先代の剣聖に襲撃されて早数か月。
瞬く間に月日は過ぎ、いつの間にか暦の上では季節は夏になっていた。
夏と断言するには未だに涼しい日が続いている。日差しは穏やかで雨の日が多い。
曇天の切れ間から光の柱が降り注いでいるのを幾度となく目撃した。その度に神秘的な気持ちになり、そして不思議と寂しくもなった。
この間、命の危険に曝されることもなければ、何か問題が起こることもなく。なんてことはない平和な毎日が続いた。
心のどこかで、後に来るものに多少の予感を感じながらも、その日が来ないことを祈っていた。
祈るだけの毎日は寝て覚めてを繰り返し、どれだけ月日を重ねた所で身体の具合は芳しくない。
外傷は大方治った。雨の日に胸の傷が少し疼くぐらいで、それも大したことではなかった。
問題は六の太刀の後遺症の方だ。
「どうすればいいか分からん」
毎日のように診てくれたゲンさんがついに匙を投げたのは、春の終わり頃のことである。
知っている限り様々な薬や治療法を試してくれたが、どれも劇的な効果はなかった。
母上の言う通り、本当に身体が内側から壊れたならばそれに効く薬などない。自然治癒しかないだろう。
簡潔明瞭に私見を述べたゲンさんは、例の緑色の薬を作ってくれた。
鎮痛剤と睡眠導入剤の両方の効果が得られる凄く苦いやつだ。
休息をとることだとゲンさんは言った。
よく眠り、よく食べて、またよく眠る。
そうすれば治るかもしれない。一縷の望みにかけるようだったが、それ以外に手はなかった。
そしてこの数か月。安静にして過ごした結果、相変わらず痛みに苦しめられている。
日がな一日寝て過ごす毎日だった。
起きている間はずっと苦しい。二度と飲まないと誓った薬に頼り、次に起きた時には痛みが和らいでいることを願った。願いなど聞き届けられることの方が少ないと言うのに。
近ごろはよく外科手術と言う単語が頭をよぎる。
身体を切り開いて、悪いところに直接手を加えればいいのではないか。そんなことを考える。
残念なことに、俺に医療に関する知識はない。単語だけしか知らない。先進的な医療器具なんてこの世界にはない。麻酔があるかも疑わしく、衛生観念なんて期待するだけ愚かなことだ。
諸々含めて、考えた数だけ同じ結論に達する。現実的ではない。
それなのに、どうしても諦めきれない気持ちが可能性を探っていく。
この数か月でしらみつぶしにしたはずだ。俺程度で考えつくことなどたかが知れている。だが奇跡の閃きを求めて考えることをやめない。蘇りの件を思えばなんてことはない奇跡のはずだ。
そうは言っても、俺はその手の奇跡にはそっぽを向かれているらしく、今のところ無駄骨に終わっている。
その日も大分遅い時間に目を覚ました。
すっかり夜が明けている。室内に人の気配はない。家の中には誰かしらいるだろう。気配を探れば一瞬で分かることだが、最近はそんな些細なことでさえ億劫になってきた。起き上がるのも辛いのだから、致し方ないことだと自分に言い訳する。
病床に伏せながら、僅かに開いた戸から遠く窓の外を見つめた。
窓から差し込む日光が、薄暗い室内に一筋の日向を作り出している。
耳を澄ませて音を聞いた。雨礫の音は聞こえない。今日は雨は降っていないようだ。
しかし日中にしてはいささか暗いから、雲がかかっているのは間違いなかった。
しばらくそのままじっとしていた。
見えるものに変化はない。部屋の装飾も天井の模様も。
いつも同じものを見ていれば飽きが来る。だが他に見るものもない。
歩くだけで景色は変わる。立ち上がっても様変わりする。そんな小さな変化がどれだけ有り難かったか。失って初めて分かったものは多い。
いよいよもって、代わり映えのない景色に耐えられなくなった。
痛みは承知で身体を起こす。布団に突いた手を起点にして、全身に力を込める。
「っ……」
相も変わらず、内側から引き裂かれるような激痛に襲われた。大きく息を吸って呼吸を整える。
