語り部が眠ってしまったので、今話は今までと違い三人称で書いています。
私は一人称と三人称の書き分けが苦手なもので、読んでいて混乱する方もいらっしゃるかもしれませんが、今話は三人称で書いており、主人公の目線で書かれたものではありません。
そのことを念頭に置いてお読みください。
山の麓の村に雨が降り始めた。
季節の変わり目に天気が崩れるのはそう珍しいことではない。
長く降り続いた雨がようやく止んだと思いきや、数日後にはまた雨が降り出す。
そんなことはよくあることだった。
ザーザーと雨滴が土を打つ音は、家の中にいる住人の耳まで届き、気持ちを鬱屈させる。
曇天に覆われた空は暗い。日は頂点に向けて昇っているはずである。
いつまで降り続くのかと、今年に限っては少々長い雨に、村人たちは溜息をもらした。
村の山側。
この村で一番大きな家である剣聖の住まう家は、その広さと、雨が降っていることが相まって殊更冷え冷えとしていた。
その家の一室で、年端のいかぬ少女が一人昏々と眠っている。
炭の燃える火鉢が部屋を暖め、傍らには水の入った桶と手ぬぐいが置かれており、先ほどまで誰かが看病していた様子が窺える。
今は周囲に人の気配はなく、一人で眠っている少女は、眠り始めてからすでに二日が過ぎていた。
突如現れた辻斬りに、少女が斬られてから二日である。
生きるか死ぬか分からぬと言われ、あとは本人次第と経過を見守られていた少女は、二日過ぎた今も生き永らえている。
斬られた当初は高熱を出したが、容体は落ち着いて快方に向かっていた。山は越えたと言えるだろう。
直に目覚めると言う言葉通り、たった今、少女は目を覚ました。
ゆっくり開いた目が天井を見つめる。霞んだ視界が徐々に像をはっきりと映し出し、少女の意識は覚醒していく。
寝ぼけ眼で、自分の状態もよく分からぬまま首を回した。
そこは毎日寝泊まりしている部屋だった。目を瞑ってもどこになにがあるか探し当てられるほど馴染みは深い。
朦朧とした意識は条件反射に従って勝手に動く。
隣にいるはずの人間の温かさを求めて身体を横にずらす。その時に小さな痛みを覚え、少女の眠気を吹っ飛ばした。
「いたぃ……」
雨が降っているせいで家の中は薄暗い。少女は今は早朝だと思った。
兄の姿がないことも、そう思う一因だ。
なら自分もそろそろ起きる時間である。
身体を起こそうとして、動きづらさに顔をしかめながら無理矢理動く。
「いっ!?」
両腕に力を入れて上半身を起こした途端、胸に激痛が走った。
未だ多少は微睡んでいた意識が完全に覚醒する。痛みの原因を突き止めるべく、恐る恐る胸に指を這わせると、そこには包帯が巻かれていた。
「ん……」
なんだろう、これは?
どうして包帯が巻かれているのだろう。
思い返してみたが、理由は何も分からない。
首をかしげながら包帯の上から胸を触るとやはり傷む。どうやら怪我をしているらしい。ちょっと強めに押したら、とんでもなく痛い。
「ったぁ……」
寝返りのために身体を傾けても、起き上がろうと腕に力を込めても、何をしても痛む。胸の筋肉に力を入れるだけで、それはそれは痛かった。これでは真面に動くことなど出来るはずがない。
自分の身に一体何があったのだろう。
動くことを諦めて、布団の上に身体を投げ出して考え込んだ。
記憶はすぐそこまで出かかっている。
思い出せそうで思い出せないもどかしさ。
大きく深呼吸して心を無にしてみる。
息を吸って、吐いてを繰り返していると、瞼の裏に像が浮かび上がってきた。
それは人の形をしている。
段々と鮮明になる。見たことのない顔だ。
髪は黄色。根元に行くほど白くなっている。皺が深い。老人だ。
老人と言うだけで嫌な記憶が呼び起こされるアキは、一目見た瞬間からその人物が好きではなかった。
そもそもそいつ、右腕がなく杖を突いていて、やたらと喋る。鬱陶しいぐらい。根掘り葉掘りと色々なことを喋っていた。
ファーストコンタクトは、道で突然声をかけられ、剣聖の家はどこかと尋ねられたことだった。
胡乱気に母上に何か用かと尋ね返すアキに、老婆はキョトンとして、次の瞬間呵々と笑い始めた。
『なんだ、あんた椛の娘かい!? 道理で、そっくりだと思ったよ!』
頭の中で馬鹿みたいな笑い声がリフレインする。
うるさい奴。第一印象はそれだった。
アキが椛の娘であると知った老婆は、しつこくしつこく話しかけ続ける。聞いてもいないことを、ぺらぺらと勝手に。
