父上にエンジュちゃんが来たら教えてくれるようお願いした。例え眠っていたとしても叩き起こしてくれとも言い添えた。
父上が本当に叩き起こせるとは思わないけれど、そのつもりで今日一日過ごすことにする。
長い一日になるぞと布団の上で一人嘯く。何もすることがない一日の長さときたら、拷問と言って差し支えない。つまり、今から拷問を受けるので頑張って耐えるぞと言っているに等しい。なんともはや、我ながらげんなりする。
せめて暇つぶしになるものはないかと辺りを見回したところで、見慣れ切った室内に目ぼしい物は何もない。その代わりと言うわけでもないが、窓の向こうに鍛錬場に駆けていくアキの姿が見えた。そのすぐ後を母上が付いて行っている。
先頭を猛スピードで走るアキと、その背中にくっつくように追随する母上の図は、かけっこと呼ぶには鬼気迫るものがあった。生殺与奪をかけた鬼ごっこでもしているのだろうか。
今のあの二人には相当険悪なムードが漂っているが、それでも日々の鍛錬を欠かしていない。そこに若干の希望が見える。親子仲改善の希望だ。
布団に横たわり、改善する方法をあれこれ考えてみる。
当然の話だが、劇的な改善案と言うのは早々思いつくものではない。殊に、問題は人と人との感情のすれ違いだ。こういうのは地道に距離を縮めていくしかないだろう。
そもそも、なぜあの二人の仲が急激に悪くなったかと言うと、アキが反抗期と言うのも原因の一つに違いないが、俺自身もその一因となっている気がする。
それならば、俺が何かを改めれば二人の仲は改善されるのかと自問自答をしてみた。
それで得られた答えは単純明快。身体を治す以外に答えはない。それさえ出来れば、全て上手くいく気がする。
しかし現状身体を治す術は見つかっていないので、それを足掛かりとするのは不可能と言って良い。
となれば他の方法を探るしかない。
どうしようかなーと思考の海に潜り、沈思黙考に耽って一時間ほど。
頭を働かせることで、身体の痛みから目を逸らすのにも限界を感じてきた頃、廊下から話し声と足音が聞こえてきた。
アキと母上は先ほど駆けていった。家には父上一人しかいないはず。片方は父上として、ならもう片方の声は誰なのか。
エンジュちゃんが来たのかと早合点して身体を起こした。人が来たと言うのに寝っ転がったままでは礼節に欠ける。
起き上がったところで立ち上がるわけでもないので、所詮は五十歩百歩の礼儀でしかないが。
『レンが多分起きてると思うので』
『なに? 寝もせずに何やっとるんだ。あいつはアホか』
廊下から聞こえる声に耳を傾ける。
片方は父上の声で、もう片方は年老いたしわがれ声。内容を鑑みても到底子供の声ではない。そこで思い違いに気づいた。起き上がって損したなともう一度横になる。
「レン。ゲンさんが……」
「小僧。お前死にたいのか」
現れたのは父上とゲンさんの二人。
父上の声に被せて、ゲンさんが物騒なことを言う。
「なんですか藪から棒に」
「薬も飲まずに何しとんだ」
「起きてます」
「死にたいのか」
「人間いつかは死にますので、みっともなく抗うよりは観念して受け入れるつもりです」
「そんなことは言っとらんわ。お前は阿呆か」
手始めに俺が茶化したとはいえ、本人を前にしてこの言いっぷり。一周回って小気味よくある。
苛立たし気に腰を下ろし、その場で胡坐を組んだゲンさんは、懐から緑の液体の入った瓶を取り出してドンっと床に置いた。
「飲め」
一目見るまでもなく、いつも飲んでいる薬だと分かる。
アキが快復した今となってはそれほど作る必要もないのに、ゲンさんは律儀に作っては持ってくる。むしろ作りすぎているぐらいだ。俺なんて一口飲んだら夢の世界なので、消費量もたかが知れているのだが。
