アザミがゆっくりとアキの元に近づいてくる。
目に警戒心を宿しながら、油断なく距離を詰めている。
大剣を肩に担ぐその姿には異様な威圧感が感じられた。アザミがこの場に現れてから、その華奢にも見える細腕で、一体どれほど殺したことだろうか。
常人なら耐えきれずに逃げ、腕利きであっても
「……口切った」
視線を前に向けたままぺっと唾を吐く。赤い滴が土を濡らした。口の中は血の味で満ちている。
絶望的な状況でありながら傍目には平然として見えるアキだったが、内心は穏やかではない。孤立無援である。そのぐらいは理解している。
あの怪力で頭突きを食らった
背後で戦っているゲンは目の前のことで手いっぱいだ。自警団の援護を受けつつどうにかこうにか戦っている状況。とてもじゃないがアキの援護までは手が回らない。
――――1人で立ち向かわなければならない。
突き付けられた現実を前に、刹那、あの夜の記憶が蘇る。アザミと初めて出会い、成す術なくやられたあの夜。
また戦えば、同じように負けるかもしれないと言う予感はずっとあった。それを否定できたのは、自信があったからだ。次は負けないと言う自信。一体何を根拠に抱けるのか、本人にすら分からないそれ。
初めての実戦に、初めて握る真剣。そしてどこから来るかもわからない自信。それらを胸に秘め、アキは力強く地を蹴った。
馬鹿正直に正面から突っ込むアキに対し、アザミは様子見を兼ねて大剣を盾のように構える。
その注意はアキだけではなく周囲の喧騒にも向けられている。いつどこで邪魔が入るか分からないと言う警戒。それが不用意な攻勢を控えさせていた。アキに付け入る隙があるとするならそれ以外にない。アキは歯を食いしばり般若の形相で剣を振りかぶる。
――――結局のところ、勝ち目など最初からなかった。
たった一人でどのようにアザミの守りを突き破るのか。明確なイメージを何一つ持てなかった時点で勝敗は決していた。
アキの斬撃はアザミの大剣で防がれた。より鋭く、より速く、持てる力の全てを用いて過去最高の斬撃をお見舞いしたところで、同じように防がれた。
何をしたところで防がれる。工夫を凝らし、知恵を絞り、様々な攻手を試した。そのいずれも有効打にすら程遠い。通用しない。地力の差がありすぎた。経験の差が天と地ほどにも隔たっている。
どう考えたところで、アキが一人でどうにかできる相手ではない。決して挫けず、諦めない心を持っていても、それで実力差が覆ることはない。
何度も地を蹴り、何度も攻めかかった。そして、その全てを防がれた。
だと言うのに、
もしアザミに殺す気があったなら、とっくにアキは殺されていた。そうなっていないのは、最初から殺す気などなかったと言うことだ。
脅威ではない人間を殺す必要などどこにもない。アキの攻撃を受け止めた後、たまに反撃するだけでいい。そのたった一度の反撃で、アキは傷を負い疲弊する。同時に、心までもが少しずつ摩耗していった。
勝てない相手に何度も挑み、圧倒的な実力差で返り討ちになる。
それ自体は、母に対して何度も繰り返したことではある。だが母に負けるのと赤の他人に負けるのとではやはり違う。
あの夜、一度目の戦いで負けた時には勝利を誓った。今日、こうして戦うまでは二度と負けないと思っていた。次は勝てると根拠のない自信だけはあった。
子供特有の万能感、全能感。それは余すところなく粉々に砕かれた。結果、アキはまた地面に転がっている。
『何度転がされても立てばいい』
地面に突っ伏して、辛酸を舐めるアキの脳裏にその言葉がよぎる。
誰の言葉だったか。母だろうか。聞く分では恐ろしく容易に聞こえる。アキもそうするつもりでいた。何度でも立ってやるつもりだった。立ち続ければいずれは勝てる。負けることなどないとそう思っていた。
