俺が眠っている間に見舞客があったらしい。
その見舞客は小さな女の子で、花と薬草を見舞いの品として持参して来たのだとか。
それを聞いた時、思い浮かんだ顔は一つだけ。
黄色い二輪の花はすでに萎んでしまったが、なぜか一輪増えていた理由が分かった。てっきりアキが採って来たのかと思ったが、よくよく考えればあいつがそんなことをするはずもない。花より団子と言う言葉がよく似合う妹だ。そういうところが可愛いのだけど。
薬草と言うのも、俺が普段から飲んでいる薬の材料になるそうで、「誰から聞いたんだろうね」と父上は微笑んでいた。
見舞いとは言え一方的に貰っている現状は申し訳なさが込み上げる。
あの子とは、アキが威嚇して追い払った時を最後に会っていない。また来ると言っていたそうだから、謝罪とお礼を伝えたい。
朝夕はアキがいるから、アキがいない時に訪ねてくれれば問題なく会えるだろう。昼過ぎか昼前に来てくれるのが望ましい。よしんばアキと鉢合わせしたとしても、俺が仲裁すればいいだけだ。そのためには起きている必要がある。
試しに一日頑張ってみるかと、一つ小さな決心を固めたその日。
良い日になりそうだと、どことなく漂ってくる心地よさに浸っていたのだが、一日の始まりは穏やかとは程遠い騒々しさだった。
『はあ!?』
突然聞こえてきたその声に、レンゲを持つ手がピタリと止まる。
「なんか、アキの声が聞こえましたけど」
「……そうだねえ」
昨晩に続いて、朝食を持って来てくれたのは父上だった。
手ずから食べさせようとするのを断って、ゆっくりと食べ進めていた最中のことである。
まだ朝も早く静かな時間帯にその声は家中に響き渡り、耳を傾けるまでもなく自然と耳に入ってくる。
『だから、私がやるって言ってるのに! なんでダメなんですか!?』
『必要ないからだ。お前は自分のことだけ考えろ』
『意味わかんない!』
『わかれ』
断片的な内容を拾うだけでも、間違いなくアキは怒っている。昨日からずっと怒りっぱなしのようだ。
聞く限り母上はいつも通りだが、むしろそれが買い言葉に売り言葉と言う感じになって、ヒートアップしているように思う。
今まで何度だって思ってきたが、母上は相手の気持ちを慮ることを覚えた方がいい。よしんば慮っているのだとしても、態度に表す努力が必要だ。分からない人にはてんで分からなくて、それが余計な諍いを招いているのだから。
「あれはどういう言い合いですか?」
「うーん……」
困り顔で唸る父上は、少し間をおいて言い難そうに口を開く。
「アキが……」
「アキが?」
「ごねちゃって……」
「ごねる?」
一体何に?
首を傾げて考える。
そもそも、昨晩は二人を仲直りさせるために場を作ったと言う話だったが、その結果はどうなったのか。聞こえる感じではやはり失敗したと考えて良いのか。そのせいでむしろ以前より仲が悪くなってはいまいか。
瞬時に浮かんだ疑問の数々は、ドタドタと廊下を走る足音にかき消される。
足音は二人分。すぐ後を怒鳴り声が続いた。
「もういい! これ以上話しても埒が明かない! 続きは兄上の隣で聞く!」
「待て」
「誰が待つか!」
間もなく、部屋の入口にアキが姿を現した。
その襟を掴んで侵入を食い止めているのは母上だろう。戸の影に隠れて声がする。
「食事中だ」
「放せえっ!」
手足を振り回して暴れるアキ。ここだけ抜き取って見るだけでも、とんでもない暴れん坊と言う印象を受ける。
暴れん坊は暴れん坊らしからず、力負けして少しずつ下がっているので、腕力では母上が勝っているらしい。まだ9歳だから妥当ではある。
「食事を済ませろ」
「ここでするぅ!」
「駄目だ」
「なんで!?」
「なんでもだ」
アキがズルズルと引き摺られていく。戸の向こうに見えなくなる直前、その目は助けを求めていた。
そういう顔をされると弱い。自覚がある。諍いの原因が分からずとも、助け船を出すのに躊躇はなかった。
「母上」
俺が母上を呼び止めるのを見て、傍らにいた父上が「あ」と声を漏らす。視線を向けると苦笑を浮かべて頬を掻いていた。
