プロローグ
「……はぁ」
6月に入って直ぐ、こころなしか蒸し暑くなり始めた頃。
白南風 誠隆(しらはえ まさたか)は企業から送られてきた合否通知に目を通して肩を落とした。
そこには不合格の文字と共に、慰めにもならない文章が添えられている。
面接がダメだったかなぁ、とか筆記が間違ってたかなぁ、とかいくら後悔しても意味はない。
これで既に30社目。ここまで落とされてしまうと、流石に落ち込んでしまうのも仕方ないというものだ。
ほんの一年前まではテレビのニュースや新聞でしつこいくらい就職難とか報じているのを何となく眺めていたが、いざ誠隆自身が当事者になってみると洒落になっていなかった。
ないことはない。でも、受からない。しかし、もしかしたら受かるかもしれない。
まるでギャンブルのようである。
「いつ終わるんだ……」
途方のない現実に投げ出したくなる。
これからの人生もっと沢山大変なことが待っているのに舐めていると言われればぐうの音も出ないが、まだ高校を卒業したばかりの彼には最初の一歩すら踏み出せず先の全く見通しが立っていないのは正直辛かった。
とはいえ、世の中には遥か上を行く猛者たちも大勢いるので泣き言を言っている暇はないのも分かっていた。
仕事がないと困るのは自分なのだから。
誠隆は頭を振って気持ちを無理やり切り替えると、朝食のトーストを頬張りぬるくなったコーヒーで一気に流し込んだ。
動こう。今の誠隆には、それしか方法が思いつかなかった。
思い立ったが吉日。誠隆は手早く準備を整えると次に受ける企業を探しに職業安定所に出かけることにした。
「行ってきます」
しかし、返事はない。
誠隆は、自分以外誰もいない家を眺めてため息を吐きながら後にする。
何を隠そう、白南風誠隆は天涯孤独だった。
そうなったのも、つい最近のことだが。
両親はと言うと誠隆が小さいときにいなくなった。冗談ではなく、本当に忽然と。
覚えているのは一緒に家族3人で遊園地で遊んでいた最中、誠隆が少し目を放した隙にいなくなったということだけ。
最初は迷子になったら係員に助けを請えという父親の教え通りに、適当に近くのきぐるみに話かけて迷子センターに直行。館内放送で両親を呼んで貰い待っていた。
だが、1時間経っても2時間経っても迎えが来ない。
そのまま待ちくたびれて眠っていたら、いつの間にか祖父の背中におんぶされていた。
両親は失踪したらしい。後でそれだけは聞かされた。
理由は分からない。別にお金に困っていたとか命を狙われていたとか、そういうことではないようだった。
それからは、母方の祖父母が誠隆を引き取って育ててくれた。
食堂を営んでいた祖父母は裕福とは行かないまでもお金に困るようなこともなく、ちゃんと学校にも通わせてくれた。
良い会社に就職して、いつかは楽させてあげよう。
そんな理想を誠隆が思い描いていたのも束の間、今度は育ててくれた祖父母が突然事故で死んでしまったのだ。
高校を卒業する直前でのその出来事に、誠隆は愕然とするしかなかった。
そうして、誠隆は身寄りが誰もいなくなった。
親戚は知らない。頼れる人間もいない。祖父母が残してくれたとはいえ、そのうちお金も尽きるだろう。
家族を皆失うという出来事にショックのあまりしばらく何もやる気が起きずニート生活をしていた誠隆だったのだが、最近ようやく立ち直って遅めの就職活動を始めていたのだ。
しかし、如何せん難航していた。時期も時期なので当然といえば当然なのだが。
うんざりするほど通い慣れた道を通り、うんざりするほど見慣れた職業安定所に足を踏み入れると、相変わらず人でごった返している。
これだけいればそりゃ難航するよな、と思いながら誠隆は置いてあるPCの前に腰掛けると仕事を探し始めた。
「さて、と……いいところはないかなぁ」
最初こそ、色々条件を求めていたが、誠隆もここまで来ると仕事が出来るだけでも良いと思うようになっていた。
さすがにどう見てもブラック企業みたいなところは避けているが、それを省くと中々に厳しい条件のところばかり。
資格も特に持っていない誠隆は、資格必須の方面に何一つ手を出せないのが悔やまれるところだった。
得意なことといえば、料理くらいか。
祖父母の食堂を手伝っていた影響なのだが、だからと言って別に誠隆は調理師免許を持っているわけでもない。
趣味・特技の欄に料理と書くのが関の山だ。
とりあえず資格不問の企業をざっと見渡していると、妙に目立つひとつの企業が目に止まった。
『株式会社 ボーダー商事』
学歴不問。必要資格なし。高卒初任給18~20万。社会保険あり。福利厚生あり。
見た感じはかなり良い。というか良すぎる。このご時世、高卒でこんな待遇は正直ありえないし怪し過ぎだった。
『急募。あなたの力が必要です。心配はありません、仕事を覚えるまでしっかりアナタをサポートします。
