女が強い世界で剣聖の息子   作:紺南

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第22話

家に戻った椛は、まずはアキの様子を見に向かう。

最後に見た時と変わらず、アキはすやすやと穏やかに眠っていた。

ゲンが言っていた通り、この分では何の心配もなさそうだ。一先ずは安心である。

 

安堵の息を吐き、視線を横に移せば布団の傍には居眠りしている父がいた。こくりこくりと舟を漕ぎ、椛が帰ってきたことには気づいてもいない。

 

しばらくその様子を見つめ、目を覚ますのを待ってみたが一向に起きる気配はない。座ったまま器用に舟を漕ぎ続けている。

まあ無理もないと椛は思った。

 

この二日ほど、父はアキとレンの看病でほとんど眠れなかった。

看病の甲斐なくレンが死んで、続けざまにアキがいなくなってしまい、今朝はアキを探して村中を走り回ったようだ。

夜明け近くに椛が帰ってきて、アキの居場所を探り当てるまで一人で探し続けていた。

無事に連れ戻されほっと一息ついた今、緊張の糸は完全に切れている。

 

不安と恐怖の数日間だったろう。そんな日々に安眠できる方がどうかしている。

誰だって居眠りする。男ならなおさらだ。

眠らせてやろうと思いつつ、そんな恰好で眠らせるのはかわいそうだとも思う。

休むのなら布団でゆっくり休んだ方がいいだろうと、椛は肩に手を置き声をかけた。

 

「おい」

 

「っ!? ……あ、あれ? 椛さん?」

 

虚を突かれた父は身体を飛び跳ねさせる。

しょぼしょぼした目を擦り、椛の姿を認めて首をかしげた。

 

「用事はもういいの?」

 

「いや。まだ途中だが。一旦帰ってきた」

 

「そう……」

 

ふうと疲れの籠ったため息を吐いた。

その目には隠しきれない疲労感が滲んでいる。

 

「ちゃんと寝ているのか」

 

「……え?」

 

反応が鈍い。やはり限界だろうと椛は休むことを勧める。

 

「疲れたのなら休め」

 

「ああ……大丈夫」

 

父は曖昧に微笑んで首を振った。

「疲れてないよ」と、とてもそうとは思えない顔で否定する。

 

「アキが心配なんだ。またどっか行っても困るし」

 

「私が見ていよう。その間に休め」

 

「……」

 

そこまで言っても父は頷かない。

何かを迷う素振りを見せ、椛から視線を逸らす。

少し待っても答えはない。そこまで露骨な態度を見せられては、さすがの椛も察するのは容易い。

 

「何かあるのか」

 

「いや……」

 

「言いたくないことか」

 

「……」

 

「言いたくないなら、それでいい」

 

立ち上がり部屋を出て行こうとする椛を見て、父は脅えた顔になる。反射的に袖を掴んで椛を引き留める。

 

「なんだ」

 

「あ……」

 

振り向いた椛は、相変わらずの感情のない声で尋ねた。

顔をひきつらせた父は、「しまったなあ」と小さく呟く。

 

「ごめんなさい。嘘つきました。……本当は寝たくないんだ。夢を見ちゃうから」

 

「どんな夢だ」

 

「最後に、レンに怒鳴られた夢だよ」

 

「……怒鳴られた?」

 

今度は椛が首を傾げた。

レンが怒鳴ったことなど今まであっただろうか。

鍛錬の途中ならまれに口が悪くなることはあったが、父に対してそうなった記憶はなかった。

 

いつのことかと尋ねる椛に、父は「辻斬りに襲われた時」と答えた。

 

「まず子供たちが襲われて……僕はレンが助けを呼ぶ声を聞いて駆け付けたんだ。でも、駆け付けても怒鳴られるだけで、何も出来なかったよ」

 

「そうか」

 

椛はそれしか言わない。

やっぱりこの人は言葉が足りないなぁと、父の方からもう一言を求めた。

 

「それだけ?」

 

「なにがだ」

 

「他に言うことはない?」

 

そんなことを言われて、椛は少し考える。

わざわざ言うまでもないとあえて言わなかったことがある。

求めるならばと、それを言うことにした。

 

「お前にそこまでは求めていない。アキを助けただけで十分だ」

 

「……そっか」

 

父の口から苦笑がこぼれる。

「求めてないか」と続いた独り言には自虐的な笑みが宿っていた。

 

「それは、やっぱり僕が男だからだよね?」

 