「今日は客があるかもしれないので、後でいただきます」
「客だぁ?」
段々と柄が悪くなっていくゲンさんに比例して、所在なさげに立ち尽くす父上は落ち着きをなくしていく。
見る見る間に顔色が青くなっていっているので、よほどゲンさんが怖いのだろう。こういう益荒男染みた男性は、この世界にゲンさん一人と言って過言でないほど希少種だから、耐性の問題かもしれない。慣れてしまえば可愛いものだ。まるでよく吠える犬のよう。
「父上は戻っても大丈夫ですよ。ゲンさんは俺に話があるみたいなので」
「……そう?」
「はい。大丈夫です。こう見えてゲンさんは優しいので」
「何言っとんだお前」
心底あきれた顔のゲンさん。
照れている気配もないので完全に素。その良さを知るのは俺だけと言うことか。
「じゃあ僕向こうにいるから、何かあったら呼んでね。……源さんも、ごゆっくり?」
自分で言っておきながらしっくり来なかったらしく、最後は苦笑交じりだった。
「いやいや。すぐ帰りますんで。忙しいところすんませんな」と世にも珍しきゲンさんの敬語を聞いた。
父上の姿が見えなくなった直後、早速茶化してみる。
「ゲンさんもそんな言葉遣いできるんですね。驚きました」
「やかましいわ。お前の慇懃無礼な口調より万倍ましだろう」
「慇懃無礼とはまた随分な評価で」
「妹ともども態度がでかくなってるだろうが。仲良く反抗期か?」
反抗期ではない。それだけは違う。しかし舐め腐った態度を取っている自覚はある。
怪我をしてからは碌にストレス発散も出来ていないので、ついつい態度が悪くなりがちだ。人を揶揄うことで溜飲を下げている部分もある。
悪い癖だと思いつつ、自然と口を衝いて出てくるので半ば諦めている。思い悩んだだけ余計にストレスを溜め込む悪循環は避けたい。
「反抗期なんて、とうの昔に越してますよ。死ぬ前ですが」
「……そういうのを付け足すんじゃねえ。趣味が悪い」
「気分を害したなら謝りますが」
「お前の謝罪なんぞいらんわ」
そう言うので謝罪はなし。話を進める。
「客って誰だ」
「エンジュと言う名前の女の子です。ご存知ないですか?」
「知らんな」
それはおかしいなと思い、懐から父上がエンジュちゃんに貰ったと言う薬草を取り出して訊ねる。
「この薬草を届けてくれたそうです。てっきりゲンさんが教えたと思っていたんですが」
「そんなもん、この村の老人どもなら皆知っとる」
この村に老人は何人いるだろう。
ゲンさんより年上となると、5~6人はいたような気がする。決まって皆女性だ。
「誰かに聞いて採って来たと言うことですか。山に生えてるんですよね」
「ああ。昔はよく使ったもんだ。煎じるまでもなく、一口齧ったら痛みが和らぐってんでな」
「ほう」
よいことを聞いた。いざと言う時に役に立つかもしれない。大切にとっておこう。
「で、槐っつうその餓鬼がこの葉っぱを採って来たって言うのか」
「ええ。そうらしいです」
ふんと鼻を鳴らすゲンさんはしかめっ面で不機嫌そうだ。
「何か問題でも?」と訊くと、「あるに決まっとる」といささか強い口調で答えた。
「こんなもん、そこそこ奥に入らんと手に入らんからな。餓鬼のくせに危ないことしやがる」
「じゃあ注意が必要ですね」
「名前は槐だな。とっ捕まえて説教してやる」
鼻息荒く腰を上げかけたゲンさんを「待ってください」と押し留める。
ゲンさんに説教を受けるのは、想像するだけでエンジュちゃんが気の毒になった。
「ゲンさんの説教は男性恐怖症になりかねないのでやめてください」