離れた場所での仕事になりますが、現地の人とのコミュニケーションをとりながら楽しく仕事をしましょう』
と書いてある。
「現地って日本の外なのか……?」
企業概要を見れば、衣食住など多岐に渡る様々な分野への展開など事業内容について事細かに書いてある。
ボーダー商事。誠隆は記憶を探ってみるが聞いたことがなかった。毎日読んでいる経済新聞で見かけたことすらない。
職業安定所にあるのだから、一応会社自体はあるのだろう。
「うーん……これは、飛ばすかな」
何となく胡散臭いので避けることにして、次に飛ばそうとしたその時。
誠隆がマウスで画面をスクロールしようとすると、急に手を掴まれた。
何事かと驚いて後ろを振り向けば、何故か見知らぬ女性が誠隆の手をつかんでいるではないか。
綺麗な金髪に黒いスーツが良く似合っている。手に持っているのは扇か。何処からどう見ても職業安定所の職員には見えなかった。
あと美人なのは認めるが、何というか全てを台無しにしている胡散臭さが醸し出されているのは何でなのだろうか。
とりあえず誠隆が相手の出方を待っていると、
「えり好みしている暇はないのではないかしら?」
「……はい?」
何の脈絡もなく、誠隆に向かってそう言った。
相手の意図が分からず瞬きだけして固まっていると、彼女は扇を口元に当てて上から下までまるで品定めするかのように誠隆を見る。
あまり気分の良いものではなかったが、黙っていると彼女は『ふむ』と何か納得したように頷いた。
「ねぇ、アナタ職がないんでしょ?」
「ま、まあ、職安にいますからね」
「30社くらい落とされたって顔をしているわ」
「どんな顔ですか」
「どうせ自分の可能性とか信じて、良さそうなところばかり選んでたんでしょ? そんなプライドは、さっさと捨てて受かるまでとりあえず受けてみるっていうチャレンジ精神が最近の若者には無いから困りますわ」
「……ごめんなさい」
出会って間もない人間に説教された。
まあ、確かに一理あるので誠隆も何も言い返せない。
口ごもる誠隆に彼女は優しい笑み?を浮かべると、冊子を手渡してくる。
それは、どう見てもボーダー商事の企業紹介用のパンフレットだった。
「というわけで、この会社受けてみなさい」
「え?」
誠隆は言われたことを理解するのに時間がかかった。
唐突に何を言い出すのかと思えば、何のつもりなのか。
怪しくて余計に受けたくない。というか怖くて絶対に就職したくない。
「ボーダー商事。うん、良い名前。才気に満ち溢れた、すばらしい企業名ですわ」
「いや、だから」
「これ、面接会場までの地図ですわ。面接は明日の12時からだからちゃんと来てくださいね。あ、この履歴書は貰っていきますわ」
「ちょ、ちょっと…!?」
だが誠隆が断ろうとする暇さえ与えず、怒涛の勢いで言うだけいうと彼女は去っていってしまった。
一体なんだったのだろうか。
颯爽と去っていく後ろ姿を、誠隆は唖然としながら見送る。
パンフレットにはやたらポジティブを前面に出した、綺麗ごとだらけの文章が書いてあるのが軽く見ただけでも分かる。
全く読む気になれなかった。
「……これ本当に受けるのか?」
練習で書いたつもりの履歴書だったが、勝手に持って行かれてしまっている。
誠隆がため息を吐きながら適当にパンフフレットの中身を流し読みしていると、ふと中に挟まっていた一枚の名刺らしきものを見つけた。
そこには先ほどの女性の顔写真と共に「株式会社 ボーダー商事社長 八雲紫」と書かれているではないか。
見た目から年齢は同じくらいのように見えたが……世の中分からないものだと誠隆はしみじみ思った。
…
「ここか」
次の日。
誠隆は指定された面接会場があるらしいホテルの前に立っていた。
近くでも有名な高級ホテルで、セレブ御用達という奴である。
たしか有名な外国の映画俳優が何人も宿泊したこともあるとか。
結構すごい会社なのかとか思ったが……しばらく考えてないな、と誠隆は頭を振った。
「あー……帰りたい」
あんな強引に行くことを強要されて、こうやって馬鹿正直に来るのもなんだったのだが一度交わした約束は違えないというのが死んだ祖父との約束だった。
という建前があるが、本当の理由は単純に行かなかったら家まで来られそうで怖かったというだけだ。
少し喋っただけにも関わらず、あの八雲紫とかいう社長は油断ならないと誠隆は本能的な何かが告げている気がした。
出会っただけで、生命の危機を感じたのは生まれて初めてだった。
とりあえず、受けるだけ受けてみよう。
そうポジティブに考えることにして、誠隆はホテルに足を踏み入れた。
ホテルのカウンターで受付を済ませると、部屋の場所だけ教えられたので早速向かう。
その道中、何故かホテルの従業員達から哀れんだ目を向けられていた気がするのは気のせいではないはずだ。