「そうだ。家族を守るのは本来私の仕事だ」

 

「間に合わなかったが」と今度は椛が自虐的な言葉を吐く。

自虐的とは言っても、そこには父ほどの感情は宿っておらず、ただ事実を口にした程度のものだった。

父もそれについては「そうだね」とあっさり認めた。家を守らなければいけなかったのは椛で、守れなかったのは紛れもない事実である。

 

互いに必要なことを確認しただけで、そこに籠る感情はない。

感情的になるのは、次の言葉からだ。

 

「でも、レンには求めてたでしょ」

 

そこに籠められた複雑な感情を察して、椛の返事は一拍遅れる。

 

「……何を言っている。レンも男だ。あれにそこまで求めてなどいなかった」

 

「でも、椛さんよく言ってたじゃない。『私がいない間、家は任せた』って。これって期待してたから言ってたんじゃないの?」

 

「……」

 

思い返すまでもなく、心当たりはあった。

留守にするたびに言っていた言葉である。それはレンに対してのみ告げていた。

 

「あんまりないよね。家長に代わって、息子が家を守ること。なんなら父親がいるのに。……娘ならまた違うのかもしれないけど」

 

椛は黙りこくる。

いつからか自然と口にしていた言葉だった。

言うたびに、息子に言う言葉ではないと自覚もしていた。

だが、それでもレンになら任せられると考え、改めることはしなかった。その結果が今である。

 

はぁと深いため息を吐いた父は、どこか遠くを見つめてしみじみ呟く。

 

「守られちゃったなあ……」

 

「……イーサン……」

 

ただ名を呼ぶことしか出来なかった。

それ以上どんな言葉をかければいいのか。分からないでいる内に、父は椛を見て、そして言う。

 

「……僕は反対だったよ。レンに剣を教えるのは」

 

「……」

 

男に教えることではない。

レンに剣を教えようとした当初、父はそう言って反対した。

 

椛自身もそれは分かっていた。分かっていながら話し合うことはせず淡々と押し通した。

父が反対したのはその一回だけだ。それ以降は表立って反対したことはない。

鍛錬の過程で危険なことをさせようとした時は「まだ早い」と異論を唱えたが、「もう決めた」と一言告げればそれで終わった。

 

一度決まってしまったからには男が口を出すことではないと、父の態度は一貫していた。

だが、今になって思う。それは言い訳に過ぎなかったのではないかと。レンが死んだ今になって、父は考えてしまっている。

 

「後悔しているか」

 

「うん」

 

返事に迷いはなかった。

椛の目を真っ直ぐ見返しながら言葉を続ける。

 

「僕も一緒にやっておけばよかったって後悔してる」

 

それは椛にとって予想外の言葉だった。

てっきり、レンが死んだのは剣を教えた自分の責任だと、責められると思っていた。

 

「僕がレンみたいにちょっとでも強かったら、少しは役に立てたと思う。アキを抱えてぐずぐずして、レンの邪魔して、『俺を殺す気か』って、怒鳴られることも、なかったよ」

 

段々と声がくぐもっていく。

潤んだ瞳から涙が伝り、頬を濡らした。

 

「親は子供を助けなきゃいけないのに、僕逃げちゃったよ……怖くて逃げちゃったよ……」

 

袖を掴んだままの手が震えている。

椛はその場に膝をつき目線を合わせ、すすり泣く父の頬に手を当てた。

 

「本当に、死んじゃった……死んじゃったよぉ、椛さん……」

 

ついには椛の胸に縋りついて、声を押し殺して泣き始めた。

この期に及んで、アキを起こさないよう気を遣う父に、椛は悲しいやら嬉しいやら複雑な気持ちを抱く。

震える身体を抱きしめ、背中をさすって精いっぱい優しい声をかけた。

 

「泣きたいなら存分に泣け。私はずっとここにいるから」

 

同情も共感も、慰めの言葉すら出てこない。

父を抱きしめながら、その肩越しにじっと壁を見つめる目に涙はない。

暗い光を帯びた瞳は一点を見つめて微動だにせず、時ばかりが過ぎていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜になった。

アキは一日目を覚まさず、今も健やかに眠っている。

しばらく目を覚まさないとゲンは言っていた。

しばらくと言っても一日二日だ。大したことじゃねえと笑いも添えられていたが、今のところその通りになっている。

 

今晩、アキの側には父が付いていることになった。

父は布団を持ち込んでおり、隣で寝ると言っていたが、あの様子では一晩中起きているに違いない。

 

