「もー! 私のばかばかばかぁーっ!」
時刻は十七時を迎える頃、ルーレ駅からノルド高原のゼンダー門へ走る貨物列車の中。窓際の席に座っていたアリサは列車の窓を開けると、見渡す限りに広がる大草原へ向かってこれでもかと言うほど叫んでいた。アリサの心境を察しているリィン達は皆その様子に苦笑いを浮かべており、ため息をつきながら席へ座る彼女を慰めている。
実家から離れたくて入学した士官学院が、実は母親が常任理事をしていたとなると、そのショックたるやかなりの大きさだろう。
少しばかりどんよりした雰囲気が皆の間に流れ、とにかくその悪い空気を変えようと思ったグランは外の景色に目を移しながら口を開いた。
「ノルドか……かなり広いな」
「ああ、どこまで広がっているんだろう」
「ふふ、それは列車を降りてから言ってもらおうか」
列車の窓から見える蒼穹の大地を前にグランとリィンが各々感想を呟き、ガイウスはその言葉に笑みを浮かべながら続いた。ガイウスにとっては実に三ヶ月振りの故郷ということもあり、家族や知り合いに会える今回の特別実習は楽しみだったであろう。
程なくして貨物列車はゼンダー門へ到着し、列車が停止した後に一同は降車した。
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ゼンダー門にて列車を降りたリィン達一向は、右目に眼帯を着けた軍服の男による出迎えを受ける。ガイウスは男の事をよく知っているのか親しげに会話を行っており、その様子にリィン達は置いてけぼりにされていたが、グランは一人男の事を興味深げに見ていた。ガイウスは忘れていたとばかりに男の事をリィン達に紹介しようとするが、先にグランが発した言葉によってその紹介は不要となる。
「ゼクス=ヴァンダール……リベールの国境から飛ばされたかと思えば、ここで会うことになるとは思わなかったな」
「ヴァンダール……!? そうか、思い出した。隻眼のゼクス……アルノール家の守護者だ」
帝国において、ラウラの扱うアルゼイド流と双璧をなす流派にヴァンダール流というものが存在する。リィン達の目の前にいるゼクスという名の男はそのヴァンダール流の使い手であり、代々皇族のアルノール家を守る事で知られるヴァンダール家の人間。隻眼のゼクスという名は、『アルノール家の守護者』、帝国で五本の指に入る実力者という事で帝国内外でもかなり有名だ。リィンの言葉にゼクスは謙遜をした後、グランの正面へと歩み寄って彼の顔を訝しげに眺める。
「……悪いが初対面ではないか?」
「実際顔を合わせるのは初めてだ。二年前のリベールの姫様……今は王太女ですか。あの時のやり取りは遠くから拝見させてもらった」
怪訝な顔で問うゼクスへ、グランは少し不機嫌そうに答える。リィン達はグランの機嫌が悪くなった事も含めて今の状況をいまいち把握出来なかったが、ゼクスは直ぐに彼の話を理解した。ゼクスにとって、二年前のリベール王国の王太女と行ったやり取りと言えば一つしかない。
グランが話している内容……それは『リベールの異変』と呼ばれる、二年前に突然リベール一帯から帝国南部にかけて
因みにグランのゼクスに対する態度や言葉遣いに若干の棘があるのは、ゼクスの容姿が少し関係したりするのだが彼らには知るよしもない。
「フ……王太女達と同行していたのか?」
「違うっての。知り合いで姫様のストーカーやってる奴がいるんだが、そいつの付き添いで眺めていただけだ」
お陰でオレまでストーカー呼ばわりされただとか、グランセルで手伝ったばっかりに怪盗扱いされただとかぶつくさグランは愚痴り始めるが、話が段々横道にそれていきそうだと感じたリィンが直ぐに彼を宥めてその場は収まった。
その後ゼクスの案内によりA班一行はゼンダー門を出ると、外に広がるノルド高原の地へ足を踏み入れる。景色を視界に捉えて直後、リィンは思わず呟いた。
「はは……これは凄いな」
余りの景色に圧倒され、リィンはありきたりな言葉くらいしか出てこなかった。列車の車窓からも見えていた山々に囲まれた雄大な草原はいざ目の前にすると圧巻の一言で、夕刻を回った今の時間は茜色に染まった空の下動物達の鳴き声がこだまし、そこには帝国内で決して拝むことができないであろう大自然が広がっている。
