「……月に、海なんてあったのね」
砂浜に膝を抱えながら座っている一人の少女は、目の前に広がる広大な海ーー月人に『豊かの海』と呼ばれる海を見つめながら、ぽつりと呟いた。彼女の名は博麗 霊夢。博麗神社の巫女である。
いつも元気ーーという訳ではないけれど、比較的前向きな彼女がここまで沈んでいるのは、一つの理由があった。
話は数時間ほど前に遡る。
月へ向かうロケットに乗客員七名が乗り込んでから、実に十二日が経過した。五日目の時点で三段目ーー一番狭い『ミンタカ』に移っていた乗客員は、最初こそ元気一杯だったのだけれど、かなりストレスが溜まっている。
その中でも、吸血鬼レミリア・スカーレットは特に苛立っていた。
「……いつになったら着くのよ!? 運動不足になるでしょうが!!」
行き場のない誰かへの怒りは、彼女専用に作られた木製の机に向けられた。みしり、と木材が軋む嫌な音が響く。
あぁっ、と咲夜が慌てた。
「お、お嬢様。お止めください。机が壊れてしまったら、月に着くまでお嬢様は床に座っていなければならなくなります!」
「その時はあんたが時でも止めて直しなさいよ咲夜!!」
「そ、そんなっ!?」
幾ら『完璧』と謡われる咲夜でも、流石に出来ないことはある。
現在、ロケットに備え付けられてる道具では、机の修理は限りなく難しいことである。特にレミリアは吸血鬼であるから、その力で木っ端微塵にでもされたら、それこそ修理不可能だ。
そんな理由が分かって言った訳ではないけれど、ここで魔理沙は、レミリアに悪態を吐いた。なんとなく咲夜をフォローしたように見えなくもない。
「なんだよ運動不足って。お前、いつも紅魔館の椅子に座っているだけの癖に」
『(笑)』と付いていそうな言い方だった。
「何よ魔理沙! それは挑発かしら! 喧嘩売ってんの!?」
「売ってねぇよ。かっこ笑い」
「むきー!」
今度は本当に付いていた。
「完全に煽ってるじゃない! ふざけないでっ!!」
「うぉっと!?」
「ふざけないでっ!!」と叫んだ瞬間、レミリアは魔理沙に殴りかかった。唐突な強襲だったが、魔理沙は紙一重で避けるーーも、続いて襲いかかる剛腕。流石に回避不可能に近い攻撃だったのだが……あろうことか、ここで魔理沙は、近くに居た妖精メイドを盾にした。
突然引っ張られた妖精メイドAは当然防御することも出来ず、直撃。「ふぎゃっ!」なんて悲鳴と共に、妖精メイドAはダウン。
「隙ありっ!」
そう呟くと、魔理沙はレミリアの腕を抱え込み、ぐるりと反動を付けて回る。それに引っ張られたレミリアは、遠心力的な何かで宙に浮いた。それを振り回す。
幾ら吸血鬼と言えど、肉体はまだ幼い少女である。魔理沙が振り回せるくらいには軽い。
「ちょ、ちょぉ!? 何すんのよぉっ!!」
「はっははっははははは! ざまぁないぜ!」
この場に想也が居たなら『君はニュータイプか!』なんてツッコミが飛んで来そうなところだけれど、事実、彼はここに居ないから、そんなものは飛んで来ない。反応するのは咲夜とレミリアくらいだ。
……この間、妖精メイドBとCは、Aの治療をしていた。仲間思い。
「ま、魔理沙! 止めてください、お嬢様がぁっ!!」
「嫌だね! こいつが謝らない限り、止めない!」
「誰が謝るか白黒ぉ!」
「うるせぇよカリスマかっこ笑い! ロリ! 想也に好かれそうな体型!」
「あんですってぇ!?」
自然な流れで想也がロリコンと言われていたが、その辺りは全員に知れ渡っている事実なので、誰も特にツッコまなかった。
切れたレミリアは、自身の腕を掴んでいる魔理沙の腕を自らの左腕で掴んだ。「お?」と魔理沙が疑問符を浮かべたのも束の間、レミリアは強引に魔理沙の腕を引っ張り、自分と位置を入れ替える。
形勢逆転とは、まさにこのこと。
「さぁ魔理沙。覚悟しなさい」
笑顔でレミリアは言う。
「……ご、ごめ」
「どっせぇぇぇぇい!!」
「うわあぁぁあぁぁあ!!」
謝罪すら言わせない。
レミリアはその場で、先程自分がされたのと同様に、魔理沙を振り回す。勢いがついた瞬間、掛け声と共に投げ飛ばした(狭いロケットの中の出来事)。
その先には、ロケットの制御を行っている霊夢が。
「やば、霊夢避けろ!」
「え? ……えぇっ!?」
状況を理解した霊夢は回避行動を取るが、流石に気付くのが遅すぎた。間に合わない。どんがらがっしゃーん、なんて擬音が似合う感じで、二人はロケット内を転がる。
霊夢の制御がなくなったことにより、ロケットが大きく揺れる。
「お、お嬢様! 霊夢の方に投げてはいけませんよ!」
「……そ、そうだったわね。えへ」
「お嬢様ぁ!」
「テヘペロ☆」と笑うレミリアを見て、咲夜は頭を抱え、この状況を打開する方法を考える。
