想也が呆然としていたのは、小傘が血塗れになって倒れている光景を現実として捉えられなかったから、とか、決して、そんな理由ではない。寧ろその時、想也はハッキリと、“小傘が血塗れになって倒れている”ことを現実として捉えていて、それを夢として見よう、なんて思考は、心の浅い所にはどこにもなかったし、深い所を隈無く探しても、そんな思考が見つかることはなかった。
だから、この時想也が呆然としていた理由は、それとは全く、違うものだった。
「............」
多々良 小傘という、自分が好意を抱いているはずの彼女が血塗れで倒れている状況を見て、『嫌だ』とか、『嘘だ』とか、そんな感情はまるで抱かず、あろうことか、『悲しい』という感情すら、抱くことが出来なかった。
いつもの彼だったなら、発狂しても可笑しくはなかったであろう、そんな最悪の光景を目の当たりにしたのにも関わらず、彼の心は、一切の揺らぎを見せなかった。いつも通り、毎日の朝食である、美味しいとも不味いとも思わない食パンを食べている時と同じくらいの気持ちで、想也は、その光景を見つめていたのだ。
だから、彼が呆然としていたのは、やはり小傘が血塗れになっている光景を現実として捉えられなかったから、ではなく。
そんな光景を目の当たりにしても全く動ずることの出来ない自分自身に、呆気に取られていたから、なのであった。
だからこそ彼は。
“黒橋 想也”であるはずの少年は、呟く。
「――僕は、誰だ?」
「君は『ボク』だよ。そして、『ボク』は『僕』だ」
横から自分の声がした。
声がした方へ振り返る――そこには、想也にそっくりな少年が、気味の悪い笑顔を浮かべながら佇んでいた。どうして、と想也は辺りを見回す。そこは、既に真っ白な空間と化していた。先程まで目の前に映っていた血塗れの小傘の姿も、そんな彼女を抱いて必死に叫んでいるぬえも、その場からは消えてしまっていて。
“あぁ、これは僕の心の中か”――そのことに気付くのは遅くなかった。
「スゴいだろ? いまや『ボク』は、無理やり『僕』を心の中に引き込むことすら出来るようになった。それだけ侵食が進んでいるということだろうね――君が小傘の姿を見て何も感じなかったのも、その影響だろうよ。大分思考が『ボク』よりになっているのさ。......とはいえ、まだベースはそっち。『僕』が気を張っていれば、あの場で発狂することも出来たはずだぜ」
「......そうかよ」
どうでもよかった。
どうせそんな情報を聞いたところで、一切メリットはない――精々、自分に残された時間がなんとなく分かる、という位のものだろう、メリットなんて。そんな情報は、知ったところでどうしようもあるまい。
後者なんて、知っていたら危うく発狂してしまうところであった。このタイミングで発狂してしまえば、それは終わりを意味する――まもなく想也は『ボク』に乗っ取られ、文との件に何のケリも付けず、想也は消えることになってしまうだろう。
それは絶対に
ハッキリと、そう思う。
「......ふーん。どうやら、決心がついたようだね」
「おかげさまで。その点と、西行妖の時のことだけは感謝してる。サンキュー」
「あっそ。勝手に感謝しとけ」
最初で最後の感謝だ。
「......じゃ、これで、ココで話すのは最後になるかね。じゃあな、『僕』」
「じゃあね、『ボク』。......また」
“また”
意識して出した言葉ではない。
想也は、次に話す機会があるということを、無意識に理解していたのだろう。
その事に対して「どうして?」と問われれば、今の彼は、考える前にこう答える。
「自分だから。......あれ」
◆◆◆
黒橋 想也の成すべきこと。
ケリをつけなければならないこと。
今、彼の目の前で大きく掲げられていることは『射命丸 文との関係』に関してのことだけれど、実際の所、他にもまだまだ、終わらせなければならないことが沢山あることを、想也は分かっている。
けれど、それはあまりにも多すぎて、今想也に残されているタイムリミットでは、とてもじゃないが全てを終わらせることは不可能だ。......だから想也は、その中でも特にやらなければならないことを――絶対に終わらせなければならないことを、一つだけ、終わらせることに決めた。
そう――“藤原 妹紅”
想也が狂わせてしまった少女との一件に、ケリをつけることを決めたのだ。
妹紅は当初、輝夜こそが自分の父が死んでしまった原因を作った者であると考え、復讐を決意した。