「何か?」と目で問いかけてみると首を横に振られる。用件はないと判断した。
「母上ー」
二度目の呼びかけ。
すでに暴れる音と歩く音は止んでいる。
戸から半身だけ姿を見せた母上は、心なしか仏頂面に見えた。
「……なんだ」
「ちょっとこちらへ」
「なんだ」
「お話を聞かせてください」
「食事が済んでいない」
「なら手早く済ませてしまいましょう。どうぞこちらへ」
俺の頑なさを見て取って、母上にしては珍しく困ったように天を仰いだ。そして深々と溜息を吐く。
「アキを置いてくる」
「置いたところで、どうせ来るでしょう。いいではないですか。家族で語らいましょう。久しぶりに」
沈黙が流れ、母上と父上がアイコンタクトを交わしていた。
それを見咎めてしまって、何とも微妙な気分になる。何を企んでいるのやら。
「……いいだろう」
「ではこちらへどうぞ」
泰然とした動作で部屋に入ってくる母上の影から、アキが俊敏な動きで駆け寄ってくる。
妙に目を輝かせながら俺の腕に纏わりついた。そして母上を睨み、父上に厳しい視線を浴びせている。親への態度としては最悪もいいところだ。どれほど鬱憤が溜まっていると言うのか。
布団の側に父上と母上が並んで座る。
二人揃っている光景は久しぶりに見た。怪我をする前は毎日のように見ていたはずなのに、少し感慨を覚えてしまう。
胸の奥から込み上げる感情を努めて無視して、二人に問いかける。
「昨日から、お二人の行動が少々怪しいのですが」
「気のせいだ」
俺が言い終わる前に母上はそう言った。
レスポンスがやたらと早い。ちょっと言葉尻に被さってる。
今までそんなことはなかった。これはますますもって怪しい。
「説明をお願いします」
「……」
二人は黙り、そしてまたもや視線を交わす。
そんな態度は白状しているも同然だ。それが分かっていないのだから、この夫婦はそろって嘘が下手で困る。
「あのね」
数瞬の沈黙を経て、意外なことに口火を切ったのは父上だった。てっきり母上が前面に出ると思っていたから、ちょっと動揺する。
「まず、昨日僕が話したことに嘘はないんだ」
「でも、全部じゃないでしょう」
「……うん。大したことじゃないんだけど」
その口が開くのを見ていた。どのようなことを言われるのかと、内心憂いに満ちていたが、聞いてみると本当に大したことがなかった。
「アキを、兄離れさせようと思うんだ」
「……はぁ」
それで?と続きを待った。
「それだけだよ」と父上は言う。
「本当に?」と聞き返して、「本当だよ」と返事をもらう。
理解に困って頭を捻る。過去、母上と交わした言葉がいくつか蘇り、関係がありそうな言葉を反芻していく。
多分、あの時の会話が関連しているのだろうなと見当をつけておいて、話を続ける。
「兄離れさせるために……何ですか。アキを怒らせているんですか?」
「そんなつもりは……。ごめんね、アキ」
父上がしゅんとして謝った。
アキは俺を間に挟んで二人を見ている。野生動物が警戒しているような感じで。
「最近アキに頼りっきりだったのもあるから、レンのことは僕が代わることにしたんだ。兄離れの第一歩だね。物理的にだけど」
「それで?」
「とりあえず、それだけ」
その程度なら全く大したことではないなあと納得する。
しかしアキにとっては大それたことらしく、口を尖らせて不満を露わにした。
「どうして今更……もう私は何もしなくていいって言いますけど、突然そんなこと言われても……」
「今まで苦労をかけていた。むしろ好都合のはずだ」
母上が口を挟んだ。その内容に俺も同意する。
今までの家事労働は、鍛錬と併せて考えると間違いなく激務だった。
俺の世話を焼かなくて済むのなら、その分負担は減るし、余った時間を自由に使うことが出来る。
その時間を鍛錬につぎ込むも良し、体を休めるも良しだ。溜まっている鬱憤だって多少は解消されるだろう。
何から何まで良いこと尽くしだと思うのだが、アキは頭を振って否定した。
「一緒に寝るのもダメって言うんです!」
「え」
ごねている最大の理由はそれなのか。
