熱っぽい吐息を吐くアキ。
無表情に見つめるシオン。
二人の視線が交差して、睨み合いが続く。
緊迫した空気の流れる只中で、当事者の一人である俺は何も言えずにいた。二人を止めることも落ち着かせることも出来ずに狼狽えるばかり。二人をどうこうするよりも、まずは自分自身を落ち着かせるのが先決だった。
たった今、実の妹とキスをした。普通のキスならまだ良かったが、舌を絡める濃厚なのをしてしまった。
まだ口の中に感触が残っている。生暖かい感触だった。不快感と快感が同時にやって来て身体から力が抜けた。その余韻が未だに残っている。
私の物だと言ったアキの言葉を思い出して唾を飲み込む。知らない味がした。
「ふ、ふふ……ふふふ……」
睨み合いと葛藤。延々と続いていた沈黙を打ち破り、感情を押し殺した空虚な笑い声が響き渡る。
シオンの口から発せられたその声は、聞けば聞くほど不安を煽り、強張った作り笑いを目の当たりにして、一層不安が増していく。
「初めて? 初めてだって? おめでたいね。そんなの、とっくに僕がもらってるのに」
髪をかき上げて落ち着きのない素振りを見せながら、視線はあちこちを行ったり来たりしていた。動揺しているのは一目瞭然で、それを見て少し落ち着くことが出来た。
シオンの言葉の意味はよく分からない。張り合おうとしていることだけは分かったが、張り合う必要がどこにあるのか。
「……は?」
無視してくれればよかったのだが、まんまとアキは乗せられる。土俵に上がったアキに対し、にんまりとシオンは笑みを浮かべた。
「初めては僕の物だって言ったんだ。もっと情熱的なのをしたんだよ。レンの方から舌を入れてきてさ。貪り合ったんだ。口どころじゃない。身体の奥までね」
自分の下腹部に手を置いてうっとりとした表情を見せるシオン。意外と芸達者のようだ。
当然だけど、俺はシオンとそういう行為はしていない。セックスなどしていないし、あれをキスと呼んでいいかも微妙だ。あくまでも口移しに過ぎなくて、そもそも事前に了解はなかったのだから、そういう意味ではこの二人の行動に差はないと言える。
そんなことを知る由もないアキは愕然とした様子で硬直し、次の瞬間、怒りで吊り上がった眦が俺の方に向く。
責めるような視線にいたたまれなくなって目を逸らす。なぜだか罪悪感を感じた。悪いことをした気になる。何も悪いことなんてしていないのに。
シオンの笑みが深まり、ここぞとばかりに言い募ってくる。
「無邪気に勝ち誇ってたところ悪いけど、レンの初めては全部僕の物なんだ。もう何一つ残っていないんだよ」
「……っ」
屈辱で震え始めたアキと喜色満面で頬すら染めているシオン。
アキの反論がないことで、自ずと雌雄は決したように思う。女同士だから言葉のチョイスがおかしいかもしれないけど。
こんなものを間近で見させられた身としては恐ろしくて仕方がない。どうして俺はこんなところにいるのだろう。
「理解したのなら、さっさとレンを放せ。君みたいなのがレンに近づくな」
「……」
「聞いてる? 近づくなって言ったんだけど?」
俯いていたアキの表情を、シオンは見る術がない。
だが俺は見ていた。爛爛と輝く瞳。怒りと憎しみと絶望と。ありったけの負の感情を宿した瞳を。
頬が引きつる。このままでは戦いになる。すぐにでもアキは刀を抜き、応じてシオンも抜く。そうして殺し合う。その未来がありあり想像できたので、何とか回避しようとして、とっさにアキのことを抱きしめた。
「……は?」
背後からシオンの声が聞こえた。声音だけでも呆気に取られているのが分かる。
「……兄上?」
「大丈夫。大丈夫だから。落ち着いて」
耳元に囁いた。
アキの身体から力が抜けた。「兄上……」と熱に浮かされたような呟きが吐息と共に零れる。
形はどうあれ、落ち着いてくれたのならやった甲斐があった。
ほっと安堵に息を吐き、背後から襟首を引っ張られる。首が閉まって苦悶が漏れた。
「何してるの?」
振り向けばシオンがいる。鬼のような形相だった。その怒りは俺に向いている。
「……いや、あの」
「君は、一体、何を、してるの?」
「ごめんなさい」
謝ることしか出来ない。何故と言うなら戦いを未然に防いだと言う答えだが、多分シオンは理解しないだろう。