「うぅ……」
それなのに、今、立てずにいる自分。
腕に力が入らず、身体の節々に鈍い痛みが走っている自分。
「うぅっ……!」
歯を食いしばって悔しさを噛みしめて、立て立て、と命じている自分。
動かない身体に心が焦る。焦っても焦っても身体は動かない。
諦観が心の隅にあった。
手を伸ばせば届くところにあった。目を逸らして見ないようにしても、視界に入ってしまう。そんなところに。
気付けば、アザミがすぐ近くまで来ている。
無防備なアキの上に影が覆い被さる。手を伸ばせば届くどころではない。命を握られた距離。それを察して、アキの心臓が早鐘を打ち始める。
「まだ、やるのか?」
今までと打って変わり、声に感情が感じられない。その無感情が冷酷さを醸し出している。
周囲の喧騒が聞こえなくなり、代わりに自分の鼓動ばかりが頭に響いた。
「死ぬか、生きるか……どっちだ?」
それは、紛うことなき最後通牒だった。
答え次第で殺されるだろう。死ぬか生きるか、その瀬戸際でアキは思う。
――――死ぬのは嫌だ。
そんなことを考えておきながら、その心の声に従うことを躊躇する。そうすれば最後、ここまでの苦労がふいになる。それは同時に、兄の生死に直結する。
兄と自分。どちらをとるか。
そんなことは考えたこともない。上手くいくと思っていた。望めば全て思い通りになる。そんなのは子供の思い込みに過ぎなかった。
「ぁ……」
乾いた喉が小さな声をあげる。
答えを出さなければならないが、何も言うことが出来ない。
暫しの間が空いて、アキが何も言えないでいる時間が過ぎ、アザミが溜息を吐いた。
大剣がアキの顔を掠めるように突き立てられる。
黒々とした刀身に乾いた血がこびり付いている。自分の顔が歪んだ形で反射して、生臭い匂いが鼻につく。
「どっちだ?」
二度目の問いは力強さが増していた。
三度目はないぞ、といくら察しが悪くてもわかるように強調されている。
硬直して指一本動けないでいるアキにもそれは伝わった。ごくりと唾を飲み言葉を探す。
「わたし、は――――」
弱弱しい声がアキの口から零れ出した。
今にも泣いてしまいそうな声。どう考えても、戦場に似つかわしくない子供の声。怒声や断末魔の木霊するこの場所で、そんなものを聞いてしまったアザミは良心の呵責を覚えずにはいられない。
今のアキは見るからにボロボロだ。誰あろうアザミ自身が心も身体も入念に削り取った。あの夜と同じ轍を踏まぬよう、心を鬼にして戦った。
さすがにこれ以上向かっては来ないだろうと言う確信と、子供を傷つけたことへの申し訳なさ。
二つの感情がアザミの心を満たし、周囲への警戒を緩めてしまう。その間隙を突くように、一本の矢がアザミの元に飛来した。
「……ちっ」
不意を突かれたことと油断した自分に舌打ちをし、アザミは身をかがめて矢を躱す。飛んできた方向を見れば、そこには二矢目をつがえるゲンがいた。
「小娘!」
ゲンはアキの窮地を目の前にして、自らの危険を顧みず、未だ決着のついていない直近の戦いを無視して援護に回った。
そうすると当然そちらからの圧力が強まることになるが、一か八かのやけっぱちの心境でアキの援護に専念する覚悟だった。
「逃げろ小娘!」
叫びながら二矢目を放つ。
風を切りながら突き進んだその矢は、思いもよらずアザミの頬を掠めた。
そのことに驚愕したのは、掠めた本人ではなく射ったゲンである。
躱そうと思えばいくらでも躱せたはずの矢を、アザミは躱す素振りすら見せなかった。一体何が目的かと、ゲンは束の間アザミを注視する。
