女が強い世界で剣聖の息子   作:紺南

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あけましておめでとうございます
今年も宜しくお願いします


第42話

鍛錬場で一人、アキは遠くの山々を眺めていた。

すでに日は暮れかけて、藍色に染まりつつある景色は怪しい気配を帯びている。世界は人の時間の終わりを告げていた。

 

しかし、アキは日が暮れかけていることに気づいていなかった。眺めていたと言ってもただその目に映っているだけで、その実何も見てなどいない。

木刀を握りしめながら、その小さな体躯から滲み出る物々しい雰囲気は周囲を威圧し続けている。

 

吐く息は白く、吹く風は肌寒い。けれど寒さは感じない。

指先がかじかんでいるはずなのに、それ以上に熱く煮えたぎる激情によって包み隠された。

胸の奥でとぐろを巻く怒り。出所は言うまでもない。レンは死ぬべきだとのたまった、あの老人。

その顔を思い出すたびに、怒りは際限なくどこまでも大きくなっていく。ともすれば正気を失ってしまいかねない。そのギリギリのところでアキは踏みとどまっていた。

 

大きく息を吐く。

白い吐息が空に昇っていった。

何度深呼吸をしたところで冷静には程遠い。時間が解決してくれるとは思えない。なにせ、アキを怒らせる要因はもう一つある。

 

アキは母に進言した。皆殺しにすればいいと。村の連中なんて、殺してしまえばいいではないかと。

冗談で言ったわけではない。冗談にしては性質が悪すぎる。アキだってそれぐらいは分かっている。だから本気だった。殺してしまえと心の底から述べた。

にも関わらず、母は取り合わなかった。聞く価値がないとばかりにさっさとどこかへ行ってしまった。

 

煮え湯を飲まされたような熱さが腹の中に湧き起こる。腸が煮えくり返る。

遥か遠く、連峰を収めていた視界にはチカチカと白い光が走り始めた。

未だかつてないほどの怒りを溜め込んだ結果、身体に異常が現れている。空いている手で頭を抑える。母の言葉を思い出す。「何もするな」……何を言う。

 

どうせ何もしないくせに、とアキは奥歯を噛みしめた。助ける気なんてないくせに、と失望を滲ませる。どうせ、どうせ――――と言葉にならない思いが続いていった。

 

決意を力に変え木刀を握りしめれば、軋む音が耳まで届く。

もはやどうでも良かった。この世界のありとあらゆる全て。雑音としか思えない。私の邪魔をする。おためごかしで騙そうとする。

もう騙されない。口車には乗らない。邪魔をするなら全て屠ってみせよう。この手で全てを殺しつくす――――。

 

行きつく所まで行きついた感情に従って、気の赴くままに思いを巡らせたその瞬間、不意に頭の中でぷつっと何かが切れる音がした。

怒りが限界を超え、一周回って冷静さを取り戻す。

あれだけ煩わしかった世界は静謐に包まれていた。

 

色をなくした世界。感情がなくなったような気がした。

実際の所は感情をなくしたわけではない。ただ離れて見ている。遠くから他人のように自分自身を見つめていた。

 

おかげで、背後から忍び寄って来る気配に気が付いた。それが誰かは見ずとも分かった。

振り返るまでもなく、ただ待つ。遅々とした時間だった。時の流れが遅く感じる。どうしたことだろうとアキは天を見上げる。星の一つも見えない空は灰色に染まっていた。

 

「何をするつもりだ」

 

ようやく投げかけられた声はいつも通り静かだった。

アキは振り返り、やってきた椛を見据える。

手に木刀を持つ椛は、無表情に佇むアキから少し離れて立ち止まる。

見つめ合う二人。今やアキの身体から溢れだす殺気は肌を突き刺すほどに膨れ上がり、何も聞かずともその内心は明らかである。だからこそ、声をかけずにはいられない。

 

「まさかとは思うが……」

 

「そこを、どいてください」

 

椛の言葉を遮り、抑揚のない声でアキは言う。気をつけねば聞き漏らしそうな声であった。

椛は眉をひそめ、アキはと言うと村に向かって歩き始めた。その顔に感情は一片も浮かんでいない。しかし滲み出る殺気は雄弁に語っている。

行かせるわけにはいかなかった。椛はアキの進路に立ちふさがり、もう一度尋ねる。

 

「何をするつもりだ」

 

