「――――僕は、椛さんに買われただけなんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
心が拒絶した。理解すること、知ること、認めることを。
けれども、全部が全部真っ白になったわけではなくて、呆然としながらも頭の片隅に母上の言葉が蘇る。
――――あれは元々花屋だ。
その言葉を咀嚼する。そして裏に潜んでいた意味を悟った。理解して、納得する。……ああ、そういうことだったのか、と。
どうして気づかなかったのだろうと今となっては不思議に思う。今まで、なぜ考えもしなかったのか。
分かっていたはずだ。花と言う言葉が隠語に用いられることぐらい。
気づけたはずだ。ほんの少し疑問に思いさえすれば。
しかし気づけなかった。悟れなかった。
一体なぜ、と自分自身に問いかけて、その答えはすぐに得られる。
――――目を逸らしていただけなのかもしれない。
とっくの昔に頭では気づいていて、けれど無意識に拒絶していた。
二人の関係が、二人の仲が、そうだとは思いたくなかった。そう思ったが最後、何を信じていいか分からなくなりそうだったから。母上の言葉と父上の言葉、どちらが本当でどちらが嘘なのか。記憶に残る仲睦まじい姿は嘘だったと言うのか。
真実は何なのか、何一つとして分からなくなってしまいそうだったから。
心は拒絶して、けれど頭は勝手に理解していく。
こんな状況で、突き付けられた事実を飲み込むためには、途方もない労力が必要だった。
父の泣き顔を見つめるだけの無為な時間が過ぎて、誰かの足音がすぐそこまで近づいている。何も出来ないでいる俺に対し、その言葉がかけられる。
「――――何事?」
その声にほぼ無意識に反応し、ゆっくりと顔を上げる。
土間から廊下へと続く戸の前に、広間で見た覚えのある女の人が立っていて、その背後には記憶にない男の人もいた。男の腕の中には子供もいる。先ほど逃げて行った子供だ。
俺に対して険しい視線を向ける女性。その目に宿っている感情は嫌悪に近い。
よくよくと慣れ親しんだ目ではあるが、改めて意識するとやはり辛い。どいつもこいつも、どうしてそんな目で見て来るのか。
僅かばかりの感情を込めて見返すと、女性の瞳に僅かに怯えが滲み出した。何かを言おうとして言葉に詰まった様子だ。
その背後に隠れるように立っている男の人は、俺たちのやり取りに気づかず、今なお泣いている父を心配そうに見ていた。
「……」
「……」
「あの、喧嘩ですか?」
見つめ合ったまま口を利かない俺たちに変わり、男の人がおどおどした態度でそんなことを訊ねてくる。
瞬間、女性が振り返り止めさせようとしたが、男の人は任せてと言わんばかりの態度で言葉をかけ続けてくる。
「喧嘩は、よくないです」
それはそうだと内心同意する。
紛うことなき正論。しかし、今そんなことを言われたところで答える気にもならなくて、変わらず無言を貫くと更に言い募って来た。
「子供も見ていますし、一旦落ち着いたらどうですか? 話、聞きます」
何を言っているのだろうと、目を細めて男の人を見つめる。すると男の人はびくりと身体を強張らせた。女の人が守るように移動して子供諸共背中に隠した。
多分、二人は夫婦なのだろう。そしてあの子供は二人の子供。これまでの行動から何となくそう思えた。
「……」
「……」
沈黙と、一人分の小さな泣き声が場を満たす。
視線を下げ、父の泣き顔を見つめ、未だに跨ったままであることを思い出した。
なんだか、酷く現実味がない。
さっきまでのやり取りが嘘のように思えてきた。嘘だったらいいなと他人事のように考えて、駆けつけた二人に聞かれた可能性を思い出す。
「……聞きましたか?」
「え、あ――――」
「何のこと?」
何かを言いかけた男の人を背中で押し留め、女の人が先に答えた。
声音からどことなく白々しさが感じられ、重ねて問う。
「俺と……この人の会話のことです」
「何も聞いてない」
即答だった。考える間すらない。
あまりに露骨だったから、あぁ……と察する。どうやら聞かれてしまった。戸は開いていたから、筒抜けだったのだろう。もう苦笑すら浮かばない。
「……他言無用でお願いします」
呟くように一言だけ述べ、立ち上がり転がっていた杖を拾いに向かう。
転がった際に刃こぼれなどしていないかを確認し、刃を収め、もう一度二人を振り返る。
「どうか、お願いします」
頭を下げてお願いした。
しかし反応はなく、頭を上げれば二人は微動だにもしていない。
何事かと思えば、その視線は俺の手元に集中している。身の危険を感じているらしい。俺にそのつもりはないが、脅しているようにも見えるのだろう。唯一、子供だけは妙にキラキラした目で杖を見ている。それが救いに思えてしまった。