「ああ? だからいいんだろうが。男だからって舐め腐ってる輩には――――」
「俺が言っておきますよ」
おかしな方向に向かいそうだったのを途中で遮って、言いたかったことを伝える。
一瞬ボケっとした顔になったゲンさんは、それを誤魔化そうとしたのかぼりぼりと頭を掻いた。
「餓鬼が餓鬼に説教する気か」
「俺のことを餓鬼と思ってくれるのは嬉しいです」
「ちゃんと出来るのか?」
軽口を無視したゲンさんが、疑い混じりの眼差しでそう訊ねてくるのを、俺は任せておけと頷いた。
「言って聞かせればいいんでしょう」
「簡単じゃねえぞ」
「でしょうね」
言う通り簡単ではないだろうが、俺のために薬草を取りに行った結果、ゲンさんに説教されると言うなら見過ごすことは出来ない。
大元の原因である俺が注意するのが、筋も通っているように思う。
「ま、やりたいってんならやってみろや。俺も怒るのが得意っつうわけじゃねえ」
「それは意外です」
「あ?」
うっかり口が滑ったのを、にっこりと笑って誤魔化したところで話は終わった。
「薬は飲めよ」とどうでもよさそうに言い捨て、帰ろうとしたところを、行きがけの駄賃を置いてけとばかり質問する。
「山の様子はどうですか」
「別に変わりやしねえよ」
「こんなに寒いのに変わらないことはないでしょう」
「……ま、春に狼どもが食い荒らしもしたからな。猿も熊もどこにもいやしねえ。不猟だ。今年は」
やれやれと言いたげに鼻を鳴らし、ついでに足も踏み鳴らしてゲンさんは去っていく。
廊下の奥から二~三話し声が聞こえたのを最後に、ゲンさんは帰ってしまった。
人がいなくなって急に静かになった部屋で、窓の外を見ながら一人呟く。
「そうか……不猟か」
以前、山の方に一時感じた違和感はあれ以来感じない。そもそも気のせいだったのかもしれない。その可能性が高かったが、何かを忘れている気もしていた。
その正体を考えている間に時刻は正午を回り、太陽が傾き始める。
どれだけ時間をかけて考えても、違和感の正体は分からないし、親子仲を改善する方法も思いつかない。
あんまり良い一日ではなかったなと、早くも今日と言う日を振り返り始めた時、ついに待ちに待った声がかかる。
「レン。槐ちゃんが来たよ」
反射的に起き上がる。
「来ましたか」と半ば無意識に出た言葉に、「うん。来たけど」と父上が答えた。
自分の身体を見下ろして着崩れを直す。一日寝ていたせいで髪が跳ねている気がした。
他にもあちこち身だしなみが悪い気がしてならなかったが、今更どうしようもない。
「通してください」
髪の毛を抑えながらそう言った俺を、父上はきょとんとした顔で見ていた。
「こんにちは」
「こ、コンニチハ……」
父上に通されてやってきたエンジュちゃんは、妙にカクカクとした動きで部屋に入り、入ってすぐの位置で正座した。ピンと背筋を伸ばしたまま微動だにしない。
一応声をかければ返事はあるが、その声の小ささは耳を澄まさなければ聞き逃しそうなほどだった。
「わざわざお見舞いありがとう。また花と薬草を持って来てくれたんだね。大切にするよ」
父上経由で受け取った花と薬草を手に、まずはお礼を伝えた。
エンジュちゃんは真っ赤な顔でコクコクと頷いている。見ただけで極度に緊張していると分かる顔だ。
これほど緊張されてしまうと、こちらとしても非常にやり辛い。言動一つとっても気を遣ってしまう。
何か緊張をほぐす話でもした方がいいだろうか。しかしその手の話術はからっきしだ。あまり気を遣いすぎても余計に固くさせるだけな気もするし、自然体で接する方がいいか。
そう考え、当初の予定通りに進めることにした。