「どけと言った」

 

乱暴な言葉遣いに鼻白む。叱ろうかと一瞬思い、しかし己の口調に思い至ると何も言えなくなる。

その間にアキはゆらりと木刀を持ち上げた。その切っ先が向けられる。――――剣聖である自分に向かって。

 

思わず凝視した。次いで、仕方のない奴だと嘆息する。同時に話が早いとも思った。椛の方は最初からそのつもりだったから。

椛は持っていた木刀を構え、蛮勇にも切っ先を向け続ける娘に言う。

 

「かかってくるがいい」

 

「……」

 

アキは喧嘩を売り、椛は喧嘩を買った。

故にこれ以上の言葉は必要ない。

 

「……」

 

「……」

 

睨み合って少しの間が経ち、だらりと脱力し切ったアキを椛は訝しむ。

ひょっとして戦う気がないのかと思った。およそ戦う気があるとは思えない力の抜き方だった。だがそれは杞憂であった。

 

次の瞬間、アキは地を蹴り、一息に襲い掛かって来る。予備動作のない一連の動きに、椛は虚を突かれた。通り過ぎざまの一太刀をいなす以外に何も出来ない。

 

背後に回り込んだアキは、次の攻撃に繋げようと速度を落としつつ地面を踏みしめた。

振り向く最中の母の背中が見える。時間の流れは相変わらず遅い。考える時間はたっぷりある。

このまま死角から斬りつける。ほぼ間違いなく躱されるだろうから、その時は間髪入れず蹴る。そして次は――――。

 

アキにとって、先手を取り続けることが唯一の勝ち筋であった。

主導権を手放した時が最後。あとは掌で踊るしかない。負けるつもりは毛頭なく、本気で勝つつもりでいた。

 

その内心は万能感に満たされている。何でもできると思った。一見不可能と思えることでも、今の自分には可能だと、根拠のない自信に支えられている。

 

その万能感を原動力にして再び地を蹴ったアキは、椛の額に向け木刀を突き出した。未だに振り向き切れていない椛にとって、それはほぼ死角からの攻撃。気づいたとして、普通なら条件反射で躱すところである。アキもそれを予想していた。躱したところを蹴るつもりで、その準備もしていた。だが予想を裏切り、椛は躱す素振りすら見せず、半分背中を向けたまま距離を詰めてきた。

見えていないはずの剣筋を、どのようにしてかは分からないが、ただ首を傾げるだけでやり過ごした後、余裕綽々と言える緩慢な動きで、アキの額に柄の先を叩き付ける。

 

意趣返しのつもりだろうかとアキは思う。のけ反りながら冷ややかに椛を見据える。

追い打ちをかけることも出来たはずだが、椛はわずかに開いた距離をそのままにして、アキの出方を伺っていた。

 

打たれた衝撃で一歩二歩と後退したアキは、一瞬だけ額を庇うような素振りを見せた後、すぐに木刀を構え直す。

椛は構えすらしない。アキがこの後どういう行動をとるか。それを待っている。

 

動かない椛に対し、アキは攻めあぐねた。

この状況でまだ自分は優位であると思えるほど楽観は出来なかった。死角からの攻撃が効かないと言う事実は、アキに少なからぬ動揺を与えている。

勝つために何をするべきであろうか。アキはそれを考えていた。遅々として進まぬ時間の中、アキの頭の中だけは高速で動いている。

少しもせず答えは出た。いや、出なかった。何も浮かばなかった。

だからとりあえず攻めよう。攻めながら考えよう。

そう考え、脚に力を込め地を蹴った。

 

振り上げた木刀を、真正面から叩きつける。椛もまた正面から受けて立った。

木と木がぶつかり合う高い音。決して軽くない。当たればただでは済まないだろう重苦しい音を周囲に響かせ、二人は打ち合った。

 

打てば打つほど、実力差が如実に表れていく。

傍目に見て、筋力、立ち筋、脚運び。それ以外にもほぼすべての面でアキは椛に劣っている。そこに経験の差と言う絶対的な壁も加わって、実力差は如何ともし難い。

 

対する椛は、木刀を受けながらアキにレンの姿を重ね見ていた。

今までの太刀筋を考えるに、単純な斬り合いならアキの方が強いかもしれない。それは筋力の差である。戦いでは闇雲に力で押せると言うだけで優位に立てる。

しかし総合的にどちらが強いかと言われれば答えに窮する。強いのはアキかもしれない。けれど怖いのはレンである。

 