『あいつがあんたぐらいの時に、私のところに預けられたんだよ。懐かしいねえ』
『あの頃は楽しかったねえ。酒飲んで、笑って、遊んで、たまーに人助け。みんな幸せだった』
『椛は今どんなもんだい。腕は? 強いのかい? どんな技使う? ちょっと教えてくれよ』
『小娘だ小娘だと思ってたけど、まーだ剣聖やってるし。中々どうして、やるようになったのかねえ』
『あいつ家にいるかい? ちょっと挨拶しときたいんだ』
『……なんだ、いないのか。じゃあ、どうしようかねえ……』
『やっぱり借りは返さないと、死ぬに死に切れそうにないねえ。うーん……』
……怪しい奴。
横目に老婆を観察していたアキは、率直にそう思った。
底抜けに明るいかと思えば急に暗くなる。そして思い出したように明るくなり、また暗くなる。
素の自分と偽りの自分を交互に表に出しているようだった。
こんな怪しい奴を我が家に案内したくない。
どうにか追い返せないかと、その方法を模索している最中、遠くに兄であるレンの姿を見つけた。
ゲンの家に出かけていたレンは家に戻る途中だった。レンの方も、アキを見つけて声をかけてきた。
『アキー。お客様か?』
『兄上!』
束の間、意識が完全にレンの方を向く。
本当は駆け出したかった。駆け出して怪しい奴なんですと抱き着けば、優しく抱きとめて、あとは任せろとどうにかしてくれるに違いない。
それをしなかったのは、単なる見栄だ。
第三者の目が気になった。とりわけ、背後にいるお喋り好きの不審者の存在がそれ押し留めた。
『母上のお知り合いだそうです!』
逸る気持ちを抑え付け、代わりにぴょんぴょんと自分の存在を主張する。早く早くと手を振った。
早くこっち来て。こいつ何とかして。兄上と稽古したい!
その一心で、レンを呼ぶのに一生懸命になった。
優しい笑顔を浮かべていたレンの顔が、近づくにつれ無機質になり、そして焦りの色を浮かべるのに、アキは気づかなかった。
『そいつから離れろっ!!』
『え……?』
突然走り出したレンは、流れるような動作で抜刀した。
その抜き方は三の太刀を使ったようにも見える。
なぜ? どうして?
意味が分からないと固まって、背後の気配に気づいて振り向く。
そこでは、柔和に笑っていたはずの老婆が刀を振り上げていた。
自分を見つめるその目に優しさなどない。最初からなかったように、どこまでも冷たい目で射竦められる。
そこから先はよく覚えていない。
振り下ろされる刀。レンの叫び声。
痛くて、苦しくて、寒くて。そして――――。
『ここは任せてください。アキを頼みます』
朧げに聞いたその言葉。
「――――兄上っ!」
全てを思い出したアキは、慌てて体を起こす。
急に動いたせいで、痛みに襲われ身悶えした。
壁を支えにして立ち上がり、戸を開けて廊下に出た。
窓の外では大粒の雨がひっきりなしに降り注いでいる。
みんなはどこだろう。
兄上は? 父上は? どこにいる?
一拍考え、壁に手をつきながら居間の方へ向かった。
――――痛い痛い痛い。
一歩歩くだけで胸が引き裂かれそうになる。変な汗を掻いて来た。
少し進んで立ち止まり、また少し進んでは立ち止まる。
その繰り返し。ろくに進めたものではない。
「兄上ぇ……」
情けない声を出しながら、気合を入れて居間に向かう。
兄上は今家事の最中だろうか。雨が降っていて洗濯なんて出来ないだろうに真面目なことだ。
それならいっそ私の傍にいてほしかった。目が覚めた時、兄上が傍にいてくれたら凄く嬉しかった。
こんなに痛い思いせずに済んだし、あの時のことを思い出して泣きそうになったら、ぎゅっと抱きしめてくれただろうし。
心の中で次から次へと文句を吐いて行くアキは、真っ直ぐ目の前だけを見ていたせいで、戸の開いていた部屋を一つ通り過ぎてしまう。
通り過ぎる時に、目の端に人の姿が映ったのに遅ればせながら気が付いて、慌てて引き返した。
その部屋は普段は誰も使っていない部屋だった。
だから無意識に人のいる可能性を排除していた。
その部屋に居たのは二人……いや、三人。
布団に横たわる誰かと、その傍らに座る二人。
「父上……?」
二人の内一人、布団に縋りつき肩を震わせている父の背中を見て、アキは思わず呼んでしまう。
呼び声でアキの存在に気づいた二人は、はっと振り向いた。
二人とも憔悴しきった顔で、父に至っては目を赤く腫らして涙が頬を伝っている。
「アキ……」
