人は欲深い生き物だ。
食欲を満たし、性欲を満たし、睡眠欲を満たして、また次の欲を満たす。
終わりがなく、限りがなく、どこまでも続く底の見えない欲望。
人生とは満たすことの繰り返し。途切れることのない渇望の中、満たすために繰り返す。
人間は何のために生きているのかと、哲学者はよくそんなことを問う。様々な答えがある。綺麗ごとも軽蔑するような答えも。
たくさんの答えがあり、しかし本質的にはただ一つの答えしかない。人は欲を満たすために生きている。
今日を生きるのにも難儀する者は目先の欲に囚われる。それが性欲であり食欲であり睡眠欲だ。
明日を見通せるようになると少し欲が増える。明後日を見通せるようになるとまた少し欲が増える。
そうして少しずつ欲は大きくなっていって、やがて途方もない夢を抱くようになる。永遠に生きたいと願うようになるのは自然の摂理なのかもしれない。
時代ごとに権力を持つ人間は様変わりし、けれど必ず存在していた。
ある一定以上の力を手にした人間が行き着く先は、ほとんどの場合は同じだった。
その者も例にもれず、絶大な権力を持ち、そして欲深かった。
金と武力と名声。考えうる限りの全てを手にしたその者は、両手に余るほどの欲望を抱き、一つ一つ叶えていく。そうして最後に抱いたのは不死への羨望だ。
手段を問わず、倫理を無視して、ありとあるゆる方法を試した。
不死の妙薬だとか不死になるための儀式だとか。悪魔に願い神にも祈った。そのどれもが失敗し、最後に残ったのはたった一つの噂だけ。死なずの狐の噂。
刀で切り、矢で射り、鈍器で殴っても死なない。腹を捌いて蒸し焼きにしようとも、火に投げ入れ黒炭にしたところで、いつの間にか元に戻り逃げ去るのだと言う。
その者は藁にも縋る思いで狐の捕獲を試みた。
金に物を言わせ、持てる力を総動員して狐を狩った。
山を一つ燃やしてようやく手に入れたその狐は、赤い毛に包まれて思いのほか小さかった。
その者たちは檻の中で大人しい狐を見ながら考える。
どのようにして不死を手に入れたら良いか。どうすればいいのか。
熟考の末、ある者が言った。
「食え」
血肉を貪り毛を飲み込んだ。
頭を割り、骨を砕いて、中身を啜って欠片を食った。血の一滴、毛の一本すらも腹に収めた。
血臭漂う場の中心、固唾を飲んで見守っていた者の中からある者が訊ねる。
「身体はどうか?」
その者は言った。
「変わりないわ」
結局、その者は不死にはなれなかった。
所詮夢は夢。夢を追う時間は終わったとばかりに、誰しもが諦めて現実に立ち戻る。
大半が不死のことなど忘れて幾年が過ぎた頃、突然その者が死んだ。階段から足を踏み外して頭を打った。頭が割れて血が止まらない。息が止まって鼓動が消えた。
駆け寄った者は手の施しようがないと嘆いた。
嘆き悲しむ者たちの中心で、その者は何事もなかったかのように起き上がる。
「いけないわ。躓いちゃった……みんな、どうかしたの?」
いつの間にか、その者は不死になっていた。
正確に言えば、死んでも生き返るようになった。
周囲の者は大いに喜び祝いの声を上げる。やったやったと歓声が木霊した。
しかし、喜びは長くは続かなかった。
その者は老いた。不死ではあったが老いはした。最初はなんてことのないように思えた。老いはすれども不死である。どんな弊害があろうか。周囲の人間は楽観視する。誰も深くは考えなかった。当の本人を除いては。
時が経つにつれ、喜びは不安へと変わっていく。
その者は二十になり、三十になり、四十になって、五十になった。
病を得て、事故に遭い、人に殺され、生き返る。
白く老いさらばえ、足腰立たず、寝たきりになっても、生き返る。
髪が抜け、歯が抜け、皮と骨ばかりになっても、生き返った。
生と死を繰り返す。その者は生き続ける。何度死んでも。どのように死んでも。もはや人とは呼べない何かになったとしても。
永遠に生き続ける。それが狐を食った者の運命だから。
「と言う話なのさ」
シオンの語りが終わった。
寝物語にこんな話を聞かされなくてよかったと思う。ホラーチックな話だった。行き過ぎた野望は身を滅ぼす。そういう話だ。