未だ力で押すことしか知らないアキと違い、レンは技で立ち向かう。思いもよらぬ手段で動揺を誘い、その隙を突いて致命打を与えてくる。どんなに実力が離れていようとも、万に一つ隙を突かれれば負けかねない。そして恐らく、師はそれで負けた。

だから怖い。アキが相手では万に一つたりとて負けはしないが、レンならば万に一つの可能性があった。今まで冷やりとしたことは数え切れないほどあったのだ。

 

ふとすればそんなことを考えている自分がいる。余計なことを考えていると我に返った。今は目の前のことに集中しなくては。

目を瞑り、音と気配だけでアキの剣戟を受け止め始める。無駄なことは考えず、ただ見極めるための行為だった。娘の実力がどれほどなのか、それが知りたかった。

 

やがてアキの剣を十も受け止めた後、椛は唐突に目を開き、アキの木刀を弾き飛ばした。

空高く舞った木刀は大きく弧を描いて二人の間に落ちる。アキは悔しげな顔で唇を噛んだ。いつの間にか世界は色を取り戻し、意識は体へと戻っていた。疲労困憊で肩で息をする。万能感はとうになくなり、敗北感が胸の内を占める。

 

「少しは冷静になったか」

 

戦った直後とは思えない静かな言葉。息一つ切らせていない。それが余計に悔しさを募らせる。

この期に及んで説教はいらない。ふざけるなと、その一心でアキは椛を睨んだ。

 

そんな反抗的な内心を知ってか知らずか、椛は手の中の木刀に目を落とし考え込んでいた。

次に目を上げた時には、その瞳には決意の色が宿っていたが、アキはそれを察することが出来なかった。

 

「アキ、お前は東に行け」

 

「……は?」

 

突拍子のないの言葉を受け、アキは思わず聞き返す。椛は即座に言葉を継ぎ足した。

 

「私が西に出向く間、お前は東に行き食糧を手に入れろ」

 

あまりに突然だっため一瞬戸惑ったが、頭はすぐに回り出す。

理解するのは容易だった。理由だって分かる。その上で、とある疑念が頭にこびりついて離れない。

 

「……その間に兄上を殺すんですか?」

 

「違う」

 

「嘘だ」

 

信じられるはずはない。口で何を言おうとも、それが本心とは限らない。

疑心暗鬼に陥っているアキは、母の言うことを何一つ信じることが出来なかった。

 

「そう言って、兄上を殺すつもりでしょう。絶対、絶対、そうに決まってる」

 

「断じて違う」

 

「じゃあ、なんで!」

 

先刻の村長との会話が脳裏に浮かぶ。

 

「なんで、さっきは否定しなかったんですか!? 殺すって言ったじゃないですか! 上手くいかなかったら殺すって! 言ったじゃないですか!」

 

「そんなことは言ってない」

 

「言った! 村のために手をかけるって、そう言った!!」

 

「それは、奴らが勝手に言っているだけだ」

 

「否定しなかった!!」

 

「今しているだろう」

 

「さっきはしなかった!!」

 

椛は困惑した。アキの言っていることがよく理解できなかった。

子供だから支離滅裂になっているのだろうかと、理解することを放棄したくなる。だがそれでは話が前に進まない。呑み込む努力が必要だった。

 

「聞け。レンは殺さない。殺させもしない。万が一もないようにする。そのために、お前に東へ行き食糧を手に入れて欲しいのだ」

 

「……信じられない」

 

アキは素っ気なく言い捨て、ぷいっと横を向いた。

奥歯を食いしばり、拳を握り締め、怒りのために身体が小刻みに震えている。

 

「母上は、信じられない。父上も、村の連中も……誰もかも……。もう、兄上しかいない……」

 

ぶつぶつと呟き始めたアキの姿を見て、椛の心に新たな疑念が浮かんでいた。

それはあまりに依存しすぎているように見えた。兄の死と言う体験が、アキをこのようにしてしまったのだろうか。

何にせよ、今のアキをレンと二人っきりにすることは出来ない。その危機感がより一層強まった。

 

「どうしても出来ないか」

 

「出来ない。やりたくない。兄上の側を離れたくない……。もしその間に兄上が死んじゃったら、もう私は……」

 