万が一に備えてゲンにもこの家に泊まってもらうことにした。

アキの容体が急変した時の備えだが、父が倒れた場合にも備えている。

さすがにゲンは夜通し起きてはいないだろうが、たまに目を覚まして部屋を覗くぐらいはするだろう。あれはそういう性格だ。

 

何日か居てもらうことになるだろうと、椛は先を見通す。

実際必要かはともかく、父を安心させるためにそうしてもらった方が良い。

万に一つもありえないそうだが、仮にアキが死んでしまったら、父は自ら命を絶ちかねない。その予感が椛の頭を掠めてやまない。

備えられるなら備えるべきだ。すでに最悪は起きてしまったのだから、これ以上は何が何でも防がなくてはならない。

 

椛自身、今晩は夜を徹する。

すでに一晩馬を繰って眠っていないが、不眠には慣れている。剣聖になった当初はろくに眠れた夜はなかった。

 

今、椛がいるのはレンの眠る部屋である。

胡坐を組んで布団のすぐ横に座っている。

月明かりが窓から差し込んで思いのほか室内は明るい。伸ばした手がくっきり見えるぐらいの明るさだ。

 

刀を脇に置いて、レンの顔をまじまじ見る。

こうして息子の顔を見たのは実に久しぶりのことだ。こんな顔をしていたかと内心驚いてしまった。

 

子供の顔だ。性差は曖昧で、一瞥する程度では女と見間違えることもあるだろう。女とも男ともつかぬ顔立ちは納得できる範囲である。

 

それにしたってこんな顔だったかとしきりに首を傾げる。

常日頃、レンを見る時には余計な物を通して見ていたのだと痛感した。

その余計な物が、レンの命を奪ったのかもしれない。

 

そう思ったら、何かが喉元まで込み上げた。

周囲には誰も居ない。家の中の気配はそれぞれの部屋に3つあるのみ。

目の前の者は死んでいる。自分の声など届きはしない。なら、もういいだろう。

 

「誇りに思う」

 

吐き出したのは、剣聖としての言葉である。

一人の剣士として、守るべきものを守り散っていった者への手向けの言葉だ。

 

「よくぞやり遂げた。師は強かったろう。ひょっとして六の太刀を使ったのではないか。そうまでして、よく守り切った」

 

地面に残った幾多の傷の正体は分からなかった。致命傷が二つある理由も。

唯一分かるのは死闘であったと言うことだ。互いに死力を尽くして殺し合い、結果相打ちになった。

 

師の目的が剣聖である自分だったのなら、それは妨げられた。対してレンは守り切った。父や妹、村の子供までもを守り抜いた。

疑いの余地はなく、戦いはレンの勝ちだ。かつて剣聖だった人間相手に、弱冠11歳の子供が勝った。これほど誇らしいことはない。

剣聖として鼻が高い。男でもここまでやれるのだと、後世に語られるだろう。

 

そんな風に、心にもない言葉を吐き切った後は、波引くようにすっと静寂が訪れる。

称賛する言葉は次々湧いて出たが、どれもこれも虚飾で彩られ、本心は欠片一つ宿ってはいなかった。

それらは全て、剣聖ならばこう言うはずだと言う考えから出た仮面の言葉である。

 

「――――ずっと考えていたことがある」

 

ここからは仮面を脱ぎ捨て、一人の人間として、母親として亡き息子へ言葉を送る。

 

「ずっとずっと、考えて、悩んでもいた。私の行いは正しいのか。それが分からなかった」

 

直前までの滑らかな口調とは違い、絞り出すようにして訥々と語られた。この11年間に積もった思いがそうさせる。良いことも悪いことも、全てが椛の血となり肉となった。

ゆえに軽々しくは語れない。心の形を言葉にするのは生半可のことではなかった。

 

「もともと、お前に剣を教えるつもりなどなかった。教えると決めた後も、精々嗜ませる程度で終わらせるつもりだった。そうならなかったのは、私の目が眩んだからだ」

 

レンが剣を学び始めたのは5歳の頃。

その頃は椛に今ほどの熱意はなく、そこまで言うならやらせてやると消極的な姿勢だった。すぐに逃げ出すだろうと思っていたし、そうなるよう手荒に扱いもした。

 

しかしいざ蓋を開けてみれば、レンの才能は椛の想像を超えていた。

僅か10歳でほとんどの『太刀』を扱えるようになるとは予想だにせず、教えれば教えるだけ吸収していく様には戦慄を抱いた。

 