「結局、狐を食ったその人は何度死んでも命を絶てず、今もこの世界のどこかで生と死を行き来しながら生きている。そう言われてるよ」
老い切って、本来死ぬべきはずの人間が不死性のせいで生き返ってしまう。けれども身体は老い切っているから次の瞬間に死んでまた生き返る。
生と死を繰り返す。想像するだけで地獄のようだ。
「感想は?」
「惨いですね」
「全くだよ。身震いしちゃう」
実際にシオンの身体が震えた。芸が細かい。
「レンは信じる? 死なずの狐。食べたら不死になれるよ」
「そんなわけないじゃないですか」
「だよねえ」
桃太郎しかり浦島太郎しかり、昔話と言うのは決まって何かしらの主張が籠められている。
いわゆる故事というやつで、聞いた当初はピンと来なくても、後から考えると納得できるものが多い。先人の言い伝えは決して馬鹿に出来るものではない。
この話が伝えたいことは明白だ。行き過ぎた夢を抱くな。ほどほどで我慢しろ。分を弁えろ。身の程を知れ。そんなところだろう。
子供に伝えるにしては実に夢のない話だが、実際は先人と言うよりも支配者階級が流した話なのかもしれない。
大それた夢を見るなと言う忠告だ。自分たちの立場を少しでも長く維持するための小細工だろう。
「まあ、話は分かりました。それで、今の話が狐憑きとどういう関係があるんですか?」
「狐が出てきたじゃないか」
「本気で言ってます?」
「もちろん冗談だよ」
くすりと笑う気配を感じる。
「これはまあ、今の人はあまり信じているわけじゃないんだけど、実はこの話の狐はね。死んでないんだ」
「食べられたのは噓ですか」
「いや、食べられたよ。食べられたけど死んでない」
「……食べられた後に生き返ったんですか?」
「ううん。消化されて排泄された。土に撒かれて生き返りはしなかった。まあ、そもそも死んでいないんだけど」
「意味が分かりません」
いいかい? とシオンは説き聞かす教師のような口調で続けた。
「肉体は死んだ。でも中身は死んでない。魂はこの世界を今も漂っている。そう言われているんだ」
魂。漂っていると言うからには、いわゆる幽霊だろうか。化けて出てきたりしたのかもしれない。化け狐と言う単語には多少親しみがある。やっぱりホラーじゃないか。
「狐憑きと言うのは、狐の魂に身体を乗っ取られた生き物だと言われている。狐は新しい身体を欲しがっている。そして狐憑きが決まって人に害を為すのは、肉体を殺された恨みがあるからだと言う話さ」
「それはまた……信憑性のない話です」
「確かに。でもさっき見ちゃったし。猿の身体が何度も再生するところ」
それは俺も見た。その上で一笑に付そうとして思い留まる。
あの黒い猿の異常性は、俺から見て吐き気を催すぐらいのものだったが、シオンから見ても異常に映ったらしい。
俺の常識とこの世界の常識は乖離していることが多いからもしかしたらとも思っていたが、そういうことなら真面目に考えてみる。
死んでも死んでも生き返ったあの異様な光景。昔話の狐も似たような特性を持っていたらしい。
だがそれとこれを繋げるのはどうだろう。無理やり理屈を通そうとしているようにも思える。
肉体の死。精神の死。狐は精神的に不死で、肉体が死んでも生き続ける。
そして新しい身体を探して他の生き物を乗っ取る。乗っ取ったからこそ、あれほどの再生力を有していると言いたいのだろう。
確かに共通している点ではある。
いや、でも猿は再生したけど狼は再生してない。あれは母上が殺してそのままだ。そもそも本当に狐憑きだったのかと言う話でもあるが。
やっぱりただの偶然ではないだろうか。
たまたまあの黒い猿がとんでもない再生力を有していただけではなかろうか。クラゲとかは不死に近い種がいると聞いたことがあるし、その類ではないか。
所詮は突然変異に過ぎず、進化の過程で生まれた多様性の一つで、いずれは淘汰される種ではないか。
そういう結論に達する。
そもそも肉体的な不死はもちろん、精神的な不死なんてあり得ないのだ。肉体が死ねば当然精神も死ぬ。何故なら心は脳にあり、身体とは切っても切り離せないものなのだから。