試験を受ける前に憂鬱になるとか勘弁して欲しかった。
一体どんな悪評を撒き散らしているのか。不安だけが募る。
そうこうしているうちにたどり着いたのは大広間のある入り口だった。
扉の前には『株式会社 ボーダー商事面接試験会場』と張り紙もしてある。
この会場、入り口の大きさから見ても結婚式の披露宴を開くレベルである。
一体ここで何をする気なのか。そんなに面接を受ける人間がいるのだろうか。
確かに、記載してある条件"だけ"は良かったので受ける人は多そうではある。
だが、ここまでの道中と今この場所に自分と同じようなスーツを着ていかにも試験を受けに来ました的な人間は誰一人いなかった。
別に、人数の限定はしてなかったはずだが。
思った以上に応募が無くて少数しか受けないとか、そんな所だろうか。
それとも、誠隆だけが知らないだけでとんでもないブラック企業とか。
もう早く終わらせて帰ろうと誠隆は意を決して馬鹿でかい扉をノックした。
「どうぞ」
すると扉の中から声がした。やはり間違いではないらしい。
誰も居なければ良かったのに、と思いながら誠隆は『失礼します』と一言言って部屋に足を踏み入れた。
「ん?……は?」
――目の前には何もない空間が広がっていた。
目をこすって何度見ても、そこは何もない。上も下もない。ただ果てがない空間。
だが、不思議なことに床がないにも関わらず落ちる気配はない。
なんだこれは。
理解不能な出来事に誠隆は身の危険を感じて後ろを振り向くが、そこにはあるはずの扉もなかった。
「と、閉じ込められた……!?」
本当に何がどうなっているのか。
誠隆は焦りながら何かないかと探してみると、無限に続くその空間の先に一つだけぽつんと色があることに気づく。
それは徐々に大きさを増しているようだった。誠隆の方に近づいてきているのだと直ぐに悟る。
逃げたい衝動を何とか抑えながら誠隆は目を凝らしてみた。
すると、それはどうも人のようだった。というか、徐々にはっきりしてきた顔に誠隆は見覚えがあった。
「時間通りね。早すぎもせず遅すぎもしない。好感が持てますわ」
そこにいたのは昨日の女、社長の八雲紫だったのだ。
服装は昨日のスーツとは違い、映画の中の仙人が着ているような導士服とでも言えばいいのか、コスプレ見たいな衣装に身を包んでいる。
紫は誠隆を見ると満足げにうなずく。
「あの、これはいったいどう言う!」
「どうもこうも、面接ですわ」
「め、面接!? これが!?」
紫が、何を言っているのか分からない。
面接など急に言われても、絶対に信じられない。
夢でも見ているんだろうか。
こんなあまりにも現実離れしたこと、漫画やアニメの中の出来事だ。
しかし、紫の表情を見る限り冗談を言っている風でもない。
これは、現実なのだ。リアルなのだ。ノンフィクションなのだ。
実はドッキリでしたとかで誰か出てこないかと期待してみるが、よくよく見れば明らかに隠れる場所なんてなく。
誠隆は頭を抱えた。
「ええ、まあ。もっともアナタは既に合格していますが」
「へ?」
「履歴書見ましたがアナタ、料理が得意だそうですわね。実は最近、料理人を探していたのですけれど、生きのいい若い人が見つからなくて困っていたの」
「お、オレは別に資格とか持ってないですよ?」
「いいのいいの、あそこで資格なんて何の意味もありませんわ」
「あそこって何処!?」
なんだか丸め込まれている。人の話を聞いてくれない。これはいけない。
何としても逃げなくては、と誠隆は後ろを振り向くが扉はやはりなく。
絶望に打ちひしがれている誠隆の顔を見て、紫はニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「逃げ道なんてありませんわ。もう、離さないんだから音符」
「音符って口で言った! ていうか、拉致だ監禁だ! 警察に通報だー! と思って携帯を取り出したけど、どう見ても圏外だー!」
「もう、男がごちゃごちゃいうのはみっともないですわ。ほら、さっさと、行ってしまいなさい」
「は?」
と、不意に感じた浮遊感。物凄く嫌な予感がして足元を見る。
すると、どうしたことだろう。足元には、見慣れぬ風景が広がっているではないか。
どう見ても空の上だった。
あと既に重力に引かれて、誠隆は自分が落下しているのが分かった。
「」
「ようこそ、幻想郷へ。歓迎いたしますわ」
紫が何か言ったような気がしたが、誠隆はとっくの昔に処理能力の限界にきていて、言われたことを理解する余裕もなく。
落ちた。これでもかというくらい落ちた。
地面と熱いベーゼを交わすために。
――こうして、白南風誠隆は幻想入りを果たした。
これから、始まるのは一人の男の一生の中で起こった苦難と女難と悪運に満ち溢れた御伽噺である。