「先日も同じものを持って来てくれたんだってね。ごめんね。寝ていて気付かなくて」
「いえ……わたしも、ごめんなさい。寝ているのに何度もきて……」
「気にすることはないよ。むしろ嬉しいぐらい。ありがとう」
笑顔はコミュニケーションの第一歩と聞いたことがある。ならば、笑いかけたら多少は緊張もほぐれるかもしれない。
そう思って、とびきりの笑顔を作って笑いかけてみた。しかし予想に反してエンジュちゃんは俯いて、余計に身を縮こまらせてしまった。
もしこれがアキなら効果はあったと思う。
感情が一々顔に出て、見れば誰でも理解できる分、かなり分かりやすい。だがエンジュちゃんもそうとは限らなかった。
100人子供がいれば100通りの性格がある。それぞれに適した接し方があるだろう。相手のことが分からなければ、距離を縮めることもままならない。これは母上とアキの間にも言えることだ。少し勉強になった。
「それと、この間は妹がごめんね。折角来てもらったのに追い返してしまって。二度としないように言っておくから」
「………………はぃ」
この間の一件について言及した途端、あれほど感情の色濃かった顔から全ての色が抜け落ちた。
表情は強張り、緊張の代わりに恐怖が張り付いている。それほど恐ろしかったらしい。無理もないことだ。
毎日のように接している俺でさえ、たまに母上を彷彿とさせて一抹の恐怖を覚えることがある。そんなのは、耐性のない子供なら泣き叫んでもおかしくない。
それを思うとこの子は強い方だ。その強さを生かしてアキと友達になってくれたら嬉しいけど、無理なのは分かっている。初対面で睨みつけてくる奴と友達になりたいなんて人はまずいない。
「安心して。アキにはきつーく言っておくから。もし何かされたら俺に言って。母上と二人でよく言い聞かすよ」
「…………はい」
今のアキの猪突猛進具合を鑑みれば、俺程度で抑え切るのは難しい。それを自覚しているからこそ、言葉にも今一説得力がない。エンジュちゃんの不安を取り除くことは出来なかった。
「……それと、この薬草のことなんだけど」
漂い始めた嫌な空気から目を逸らすために話題を変えた。
とは言っても、変えた先の話題も扱いに困る類の物だ。
先ほどゲンさんに啖呵を切ってしまったので、どんな空気だろうと言及しないわけにもいかない。
「山に入って採ってきてるんだよね」
「……そうです」
「あんまり奥まで行くのは危険だから、これで最後にしてね」
にっこりと笑って、「駄目だよ」と言い聞かす。
これで頷いてもらえれば苦労はないのだが、エンジュちゃんは口を引き結んで神妙な顔をした。
次の瞬間、「でも」と異議を唱えられる。
「これがないと、おにいさんは困るんじゃ……」
「別に困らないけど」
「え……」
反論に反論を被せてみれば、エンジュちゃんは途端にオドオドして、かと思えば萎縮した様子で俯いてしまう。何か言いたげな気配はあるが、口を閉ざしたっきり何も言ってこない。
この様子だとあまり真っ向から否定しない方がよさそうだ。気の弱そうな子だから、下手をすれば自分の殻に閉じこもってしまいかねない。
「うん、ごめんね。言い直そうか。あの葉っぱがないと困るのは、確かにその通りなんだけど」
言いながら、懐から薬の入った小瓶を取り出した。
それをエンジュちゃんにも見えるように床に置く。
「ゲンさんにお願いして、こういう薬にしてから飲んでるんだ。葉っぱもゲンさんが採ってきてくれる。ゲンさんはこの村で一番あの山に詳しいから、危険もない」
エンジュちゃんは瓶と俺の顔を交互に見ている。
出来る限り怖がらせないようにと笑顔を浮かべて、優しく言葉をかける。