皆が一様にリィンと同じように感嘆の声を漏らし、ガイウスがそのリアクションに満足そうに頷く中、一同の後方からゼクスが近寄ってきた。そして彼の後ろには、ブルブルと喉を鳴らす六頭の馬が待機している。
「伝え聞いた通り、こちらで馬を用意しておいたぞ」
「中将、ありがとうございます……というわけでここノルドの地では馬が主な移動方法になるのだが、乗れない者はいるか?」
ガイウスの声に、リィンとアリサ、ユーシスの三人は経験があるから問題はないと答えた。反対にエマは馬術の心得がなく、乗ることが出来ないとの事。そして最後に、ガイウスの視線はグランへと向けられる。
「グランは乗れるのか?」
「馬は乗った事がないな……まぁ、似たようなやつなら乗った事あるからたぶん大丈夫だろ」
ガイウスの問いに、グランはどこか別の方向へ視線を向けながら答えていた。そんなグランの様子に首を傾げた後、リィン、アリサ、ユーシス、ガイウスの四人は傍で待機していた馬に手慣れた動きで乗り上げ、繋がれていた手綱を握り締める。一人戸惑っているエマに後ろへ乗るようにアリサが促し、五人の出発する準備が終わった中、グランは未だに一人だけ意識を別の所へ向けていた。
「(しっかし、ここに来てカルバードとの国境ねぇ……何もなければいいが、一応の準備はしとくか)」
「グラン、そろそろ出発するぞ」
「……悪い、今準備する」
馬上から発せられたリィンの声にグランは手を挙げて答えると、四人が行っていた要領でわりとスムーズに馬の上へ乗り上げた。そして全員の準備を確認した先頭のガイウスの声を皮切りに一同が乗っている馬は駆け出し、手綱を握られた五頭の馬は風を切りながら青々と染まった大地の上を疾走する。
大自然の中を走る感覚というのは実に心地の良いものであり、各々が草原の上を走る感想を笑顔で話している中、グランだけは輪の中に混ざらず前を走るアリサとエマの姿を……正確には、風によって棚引くスカートへとその視線を集中させていた。時折見え隠れするスカートの中を視界に捉えては、物凄く嬉しそうに笑顔を浮かべている。
「(いやー、目の保養になるわー)」
「うぅ、早くも腰が──ってちょっと!? グランさん一体どこ見てるんですか!?」
「何にも見てない見てない。委員長の下着が黒いなんてオレは知らないぞー」
エマの悲鳴が響いて直後、状況を察したアリサが馬の走る速度を抑え、上手い事グランの後方へ回り込んで彼の視界から逃れた。馬の扱いに慣れていないグランが同じような事を出来るはずもなく、舌打ちをしながら悔しそうに表情を歪ませている。一方アリサは怒りで手綱を握る手が震える中、前を走るグランに向かって眉間にシワを寄せながら声を荒げた。
「グラン、あなた後で覚えてなさいよ!」
「リィン! アリサの下着はピンクだったぞー!」
「そ、それ以上喋るなあぁぁぁ!」
顔を真っ赤に染めたアリサの絶叫がノルドの地にこだまする。暫くして一同は宿泊先のガイウスの実家があるノルドの集落に到着するのだが、到着して直ぐグランが二人から追いかけ回されたのは言うまでもない。
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ノルド高原は、エレボニア帝国北東部に連なるアイゼンガルド連峰の先にある異境の地として知られる。カルバード共和国との国境に位置するこの地は現在、帝国と共和国との間で領有権を主張し合っており、未だにどちらの国にも属してはいない。そのためノルドの地には帝国と共和国双方の軍事施設が建てられ、両国の間では常に緊張感が流れていた。
歴史的な背景を見ても、ノルド高原は帝国中興の祖として知られるドライケルス大帝が獅子戦役の折に挙兵した場所とされ、帝国に所縁のある地である事を考えると、帝国側が領有権を主張するのは間違ってはいないのだろう。しかしそれが理由で帝国のもの、と扱う事は共和国側にとっては非常によろしくない事も理解できる。そんな両国間の板挟みを受けているノルドの住人達だが、彼らにとってその辺りの事情はさして重要ではなかった。
帝国であろうと、共和国であろうと彼らの独自の生活が変わる訳ではない。ノルドの地が脅かされない限り、どちらの国に属そうが特に問題はなかった。