成長の速度だけで言うのなら、椛のそれをはるかに上回っている。

かつての友を彷彿とさせる才能を前にして、椛はいつからか、レンに剣を教えることに生きがいを感じるようになっていた。

 

「来る日も来る日も、よく学び、よく鍛錬した。さすがは私の息子だ。よく頑張った。……だが、しかし――――」

 

どれほどの才能を持っていようとも、最後に立ち塞がるのは性別の壁である。

どれだけ鍛えたところで、行きつく先には限界があった。決して女以上にはなれない。それがこの世界のルールだった。

 

椛はそれを忘れていた。

その才能に夢中になって、目を塞いでいた。

ようやくそれを思い出したのは、つい最近のことである。

 

レンが10歳になってから、成長に陰りが見え始めた。

技は依然として伸びている。発想や工夫といった戦いのセンスも、まだまだ伸びる。それは間違いない。だが腕力が伸びなくなった。目を疑うほど突然に。

 

すでに2つ下の妹に追いつかれている。明日にでも追い抜かされ、差は増していくだろう。

その差は広がりこそすれ、縮まることはない。未来永劫ありえない。

それをまざまざと見せつけられた時、椛の胸中にあったのは漠然とした不安だった。

 

「このまま行けば、お前の将来はどうなるのか。今からでもまっとうに歩ませることが出来る。きちんと考え、決めなければならない。それが私の責務だ」

 

もしこの先も剣を振るうなら、どこかで誰かと戦うことがあるかもしれない。そうなった時、相手は十中八九女である。

腕力で負ける相手に、センスだけで競うことになる。

この道は勝つことでしか生き残れない。敗れれば、ほぼ確実に死ぬ。それが剣の道である。

 

それがどれほど険しい道か、剣聖である椛はよく知っていた。

そして、その道を歩む男にどれほどの苦難が待ち受けているのか、それは想像すら出来なかった。

ただ思うのは、一人の剣士として、母として、そんな道を歩んでほしくはない。それだけである。

 

その道を歩ませないために、椛はレンを早々結婚させようと考えた。

自由恋愛でどうにかなるならそれに越したことはない。しかし、浮世離れしているレンにそれが出来るとは思えず、自由恋愛を勧めると言った手前、体裁も悪いので本人には内緒で話を進めていた。

すでに話は纏まりかけていて、先方から色よい返事まで来ている。

遠からず、レンはこの村を出て行くことになっていただろう。

 

早ければ来春。

もう一年もない。本当に、あともう少しだった。

 

「お前のこれまでを振り返り、そしてこれからを思えば、果たして剣を教えたのは正解だったのか。分からないでいた。だが、こんなことになって、ようやく答えが出た」

 

レンの未来が閉ざされた今、判断材料は出そろった。

剣を教えたことの正誤がはっきりとした。

 

「こんなことになると知っていたなら」

 

その声はかすかに震えている。

月に照らされた顔は、血の気が引いて青ざめて見えた。

 

「お前が、死ぬと分かっていたなら」

 

自分の言葉に耐えられなくなり、片手で顔を覆い隠す。

指の隙間から見える瞳はじんわりと潤み、絶望の光が見え隠れする。

わなわなと震える唇が開かれ、胸の中でわだかまっていた本音を曝け出す。

 

「剣など、教えはしなかった。教えてたまるものか……決して、決してだ……! なぜ、教えた……なぜっ!?」

 

剣聖の仮面を脱ぎ捨てた椛は、息子の死の責任を感じ押し潰されそうになっていた。

父はアキがいるからまだ正気を保てている。少なくとも死のうとは考えてもいない。だが椛は父ほど強くはいられない。そんなに強くはない。ずっとずっと、そうだった。

 

剣聖としての自分がいなければ、レンの死を知ったその瞬間膝から崩れ落ち、地面を叩いて嘆き悲しんだことだろう。

師の死体に見えた時、その胸倉を掴んで、怒りに任せて尋ねたはずだ。なぜ私ではなく息子を殺した。なぜそんなことをしたのかと。

 

その半生を、剣聖でいることだけに固執したからこその鉄壁の仮面が、椛を守り、そして傷つけている。

 

「もう、いやだ……剣聖なんて……どうして、こんな……」

 

悲嘆にくれる椛は、感情の赴くまま嘆き、唐突に天井を睨み上げたかと思うと、ここにいない者へ向けて怨嗟の声を喚き散らした。

 