生きている間、この痛みと一生付き合うことになるのだろうか。ギリギリ我慢できる程度なのが性質が悪い。いっそのこと発狂するぐらいだったら楽になれたのに。
痛みに呻きながら、布団の上で体を起こした。
苦心しただけあって景色は変わる。多少の変化が嬉しかった。痛みに耐えるだけの価値があるかは微妙なところだが。
景色の移り変わりを堪能したら、枕元の小瓶に目を向けて、飲むか飲まないか逡巡する。
これを飲めば夢の世界へ一直線だ。まだ朝食を食べていないが、食欲はないので飲んでも良かった。
少し悩んで瓶に手を伸ばす。
伸ばした手は指先が震えていた。そのせいでうまく掴めない。何とか持ち上げたはいいが、結局取り落とした。
コロコロと転がる瓶を目で追って、戸にぶつかって止まった。
腕を伸ばしても届かない。かと言って立つ必要もなく、這って進めばすぐの距離だ。
たったそれだけの距離が、今は酷く遠く思える。そこまで行くのがどれほど大変なことか、身に染みて知っている。
溜息を吐き、物一つ満足に持てない自分の無能っぷりを嘆いた。
精神的に弱ってきている自覚がある。自分一人で何一つ出来ない現状が、大きなストレスとなって身を蝕んでいる。
このままではいけない。弱気になってはいけないと、懸命に己を奮い立たせてみても、中々気分は上向かない。
落ち込んだ気分を持て余し、ぼうっと瓶を見つめていると、戸の向こうから声が聞こえてきた。
「兄上ー」
続いて、小さな足音も聞こえる。
テクテクと軽い足音だ。これが母上だったらドスドスと威圧感を振りまいている。父上だったらそもそも音がしない。我が家はそれぞれ個性的で分かりやすい。
「あーにーうーえー。ごはんですよー」
ひょこっと顔を見せたアキは、俺が起きているのを見てにんまり笑った。
両腕で膳を抱えているので足で戸を開けている。それだけでも行儀は悪いのだが、足元に小瓶が転がっているのに気づき、憎々し気に蹴っ飛ばしていた。足癖も悪い。
「今日は具合いいですか?」
蹴っ飛ばした瓶に見向きもせず、膳を置きながら尋ねてくる。
「いつもと変わらない」
「そうですか? 今日こそ完食してもらおうと思っているんですが」
膳の上にはお椀が一つ。中身はお粥。俺の朝食だ。
「無理」
「むー。食べる前から諦めないでください」
そうは言っても、お粥を前にしても食欲は湧いてこない。
毎日鍛錬していた頃でさえ小食だったのに、寝て過ごすだけの毎日を送れば嫌でも食欲は減る。
ムリムリと首を振る俺に対し、アキは難し気な顔をするものの、雰囲気から滲み出る機嫌の良さは隠し切れていない。
満足するまで唸ったらコロッと表情を変え、蓮華のスプーンでお粥をかき混ぜた。
「ま、何事も挑戦です。はい、あーん」
口元に差し出されたお粥に思うところはあれど、何も言わずに口を開く。
突っ込まれたお粥をゆっくり咀嚼し、たっぷり時間をかけて飲み込んだ。
喉を通り過ぎたお粥が胃に落ちていくのが分かった。たった一口食べただけだが、身体はすでに拒否反応を示している。
やっぱり完食は無理だとアキを見る。
アキはすでに二杯目を掬っていて、俺が飲み込んだのを見計らって差し出してきた。
「あーん」
小さく息を吐いたのは僅かばかりの抵抗の表れだったが、それにさして意味などなく、観念して口を開く。
俺がお粥を食べる姿を見て、アキはニコニコと無邪気な笑みを浮かべていた。
アキの回復スピードはゲンさんの度肝を抜いた。
あの傷を僅か一か月足らずで完治させ、元気いっぱいに木刀を振り回す姿には驚きを通り越し、ある種の畏れを抱かせる。
「お前の妹どっかおかしいんじゃねえのか?」
「失礼な。あんなに可愛いのに」
実際のところ、あの親にしてこの娘ありと言うところだろう。
あの二人は色々と共通点がある。ひょっとして、母上も怪我が治るのは速いのではないだろうか。