……しかし、咲夜が考えても、打開作は浮かばない。当然である、制御方法を何一つ知らないのだから。咲夜の必死の思考も虚しく、ふらふら、ふらふらと、まるで酔っ払いのような軌道を描き、ロケットは落ちていく。
「つぅ……! も、もう立て直すのは無理だわ! 幸運なことに月は近いらしいから、後は運に任せましょう!!」
唯一制御方法を知っている者から放たれた諦めの言葉。咲夜は四つん這いになって絶望した。
「お、おい嘘だろ!? 頑張ってくれよ霊夢ぅ!!」
「元々はあんたとレミリアのせいでしょーがぁ!!」
と、霊夢が叫んだところで、激しい衝撃が乗客員を襲うーーというか、ロケットがひっくり返った。そのままロケットは加速、海に突っ込んだ。
ロケット、爆散
「……思い出しただけで腹が立ってきたわ」
これまでの経緯を回想した霊夢は、月に墜落した原因となる二人(魔理沙とレミリア)に大きな怒りを覚える。
ーーと言っても、仮に二人が邪魔をしていなかったとしても、どの道ロケットは海に突っ込んで大破していたから、あまり大きな違いはなかったのだけれど。
「よ、霊夢。なに黄昏てんだよ?」
背後から聞こえた声に、霊夢は振り向く。
視界に入ったのは魔理沙。へらへらとした様子に、霊夢が更に怒りを覚えたのは言うまでもない。
「あんたとレミリアのせいよ。ほんっとに能天気な奴らね!」
「おいおい、流石に酷いぜ。私はレミリアに投げられただけ。被害者だ!」
「投げられるようなことをしたからでしょ、馬鹿魔理沙」
「してないぞ?」
「……もういいわ」
呆れた、と溜息を吐き、豊かの海を眺める作業(?)に戻る霊夢。へへ、と魔理沙は笑い、霊夢の横に腰かけた。
「いやぁ、それにしても海は綺麗だな。幻想郷にもあればいいのに」
幻想郷に海はない。
幻想郷はとある山奥に存在している。『大結界』のおかげで外からは見えない、というだけで、確かに存在しているのだ。……しかし、それ故。山奥に存在する為に、『海』というものがない。湖や川、滝はあるけれど、それはやはり違うだろう。
「……どーせ、海坊主とか骨鯨とか、その辺の妖怪が出るだけでしょ」
少なからず、霊夢も海には興味があるけれど、幻想郷は人間だけでなく、妖怪も住む場所である。海で海水浴等してみたい気持ちはあるが、妖怪退治が面倒、という気持ちの方が、霊夢には大きかった。
「夢がないなぁ」
「0夢(れいむ)だからね」
「…………」
「……流石に寒かったかしら」
霊夢が呟いた瞬間、冷たい風が吹いた気がした。
「……気を取り直して、釣りでもしてみましょうか。道具ある?」
「ある訳ないだろ。手掴みでやろう」
「了解」
手掴みでやる釣りを、果たして釣りと言えるのか。
……幻想郷の住民は常識に囚われない。恐らく彼女達の中では、『魚を取る=釣り』なんて方程式が成り立っているのだろう。
と、そんなこんなで霊夢と魔理沙がいざ海に出陣、と袖を捲ったところで……。
横から、何者かの声。
「生憎だけれど、豊かの海には何も棲んでいない」
霊夢と魔理沙は、二人同時に声のした方を向く。
そこに居たのは、長い刀を持った、大人らしい雰囲気を漂わせる少女。
「いいえ、豊かの海だけではない。月の海には生き物は棲んでいないのです」
「……そいつは残念だな」
苦笑しつつ、魔理沙は頬を掻く。
「ところで、物騒だぜ、それ」
刀を指差して言った魔理沙を、少女は無言で見つめる。「うっ」と、無言の圧力に気圧され、後退したのを見ると、少女はすぐに魔理沙から視線を外し、今度は霊夢を見つめて言った。
「……住吉様を呼び出していたのは、貴女よね?」
「そうだけど」
少女の問いに、霊夢は動揺する素振りも見せず(というかしていない)、いつも通りに返答してみせた。その返答を聞いた少女は、ふっ、と鼻で笑うと、刀を素早く持ち直し、砂浜に突き刺す。
その動作に何かを感じた二人は、咄嗟に砂浜を蹴っていた。
「っ!」
先程まで自分の居た場所から、無数の刃が突き出てくるのを見て、魔理沙は息を呑む。……が、これだけでは終わらない。
「魔理沙、来るわよっ」
「わ、わかってらい!」
二人は着地すると同時に、再び砂浜を蹴った。刹那、二人の着地点から無数の刃が突き出てくる。寸前で回避した二人は、霊夢は能力で空を飛び、魔理沙は箒を取り出して(マジックアイテム。コンパクトになる)同様に飛翔。刃からは逃げ切ったーーかと、思いきや。
「……マジかよ」
刃に囲まれ、冷や汗をかきながら、魔理沙は呟く。
刃のリーチは、二人の予想を遥かに越える程に長かった。
「……女神を閉じ込める『祇園様』の力よ」
二人が動けないでいると、余裕そうに笑みを浮かべた少女が呟いた。
「人間相手に使うこと、なかったかしら?」
彼女は綿月 依姫。
八百万の神々を降ろすことの出来る、月の民である。