その結論をシオンに伝えようとして口を開く。
しかし、開いた口からは空気が漏れるばかりで何も言い出せない。
「……ぁ」
あることに気づいてしまった。
動揺が波打って心を揺らし、動悸が激しくなる。胸を押さえて呼吸をする。深く吸い込んで吐き出した。それでも動悸は治まらない。
冷静になれと己に言い聞かせ、波打つ心に自問自答する。
精神の死とは何か。それは自我が死ぬことに違いない。
つまり精神の不死とは、肉体が死んでも心が残ること。記憶と感情が残ること。科学的に考えてあり得ない事象だが、それに当て嵌まるものを俺は知っている。
「ん……。どうかした? 身体震えてるけど」
「……なんでも……なんでも、ありません」
「……寒いのかな?」
ぎゅっと力強く抱きしめられる。
身体が密着して暖かくなる。けれども震えは止まらない。当然だ。これは寒いから震えているわけではない。恐怖で震えているのだから。
「……一つ、聞きたいのですが……」
「なあに?」
「狐憑きが本当にいるとして、狐は生き物に取り憑くとして、人に取り憑いた例はあるんですか……?」
「ああ……」
少しだけシオンの口調が沈んだ気がした。けれど次の瞬間放たれた言葉にその気配はなく、決まりきったことを答えるように平静だった。
「昔、あったらしいよ」
どくんと心臓が跳ねた気がした。内心を取り繕いながらそうですかと答える。
シオンの首元に顔を埋めた。腕に強く力を籠め、大きく息を吸って吐く。
ピクリとシオンの身体が揺れて身動ぎする。そんなことが気に止まらないぐらい、頭と心がぐるぐると回っていた。
少し前にゲンさんにも同じことを聞いた。
その時ははぐらかされたが、やはり過去に人間の狐憑きはいたらしい。
それがどう言う存在なのかは知らない。何をしたのかは分からない。
ただ、過去に例があるという事実が俺の心に影を落とした。
狐憑き。精神的に不死で、肉体が死んでも自我が保たれ、記憶をなくさず、他者の身体を乗っ取る存在。
もしも狐憑きが本当にそういうものなら、それに当て嵌まる存在を俺は知っている。
前の人生の記憶を持ち、その時の感情を引き継ぎ、見ず知らずの人間の中にいる存在。
――――その名前をレンと言う。
剣聖の息子に生まれ、男でありながら刀を振るう。斬られようと殴られようと、死んだ後に生き返る。
共通点が多すぎる。偶然で片づける気にはなれなかった。
他者から見た俺はどれだけ異常だったことだろう。記憶があるせいで赤ん坊のころから礼儀を弁え、老人でさえ知らない知識を披露し、この世界とは違う常識を持っているために異物感があったはずだ。
物の怪が憑いていると指さされたことがある。
狐憑きの存在を知ってからずっと疑っていた。
自分が何者なのか。なぜこの世界にいるのか。どうして前世の記憶があるのか。
不思議だったけど考えないようにしていた。考えたところで答えは出なかったから。けれど今なら答えが出せる。俺が狐憑きなら全ての説明がつく。
前世が狐だった覚えはないけれど、人間に害を為そうとは思ってないけれど。
精神的な不死。死んでも死ねない。老いた先で地獄の苦しみを味わうことになるとしても、避けることは出来ない。永遠に生き続ける。
自分がそんな運命に置かれているとは考えたくない。
ありえないと己に言い聞かす。考えすぎだと。本当にあり得ないのかと心の声が返ってくる。
少なくとも、死なないのは事実なのだ。斬られて死ななかったし、首を折られても死ななかった。そんな異常な人間が、常人のように死ねる保証はどこにもない。
「この昔話から得られることはたくさんあると思うけど、昔の偉い人も色々考えた。でも、結局行き着く先は一緒だった。――ただの不死じゃ駄目だと考えた」
どこか悲し気なシオンの言葉を、その首元に顔を埋めながら聞く。
心の整理がついていないから、そのほとんどは右から左へ素通りしていった。ある一言を除いては。
「不老不死じゃなきゃ駄目だと、考えるようになった」
不老不死。その一言が俺の心に突き刺さった。