ゲンがアザミを見つめるのと同じように、アザミもまたゲンを見つめていたが、暗い色を湛えるその目には殺意と警告が宿っている。これ以上向かって来るなら殺すと、その目は言葉より雄弁に語っていた。
ゲンは怖気づいて息を呑む。
逃げ出しそうになる自らに喝を入れ、震える足で地を踏みしめて三矢目を抜く。それが最後の一矢だった。
「立て! 逃げろ小娘!」
同じことを二度言った。宣言だった。殺せるものなら殺してみろと言う挑戦状だ。
男のくせに戦場にいる
「……仕方ない、か」
その覚悟を見て、アザミは呟いた。
ふっと浅く息を吐き、その息の根を止めようと、大剣を手に取らないままで駆け出す。
まさかアザミが丸腰のまま迫って来るとは夢にも思わなかったゲンは、瞬きの間にすぐ目の前まで接近したアザミに驚愕し、走馬灯と共に己の死期を悟る。
そんな状況に追い詰められながらも、早々矢を放つことはしなかった。最後の一矢はギリギリまで狙い定めた。
すでに互いの息遣いすら感じられる距離。この距離ですら、まさか命中するとは僅か足りとて期待も出来ず、ゲンの行動は死ぬ前の悪あがきに等しかった。
ただ、アキが逃げるまでの時間稼ぎになればそれでよかった。それにすら足りないことは百も承知だったが、ゲンに出来ることはもうこれしか残っていなかった。
最後の一矢はアザミの額へと軌道を向けた。指を離したが最後は祈るのみ。天に祈る。どうか当たってくれ、と。
放たれた直後、アザミは躱す素振りを見せなかった。
躱す気なんて最初からない。飛来する矢を、まさか素手で掴むとは、この場の誰もが思いもしなかっただろう。
驚愕と恐れと後悔と、様々な感情を浮かべるゲンのすぐ目の前で、アザミが呟く。
「じゃあな、おっさん。もう二度と来るなよ」
ゲンの腹部に拳が突き刺さる。
身体をくの字に曲げ、かはっと息を吐く。そのまま殴り飛ばされて、何回転かした後、ゲンはピクリとも動かなくなった。
一連の攻防は、当事者以外から見れば一瞬の出来事だった。
事を済ませたアザミがふうと息を吐く。苦い顔をしている。男を殴ったと言うのが、アザミを一層後味の悪い気分にさせている。
その様子をアキは見ていた。苦々しい顔のアザミと、殴り飛ばされて動かなくなったゲンを。
相も変わらず倒れたままで、ゲンの作った僅かばかりの時間は活かされなかった。
――――……死んだ?
心の中で、疑問とも確認ともつかないことを思う。
人は死ぬとき、ああやって死ぬのだろうか。
自分もこれから、ああいう風に死ぬのだろうか。
あまりにあっけないあの死にざま。誰に惜しまれることもなく、誰に見送られるでもなく、死と言うものは突然訪れる。理不尽で、避けようがない。
目の当たりにした現実に、先ほどまであれほど荒んでいたアキの心は凪いだように静かになった。
死ぬ。死ぬ。死ぬ。
同じ言葉を三度繰り返す。
一つはゲンに。一つは自分に。最後の一つは
自分がここで死んだあと、兄もああいう風に死ぬのだろうか。
……ああいう風に一度死んだのだろうか。
アキはレンがどういう風に死んだのか知らない。先代の剣聖と戦って死んだことは知っている。けれども、実際に見たのは冷たくなった兄だけだ。戦っている最中も、戦った後のことも全く知らない。
これから自分も同じようになる。この戦いをレンが知ることはないし、自分の死体にレンが
その事実がアキの心を突き動かす。
死にたくない。よしんば死ぬのだとしても、こんなところで死ぬなんて到底受け入れられない。
死ぬのなら、せめて兄と共にありたい。兄と共に逝きたい。そのために、どうしたらいいか。
自問自答する。助かりたい。生きたい。兄に会いたい。その一心で。
何のためにここに来た?
――――奪いに来た。
何を?
