白銀の刃が迫って来る。
当然だがそれで斬られれば人は死ぬ。実際のところ俺が死ぬのかは分からないが、アキはそれを知らないはずで、それなのに躊躇なく斬りかかって来た。
命の危機を前に体感速度は極めて遅く、思考は怒涛のように流れる。
徐々に近づくアキの顔は興奮で赤らんでいた。口元は弧を描き、振りかざされていた刀が今にも振り下ろされようとしている。
否が応にも対応を迫られる。杖を抜くか一瞬迷った。妹相手に刀を抜くのは嫌だった。殺し合いなど冗談ではない。だから一歩前に出る。
まさか自分から近づいてくるとは思っていなかったらしく、アキの顔に浮かんでいた笑みが崩れる。間合いを外されて、なお目標を外すまいと振り下ろされた刃に横から手を添える。
―――五の太刀『旋風』
白銀の刃が空を切る。呆然とし無防備になった手首を掴んで引き寄せる。そのまま倒れ込むように押し倒した。馬乗りになり、両手を抑えて身動きを封じる。
一連の流れの後、目を白黒させる妹の顔を苦々しく見つめた。
握りしめられた拳に手を重ねる。こじ開けようとしたが腕力では敵わない。アキが呟く。
「……すごい」
呟いた途端に目に輝きが満ちた。興奮に身をよじっている。あまり暴れるようなら多少の暴力は厭わないつもりだったが、拘束から逃げるつもりはないらしく、興奮で身を躍らせるばかりだった。
「凄い凄い! 兄上凄い! もっと弱いと思ってた! 今の私なら簡単に勝てるって! でも全然……やっぱり兄上は凄い! 凄いです!」
捲し立てられる内容に顔を歪める。いつだって褒められるのは好きじゃなかった。
そもそもの話、何も凄いことなどない。間合いを外された結果の歪な一太刀だった。五の太刀じゃなくても逸らすのは簡単だったろう。油断し切っていたから出来たことだ。
「俺の勝ちだ。刀をよこせ」
睨みつけながら出来るだけ高圧的に言い放つ。
潤んだ瞳と熱っぽい吐息。ゆっくり、見せつけるように、握られていた拳が開いていく。
手が開き切ったところで刀を奪った。よく知っている重みと感触。こんな状況なのに懐かしさすら感じてしまう。
感傷に浸っている暇はないと、急いで鞘に収めた。
白銀の刃が見えなくなって、ようやく一息つくことが出来た。
「……アキ」
「はぁい」
間延びした返事。小馬鹿にされたのかと思ったが、恍惚とした表情と妖しげな笑みに息を呑む。年に似合わない淫靡な雰囲気が感じられた。
「どうして、こんな……こんなことに……」
湿っぽい視線を受けながら、上手く言葉が出てこない。責めるべきなのか労わるべきなのか。そんなこともわからずに、辛うじて出てきた言葉は虚空に消え、いつの間にか自分自身に向けられていた。
自責の念に駆られて胸が痛む。
一体誰のためにアキは東に行き、誰のために人を殺したのか。
こんなことになってしまって、一体どうすればいいのか。
考えるまでもなく、今度は俺がアキのために出来ることをしなければならないだろう。
これが精神的な病なのか、それとも色付きの刀のせいなのか。治すためにもはっきりさせないといけないことは多い。
「俺は、俺だけは、お前の味方だから……どんなことがあっても……」
「はい?」
疑問符を浮かべる妹を見下ろす。
刀を奪ったのだから、いつまでも馬乗りになっている理由もないと腰を上げかけて、アキに胸ぐらを掴まれた。
そのまま上半身を起こしたアキは、俺を腰の上に置いて頬を撫でてくる。
「なんだか、勘違いしているようですが……あぁ、そんな兄上も愛おしい……。身体が疼きます……性欲って、凄いですね……」
恥ずかしそうに、それでいて隠すこともなく、アキは自らの下腹部を擦った。
「一つだけはっきりさせておきますね」と照れくさそうに笑う。
「私は、兄上を愛してます。一人の女として、貴方と言う男性を、心の底から。この世界の誰よりも。――――例えそれが
一拍置いて、「だから」と言葉が続く。目と鼻の先にあった笑みの種類が変わった。
「次は私と遊んでくれる?」
また、雰囲気が変わった。
直後に投げ飛ばされた。
座ったまま、腕を掴まれて、腕力だけで投げ飛ばされた。
化け物染みた力だった。
いくらなんでも普通ではない。この世界の常識に照らしてみても逸脱しているだろう。
投げ飛ばされた瞬間、辛うじて刀だけは胸に抱き、しかし杖は手放してしまった。
勢いを殺すためにゴロゴロと転がり、ようやく顔を上げた時には、アキは杖を手に取っていた。
杖の中に仕込まれていた直刀を引き抜き、何度か振ってみせる。そうして俺の方を見た。
「怪我はない?」
その問いには答えず、視線を外さないようにゆっくりと立ち上がる。そんな俺を見て、アキは満足そうに笑っている。
「……これは、なんの――」
「行くわよ」
言わせるつもりがなければ聞く気もない。その意思を明らかにするように、猛然と襲い掛かって来る。
最初は突き。次に斬り払い。細かく小さく、隙は最小限に。
先ほどは大振りだったからその分隙は大きかった。その反省を生かしているらしい。
男と女である以上、腕力もそうだが体力にも差がある。自ずと躱すにも限界がある。
このままでは早晩押し切られる。それを避けるためにも、身体は無意識に柄を握っていた。