涙声になったアキの心中は、椛にもよくわかる。

数か月前を思い出す。あの時抱いた気持ちをもう一度味わうことなど、絶対にごめんだった。

だからこそ、なんとしてでもアキに食糧を確保してもらわなければならない。レン自身に生きる気持ちがないことを知って、椛は焦りに焦っていた。どのような手段であろうと、出来ることは何でもしなければいけなかった。自分に出来ないのなら誰かにやってもらわなければならない。実の娘だからこそ、アキにはそれが務まると思った。実力も申し分ない。レンにはまだ及ばないかもしれないが、並み以上の腕があるのは確かだ。

 

「……しかし、やってもらわねば困る。どうしても嫌か」

 

「嫌だ。絶対に、何と言われようと、嫌だ」

 

「それなら……もう、こうするしかない」

 

次の瞬間、椛はその場に腰を下ろし、地に頭をつけた。

他人にものを頼む時、人は時にこうするだろう。だが間違っても9歳の娘に見せる姿ではない。

アキは言葉もなく呆気にとられる。突然頭を下げた母の姿を、信じられないものを見る目で見つめる。

 

「頼む。東へ行ってくれ」

 

母の口から出た「頼む」と言う言葉があまりに聞き慣れず、どうしようもない違和感が拭いきれない。

至らぬ点は多くあり、それだけ不満もある。しかし少なからず尊敬もしていた。多少の軋轢があったとは言え、こんな姿を見たいと思ったことはない。

その光景が、アキには非常にショックだった。

 

「東に、行ってくれ」

 

再三に渡る懇願に、アキは涙を滲ませる。

なぜこんなことになったのかと自問自答した。答えなど出るはずのない問いだった。

頭を抱えるようにして顔を覆い、ズキズキと痛み始めた胸を抑え、絞り出すように答える。

 

「わかり……ました……」

 

その答えを聞いた椛は安堵して頭を上げた。珍しい表情だったが、最早そんなことはどうでもよかった。

この気持ちは何だろうとアキは思う。どうしてこんなに痛いのだろう。

それが失望の痛みだと気づくのに、そう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

その夜の内に椛は西へ発った。

雪の積もった夜の山道を強行軍で駆け抜けるのは無謀である。

必死に止める父の言葉に一切耳を貸さず、あとは任せたと一言述べて走り去っていった。

 

自室に戻ったアキは眠ることもままならず、部屋の隅で膝を抱えて夜を過ごした。夕飯も取らなかった。

自分に向けて頭を下げる母の姿が脳裏にこびりついて離れなかった。

 

気が付けば夜が明け、山の向こうに日が昇っている。

ぼんやりと戸の隙間から覗き始めた日光を眺めていた。

部屋の外を誰かが通り過ぎる音がして我に返る。父だった。朝食を作りに行ったに違いない。……となると、レンは今一人だ。

 

フラフラと立ち上がったアキは、覚束ない足取りでレンの部屋に行く。

特に目的はない。ただ顔が見たかった。この時間なら恐らく寝ているだろうと思ったし、起こすつもりもない。例え寝ていたとしても、一目見たくて仕方がなかった。

 

部屋の前につき、ゆっくりと部屋の戸を開ける。

起こさぬよう、薄暗闇の中を足音を忍ばせて進む。

 

「おはよう、アキ」

 

暗闇に目が慣れるまでの一瞬の間に、不意にその言葉をかけられた。アキは驚いて体を跳び上がらせる。

まさか起きているなんて思ってもみなかった。ようやく暗闇に慣れた目に、布団の上で体を起こしているレンが映る。「おはよう」とまたレンは言った。

 

「……おはようございます」

 

しばしの硬直を経て、アキは辛うじてそう言った。その声の小ささは、部屋の隅で火が弾ける音に遮られるほどだった。

 

「どうかした?」

 

「……え?」

 

明らかに普通ではないアキに、レンは小首をかしげる。少し間を置いて言った。

 

「こっちにおいで」

 

その言葉を聞いてなお、アキの反応は鈍い。

数瞬躊躇した後、そろそろとレンの側に行く。レンはアキが座るのを待ってから、改めて訊ねた。

 

「元気がないけど、どうかした?」

 

「……」

 

アキは答えられなかった。頭を下げる母の姿を思い出すだけで胸が痛むのに、それを言葉にすればどれほどの苦しみに苛まれるだろう。

 