――――全てを。
殺されるぐらいなら、殺してやる。どんな手を使っても。どれだけ卑しく成り果てようとも。私は、そのためにここにいる。
胸の奥に大きな感情が渦巻く。
それは、家を出る直前からずっとそこにあったもの。行き場を失い、掲げた拳の下ろす先を失い、蓋をされていたもの。
無自覚の内に、一度至っていた領域に再び足を踏み入れる。
アキの頭の中で、何かが千切れる音がした。
世界は色をなくし、全ての音が遠くに聞こえる。
無意識に手の中にある物を握りしめる。
兄から譲り受けた刀。兄の分身、兄の片割れ、兄そのもの。
胸の奥に渦巻いていた感情が注がれて形を成す。
それは鞘から柄まで白で出来ていて、刀身は
「……は?」
困惑にアザミが声を上げる。
話の続きをしようと振り返ったところだった。いい加減もういいだろうと、子供なのだから、もうやめておけと説得するつもりだった。
アキはまだ子供だから。子供は宝だと知っていたから。
それなのに、振り向いた先で、ありえぬものを見た。思わず凝視してしまう。見間違いかと一瞬思う。日の光が反射してそう見えているだけかと思った。けれど違った。
それは、アキの手に握られている白い刀。
白かったのは鞘や柄で、刀身は普通だったはず。それが、今や白に染まっていた。根本から切っ先に至るまで、白く輝いている。
――――ありえない。
先ほどまでと明らかに違うその色。日の反射にしては輝きすぎている。染み一つない白い刀。
アザミの心の中に、久しく忘れていた言葉が蘇る。
――――色付きの刀
脳裏に蘇るのは藤色の刀。見る者すべてを惑わし、魅了する。操れぬ者などいないあの刀。
あの刀は、今どこに……。
ありえないと否定する
どちらも現実逃避に終始している。今考えるべきはそれではない。一拍置いて、我に返った彼女が咄嗟にとった行動は、目を瞑ることだった。見たら終わりと言う認識が彼女にそうさせた。白と藤色の違いなど、その瞬間の彼女にとっては些細なことでしかなかった。
もちろん、それが致命的な隙を生むことは分かっていた。けれどそうしなければならなかった。あの刀の恐ろしさは骨の髄、魂にまで刻まれている。完全に虚を突かれたこの状況で、他の行動を選択する余地はない。
アザミが目を瞑ったことで隙が生まれた。すかさずアキが
その速度をアザミは気配で察知した。残念ながら、攻撃を回避する余裕はどこにもなく、腹に刀が突き刺さるのを激痛と言う形で身を持って知ることになる。
大剣は手放したままである。弓矢の男を倒すのに速度を優先したためだ。アザミはまずそのことを後悔する。
下腹に突き刺さった白い刀が、柄に達するまで深々と突き刺さっているのが感触で分かった。それを幸運だと思う。おかげで刀身を見なくてすむ。
アザミはアキの腕を掴み、決して引き抜かれないようにした。
今になってようやく冷静さを取り戻していた。目など瞑らなければ良かったと後悔する。
そもそも、これがあの刀と同じ性質のものなら、わずかでも見た瞬間に終わっている。一目でも、一拍でも見てしまったのなら、それ以後目を瞑る意味などない。
その判断が出来なかったのは恐怖があったからだ。恐怖が理性を凌駕した。どれだけの年月が過ぎようと決して忘れることの出来ない記憶がある。この先、何度生まれ直したとしても忘れることはないだろう。
「いってえな……」
痛みに顔をしかめ、天を仰いで呟いた。刀がどこに刺さっているのか、どれほどの傷なのか。事態を把握し、現状を認識して先のことを考える。
「……ころす、か」
ぼんやりと呟かれた言葉だった。しかし次の瞬間にはどことなく漫然としていた雰囲気が一変する。
「……殺す」
意思は明確となり、言葉は強固となった。子供だからなんて甘っちょろいことを言っている場合ではない。この子供はもはや化け物へと成り果てた。化け物は殺すのが礼儀であろう。
「殺すっ!!」
殺さなければならない。自分のため。他人のため。国のため。何よりも、アキ自身のため。
それは人が持つべきものではない。何も良いことなどない。不幸になるだけだ。皆が不幸になる。化け物に成り果てた人間は殺せる内に殺すべきだ。でないと殺せなくなる。それほど不幸なことはない。
「アキぃっ!!」
アザミは拳を握りしめた。
本気の本気で殺しにかかる。傷は深い。この身体は頑丈だが限度はある。もうじきこの命は終わる。その前に、後顧の憂いを晴らさねば。次に備える責務が自分にはある。
残っていた力の全てを、化け物の息の根を止めるために費やした。
振りかぶった拳はアキの頬に吸い込まれていく。
今までにないほどの渾身の力が込められた拳は、ぺちんと情けない音を立ててアキの頬を打つ。まるで子供が平手を打ったような音に、アザミは目を見開いた。
傷口が熱い。血と共に目に見えない何かが抜けていっている。
身体から力が抜けて膝をつく。何が抜けていっているのか、アザミにはそれを考える時間も残されていない。最早どうしようもない。刺された瞬間に全ては終わっていた。
すでに痛みはなく、感じるのは冷たさと恐怖ばかり。
走馬灯を見るはずの瞼の裏には暗闇ばかりが広がっていて、もうそこには何も残っていない。
全て奪われた。最後にそのことを察したのは、幸運かあるいは不運か。
何一つ残すことなく、アザミの意識は闇の中に消えて行った。