「あのね、レン」
シオンの姿が見えなくなって早々、まだ家にも入っていないと言うのに父上が口火を切った。
一歩前から振り向いた父上は、人差し指を立てながら諭すような口調で語りかけて来る。言いにくいけど、言わなくちゃいけない。節々からそんな気配が感じられた。
「男の子を好きになってもいいけど、女の子も好きにならなきゃ駄目だからね」
わざわざ探していたぐらいだから、さぞかし大事な用件だろうと待ち構えていたら、実際言われたのはそんなことだった。何を言っているのかと目を瞬かせる。
内容を理解して、もう一度考えてみて、やっぱり意味が分からない。分かることは一つだけ。多分、父上の目は節穴だ。そうとしか思えない。
「なんの話ですか」
「男の子同士も駄目ってわけじゃないけど、子供は作らなきゃいけないから。だから女の子も好きになるんだよ」
何を言えばいいのか分からない。
なんだか無性に目頭を揉みたくなる。現実逃避がしたかった。物理的にも一度目を逸らしたかった。
うつむき、足元を見ながら言葉を探す。
「……男の子同士っていいんですか?」
「よくはないけど……でもそれが好きな人もいるから……」
奥歯に物が挟まったような言い方だ。
推奨はしない。だから自己責任で。そう言うことだろうか。
「女の子同士もありなんですか」
「……うん……それが好きな人もいるだろうから」
そうなんだ。
別に同性愛に思うところはないけれど、じゃあ自分がそうかと言うと違うので。多分、普通に異性が好きだと思うから、知識として覚えておくことにする。
「シオンのことなら違いますよ」
「……でも、抱き合ってた」
「無理やり抱きしめられたんです」
「……え?」
難しい顔で唸り始めた父上を置いて、一人家に戻る。
開けっ放しの玄関口をまたいで土間に腰を下ろし、ふうと息を吐く。
後からやって来た父上が玄関を閉めるのを見ていた。閉めるや否や、父上はすぐ側に座って怒涛の勢いで念を押してくる。
「子供は大事だからね。作らないと駄目だからね。じゃないと行く宛てないからね」
「わかってます。多分、その内ちゃんと作ります」
「……えっと、子供の作り方は知ってるの?」
「知ってます」
自分で聞いて来たくせに、答えてみれば釈然としない面持ちとなってしまった。そんな父を呆れ眼で見ていたら、家の中からバタバタと子どもの走り回る音が響いてくる。「ひろーい!」と楽しそうな声が追随する。
やけに賑やかだなと中の様子を探れば、子供のみならず大勢の人が客間にいるようだった。まだ広間で議論しているのかと思ったが、そっちはすでに終わっているらしい。
「他人様の家で走り回るな!」
「はーい!」
母親らしき人の怒鳴り声。子供の返事。鳴り止む気配のない足音。今まで、この家がこんなに賑やかになったことはない。アキがいてもここまで騒々しかったことはない。でもやっぱり子供は元気が一番だ。
自然と微笑みがこぼれ、エンジュちゃんのことを思い出す。心に冷や水を浴びせられた気がした。
「何人か家に泊まることになったよ」
「……なぜでしょうか」
「大勢集まっていた方が襲われにくいってことで」
事後承諾でごめんねと謝って来た父上にいえと答える。
別段、俺に拒否する意思はないし、その立場にもない。
実際、集まれば集まるほど襲われにくくはなるだろうし、悪い判断ではないだろう。食料に関しては各自持ち寄ってほしいところだが。
「もう一つ決まったことがあって」
「なんでしょう」
「今夜、山狩りに出るって」
「はい?」
理解が追い付かず反芻する。
やまがり……山狩り?
何を狩るつもりだ? 食料でも探しに行くのか? こんな時期に?
理解は出来ても意味は分からない。
答えに至る前に、分かりやすい言葉が足された。
「猿を駆除しに行くことになったんだ。大人たちみんなで」
その言葉で、頭の中がぐるぐると回り始める。
夜に、猿を狩りに、山に、行く。
一語一語噛みしめて呟く。
剣聖はいない。ゲンさんもいない。纏まりのなかった広間の様子を思い出す。到底、上手くいくとは思えない。
「え……なんで、そんなことに……」
「猿は昼行性なんだって。だから夜なら寝てて無防備だろうから、その時にみんなで襲おうって話になって」
誰がそんな話をした?