と言うか、そもそもどうして謝らなければならないのか。悪いことをしたら謝るのは常識だが、俺は一体どんな悪事を働いたと言うのか。
身に覚えはない。いや、理由はおおよそ分かりはするのだけど、その前にはっきりさせないといけないことがあるのではないのか。俺とシオンの関係とか、その辺りについて。
「僕より妹をとるってわけ? へえ? そう?」
「違います。二人に仲良くしてほしいだけです」
「いや、無理だから。勝ち負けはっきりさせないと。今戦ってるんだよね。見たらわかるでしょ?」
戦いって何だろう。俺としては未然に防いだつもりなのだけど。
「戦わないでください。そもそも勝ち負けって何ですか」
「聞いてすらいなかったの? レンはどっちのものなのかって話だよっ!」
見るからにイライラしている。このままではシオンの方こそ刀を抜きそうだ。もっと冷静な人だと思ってたのだけど、意外な一面を見た気分だ。
ひとまずは目の前の問題に対処するべく、どうにか出来ないかと考えて、あまりに剣呑な目つきを前に、考えが纏まる前に口を開きかける。
「俺は……」
「兄上、こんな嫉妬深くて独占欲の強い、怒りっぽい奴は駄目ですよ。そもそもが人間もどきですから。まだ私の方がましです」
「嫉妬深くて独占欲強くて怒りっぽいのは君の方だろう。妹のくせにお兄ちゃんと結婚とか何言ってんの? 倫理的にダメだから」
「あんなのの言うことを気にする必要はないですよ。兄妹だから身体の相性は良いはずです。私なら兄上を幸せにできるでしょう。一生、二人で暮らしましょう」
状況は最悪だ。シオンに襟首を掴まれて面と向かい合ったまま、アキに背中から抱き着かれている。俺を挟んで二人は言い合いを続ける。言いたいことだけ言っている。俺の意見などそもそも聞いていないようだ。
これは最早成す術がない。常識的に考えて妹と結ばれるのはありえない。しかし、仮にここで旗色を鮮明にすればアキは怒るだろう。刀を抜いて殺し合いが始まりかねない。
個人的にも落ち着く時間が欲しくて、一度仕切り直したいのだが方法が思いつかない。
置物と化した俺の所有権を巡って、二人の言い争いは激化する。
いつ手が出てもおかしくない。その瀬戸際。こうなったら最後の手段で怒鳴り散らそうかと思っていたところで、別の怒鳴り声が響き渡った。
「何をやっとるか貴様らっ!!」
救いの手。そんなもの今の今まであてにしていなかったけど、この時ばかりは差し伸べられた。手の主は泣く子も黙るゲンさんだった。
少しふらつきながら荷車から下り立ったゲンさんは、肩をいからせてこっちにやって来る。突然の乱入者に今まで言い争っていた二人は言葉が出ない様子。
我に返る暇を与えずに近づいてきたゲンさんは、俺たち三人にゲンコツをお見舞いした。
「朝っぱらから迷惑な餓鬼どもだ。小僧、お前はこっちに来い。説教してやる」
二人から引き離され、強引に引っ張って行かれる。痛みに呻く二人は追いかけては来なかった。唯一、荷車から覗く二対の目だけに追われている。
ゲンさんは俺を近くの藪まで引っ張って行き、視線が途切れたところで「ふう」と息を吐いた。
その額には汗が滲んでいて、俺を掴んでいた腕は妙に弱弱しかった。
「……怪我をされたと聞きました」
「ああ? お前には関係ない」
ゲンさんはそう言うけれど、そういうわけにもいかない。
「申し訳ありません。俺のせいで」
「餓鬼が一々かしこまるな。気色悪い」
にべもない。いつも通りと言えばいつも通りなのだが、俺の気は晴れない。
「それより、お前、身体はどうした」
「治りました」
「………………そうか」
たっぷりの間は言葉を飲み込むのにかかった時間だ。言いたいことは山ほどあったと思われる。それらを口にする代わりに、ゲンさんはこんなことを言った。
「なら丁度いい。逃げろ」
「はい?」
「どこでもいいから逃げろ。あの妹からな」
妹から……アキから逃げろとゲンさんは言う。
どうしてそんなことをと思ったが、さっきの会話は聞かれていたのだろうし、兄妹でそういう関係になるのは、この世界では俺が思っている以上の禁忌なのかもしれない。
「逃げたとしても行くあてがありません。路頭に迷うだけです」
「どこだっていい。見覚えのない小娘がいただろ。あいつと一緒に行くのもいいし、