「く、そ……っ」
思わず抜いてしまいそうになるのを理性で拒む。それを見咎められて、猛攻の合間に声をかけられた。
「どうしたの? 抜かないの?」
口調は平坦だが挑発にも思えた。歯を食いしばって耐える。抜けない。色付きの刀と言うのもそうだし、抜いたら最後、殺し合いが待っている。その予感がした。
「アキっ……!」
「違うわ。分かってるでしょう? ちゃんと呼んで?」
反撃はせず後退し続けた。その結果、木の間際まで追いつめられる。
「終わりね」
失望感を覗かせた声音。大きく頭上に振りかざされる刃。
今までにない大振りはこれ見よがしの隙だった。誘われているのは分かっていて、寸でのところで耐える。ゆっくり進む世界の中で、自分が斬られた後のことを想像する。……他に道はないのだと悟った。
刀を抜く。光に照らされて白い刃が露わになる。
居合の形だが三の太刀は使わなかった。話さなければならないことがあった。俺の反撃を躱すために大きく後退した、他ならぬ彼女と。
「あなたは……」
喉元まで出かけた内容を逡巡する。実に愚かで、冗談にしか思えない。直感にのみ支えられて言葉を発した。
「カオリさん、ですか?」
「その通り」
口元に薄く彩られた笑み。一見して不気味さがある。何を考えているかわからない。覚えのある雰囲気だった。
片手で顔を半分覆い隠す。項垂れてしまいそうになる自分を必死に鼓舞する。
常識に照らし合わせて、最も高い可能性を言及する。
「カオリさんの真似をして……」
「違う。まだ分からないの?」
自分の胸に手を当てながら言う。
「私はここにいる」
「……ありえない」
「いいえ。そもそもアキちゃんが私のことをあれほど語った時点で――」
「ありえないっ!!」
言葉を荒げる。違うと繰り返す。もうやめてくれと心が叫んだ。
「お前はアキだ。他の誰でもない! ちょっとおかしくなってるだけで……休めば、またいつも通りに……――」
「レン君」
哀れみの眼差しに我に返る。動揺し切って、いつの間にか肩で息をしていた。深く息を吸って落ち着こうとする。
「何をそんなに狼狽えているの? 言ったでしょう、奪うって。その刀で奪ったの。全てを」
「奪う……何を、言って……?」
「全てを。記憶も、意思も、命も。奪えるもの全て奪ったの」
また口元に笑みが浮かぶ。笑っているのは口だけで目は笑っていない。
「だから私はここにいる。アキちゃんの中で生きている。これからもずっと生きていられる」
「……アキ」
「いいえ。今はカオリって呼んで? ……ねえ、レン君」
笑みが深くなり、目は闇に沈んでいく。背筋が凍るような凄絶な表情に変わっていく。
「またぞろ不幸に見舞われたのでしょう? 救われないわね。あなたはそういう運命だから……。でも大丈夫。助けてあげられるわ。この刀なら」
その手に持つ直刀が白く染まっていく。同じくして、俺が持つ刀の色が抜けていく。
思い出す。母上が言っていた。母上の持つ刀は勝手に赤くなると。
それを聞いていたから、目の前で起こる出来事に驚きはなかった。むしろ得心がいった。やっぱりそうなるのかと。
「あなたの全てを奪いましょう。そうして救いましょう。そうすれば、私たちは一緒になれる。一人じゃないわ。永遠に一緒よ」
「だから」と言葉が紡がれる。
「大人しくしていて? ただ刺すだけだから。痛いのは我慢してね? 慣れているでしょう? 死ぬほど痛いのは」
一歩近づいてくる。その様子を見ながら、胸いっぱいに息を吸い込む。吸い込んだものと一緒に、溜まっていたものを全て吐き出した。
「……アキ、お前を拘束する。抵抗するなら手足を折ろう。必要なら刀を握れなくしよう。だから大人しくしてくれ」
それを聞き、アキは意外そうな顔つきになった。
「……出来るの? 言っておくけどアキちゃんは死んでない。今は私が表に出てきてるだけ」
「今のお前は様子がおかしい。言っていることはとてもじゃないが信じられない。だから――――」
脳裏に浮かぶ。前世の記憶を持ち、死んでも生き返った自分のこと。狐憑きと呼ばれる、再生を繰り返した猿。母上が語ってくれた、藤色の刀とそれに魅了された人たち。
「――――拘束して様子を見る。大人しくしろ」
この世界では俺の常識は通じない。あり得ない出来事が続いている。そもそも、男より女の方が強いと言う時点で非常識な世界だった。
他者の人格を奪ったと言う妹を見て、いよいよ自分と言う存在が分からなくなる。他者の身体に違う人格があると言う意味では、俺自身も似たようなものだ。そしてその一例がある以上、アキの言葉を世迷言と切り捨てるわけにはいかなかった。
「そう……それじゃあ戦いましょうか」
「戦いにはならない。知っているだろう。俺はお前の兄だ」
「ええ。知っているわ。か弱い男の子だってこと」
アキは笑う。舐められていた。
つい先ほど簡単に押し倒されたことは覚えていないらしい。仮に本当に人格が複数あるとするなら……いや、今はそれを考える時ではない。
刀を握り締め正面に構える俺に対し、アキは構えもしないで俺の行動を待っている。
それが望みならこちらから行こう。
足に力を込めて駆け出した。目の前の常識を打ち砕くために。