そのために、まずはその輝夜と並ぶために、行き倒れていた所を助けてくれた恩人を傷つけてまで、『蓬莱の薬』を手に入れた――しかし、それでも彼女は、まだごく普通の人間の少女。薬を口にする直前で、ある光景が、彼女の脳裏を過った。
――自分が、都で幸せに暮らしている光景。
勿論、その中には大好きな父は居なかったが、それでも、自分は幸せそうだった。
まだ、まだ間に合うのではないだろうか、と思う。今からでも、手に持っているこの薬を投げ捨て、都に戻れば、今見えた暮らしが、出来るのではないだろうか? 毎日美味しい物を食べて、格好良い貴族と結婚して、その人と儲けた子供たちと共に笑いながら過ごして――今なら引き返せる。そんな暮らしを得ることが出来る。
復讐なんてするより、そっちの方が、余程楽で、余程楽しいだろう。
――数秒の沈黙の後、妹紅は、薬を捨てるべく、腕を振りかぶって、
とある少年の言葉を思い出した。
『自慢みたいだけどさ、実は僕には、個性的な友達が沢山居るんだよ。僕を薬の実験台にする怖いおねーさんに、見た目は少女中身は神様の蛙ちゃん。毎日毎日僕を襲おうとしてくる鴉天狗や鬼に、常識を持っている白狼天狗と覚り妖怪とか。他にも色々居るんだけど、多すぎるからまた今度。ね、個性的でしょ?』
勿論、真意は定かではない。もしかしたら、ただの大嘘つきかもしれない。
......でも、それが仮に真実であったとしたら、どうだろう。そんな個性的な友達が沢山居るあの少年ならば、自分が不老不死の化け物になってしまった、と知っても尚、同じように接してくれるのではないだろうか。復讐を遂げ、自分が空っぽになってしまっても、それでも、自分を受け入れてくれるのではないだろうか――少年のことを思い出しながら、妹紅は思う。
それはただの希望的観測にしか過ぎない。
彼女はまだ知らない。あの日――かぐや姫が月に帰ったとされるあの日、そこに例の少年が居たことを。その少年の力があれば、妹紅の父や、他の皆を救うことだって、簡単であったということを、藤原 妹紅はまだ知らない。
そんなことを知らない妹紅は、まもなくして、少年の言葉を信じ、薬を口にした。
その薬の反動は、人間である彼女の身体が耐えられるレベルの物ではなかった。
口にした瞬間、彼女の全身に、隈無く激痛が走る――それは、声を出すことすら困難な、想像を絶する苦痛。それから彼女は一日近くその場で悶え苦しみ続けた。痛くて、痛くて、痛くて、それなのに意識が飛ぶことはなくて、勿論死ぬことすら出来なくて。早速、妹紅は一つ後悔した――やっぱり飲むんじゃなかった。
けれど、そう思った瞬間、少年の姿が瞼に浮かんでくる。
(......そう、やぁ......!)
彼を想うことで、妹紅は永遠に続くのではないか、とすら思わせるほど長すぎる痛みを耐えきった。
これが終わったら、私は想也に会いに行く。そして、受け入れてもらうんだ。そんな願望を思い続け、遂に彼女は、“蓬莱人”への仲間入りを果たしたのだった。
つまり、妹紅が“蓬莱人”になる決心を出来たのは、想也が居たから。
先述した通り、そうなる前の激痛を耐えきることが出来たのも、想也が居たから。
この時点で、妹紅の中の『黒橋 想也』という人物は、彼女の繊細な心を支えてくれる理想の存在となっていた――想也は、“妹紅”という人格を支える上で必要不可欠な存在となってしまっていた。勿論そんなつもりがあって言った訳ではないものの、結果的には、妹紅を狂わせてしまったのは、想也が何となく話した自慢話が原因だった。
あの言葉が、妹紅に“蓬莱人になる道”を選ばせてしまった。
そして、妹紅が想也に対して、一種の『依存』という感情を抱かせる原因となってしまった。
『復讐だったら、僕にしなよ。輝夜が帰るあの日、僕はあの場所に居た。......僕の力があれば守れたはずの君のお父さんも、他の皆も、僕は守ることが出来なかった。僕が殺したと言っても、過言じゃあないよ』
この言葉に関しては、想也が無責任過ぎた、としか言い様がない――そもそも、当時の彼の考えは甘すぎた。
想也は、この世界をゲームと捉えていた。『原作知識』という物を持っていたが故に、次に何が起こるのか、『設定』を知っていたが故に、想也はゲーム感覚で、その世界を生きていた。
次は人妖大戦が起こるぞ! 楽しみ!
次は諏訪大戦が起こるぞ! 楽しみ!
次は月の使いが地上に来るぞ! 楽しみ!