広間の議論がそんなところに帰結するのは予想外だ。誰かが纏めたのか。よく纏められたな。終始言い争うだけで結論なんて出ないと思っていた。
「昨日、襲われたのは夜ですよ。昼行性だって言いきれますか?」
「それは……」
「ゲンさんもいないのに、夜の山を行くんですか?」
「……」
「そもそも、猿が襲ってきてるってみんな納得したんですか?」
俺みたいに気配を探って手がかりを得られるならともかく、ほとんどの人は何が起こっているのか分かっていないだろう。
何か異常な事態に見舞われている認識はあっても、それが猿によるものだとは断言できないはずだ。
それを思えば会議が紛糾するのも、そのせいで後手に回ってしまうのも、当然と言えば当然の話だった。
それなのに一体誰が話を纏めたんだと、顔も分からない誰かのことを憎々しく思っていたら、思いがけない言葉が父上の口から飛び出した。
「みんなのことは、僕が説得したんだ」
唖然としてまともに声が出なかった。
辛うじて「なんで」と、か細い声が口を衝いて出る。
「だってレンが言うんだから間違いないよ。椛さんの息子だもん」
「……」
「もちろん協力はしてもらったけど」
「……」
「でも言い出したのは僕だから、一緒に行くことにしたよ」
頭を抱えたくなった。次から次へと落とされる爆弾に振り回されている。
なぜ? と思う。単純に、どうしてそんなことになっているのかと。
「僕がみんなを説得したから、責任はとらないと」
「……」
「大丈夫。最近鍛えてるんだ。レンは安心してゆっくり寝ててね。危ないことは全部僕が終わらせておくから。守るから。レンのこと」
足元に視線を下ろし、考えを纏める。言うべきことを考える。
直前まで混乱していた思考は一周回って落ち着いた。何を言うべきかはすんなりと思いついた。
「心配してくれて、ありがとうございます」
自分の口から出たとは思えない声に、自分自身で驚く。
あまりに機械的な声だった。感情がこもっていない、抑揚のない声。
こんなことを考えている間も、無意識に口が動いている。
「でも、駄目です」
「え……? 駄目って、どういう意味?」
「そのままの意味です。だから、どうかお願いします」
依然、俯いたまま告げる俺に、父上は訝しげに聞き返してくる。努めて冷静を意識して告げた。
「父上が山に登っても何の役にも立たないので、ただ殺されるだけの足手纏いにしかならないと思うので、父上の方こそ家で大人しくしててください」
きっぱりと告げたその言葉に、父上は息を呑む。
「代わりに俺が山に登って奴らを皆殺しにしてきます」
視線を上げ、正面から父を見据える。動揺し傷ついたその顔を見てわずかに心が痛んだが、仕方のないことだと割り切った。
多少なりとも酷いことを言った自覚はもちろんある。例え事実だったとしても、言い方というものもあっただろう。
けれども、こんなことで傷つくような人が山に登ったところで、一体何の役に立つと言うのだろう。ただ山を登ればそれでいいと言う訳ではない。命のやり取りはそんな生半可なことではないのだと、俺は身を持って知っている。
「ぼ、僕だって!」
ようやく我に返った父上が、激情に駆られ詰め寄りながら言い募って来る。
「僕だって鍛え始めたんだ! また足手まといになるのが嫌で、椛さんやアキには遠く及ばないかも知れないけど、今のレンに比べれば役に立つと思う!」
「立ちません」
「なんで言い切れるの!?」
どうやら引く気はないらしい。
小さく息を吐く。視線を切り、あらぬ方向を見やる。
「父上だけじゃありません。他の大人たちも、今のままでは決して役に立たないでしょう」
どこまでも淡々と告げる俺の言葉を、父上は頭を振って否定する。そんなはずはないと。あれだけたくさん集まっているのだから、必ずやり遂げられると。
父上はそう信じているようだが、俺にそう思わせるほどの根拠は何もない。
「父上は知らないでしょうが、奴らはどうやら頭が良い。何の策もなく飛び込んでは一網打尽にされるだけです」
「どうして、そんなこと分かるの……」
「感覚的なものなので説明は難しいですが、俺はそう思っています」
「……なら、間違ってるかもしれない」
「そうですね。もし間違っているのなら、猿が襲ってきていると言うところから考え直さないといけません。ところで、父上は先ほど信じると言ってくれましたが、これについては信じてくれないのですか?」
ある程度意識してのことだったが、思った以上に嫌味ったらしい言葉になった。
信じたいものを信じ、信じたくないものは信じない。人間らしいと言えばそれまでだが、この状況で都合が良いことだけを信じられるのは困る。
「……僕は、役に立たないかも、しれない。確かに、そうかも……。でも、レンが行ったって同じことでしょ?」
途切れ途切れの言葉で、父上は自らの力のなさを認めた。