納得すると同時に、俺も少しだけ狼狽えてしまった。
寒い日には湯たんぽさながらの抱き心地だったのに、その温もりがもう味わえないと思うといささか寂しさが募る。
しかしそれも些細なことでしかない。
兄離れと湯たんぽ。どちらが重要かは天秤にかけるまでもなく分かり切っている。
「どうぞ連れて行ってください」
「兄上!?」
俺の言葉を受け悲鳴に近い声を上げたアキは、伸ばされた腕を掻い潜って詰め寄って来る。
「一緒に寝るなって言うんですよ!?」
「そうだね」
「もう一緒に寝れないんですよ!」
「遅かれ早かれだろう」
「私は兄上と一緒に寝たい!!」
「俺も寝たいけど、兄離れしなきゃ」
「なんで!?」
「色々あるんだろう」
「母上と同じことを言う!!」
……母上と同じことを言っているのはまずいかもしれない。
もっと言葉を尽くさないと、取り返しのつかないことになる気がする。
「アキ」
「はいっ!」
噛み付くような面持ちで、破れかぶれの返事が来る。
これを説得するのは容易ではない。だからと言って、母上に任せてはそれこそ取り返しが付かない。
「俺だっていつまでもこの家にいるわけじゃないし、いずれは一緒にいられなくなるんだから」
「……兄上は結婚するんですか?」
「みんなしてるんだから、俺だってその内するよ」
「……出来るんですか?」
珍しく、遠慮がちな声と態度だった。
可能か否かで言えば、見込みは薄いが断言はできない。その答えを持っているのは俺ではなく母上だ。
その辺どうなんですかと目で問いかけてみると、母上は露骨に視線を逸らしてしまう。この状況でそう言うのはやめろと言いたい。
結局、どちらとも明言出来ずにいる俺を見て、アキは前のめりになる。
「結婚できなくても大丈夫です! 私もするつもりないですよく分からないし! だからいざとなったら私がずっと一緒に――――」
「母上、連れて行ってください」
その言葉は途中で遮った。連行されるアキが叫び声をあげている。その声は事態の深刻さを認識した俺の耳を右から左へと素通りしていった。
すっかり役立たずになった俺にも、まだすべきことがあったらしい。久しぶりに生きる気力が湧いてきた。
「父上。是が非でもあいつを兄離れさせましょう。全面的に協力します」
「あ、ありがとう」
やる気に満ち溢れた俺を見て、父上は若干引き気味だった。それがまるで気にならないぐらい、俺の中には危機感が募っている。
今のやり取りで兄離れの必要性は十分分かった。俺のせいで妹の未来を閉ざしてしまいかねない。一生兄妹で暮らすのは、どんな価値観で図ろうがありえないことだと俺にすら分かる。
ブラコンなどと言う言葉は好きではないが、そう言われて余りある状況に瀕している。
「こういうことなら、最初から言ってくれればいいのに」
「いや、まあ、どうなのかなあ、って思って……」
「何がですか」
「……アキ一人ならともかく、レンにまで抵抗されると本気で泣きたくなっちゃうから……」
常日頃から妹第一主義を掲げていたせいもあって、疑惑の芽が尽きなかったのだろう。
やるかもと思われていた。やるわけねえだろと口で言うのは簡単だが、信じてもらうとなるとこれが中々難しい。
「前に二人でキスしかけてたし、毎日のように抱き合ってるし……」
「ちょっと待ってください。何ですかそれいつのことですか」
俺にそのつもりはないが、毎晩のように抱き着かれているのは事実なので、それについては抗弁しない。けれどキス云々は聞き捨てならない。
一体何を勘違いしているのか。詰め寄る俺に、父上は思い出しながら答える。
「たしか、アキの怪我が治ってた頃だから……初夏?」
「あれはキスなんてしてないです。押し倒されただけです」
「もっと悪いよぉ……」
泣きが入ったその声に背中がむず痒くなる。
妙な勘違いをされ余裕がなかったことも相まって、「男だろ! シャキッとしろ!」と叱りたくて仕方がなかった。
「つまり、アキがその気になったらなんでも出来ちゃうんでしょ? だから椛さんもアキにその手のことは教えたくないって言ってるのに……」