“楽しみ”
生死を分けかねない戦いや、歴史を大きく変えてしまうかもしれない出来事に楽しみだから、なんて、くだらないにも程がある理由だけで干渉し、神様から『特典だよ』と言われて貰った自慢のチート能力で、その出来事の内容や、酷い時は結果ですら変えていく。
『屑』――そう罵られても仕方のない行為である。
そんな幼稚過ぎる思考のまま。
その時も、想也は「次は妹紅が不老不死になってるぞ! 楽しみ!」なんて思いながら彼女に出会い。彼女の今の心境なんか、一切考えもせず。
無神経な言葉を放った。
理想の人物、『黒橋 想也』に、大きなヒビが走ったのは、言うまでもない。
しかし、彼女は不運にも、直前で、「想也と輝夜が友達」という情報を聞いてしまっていた――想也が、友人を大事にする人間であることも、彼女は知ってしまっていた。
だからこそ、彼女は現実から逃避する。
自分に都合の良い、想也を理想の人物として置いておくための解釈をする。
“想也は優しいから、友達が復讐の対象だなんて言われたら放っておけないはず。想也は輝夜を庇ったんだ――間違いない”
皮肉にも、復讐の対象は想っていた想也でした――なんて結末は嫌だから。だから彼女は、そう思うことで自己を保った。そう思い続けることで、想也を理想の人物として掲げ続けた。そう考えていれば、どれほど辛いことがあっても、どれほど厳しいことが待っていようとも、頑張り続けられると思っていたし、現に、彼女はその想いだけで、数百年の年月を越え、蓬莱山 輝夜に辿り着いた。
彼女は物凄い気迫で輝夜を攻撃し続けた。それは衰えることなく、寧ろ激しさを増す一方で、輝夜は防戦一方になり――数時間もの死闘の末、とうとう妹紅は、輝夜を追い詰める。
最後の一撃を放つ寸前、妹紅は、問う。
「お前が月に帰ると言われていたあの日。想也は、何してた」
「え? そ、想也を知っているの? ......想也なら、私と永琳が逃げるまでの間、屋敷に残って、足止めをしてくれていたわ。......そういや、最近会ってないわね」
返ってきたのは、望んでいない答え。
その日、妹紅の中で理想として存在し続けた『黒橋 想也』は、ぎりぎり形を保っていたソレは、木っ端微塵に砕け散る。それにより視認することすら出来なくなった細かな破片は、全く違う『黒橋 想也』となって、再び妹紅の中に組み立てられたのだった。
――そう、新たな憎しみの矛先としての、『黒橋 想也』が。
◆◆◆
「......と。ここまでが昔話。いやぁ、懐かしいねぇ――想也?」
少女は、にこりと。
本来ならば、美しいとか、可愛いとか、そんな風に誉めることが出来るはずの笑顔を浮かべたが、それを向けられた想也と呼ばれた少年からすれば、その笑顔は、そこまでほんわかとした空気のソレではないと、はっきり分かっていた――その裏に、憎しみや、殺意など、冷たい感情が秘められているであろうことを、何となくではあるのだが、理解しており、どうしてそんな感情が込められているのか、という理由も、勿論、分かっている。
「そうだね、妹紅。とても、懐かしい昔話だ」
黒橋 想也は今、迷いの竹林奥深く――永遠亭とはまた違う方向に建てられている一軒家に居た。
時間帯は夜。射命丸 文による多々良 小傘襲撃事件から数時間経ったのが今である。あのあと、想也は冷静に能力を発動させるが、案の定というかなんというか、彼の能力は発動せず。仕方なく、彼は小傘を抱え、急ぎ、ぬえと共に迷いの竹林最奥部に位置する永遠亭へ向かった。
出迎えたのは鈴仙。「あ、想也さん!? ど、どうも!」と緊張した様子で頭を下げる彼女だったが、想也とぬえの表情、そして想也の背中を見ると途端に表情を変え、永琳の下へと案内した。永琳はすぐさま治療器具を揃えると、鈴仙と共に、治療室へと入っていった。
そこで待機していた時に、想也は『ボク』と遭遇。
ぬえには「気を落ち着けるための散歩」と誤魔化し、想也は妹紅の下へと来たのだった。
「............」
つくづく、自分は屑だなぁ、と思う。
いくら裏であるとは言え、それでも自分であることには変わりはない――つまりそれは、他人が傷つこうともどうでも良いと思う自分が存在しているということに繋がってしまう、好意を抱いている人が傷ついてもどうでも良いと思う自分が存在しているということに繋がってしまう。
(......やっぱり、僕は屑だな)
他人が傷ついてもどうでもいい自分が居て、自分のせいで傷ついてしまった人が居てもどうでもいい自分が居る。今だって、傷ついた小傘を心配もせずに、傷つけてしまった文をどうにかしようとも思わずに、妹紅の所へ、自分は来てしまっている。
それは、堪らなく嫌なことだった。
――あれ。
けれど、堪らなく嫌だ、と思える自分も居る。
他人が傷ついてもどうでもよくない自分も居て、自分のせいで傷ついてしまった人が居てもどうでもよくない自分も居てくれた。小傘が傷ついたことがとても辛くて、心配している自分も居て、傷つけてしまった文をどうにかしなくちゃ、救わなくちゃ、と思う自分も居てくれた。
想也の中には、そんな想也も居たのだ。
......なら、その意識が残っている間に、少しでも、罪を償おう。
「......妹紅」
「? 何かな、想也?」
それが、残された時間で自分が出来る最善のことなのだから。
「謝っても、許してくれないであろうことは、分かってる。でも、言うよ――ごめんなさい」
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