手に決めたことに付き合ってくれた。
「……本当に、ありがとう」
今日はこれで帰ることになった。二人とも、家まで付いて来てくれて。
そして、別れる時に――
「なあ一夏。シンはお前だけの仲間じゃねえ。お前一人で抱え込むんじゃねえぞ」
「なんかあったら、すぐにあたしたちにも言うのよ。すっ飛んで行くから」
「……本当にありがとな、二人とも」
おかげで、少しだけ前に進めた。まだ道すら見つかってない状態だけど、それでも。
どれだけ迷うことになっても、前に進まないと。
でないと、シンが起きた時。きっと、怒られてしまうから。
――――――――――
それから、一週間が過ぎて。
「……何しに来やがった」
シンのお見舞いに来た俺を出迎えたのは、眠り続けるシンの横に座る宗太だった。普段から悪い目つきをさらに剣呑なものにして、俺を睨み付ける。
「何しに来たって訊いてんだよ」
「……お見舞いだよ」
「じゃあ帰れ。俺一人で十分だ」
「……嫌だ。帰らない」
「……てめえ」
びきり、と眉間に皺を寄せて、宗太が立ち上がる。大股で俺の方に歩いて来て、荒々しく胸倉を掴んだ。
「帰れ。俺は、アンタの顔を見たくねえ」
「嫌だ。帰らない」
「……そうかよ」
とても俺の一つ下とは思えない形相をしていた宗太だが、俺が答えると驚くほどすんなり手を放した。忌々しさを隠そうともせず、そっぽを向く。
「……殴らないんだな」
「誰か殴った手で料理なんか作れるか。不味くなる。こないだアンタ殴ったのは失敗だった」
「……そうか」
宗太は再び座り、シンの様子を見ていた。俺もその隣に立ち、シンを見る。
宗太はもう、帰れとは言わなかった。
そうして、二人でシンを見ていると――
「失礼します」
病室のドアを開けて入って来たのは二人の看護士さんだった。お湯の入った洗面器とタオルを載せたカートを押している。
「井上さんのお体を拭きますので、席を外していただけますか?」
「「……はい」」
流石に立ち会うわけにはいかないので、素直に病室を出る。すると宗太は、そのまま向きを変えて歩き出した。
「どこ行くんだよ」
「帰る。シン姉の前でアンタを殴っちまう前にな」
「……そうか。気をつけて帰れよ」
「……ふん」
最後まで不機嫌そうな様子で、宗太は帰って行く。
……もしかしたら、シンと二人にしてくれたのかもしれない。宗太らしい、不器用な気遣いだった。
「……ありがとな、宗太」
許してもらえたなんて思っていない。だけど、まだ完全に嫌われてもいないのだろう。
俺が都合よく解釈しているだけかもしれないけど、それでも嬉しかった。
宗太と一緒に料理を作るのは、楽しいから。
「終わりましたから、入っても――あら、もう一人の子は?」
「……帰りました。用事があるって」
「そうですか。それでは私たちも失礼します」
看護士さんたちが立ち去り、また病室に入る。
……ふと、この部屋に飾ってある花が毎日変わっていることに気付いた。加えて言うなら、どの花にも見覚えがある。シンの花壇の花だ。
(宗太……じゃないよな。手ぶらだったし)
毎日、何人も見舞いに来ているのだろう。
シンが早く目を覚ますように。目を覚ました時、誰かが側に居るように。
「……なあ、シン。起きろよ。みんな、待ってる」
呼び掛けるが、返事はない。シンは静かに、眠り続けている。
「起きてくれよ。お前に言わなきゃいけないことが、たくさんあるんだ」
それでも呼び掛け続けた。何度も何度も、届かないと分かっていながら。
――起きてくれ、と。
「なあ、シン。……シン」
繰り返していると、次第に声が震え始めた。
……情けない。俺はまた、泣きそうなようだ。
「シン……頼むよ。起きてくれ。お前がいないと、みんなは……俺は……!」
それでも涙が零れることだけは、必死にこらえて。
まるで、見えない何かに祈るように。
まるで、ありもしない希望に縋るように。
何度も、何度も、名前を呼んだ。
――すると。
シンの瞼が、ピクリと――
――――――――――
――誰かに、名前を呼ばれた。
己の名前。井上真改。
「…………」
とても、聞き慣れた声だった。
この声は、確か――
「……一夏……?」
「……あ……」
まだぼんやりする頭で、霞む視界で、声の主を探す。
――居た。すぐ、側に。
「……シン……」
「…………」
一夏は、泣きそうな顔をしていた。
どうしたというのだろう。どこか怪我をして、傷が痛むのか?
「……無事……?」
「……っ、馬鹿……やろお……!」
心配になって訊ねると、一夏はついに泣き出しながら、同時に怒り出した。
そしてそのまま、深々と頭を下げる。
「……ごめん、シン。俺のせいで、お前に、こんな……!」
「…………」
一夏は頭を下げたまま、何度も繰り返し、謝罪の言葉を口にする。
その様子に、ひとつ思い当たることがあった。
……左腕の感覚が無い。やはりあれほど抉られては、繋げることは出来なかったか。
「…………」
右手を持ち上げる。こちらもまだ痛むが、しかし十全に動く。
……ならば、問題はない。
「……十分……」
「そんなわけあるかよっ。分かってんのかよ、その腕、もう治らないんだぞ……!?」
「……平気……」
「……っ! だから、そんなわけが……!」
尚も自分を責めようとする一夏に、右手を伸ばす。
その目から流れる涙を拭い、言った。
「……お前は、一人……」
掛替えのないものだから、守りたい。
眩しく温かい、日溜まりのような居場所を、失いたくない。
「……腕は、二本……」
守りたいから、業を磨いた。失いたくないから、力を求めた。
ならば、守るためなら、失わないためなら、構わない。
片腕でも、剣は振れるのだから。
「……惜しくはない……」
だから、これは。
己の願いの、代償だから。
お前が、気に病むことはないんだ――一夏。
「……馬鹿……やろお……。大馬鹿野郎だ、お前はっ……!」
「……そうだな……」
一夏はさらに泣いてしまって、涙は止まることなく溢れている。
そして己の右手を両手で取り、傷が痛まないよう優しく、それでいて強く握り締めて。
「……俺、強くなるから。シンのことも、千冬姉のことも、みんなのことも守れるくらいに、強くなるから。……だから……!」
「……ああ……」
静かに紡がれる、一夏の決意。
それはきっと、己が背負わせてしまった、十字架で。
……なのに、嬉しくもあった。
「……お前なら、なれる……」
この、優しい少年は。
いつか、誰よりも強くなる。
それを、見届けることが出来るのだから――
過去編はもうちょっとだけ続くんじゃ。具体的には次で最後。