「……何の話ですか」
そう言いつつ、文脈で理解できる。父上が言っているのは性教育についてだろう。
はっきり言って、昨日の母上は謎に満ちていた。すべきことをせず、逃げる気はないとか言いつつ、どう見ても逃げていた。だから不安で不安で仕方がなかったが、そういう考えだったのかと今更ながら理解する。親の心子知らずとはよく言ったものだ。
「まだ子供ですから」
「でも身体は大人になっちゃった……」
悲観的過ぎる。
今まで性的な意味で身の危険を感じたことはないのだが、それは当事者でなければ分かるまい。
同性として父上が必要以上に警戒しているのなら、それに従った方が無難だろうか。何にせよ、アキは決してそんなことはしないと俺は信じている。
「しかしあの様子だと一筋縄ではいかなそうですが」
「頑張るよ」
力こぶを作る真似をして張り切って見せる父上。その細腕に力こぶなんて縁がなさすぎるので、俺の目には滑稽に映る。でも多分、一般的には可愛く見えるのだろう。
「俺も出来ることを手伝います」
「うん。よろしくね」
「はい。頑張りましょう。――――それで、話は変わって結婚のことですが」
瞬間、父上の顔が強張った。
その顔を見ながら、どういう聞き方をしようか、などと考えてみたが面倒くさくなった。直截で聞けば良い。
「もしかして、相手方と話が進んでいますか?」
「ど、どうして……」
「兄離れだなんだと、いくら何でも突然すぎるので」
アキが初潮を迎えたのが呼び水になったことは確かだろう。しかしこの二人にこんなにも早く行動を起こさせるのなら、他にも要因があった方がより得心がいく。
確信など何もない、いわゆる勘ではあったが、父上の反応を見るに外れではなかったようだ。
「ごめんね……椛さんから少しだけ話は聞いてるんだけど、詳しいことは何も聞かされてなくて……」
「一から十まで母上一人で話を進めてるんですか?」
これはまた不安を煽ってくれる。
あの人が何を考えているかなんて、俺にだってよく分からない。そもそも、俺の身体のことを考えれば双方満足のいく見合い話なんてほとんど不可能なはずだ。
「ただ、話は進んでるみたいで。そうなるとアキが心配だからって、兄離れの話に……」
「……アキはこのことを知っているんですか?」
「……教えられないよ……」
でしょうねと嘆息する。
母上は順調に進んでいると言うが、全貌が分からない以上は不安しかない。
本当に大丈夫だろうか。後で直接話を聞いた方がいいだろうか。
十中八九無理だろうと思って放置したのに、まさか話を進めるとは。交渉力などまるでなさそうなあの母上が、一体どのような手管を駆使したと言うのか。
俺が考えつく限りでは、交換条件として何かを差し出したと言うのが一番納得できる。
そうなると、我が家で差し出せるものなんて剣聖に関連した何かしか考えられない。
俺のために母上が苦渋の選択を呑まされたのだとしたら、黙っていることなど出来ない。俺に選択肢はほとんど残されていないが、出来ることはまだある。
備える必要があるかもしれない。
何をするにしても本気で行動を起こすなら、身体の調子を明確にしておく必要があるだろう。何が可能で何が不可能なのか。無理をすればどこまで出来て、無理をしたところで何が出来ないのか。
最悪アキに協力してもらうと言う手もあるが、先ほどのやり取りから言ってそれは悪手だ。アキには兄離れしてもらうのが一番いい。俺のことなど気にせずに、自分の人生を歩んでほしい。
――――この怪我さえなければ、誰の手を借りずとも一人で何だって出来るのに。
自分の手を見ながらそう思った。
臍を噛む思いで拳を握ろうとし、刺すような痛みが走って満足に握れもしない。
果たして、こんなことも出来ない俺に生きている価値があるのだろうか。
それを考えずにはいられない、朝の一幕だった。
あと一話でようやく次の展開だと内心ウキウキな作者ですが、10月から更新頻度が減るのが決定しています。
今のうちに急げや急げと頑張って書いていきます。