そこのところをゲンさんに聞いてみたが、「椛が大怪我したところ見たことねえからなぁ……」と答えは得られなかった。
母上の話を聞く限り、昔は平気で大怪我したのだろうし、数にして10や20じゃすまないと思うのだが。
何はともあれアキの怪我はすぐに治り、後遺症もなく元の生活に戻ることが出来た。
二人並んで寝込んでいた頃はともかくとして、一人先立って回復したアキはやたらと俺の面倒を見たがった。
飯を食べさせ、身体を拭い、トイレに連れ立つ。今までは俺が担っていた家事もアキが代わりにやるようになった。
日が昇らない内に朝練に出て、帰ってくるなり朝食の支度を手伝い、自分の分を大急ぎで掻っ込んで俺に飯を食べさせる。
昼まで鍛錬に赴き、帰って来れば家事、食事、俺の世話。午後も同じように動いている。
とんでもない重労働だ。俺も似たようなことをやっていたが、介護人の世話まではやっていなかった。
負担になっている自覚はある。治ればいいと心の底から思っている。治る兆しが全く見えず、罪悪感で押しつぶされそうになる。
この生活が始まってから、不思議とアキは生き生きしているように見えるが、それだけが唯一救いだった。
「兄上。あと半分です」
「もう無理」
「頑張って」
「無理」
これ見よがしにゲップをする。
アキは「まったくもう」と言いつつ、残っていた分を食べ始めた。ろくに噛みもせずに掻っ込んでいる。
「ひゃんとはへないほ、ひゃおるひょのもひゃおりまへんほ」
「食べるか喋るかどっちかにしなさい」
注意したら椀の中身を一気に掻き込んだ。
リスのように頬を膨らませ、一心に咀嚼している。
ごくりと喉が上下した後、口元を手の甲で拭ったアキは、どことなく演技染みた仕草と表情でこう言った。
「ちゃんと食べないと治りませんよ」
「……」
まさかまさかの説教だった。
あのアキに説教を食らうとは夢にも思わなかった。
以前なら俺がアキに説教する立場だったのに、それが逆転し始めた。俺の怪我が妹を成長させている。それは嬉しいことではあるが、それ以上に複雑な気持ちになる。
年下に説教を受けるのは格好が悪い。性別など関係ない。兄の面目などあったものじゃない。
「聞いてますか?」
「……」
出来ることなら言い訳したかった。しかし、よく食ってよく寝ろとゲンさんにも言われている。それを守れていない現状、言い訳も反論も出来なかった。
「兄上ぇ?」
「……」
ただただ沈黙する俺に、アキは「んー?」と覗き込んでくる。
ばつが悪くて視線を逸らす。そうするとアキは視線の先に移動して、俺は顔を逸らして、アキはまた移動して、と繰り返した。
「……」
「……」
夢中でそれを繰り返す俺たち。いつの間にやら新しい遊びが生まれていた。
意地でも目を合わそうとするアキと、断固として合わせたくない俺の戦い。
頭を動かすだけならさほど痛みは感じない。これなら今の俺でも十分戦える。
戦いは熾烈を極め、自ずと熱を帯びて来る。
アキの動きにキレが増す。優位を獲得するため距離を詰め、いつの間にか足の上に乗られていた。
このままでは埒が明かないと思ったのか、ついには押し倒されてしまった。
うっと呻く俺を無視して、「これなら!」と勝ちを確信した声がする。
横に向けていた頭を掴み、極々至近距離で無理やり目を合わせようとしてきた。
こうなるともう成す術がないので、最後の手段で目を閉じる。これで絶対に目を合わせることはできなくなった。
「ずるい!」とアキの叫びが聞こえる。
「ずーるーいー!」
「もう諦めろって」
「やっ!」
負けず嫌いは誰の血だろう。
十中八九母上だが、意外と父上の線も捨てきれない。
男だからって勝ち気な奴がいない道理はないだろう。
「んー……」
「瞼掴むなよ」
「あかない……」
何とかして目を開けさせようと四苦八苦するアキだが、流石にこじ開けるのは抵抗があるのか苦戦している。