しかし、現在ノルドの地が置かれている状況に危機感を覚える者が現れる。ガイウス=ウォーゼル、リィン達《Ⅶ組》の一員であるガイウスだ。彼はノルドで過ごす折、定期的に勉強を教えに訪れる七耀教会の巡回神父から様々な話を聞き、これまでの歴史の中で国同士の争い事に巻き込まれて荒廃した土地や消えた部族がいることを知る。
そしてガイウスは焦った。帝国と共和国が牽制し合っている現在の状況、まさに話に伝え聞いた通りの流れではないかと。家族や仲間と過ごすこの平和も、いつの日か壊れてしまうかもしれない。彼はノルドのこれからを危惧し、直ぐにでも外の世界を知らねばという考えに至った。
「それが、この士官学院に入るに至った経緯だ」
時刻は既に午後九時を回っている。リィン達はノルドの集落に着いてガイウスの家族から手厚い歓迎を受けた後、用意されたテントに移動してガイウスから士官学院に入学した動機を聞いていた。
皆がそれを聞こうと思った理由は実に簡単なもの。ガイウスの実家で料理を振る舞われている時、彼の両親、三人の弟や妹達に囲まれながら嬉しそうに頬を緩めるガイウスの姿を見て、何故こんな幸せな場所から離れてまで士官学院に入学したのかが不思議に思ったからだ。
話を聞いて、皆が考えていた以上にガイウスの入学した理由は現状を見つめているしっかりとしたもので、一同は今面を食らっているわけだが。
「すげぇな……そりゃあ慕われるわけだよ。やるな、ガイウスあんちゃん」
リィン達と同様に話を聞いていたグランは、ガイウスの顔を見ながら感心したように話す。
家族を、仲間を、大切な人を守るために恵まれた場所を飛び出したガイウスの行動は非常に勇気のあるもので、リィン達は皆感銘を受けた。
因みにグランが名前に付け足したあんちゃんというのはガイウスの弟や妹達が彼を呼ぶときに使っているもので、グランにそう呼ばれるのは少し違和感があるのかガイウスは苦笑いで返している。この後妹達に呼ばれているということらしくガイウスはテントを去り、残りの一同は先の話に刺激を受けながらも今日はもう寝ようという事でカーテンを境に男子、女子それぞれ用意されたベッドへと潜り込む。そしてグランも同じくベッドの中に入ろうとしたのだが、突然カーテンの向こうからエマが出てきて彼の動きを制する。
「グランさん、待って下さい」
「どうしたんだ? まさか委員長、漸くオレと添い寝する事を許して……」
「ち、が、い、ま、す! グランさんはこれで寝てください」
そう言ってエマの手からグランに渡ったのは、誰がどう見ても屋外で使用する寝袋だった。グランはそれを暫く無言で見つめた後、苦笑いを浮かべながらゆっくりと彼女の顔へ視線を移す。
「いやいや、冗談だろ?」
「いやいや、本気ですよ?」
「いやいやいやいや」
「いやいやいやいや」
またしても沈黙が流れる。寝袋を持つグランの手は震え始め、徐々に彼の体全体が振動を起こし出した。カーテンの向こうからはむにゃむにゃとアリサの寝言が、近くにあるベッドの上では話し声に体を起こしたリィンとユーシスが無言で二人の様子を眺めている。そしてエマが満面の笑みで構える中、グランは震えながらもゆっくり歩き始めてやがてテントの外へと退室。エマもカーテンの向こう側へと入っていき、その様子を見ていたリィンとユーシスは気まずそうに顔を見合わせた。
「グラン、大丈夫なのか?」
「知らん。それに先月のバリアハートでの一件を考えれば当然の報いだ……まあ、流石に少しやり過ぎな気もしないでもないが──」
──誰が仲間だこんちくしょおおおぉぉぉ!──
「……」
「そっとしておけ。俺達も寝るぞ」
外から聞こえてくるグランの叫び声にリィンは顔を引きつらせ、ユーシスは何もなかったかのようにベッドへと潜り込んだ。直ぐにリィンもベッドに潜り、暫くして二人は寝息を立て始める。
特別実習初日の夜は、一人の心を完全にへし折る結果となった。
満面の笑みを浮かべる委員長とか恐い、グランこの後大丈夫だろうか……
エステル達がグランセルを駆け回る原因になった怪盗Bの一件、そしてクローゼが大きく飛躍する出来事でもある場面にはグランもいました。何だかんだでグランとブルブランは仲が良い設定になっています。おかげであらぬ誤解を彼女達から受けていますが。