それが出来るだけ自分と言うものを知っている。あるいは、もっと優先すべきものがあるからこそ言えたのかもしれない。
「そんな身体で何が出来るの? 普通の生活も出来ないのに、山に登るなんて、出来っこないよ……」
「はい。その通りです」
「だったら――――」
「だから、助けを借ります」
わずかに父上の視線が惑う。
「……誰に?」
「シオンに」
告げられた名に、父上は理解出来ないと頭を振る。
「昨日会ったばかりの人に助けを求めるの?」
「はい。それが一番だと思うので」
「――――僕は?」
その声は、ともすれば叫びそうになるのを我慢している。そんな声音だった。
「僕は父親だよ? そんなに頼りにならない? 僕じゃなくて、見ず知らずの人に助けを求めないといけない理由は何?」
「強いからです。シオンは強い。だから助けを求めました」
「なんで、わかるの?」
「……これも感覚です。分かったから、分かったんです」
くしゃりと父上の顔が歪む。
誤魔化されていると思ったのかもしれない。
この感覚は父上にはわからないだろう。けれども、俺には分かる。見れば、話せば、顔を合わせれば。多少なりとて武の心得があるのなら、相手がどの程度の強さなのか。感覚で理解出来てしまう。
「それでも、僕はレンを守りたい……。誓ったんだ。守るって。今度は足手まといにならないって……お願い、行かないで。無理をしないで。大人しくしてて。ちゃんと出来るから。僕一人じゃ無理でも、みんなとなら――――」
「あなたも、この村の人も、今の状況では誰一人頼りにならない。俺が行きます。足手纏いにうろつかれてはかえって邪魔になりますので、家にいてください」
今一度、はっきりと足手纏いだと告げた。父は俯き、身体は震え始める。
泣くのを堪えているのだろうと思った。あるいは、すでに泣いているのかもしれない。可哀想なことをしたなと思った。
でもこれぐらいしなくてはならない。例え嫌われようとも、エンジュちゃんと同じ過ちを繰り返してはならないのだから。
話は終わった。これ以上話すことは何もない。
本来の目的に返らなくてはならない。
「一つ、聞きたいことがあるのですが」
答えてくれるはずはないと分かっていたが、念のため聞いておく。
「母上が杖を持っていませんでしたか。中に刀が仕込んである杖なのですが」
ぴたりと父の身体の震えが止まる。俯いたまま答えてくれた父の言葉は、意外なほどに冷静で落ち着いていた。
「――――それをどうするの」
「アキに自分の刀を渡してしまったので、使わせてもらおうかと」
告げた瞬間、父がすっと立ち上がる。
眦に涙の跡が光り、代わりに瞳に光はなかった。
不安になるその表情のまま「待ってて」と抑揚なく告げられ、声をかける暇もなくその場を去って行く。
ほどなくして戻って来た父の手には見覚えのある杖があった。アキを斬り、俺を殺しかけたあの杖だ。
「父上が持っていたんですか」
「……これなら、僕でも使えるかと思って」
先んじて、母の部屋から持ち出していたのだと言う。どうやら、母上は隠していたわけではないらしい。いや、隠すことには隠してはいたのだが、自分の部屋に隠していただけだった。考えてみれば、普段俺が母上の部屋を物色することなどないし、頭を捻って隠し場所を工夫する必要などなかった。
その場に立ち上がり、父上と向かい合う。
土間の上に立つ俺から、床の上に立つ父上を見上げる格好になった。
相変わらず光のないその瞳を見つつ、少しばかし警戒しながら手を差し出す。
「貸してもらえますか」
「レン」
静かで、尚且つ力強い呼びかけだった。
覚悟と狂気がないまぜになった声音で、それを聞いた瞬間嫌な予感が全身を駆け巡り、おもむろに刃を抜いた父が切っ先を俺に向けて来る。
「行かないで」
「……」
包丁を握る様な持ち方で、両手で杖を握っている。
その身体はがちがちに強張っていた。この様子では突き刺すことしかできないだろう。走って向かってくるに違いない。その光景が容易に想像できる。
「行ったら刺す」
「……」
切っ先と父の顔を見比べる。
面倒だと言う思いが真っ先に来た。刀など持ったことがないのはすぐに分かった。
身体に走る震えのせいで、ろくに目標も定まっていない切っ先を向けられても、恐怖など覚えるはずもない。どこに来るか分からなくて、ちょっと危ないなと思うだけだ。
「レン」
「何と言われようと、俺は行きます。刺すと言うならどうぞ刺しに来て下さい」
わずかに父の目が見開かれる。
杖を握る拳に力が込められたのが見て取れた。
来るかなと疑念を抱き、来ないだろうと確信する。あれだけ守らせてと言っておきながら、その対象を刺すなんて真似、この人に出来るはずはない。
「あなたに俺が刺せますか?」
「……刺せないよ。決まってるよそんなこと」