「山には人を襲う獣がたくさんいるし、藪の中に入るだけでもあちこち怪我をして危険だ。採ってきてくれるのは嬉しいけど、そのせいで君が怪我をしたら元も子もない。だから、もう採りに行かなくて大丈夫だよ。必要になったらゲンさんに採りに行ってもらうから」
「ね?」と微笑みかけて念を押す。
エンジュちゃんは内心納得いかないと言う顔をしていたが、少なくとも頷いてはもらえた。もう少し釘を刺しておきたいが、あまり強く念を押したらまた萎縮させてしまうかもしれない。
こう言う時どこまで踏み込んで良いのか分からない。線引きが難しい。よく知らない子供相手だからなおのこと戸惑う。
「気持ちだけで十分嬉しいよ」
「……」
無言でいるエンジュちゃんに仄かに不安を覚える。
やっぱり、怖がられるのも承知の上で言葉を重ねようか。
そう思い口を開いた、その時だった。
「きゃ!?」
叩きつけられるように開かれた戸がサッシ部分にぶつかって、大きな音が響く。エンジュちゃんは悲鳴を上げ、俺は体を飛び上がらせた。
「一体なにが……」
「あ……」
エンジュちゃんの背後に、アキが立っていた。
「……お前……」
その顔は母上に瓜二つの無表情。俺にとって、それは何を考えているか分からない恐怖の顔だ。
最愛の妹はよりにもよってそんな顔で、エンジュちゃんを凝視している。
突然の出来事にエンジュちゃんは振り返ったまま固まってしまう。二人が見つめ合って数瞬。
アキの瞳にチラリと怒りがよぎったのを見て取って、身体が痛いなどと寝言を思う間もなく、条件反射で飛び掛かる。
「――――は、ちょ、兄上!?」
「大人しくしろ」
遮二無二飛び掛かった結果、アキを押し倒すことに成功した。その格好は父上のトラウマとは正反対に、俺がアキの上に乗っかる形だ。
後先考えなかったせいで身体はあちこち激痛が走り、これ以上は全く動けない。この程度でこうなるのかと身体の調子を認識する余裕を持ちつつ、未だに固まっているエンジュちゃんに声をかける。
「早速だけど、こいつは俺が説教しとくから。エンジュちゃんはお家にお帰り」
「あ、あの……」
「今のうちに帰った方がいい」
エンジュちゃんは俺の下で暴れるアキと、痛みに耐えてやせ我慢する俺とを交互に見比べ、後ろ髪引かれる様相であったが、少し語調を強めて言えば、言うことを聞いてしずしずと帰ってくれた。
その間、俺に組み敷かれているアキはと言うと、飛び掛かられたことで最初は混乱していたようだったが、何がどうなっているか認識した後は大人しくなり、帰るエンジュちゃんを黙って見送っていた。
そうしてエンジュちゃんの姿が見えなくなり、ほっと一息ついた後、何はともあれアキに文句を言い放つ。
「お前のせいで体が死ぬほど痛い」
「……私は死ぬほどびっくりしました」
恨めしそうな言葉とは裏腹に、アキは俺の背中に腕を回してぎゅっと抱きしめてくる。
組み伏せた時から分かっていたが、その体は随分と凍えていた。それこそ死人のような冷気が伝わってくる。
「最近ずっと寒いですが、今日は特に寒かったです」
「おかげで頭も普段より冷えてたのかな」
「馬鹿にしてますか?」
「いいや。特には」
こんなことを話している間も激痛に苛まれている。
それを一寸たりとて顔に出さないよう苦心し、どうにか布団まで戻れないかと考える。
エンジュちゃんを脅かした件について説教をしなくてはならないが、物事にはそれに相応しい場と言うものがある。こんな馬鹿みたいな恰好で説教したところで、伝わる物など何もない。
「あの子供は一体なんですか?」
「お見舞いに来てくれたんだ。花と薬草をくれた」
「そんなの、私が山ほど採ってきます」