「んー……」
「息苦しいからどいて」
「や……」
こうしている間も圧し掛かられているので、少し痛みが走っている。
まあこの程度なら何の問題もないが、物には限度と言うものがあるので早めに決着をつけたい。
「アキ?」
「……はい?」
「どいて」
「……」
どうしようか悩んでいる雰囲気を感じる。
俺の上に跨りながら、時折瞼の辺りをチョロチョロ弄っている。
負けを認めるのも強さだと思う。ただ母上の過去を思うとそれを言うのは憚られる。絶対に負けないことを強いられた人が親なのだ。おいそれと口に出していいものだろうか。
負けを認めたくないアキと悩む俺とで事態は膠着する。
しばらく、押し倒したアキと押し倒された俺と言う格好のままでいた。
いつもならとっくに食べ終わっているはずなのに、何故か今日だけは遅い俺たちを心配して、誰かしら様子を見に来るのは必然だった。それが父上だったのは、ちょっと都合が悪かった。
「な、なにしてるの?」
唐突に父上の声がした。
あ、と思って目を開ける。目と鼻の先にアキの顔があった。
横目に戸の方を見ていたアキは、俺が目を開いたのに気づいて、額をぶつけて顔を突き合わせる。
きれいな瞳に俺の顔が映っている。「私の勝ちです」と満面の笑顔で宣言した。
しまった、負けた……。
本気で残念がった自分に気づく。
負けず嫌いは俺も同じだった。曲がりなりにも兄妹なのだから、似た性質は持ち合わせているだろう。
「で、なんですか。父上」
「え、あの……レンに跨って、何してるの……?」
「遊んでました」
俺の上からどいたアキは直前までの子供っぽさを引っ込めて、冷淡と言えるほどの冷たさを発揮する。
この数か月で変わったのは生活様式だけではない。両親に対する態度もその一つだ。
片足突っ込んでいた反抗期に、ついに全身どっぷり浸かってしまった。あまり言いたくはないが、こう言う時のアキは少し怖い。触れるだけで爆発しそうな不安がある。子供っぽい無邪気な妹を知っているだけに、余計そう思う。
「兄上。何かあったら呼んでください。すぐに駆けつけますので」
膳を持ち上げながらそう言ったアキは、返事も待たず足早に行ってしまう。
その足取りに迷いはなく、足音は来る時より大きかった。
呆気に取られていた父上が我に返り、矛先を俺に向けて来る。
「……本当に、何もなかったの?」
「遊んでただけです。別に珍しくないでしょう」
昔からこういうことはよくしている。
かくれんぼや鬼ごっこに木登り。冬は雪合戦をして、かまくらを作って雪だるまも作った。
娯楽のないこの世界で、俺が知っているだけの遊びをアキに教えた。
遊んでいる過程でもみくちゃになるなんてよくあることだ。珍しくもなんともない。
だから、たかだか圧し掛かられているだけでこれほど心配されるのは、少し過保護に感じる。最近、父上とあまり話していないから、それが拍車をかけているかもしれない。
「そう、かな」
「そうですよ」
納得いかないと言う顔の父上を見つめる。
眉をひそめ考え込んでいた父上は、俺の視線に気づくと途端にオドオドし始め、そそくさと立ち去ってしまった。
その背中を呼び留めようかと思ったが、口から出てきたのは言葉ではなく溜息だった。
「……はあ」
蘇りの件が尾を引いている。
元より父上との関係は互いに一歩引いたものだったが、件の出来事を経て、さらに壁が一枚追加された。
率直に言って受け入れ難いものではあるのだろう。
俺だって、もし家族が死んで生き返ったのなら、その時どういう態度をとるのか想像できない。
ゲンさんのように、数日で元の態度に戻るのがおかしいのだ。
それが理解できるから、あまり手荒な行動はとれない。
待つしかないだろう。父上が何らかの落としどころを見つけるまで。
果たして見つかるとも限らないが、信じて待つしかない。
今の俺にはそれぐらいしかできることなどないのだから。