全身の力が抜け、だらりと崩れ落ちた父に歩み寄ろうとして、その手がゆったりと動く。今度は、刃を己の首に当てた。
「これなら、どう?」
「……」
「レンが行ったら、僕は死ぬ。これならどう?」
その問いかけには、すぐに答えることは出来なかった。簡単な二者択一ではあるのだが、天秤にかけられているものがあまりに重い。
考える時間を稼ぐために質問する。
「……どうして、そこまでするんですか」
「どうして? おかしなことを言うね。僕は父親だよ? 息子を守りたいと思うのは普通のことだし、身体を張ってでも無茶を止めるのは親の役目だよ?」
「その身体の張り方は正気じゃない」
「どうかな。正気じゃないのはどっちだろう。僕かな? それともレンの方かな?」
「俺は正気ですよ」
「死ぬつもりなのに?」
思いもしなかった問いを受け、答えるのに間が空いた。
その間が答えになっていた。
「子供の死を見たい親がいると思う? 僕は二度と嫌だ。あんな思いは」
「……」
「お願い。行かないで。僕が何とかするから。僕が守るから。頼りないかもしれないけど、足りない分は命を懸けて補うから」
息を吐く。身体から力を抜く。
両手を上げて降参と言うポーズを取った。それで、父上の瞳にわずかに光が戻った。俺が諦めたと思ったのだろう。
その希望が心に隙間を作った。父上の背後から聞こえて来た子供の声が、心の隙間に日常を呼び戻した。
「なにしてるのー?」
驚愕した父上が咄嗟に身体から刃を離す。そのまま刃を隠す素振りを見せた。
危ないと思ったに違いない。小さな子供がいる前で、慣れない刃物を扱うのは。
その思いは正しい。けれど、自らが作り出したこの状況には即さない。
「あっ!?」
全てを予期していた俺は、何の動揺もなく動き出せた。
父に迫り、勢いそのまま押し倒した後、その手から刃を奪う。
土間へと投げ捨てた刃は軽い音を立てて転がり、俺は父の胸倉を掴んで怒鳴った。
「何がしたいんだあんたは!?」
今まで積もりに積もった思いが堰を切って溢れ出す。
「男の癖にすぐ泣いて、なよなよと弱弱しくて、挙句の果てにこんなことをして!!」
すぐそこで、子供がひっと委縮している。そのままどこかへと逃げ去ってしまう。
そんなものは構わない。この際、言いたいことは全部言った方がいい。
「自分を人質に言うことを聞かせようとするな!! 男だろ!! 親だろ!? そんな卑怯なことをするんじゃない!!」
激痛に蝕まれながら気持ちをぶつける。一度溢れ出した気持ちはどうにも止められない。
「もっと強くなれよ!! 男だって強くなれるんだから!! 胸を張って、正しい生き方してくれよ!!」
肩で息をする。
感情任せに口を開いたせいで、自分でも何を言っているのか分からない。関係ないことを言ってしまった気もする。
もっと言いたいことはたくさんあるはずだった。けれど言葉にしてみればこの程度の言葉しか出て来なかった。
この世界では俺の方が異端だ。それは分かっている。だけど、それは身体的なことでしかない。心は違うはずだ。
強くなれるはずなのだ。女だろうと、男だろうと。誰でも強くなれるはずなのだ。
俺は、
しかしそれも所詮は俺の気持ちに過ぎない。押し付けるつもりなどなかったから、今まで口に出しはしなかったけど、でもいつかは言っていただろう。我慢の限界がいずれは訪れたはずだから。
力の限り動き、腹の底から声を出した。
おかげで身体は散々だ。嫌な汗を掻き、痛みのあまり眩暈もする。
先ほど強くなれよなんて言った手前、情けないところを見せたくなくて、奥歯を噛み締めて我慢する。
廊下の方からドタバタと足音が聞こえた。
俺の声が家中に響いたに違いない。間もなく人が来る。
そう考える傍ら、俺の下でまた泣き出した父を情けないと思っていた。男らしくないと、この世界に即さないことを考えている。
「強くなんて……正しくなんて……無理だよ、そんなの……」
「何がですか……諦めてちゃ、なんにも出来ないでしょ。少しずつで、いいんですよ……」
「無理だよ、無理だってば……」
メソメソする父に訊ねる。
何故無理なんですか、と。父は答える。無理なんだよ、と。
「だから、どうして無理なんですか」
「だって、僕は花屋なんだよ? どうして出来るの? そんなことを……」
「それに、何の関係が――――」
花屋を強調するその言葉を聞いて、不意に言葉に詰まった。
思考が巡り、今まで考えもしなかった可能性が導き出されていく。
「レンなら分かるでしょ? 花屋なんだよ……」
「なにを……」
「僕は花屋なんだよ、だから――――」
心が悲鳴を上げた。
聞かない方がいいと。考えない方がいいと。
よりにもよってなんで今それを言うのかと。
制止しようとした。
人が来るから。言わないでと。聞かれてしまうから。
けれども制止は叶わず、父はその言葉を吐き出した。
「――――僕は、椛さんに買われただけなんだよ」