「贈り物で一番大事なのは気持ちだよ」
「私の方が気持ち籠ってます」
「どうかなあ」
運のないことに、アキはこの状況をどうにかしようというつもりはないようだった。
それどころか、この体勢のまま会話を続けようとする意志が端々に感じられる。
背中に回した手に力を込めて引き寄せてくるし、足を腰に回して決して離そうとしない。
いささか過剰に思えるそれらも、考えてみれば朝以来のコミュニケーションだった。
世話係を強制的に解任され、共に寝ることも禁じられている。
それら、わずか一日で溜まった莫大なフラストレーションが、過剰なスキンシップと言う形で出てきているのかもしれない。
これは困ったなと頭を悩ませる。
なにせ仰向けに寝っ転がるアキの上にうつ伏せで覆い被さっている状況だ。
やたらと距離が近いし、妹を敷布団のように扱っているのが心苦しくもある。
「重くないか?」と尋ねてみれば、「羽毛のように軽いです」と妙に気取った言葉が戻ってくる。
兄離れへの道のりはまだまだ遠い。
それを実感し、そう言えばこう言う時のために父上と母上は結託したのではなかったかと、助けを求めて周囲に目を向ける。
何となく近くにいる気はしていたが、二人ともかなり近くにいた。
「あわわ……」
「……」
すぐ隣の部屋から、半身だけ覗かせて俺たちを見ている父上と、窓ガラスの向こうから、先ほどのアキそっくりな無表情で俺たちを見下ろす母上。
ただ見ているだけで、それ以上近づきもしなければ話しかけても来ない二人。
父上は分かりやすく誤解している。母上が何を思っているかは分かりやしない。
思わず脱力する俺の下で、頭上に母上を見つけたアキが頬を引きつらせた。
「……とりあえず、起きるの手伝ってもらえますか?」
助けを求めた俺の声で、はっと我に返る父上。即応して窓を開ける母上。
これだけ見て分かる通り、この家族は色々な意味で前途多難だ。もちろん、俺を含めての話だが。
今年の夏は寒かった。一向に気温の上がらないこの夏は、一年を通して冷夏であった。
アキに説教を食らわした後は、火鉢に火を焚いて暖を取らせた。こんなにも早く火を焚いたのは生まれて初めてのことだった。
その日を境に、気温は日を跨ぐごとに下がっていき、外出には厚着が必須になるほどの寒さになった。夜になれば吐いた息は白く曇り、山々の葉は紅く染まる前に全て落葉した。
その現実を目の当たりにし、前々から微かに漂っていた危機感がいよいよ顕在化し始める。村中を陰気な雰囲気が覆い尽くした。
まだ間に合う。まだ何とかなる。そう信じ、暖かくなってくれと天に祈る者もいたらしい。
悲しいことにその願いは叶わず、この夏一番の冷え込みとなった日の早朝。
目が覚めて、窓の外に広がっていたのは美しき銀世界。
茶色の土は一面白で覆われ、辛うじて実っていた稲穂にも雪化粧が施されている。
チラホラと舞い落ちる雪は、早すぎる冬の訪れを示していた。
縁側で肺が凍りそうな空気を吸いながら、天を仰いで曇天を睨んだ。
この容赦のない冷気が人々の心を凍てつかせ、作物を枯らしていった。
今年の収穫量は数える程度しかあるまい。春に植えた種は、実をつけることなく全て消えてしまった。
村に多少の蓄えはあれども、国に差し出す分を勘定すれば幾ばくも残らない。
そんなことは算数を学んでいなくても分かる。村中が危機感を募らせている理由だ。
あとは領主がどれほど備えているか。税を免除してくれるのか。
その辺り、俺程度に図れることではないけれど、一つだけ確かなことがある。
「……飢饉か」
白い息とともに吐いた言葉は、舞う雪の中に消えていく。口にする必要のない言葉だった。