俯くアキの頭をレンは撫でる。

言いたくないなら言わなくていいと、その手つきから優しさが伝わって来て、アキはたまらず鼻をすすった。

一度こぼれてしまったらもう止めることは出来ない。我慢など出来るはずがなかった。

決壊した川のように、次から次へ気持ちが溢れてくる。膨れ上がった感情は行き場をなくし、アキはレンに抱き着いた。胸の中で支離滅裂に言葉を紡ぐ。

 

何を言っているかアキ自身にもよく分からなかったと言うのに、レンは一言も聞き漏らすまいと耳を傾けてくれた。

聞きながら時に相槌を打ち、時に頷き、時にアキの背中を撫でさする。

その一つ一つがアキの心を癒した。全て話し終わった時には、アキの気持ちはすっかり落ち着いていた。

 

アキの告白は要領を得ない部分もあったが、レンにとっては理解するのに何の問題もなかった。事の次第を全て把握したレンは、苦渋の表情で呟く。

 

「あの人は、本当にもう……」

 

溜息を吐くレンを、アキは胸の中からじっと見上げている。

「……俺も悪いのか」そう続いた言葉は、しっかりと耳に届いていた。

 

「アキ、聞いてくれ」

 

身じろぎはおろか視線すら微動だにさせないアキは何も答えなかった。

その無言が肯定だと受け取ったレンは、訥々と語りかける。

 

「母上は……今いっぱいいっぱいなんだ」

 

自分の言葉が母上を追い込んだのかもしれない。

その思いから、レンは精いっぱい椛を擁護する。決して流暢ではないが、思いつく限り言葉を尽くしていく。

 

「母上は剣聖だけど、それ以外は普通の人なんだ。と言うか大部分は普通以下だから、愚かなこともしてしまう」

 

「……」

 

しかし、アキはレンの言葉をほとんど聞いていなかった。その瞳はただレンを見ている。こうしている間も言葉を紡ぐ唇や気だるげな瞳、赤黒い髪。それらを吸いこまれるように凝視して、それ以外は何も映っていない。

 

「大人と言っても完璧じゃない。親だから立派と言うわけでもない。俺たちより少し年を取ってるだけで、ほとんど何も変わらない――――」

 

レンが言葉を重ねている。雑音にしか聞こえない。それよりももっと重要なことがある。

アキは正直な心に従って、レンの話を遮った。

 

「――――もっと、近くに行っていいですか」

 

いきなり何を言うのかとレンは目を丸くする。

 

「近く……?」

 

アキが何を言い出したのか、レンにはよくわからなかった。

二人はすでに抱き合っていて、距離はないに等しい。話の流れから、母上との距離かと思った。母娘の心の距離。けれど違った。

 

「もっと兄上の近くに行きたい。膝の上とか」

 

「……膝……」

 

なんでそうなるのかよく分からない。今と大して変わらないだろうと思った。

けれどアキがそうしたいなら、とレンは本音を飲み込んで頷く。

 

「おいで」

 

途端にアキは俊敏な動きを見せる。瞬きの間に立ち上がり、レンの膝の上に腰を下ろした。

足に体重が加わったことでレンの身体には痛みが走ったが、一瞬で取り繕う。

 

向かい合って抱き合う形になった。レンの体温をアキはより身近に感じることが出来た。だがまだ足りないと、足を腰に回して密着させる。……これでもまだ足りない。全然、足りない。

 

「横になってもらっていいですか?」

 

「……どうして」

 

「その方が、兄上にもっと近づけるから」

 

おかしなことになっている。

レンは頭を抱えたくなった。直前まで母上の愚行を取り繕うのに必死だったのに、今度はアキが奇行に走っている。

いっぱいいっぱいなのはレンも一緒だ。どうするべきか、迷い沈黙するレンの肩を、しびれを切らしたアキが軽く押す。

 

「ちょっ……!?」

 

いとも簡単に押し倒され動揺するレン。直後、上から覆い被さって来たアキを見て思わず目を瞑った。

前世の記憶が蘇ったことによる条件反射だったが、記憶とは違いアキは首筋に顔を埋めただけだった。穏やかな息遣いが耳元で聞こえ、レンは身動きできなくなる。

 