溜息を吐き、踵を返して玄関口から外に出る。戸を閉めて身体を預けた。
気配や音で中の様子を確認してみれば、二人は父上に駆け寄って何か言葉をかけていた。心配してくれているようだから、一先ずはこれでいい。
もう一度大きく息を吐く。
視界が狭まっている気がした。胸の奥から込み上げる暗い感情。これの名前を、俺は知らない。
胸を抑え、じっと耐えていた俺のすぐ近くで草を踏む音が聞こえた。はっとして視線を向ける。
数歩先に、所在なさげに立つシオンがいた。
「あー……」
視線は惑い、見るからに困っている様子。何を言おうかと迷っているようでもあった。
それだけで察することが出来る。どいつもこいつも露骨すぎた。
「聞きましたか?」
「……うん。ごめんね」
「それは、何に対する謝罪でしょうか」
「盗み聞きしたこと……かなぁ?」
疑問調子でそんなことを言われても、俺に他人の真意など分からない。
答える代わりに息を吐く。俯いて足元を見る。何だか心が重い。指一本動かすのも億劫だ。身体に走る痛みを、どこか他人事のように感じている。
戸に背中を預けたままズルズルとその場に座り込む。
ゆっくりと近づいて来たシオンが屈みこんで視線を合わせてきた。労わるような、可哀想なものを見るような目に耐えられなくて視線を逸らす。
「それで、どうするの?」
「……どうする、とは」
「この後のこと」
そう言われて思い出した。やらなければならないことがある。
山に登り、猿を皆殺しにしなくてはならない。村人たちが山に入ってしまう前に。一刻も早く。
そう頭では分かっていても、身体は鈍く、心は沈んでいる。
答えなど決まっているのに、何も言えないでいる俺に対し、シオンは躊躇いがちに言葉をかけて来る。
「聞き流してもらってもいいんだけど」
それは随分と勿体ぶった口調に思えた。
「聞く?」と言わんばかりに首を傾げたシオンに対し、視線を向けて続きを促す。
「僕は、逃げるのもいいと思うよ」
「……逃げる?」
「逃げたいなら、どうしようもないなら、逃げるのも手だよ。宛てがないなら、手ぐらいは貸す」
何を言っているのかと、半ば呆けてその顔を見つめた。
数舜見つめ合い、真剣な顔で視線を返すシオンに、冗談で言っているわけではないと悟る。
「逃げるって、どこへ」
「どこでもいいんじゃない? 逃げられればさ。どこか行きたいところはあるの?」
「そんなのは……」
逃げるなんて考えたこともない。行きたいところなんて、あるはずがない。
生まれてこの方、俺の世界はこの村で完結していた。もっと言うなら、この家が全てだった。母と父と妹と、あとは馬とトカゲ。それで全部。小さな世界だが、それで満足していた。
いつかは失うものだと分かってはいたけれど、実際の所この世界が壊れるなんて考えたことはない。
しかし、今まさに壊れかけている。所詮は箱庭に過ぎなかったのだとようやく気が付いた。
「……ありません」
「じゃあ連れて行ってあげるよ。君に死なれたら僕もちょっと困るから」
差し出された手を見つめる。
その手を握れば、シオンはどこへなりとて連れて行ってくれるのかもしれない。
その時俺はどんな気持ちを抱いているのだろう。清々しい気持ちだろうか。後ろめたい気持ちだろうか。
清々しい気持ちだったらいいなと、その先にある都合の良い未来を想像し、自虐的に笑った。
「……助けてくれますか?」
「うん」
「碌にお礼も出来そうにありませんが」
「大丈夫だよ。生きてくれるなら、それがお礼になる時が来るから」
「……そうですか」
はあと息を吐く。
胸の辺りに痛みを感じ、身体の調子を思い出す。ズキズキと全身を蝕む苦痛。もうこれにも随分慣れた。あと少し、頑張ろうか。
「行きたいところがあります」
「どこ?」
「あの山に」
指し示す先には山がある。この言葉が力になるだろうと思って、断言する。
「猿を殺しに」
大きく深い山。恐らく、この村でもゲンさんぐらいしか立ち入らないだろうその山は、近頃の寒さで随分と葉が落ち、茶色い土が露わになっていた。まだ少しだけ残っている葉もほとんどが赤く染まっている。
指の先を追い、じっと山を見上げていたシオンの視線が俺の元に戻って来る。向けられるその目は、思いのほか優しかった。
「そっか」
その一言に様々な思いが込められていたように思う。
それをわざわざ理解しようとは思わない。知らなくていいこともあるだろう。特に、こんな俺には殊更多いに違いない。
「じゃあ行こっか」
立ち上がり歩き出す。
あの山に、猿を殺しに。