「師よ! なぜですか!? 私は嫌だと言った、私ごときに務まるはずはないと!! 言ったのに、なぜ今になって!? 殺したからですか!? 腕を斬ったからですか!? 殺したくなどなかった!! 斬りたくなどなかった!! すべてはあなたが、あんな物に魅入られたからっ!!」

 

それは椛が剣聖になってから、この十数年間で積もり続けていた思いである。

ずっと考え、ずっと蓋をしていた。

どんな理由があったとしても、殺してしまったことに間違いはない。

罪悪感から決して口に出さなかった思いが、息子を失った悲しみで吐き出されている。

 

「なぜだセン!? どうしてだ!! お前がなるべきだった! 一番強かったのに!! どうしてだ!? なんで!?」

 

吐くだけでは捨てきれない感情の行き場を求めて、両拳を力いっぱい床に叩きつける。

ドンっと部屋中に音が響き、かすかに家が揺れた気がした。

椛はそれに構うことなく、今度は手元にあった刀を乱暴に投げ捨てる。

刀は向こう側の壁にぶつかり、僅かに鞘から抜き出た。赤い刀身を晒して床に転がる。

 

息を荒げる椛の目に、月の光で赤く輝く刀が映る。

それを見て、ようやく正気に戻った椛は、全身の力を抜いて天井を仰ぎ見た。

外の者に聞こえただろうかと、気怠い頭で考えた。

 

父は知っている。椛の弱いところは全て隠さず明かしたから。

ゲンも椛が小娘だった頃を知っているから、すでに察しは付いているかもしれない。

知られたくないのはアキだけだ。

 

厳格な母親としての印象を崩したくはなかった。

本当の自分を知ってしまったら、子供たちは失望するだろう。剣聖の名が汚れるかもしれない。

本来なら、自分の様な軟弱者が背負っていい名ではない。ただ他にいなかったと言うだけなのだ。

力がなければ覚悟もない。状況に流され、しがみ付くだけの薄っぺらい自分。

そんなものは、アキにもレンにも知られたくなかった。

 

椛は深く息を吸い、呼吸を落ち着かせて冷静になる。

いつもの調子を取り戻したら、屍に向けて言葉を紡ぐ。

 

「お前の死体は明日燃やすことにした」

 

燃やすための油と薪は用意したと椛は言う。

 

「燃やした後、残った骨は砕き、灰と一緒に畑にまく。肥料になるそうだ」

 

この村では埋めるのが一般的で火葬はしない。

火葬した挙句、骨までばらまいてしまうのであれば、中身のない墓を作ることになる。

その墓に参る時のことを考えると、椛の胸には虚しさが押し寄せた。

 

「剣聖たるもの、一度言ったことは撤回しない。すでに師の亡骸はバラバラにして山に捨てた。やると言ったからには必ずやる。それが嫌なら、目を覚ますことだ。明日までに」

 

傍から見れば、椛は正気を失っていると思われるだろう。

死んだ人間は生き返らない。どんな世界でもそれは常識である。一部例外を除いては。

 

「一晩待つ。起きろ、レン。あの時のように」

 

東の町に観光に向かった往路で、椛はレンに尋ねた。「本当に死んだことはないのか」と。

普段冗談を言わない椛が冗談として済ませた数少ない会話だ。

 

もちろん椛にとってそれは冗談ではなかった。本気で尋ねていた。

その時の反応を見る限り、レンは覚えていないようだったが、実はレンは一度死んでいる。村が猿に襲われた日のことである。

 

あの日、椛は自らの腕の中でレンの呼吸が止まり、心臓が止まるのを確認している。

応急手当は何もしなかった。出血が多く手の施しようがなかったからだ。

完全に諦めていた。それなのに、レンは生き返った。

 

理由は分からない。

いくつか推測は出来るが、あくまで推測どまりだ。決定的なものは何もない。

 

もしかしたら今回もそうなるのではないかと、椛はその希望に縋っている。水面に漂う藁にも劣る儚すぎる希望だ。

あの時は然程間を開けず蘇生したが、今はすでに二日経っている。

蘇らない可能性の方が高い。だからと言って他に縋りつけるものは何もない。

レンが生き返るなら、神に祈るし悪魔に魂を売ったっていい。例えそれが悪魔ではなく狐だろうと関係はない。

 