「はあ……」
並々ならぬ勢いにただ困惑する。
確かに今のアキは少しおかしくて、違和感が付き纏っているのは事実だが、逃げるほどのことでもない。と言うか、違和感があるからこそ逃げるわけにはいかなくて、色々と追い抜かされたとは言え、2つも年下の妹から逃げるのは相当に格好が悪い。
「とりあえず、話をします。東で色々とあったでしょうから。逃げるかどうかはそれから検討しますので……」
「その色々が問題なんだ。あれはもうお前の知ってる妹じゃねえぞ。違う何かだ」
「と言いますと?」
聞き返す俺にゲンさんは苦々しい顔を見せ、ちらりとアキたちの方を伺う。二人は未だに言い争っているらしく、時折声が聞こえてくるが、その内容までは分からない。
「俺にもよくわからん。はっきり言えるのは、あれが人を殺したということだ。カオリと言う女を知っとるか」
「カオリさんですか? 知っています。その内会いに行こうと思って――」
「あいつを殺した」
口をつぐむ。
「今、なんて……?」
「殺した。意味がわからなかった。どうしてそうなったのか。目が覚めたらそうなっていた。自警団の奴らとは協力してたはずだ。それを殺して、子供を助けていた。どうしてそんなことを……俺にはわからん」
ゲンさんも状況をほとんど理解していないようだ。
細切れの情報をもとに考えてはみるものの答えは得られない。情報が不足している。協力とは何だろうか。本当に殺したのだろうか。あの子供たちは殺されかけていたと聞いた。誰に殺されかけていたのか。自警団にか。別の奴にか。
「アキに話を聞きます」
「やめとけ。俺も少し話をした。だが駄目だ。あれはもう駄目だ。俺の知ってる小娘じゃない。別人だ。一旦逃げてしまえ。椛を探してこい。椛ならなんとかなるかもしれん」
「逃げれません。父上を一人に出来ませんから」
「……今は自分のことだけ考えろ」
「出来ません」
ひょっとしたら、人を殺して精神に異常をきたしたのかもしれない。それならばなおのこと逃げるわけにはいかない。ケアが必要だ。俺が動けなかった頃はアキが率先して面倒を見てくれた。俺のためにアキは東に行った。それが理由でおかしくなったのなら俺の責任だ。
「ありがとうございます。ゲンさんも怪我をされているのですから、今日のところはゆっくり休んでください。持ってきてくれた食料の分配などは改めて話をしましょう。その時に詳しい話も聞かせてください」
まだ何かを言おうと口を開きかけたゲンさんだったが、最後には首を振った。救いようがないと言わんばかりだった。
「……頑固なのは血筋か」
「そうかもしれませんね」
もし本当に俺が母上に似ているのなら、それは非常に喜ばしい。身体はともかく精神は全くの別物だから、単なる偶然と言うことになるのだろうが。
話は終わり、荷車のところに戻る。
険悪な雰囲気が漂っていた中、俺たちの姿をみとめたシオンはゲンさんに突っかかりに行った。突然ゲンコツを落とされたことに抗議している。
その隙にアキが近づいて来て、囁くような小さな声で訊ねてきた。
「あの人と何を話していたのですか?」
「何も。説教されただけだから」
「そうですか。……余計なことを話していなければいいのですが」
アキはうっすらと微笑を浮かべている。どことなく大人びた表情だ。これも違和感に繋がる。
「余計なことって?」
「向こうでは少し粗相をしてしまいました。悪食だったのです」
粗相。悪食。決して良い意味ではない言葉。
連想してしまう。アキがカオリさんを殺すところを。
頭を振って想像をかき消す。絞り出すように訊ねた。
「何か悪いことをしたか?」
「うーん、どうでしょうか。個人的には悪いことをしたとは思っていません。心の声に従っただけです」
「善悪の区別ぐらいつくだろう」
その言葉にアキは子供っぽい無邪気な顔で笑い、一瞬だけ身を寄せてきた。唇が重なる。触れるだけの優しいキス。
「愛してます、兄上」
後ずさり、何も言えない俺に対して、アキは言葉を重ねる。
「これを悪いことだとは思いません」
アキは返事を待たずに踵を返した。荷車の元へ歩き出す。
その背中を見ながら胸を押さえる。鼓動は激しく、動揺は治まらない。何をどうすればいいのかと途方に暮れた。