これ以上ないと言うほど接近した二人。互いの体温が伝わり、心音も感じることが出来る距離。だがこれでもアキは満足できない。骨の髄、身体の奥深くまでレンを感じたい。

欲望が迸り、身体はより多くを求めた。けれども今はこれが限界だった。

もし混ざり合い融け合うことが出来たなら、アキは迷いなくそうしただろう。しかしそれは出来ず、他の術も知らない。

知識のなさがアキを踏みとどまらせた。

 

「私は、東に行かなくてはなりません」

 

レンの耳元でアキが囁く。

 

「あの人が行けと。行きたくないけど、それが兄上のためなら……」

 

「ああ、聞いたよ」

 

昨晩聞いたとレンは言う。「起き上がっていいかい」と言葉を続けた。渡したいものがあるんだ、と。

後ろ髪引かれる思いでレンの上から離れたアキは、ふと身体の奥に籠る熱に気が付いた。体温が少し高くなっているらしい。己の首筋に手を当てつつ、体調不良ではなさそうだと結論付けた。

 

その間に布団から起き上がったレンは、四つん這いで部屋の隅に行き、置いてあった刀を握る。

大事そうに抱えたそれは、レンが10歳の時に椛から譲り受けた真剣である。

 

「これをお前に譲ろう」

 

その言葉と共に刀が差し出される。白い鞘に収まったそれは、見紛うはずもなくレンの物である。

アキは驚き、信じられないと言う思いで、レンと刀を交互に見た。剣士にとって刀は命の次に大事なものである。おいそれと譲り渡すものではないし、生半可な気持ちで受け取れるものでもない。

勢いよく頭を振って拒絶するアキに、レンは微笑を浮かべる。

 

「俺が持っているより、お前が持っていた方が役に立つ」

 

ずっと寝たきりだったから、昔みたいに刀を振ることは出来なくなった。だからお前が持てとレンは言う。

 

拒否は許さないと押し付けられた刀を、アキは震える手で受け取った。

刀を譲渡するその行為自体が、アキには一つの終わりを告げているように思えてならなかった。ようやく引っ込んだ涙がまた眦に溜まっていく。

ぼやける視界の向こうで、レンは相も変わらぬ優しい口調で語りかけている。

 

「一人で行くわけじゃないし、あまり危険もないと思うけど、ちょっと見て何もなければすぐに帰っておいで。なければないでなんとかなるから」

 

それは優しさに満ちた言葉だった。

しかしアキには嘘だと分かる。食べ物は絶対に必要だ。そうじゃなければ殺される。レンが、殺される。

頬を伝い出した涙を乱暴に拭って、アキは決意を秘めた眼差しでレンを見返す。その胸には譲り受けた刀を抱きかかえている。

 

「怪我だけは絶対にしないように。危険だと思ったらすぐに引き返すこと。それと――――」

 

束の間躊躇する素振りを見せた後、レンはその言葉を紡ぐ。

 

「愛してる」

 

言い切った後、レンはわずかに頬を染め、恥ずかしさを押し隠すように口元を隠した。

その言葉の意味を完全には理解できないまでも、おおよそ察したアキは、胸の奥で急激に膨れ上がる感情を抑え込むのに苦労した。暴れる衝動を言葉で発散させようとする。

 

「す、すぐに帰ってきます……。だから約束してください。絶対に死なないって」

 

未だ頬を染めているレンは、チラリとアキを見て小さく頷く。

その姿があまりに可愛くて、愛おしくて、アキは溜まらずレンを抱きしめた。全身余す所なくくっついて、肌越しに体温を感じる。それでも全然足りなくて、身体と身体を擦りつけた。首に縋りつき押し倒しもした。

 

そこまでしても満足には程遠い。後から後から湧いてくる底なし沼のような欲望が、アキの背中を押し続けている。けれどそれ以上先には進めない。どれほど背中を押されたって、進み方を知らないなら立ち止まるしかない。

 

切りのない心に蓋をして、レンの上に覆い被さりながら、アキは囁く。

 

「行ってきます、兄上」

 

行くことになってしまった。決して行きたくなんかないのに。

母のことなんかもうどうでもいい。兄のために行く。そして兄のために早く帰ってこよう。一日で帰ってこれるだろうか。急げば出来そうな気がする。

そう考えながら、アキはレンを抱きしめる。満たされない欲望を少しでも満たすために。




なんでこうなったんだろう
それと八の太刀は先代剣聖の技なんでレン君は関係ないです
言葉足らずで申し訳ありません

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