胡坐で座し、腕を組んで目を瞑る。

月が西の空に隠れ、東の空から太陽が現れるまで、椛はその姿勢で待ち続けた。

レンが生き返ることを信じてもいない天に祈りながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

いよいよもって夜明けが近づいた頃、椛は夢を見た。

さすがの剣聖と言えども、一晩中馬を走らせた直後に息子の死に直面するのは、肉体的にも精神的にも堪える出来事だった。

いつの間にか眠ってしまっていた椛が見た夢は、懐かしき過去の記憶である。

 

今から20年近く昔。師が剣聖として名を馳せていた頃。

当時、椛は剣聖の弟子として師の家で暮らしていた。

椛の他にも10人ほどの姉弟子が共に暮らしており、その中で唯一同郷の(せん)と言う少女と親しくなった。

 

夢の内容は、その頃の毎日を走馬灯のように振り返るものであった。

剣聖の弟子だからと言って、ただ毎日剣を振っていただけでない。師の我がままに付き合わされ、連日連夜酒宴を開いたり、誰も料理が出来ないからと、一番若い椛が料理を作らされたり、仙に騙され遠く海まで遠乗りに出かけたりと。

慌ただしくも楽しかった平和な日常の日々を、椛は夢に見た。

 

椛は自らの記憶を追体験しながら、これが夢だと気づいていた。

心のどこかで起きろと言う声がする。それは警鐘だ。現実に何か良からぬことが起きていると時に本能が告げる。

もう少しだけ、この夢に浸っていたかったが、目を覚ますのが遅れた分だけ現実で後悔することになりかねない。

起きようと思い、そう決めた次の瞬間には椛は起きていた。

 

剣聖になってから、夜はほとんど眠れない。眠れたとしても眠りは浅く、夢を見ることはまずない。

ごくまれに夢を見た時はほぼ明晰夢だ。そうでなければここまで生き残れなかった。人間は眠っている時が一番無防備になるのだ。

 

椛は周囲の気配を確認する。

遠くの部屋にいる三人は無事だ。三人とも眠っているのか気配は安定している。

ほっと息をつき、すぐ側の気配に集中した。

 

警鐘の理由はこれだろう。

すぐ側に突然気配が現れたから、条件反射で体が目覚めたのだ。

今まで、夜中に現れる気配は家族を除けば刺客しかいなかった。これもそうだと身体は無意識に判断している。

 

椛はゆっくり目を開ける。

気配の位置を探れば、目の前にいる。そこには布団があるはずだ。

 

それを思い出したら、どくんと心臓が高鳴った。

よくよく集中してみると、その気配には覚えがある。この10年間でよく慣れ親しんだものだった。

まさかと心の中で声が上がり、心臓は早鐘を打ち続ける。

 

目を開ければ、家の中は暗闇に包まれている。

太陽が昇るにはいささか早い。

 

目が暗闇に慣れれば、周囲に人の影はない。

気配があるのは布団の中だ。それがはっきりと分かった。

 

ゆっくり慎重ににじり寄っていく。

顔のある部分に手を伸ばせば、指先に温かい何かが触れた。

 

「レン」

 

「……」

 

返事の代わりに息遣いが聞こえる。

間違いなく、生きている。

 

今や痛いほど脈打つ心臓を無理やり落ち着かせ、最悪を考えて刀を握りしめた。

狐憑きの伝承が脳裏をよぎる。決して死なない化け狐の話である。今までのことを照らし合わせれば、その可能性は大いにある。

 

「起きろ、レン」

 

「う……」

 

呻く声が聞えた。

掠れている。何日も眠っていたからだ。

 

「ぁ……う……」

 

「……レン」

 

いつでも抜けるように、鍔を親指で押し上げる。

その間も呻き声は漏れ続けている。寝言なのか、何か言っているように聞こえた。

 

「ぉ……ぁ……」

 

「なんだ」

 

緊張が高まる。

斬りたくないと言う気持ちと、場合によっては斬らねばならないと言う覚悟がごちゃ混ぜになりながら、レンの言葉を待つ。

 

刀を握りしめる椛の目前で、ついにレンは意味のある言葉を放った。

 

「か…ぁさん……」

 

その一言で、椛の動きは止まる。

言葉次第では斬るはずだった。あるいは斬らぬはずだった。

どちらかをすると決めていたのに、その言葉は椛を凍りつかせた。

 

少なくとも、レンは椛のことを「母さん」と呼んだことはない。

それは確かで、椛がレンの母親であることも確かである。

一体どちらをすればいいのか分からないまま、山の端から朝日が顔を出し、明るい光が二人を照らした。

 


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