呆然とした様子でアキの名を呼んだ父は、膝立ちのままアキの元に急ぎ、力の限り抱きしめる。滅多にないことに、アキは目を丸くした。
「よかった……よかった……!」
「父上……」
このようにして抱きしめられるのは、何だか恥ずかしくてむず痒い。
胸の傷も痛いし、やめてくださいとアキは身をよじった。
「気が付いたか、小娘」
「む……」
もう片方、なぜかレンが良く懐いているゲンは、アキの顔を見て心なしか胸を撫で下ろしたようだった。
アキは正直この人があまり好きではない。普通に話しているだけでも喧嘩を売られているような気がする。あと兄上が懐いているのが気に食わない。
アキはゲンをじっとり睨んで、自分を放す気配のない父に尋ねる。
「父上。兄上はどこですか?」
「っ……」
父の身体がビクンと跳ねたのがアキの身体まで伝わる。
そのことに首をかしげながら、アキは布団に横たわっている誰かを見た。
それは、顔に白い布が被せてあって正体が分からない。そんなところに布を被せては息苦しいだろうと、無垢な疑問を抱きつつ興味深く見つめた。
「アキ……レンはね……」
「兄上は?」
「レン、は……」
アキの両肩に手を置き、正面から見つめる父。
唇を震わせながらも、気丈に何かを伝えようとしていたが、こみ上げた物に耐え切れず俯いてしまう。
そんな父の様子に、アキは首をかしげるばかり。
「小娘。こっち来い」
見かねたゲンが、役割を代わろうとアキに声をかける。
布団の傍らに座り込む自分の傍まで来いと、横暴な物腰で言うゲンに、アキは眉を顰めた。
「ゲンさん……」
「旦那さん。ここは俺が」
「でも……」
「いいから。任せときなさい」
互いにしか通じないやり取りを経て、二人はアキを呼び込む。
父に背中を押されたアキは拒否することもできず、ここに座れと言う言葉に従って、渋々腰を下ろした。
「兄上はどこですか?」
「ああ。……ここにいる」
アキの再度の問いに、ゲンは布団の人物から布を退けながら答える。
布の下から顔を現したのは、レンだった。
「兄上!」
レンを見つけ、アキはすぐに飛びついた。
眠っているように見えるレンは、白すぎる顔色のまま静かに横たわっている。
「兄上……兄上……」
喋りたい。けれど寝てるなら起こしちゃいけない。でもやっぱり喋りたい。
そんな葛藤の末、アキはレンを呼びつつ、極めてか細い声で呼びかけていた。
当然起きるはずのないレンに、アキは少しがっかりして、けれど満足そうに笑顔を浮かべる。
「兄上、もう朝ですよ。お疲れですか?」
兄上が朝寝坊なんて珍しいこともある物だと、アキはレンに話しかけつつ、揺らして起こすような真似はしなかった。
疲れているなら寝てくださいとレンを労わる気持ちを見せるアキの背中に、父がぎゅっと抱き着いた。
父上? と背中越しに振り向けば、父は泣いている。
その身体の震えが伝わって、アキはどうしたら良いか分からなかった。
「よく聞け。アキ」
ゲンがアキの名前を呼ぶのは、アキが知る限り初めてである。
その声に宿る真剣さに、アキはゲンの顔を見た。その顔は悲しみを湛えながら、それでも気丈にふるまう大人の顔だった。
「レンは死んだ」
「……え?」
「レンは、死んだ」
短い単語を二度も繰り返されれば嫌でも覚える。
レンは、死んだ。
その言葉をアキは頭の中で反芻した。
……兄上が、死んだ?
「うっ、うぅ……」
「……父上?」
「ごめん、ごめんね……」
背中で嗚咽を洩らし始めた父を心配するアキだったが、父は謝罪の言葉を繰り返す。
それが、自分に向けられた言葉ではないことぐらいアキにも分かっていた。分かっていて困惑した。
「分かるか?」
「なにを」
「死ぬってのがどんなことか、分かるか?」
ゲンの真摯な言葉を前に、アキは何も言えない。
父は泣いている。ゲンは意味の分からないことを言っている。兄は昏々と眠りこけている。
まったく理解できない状況に置かれ、困惑するばかりのアキは、早く目を覚まして下さいとレンに手を伸ばした。
レンなら、こういう状況も何とかしてくれる。
レンなら、いつも自分のことを助けてくれた。
泣く父上を慰めて、ゲンの言葉の真意を尋ねて、不安がる自分を大丈夫だよと安心させてくれる。そうしてくれる。
だから、早く起きて兄上。
レンの頬にアキの手が触れる。
思っていた温かさはなく、石の様な冷たさに思わず手を引っ込めた。
指先の感覚が信じられず掌を見つめる。
「兄上……?」
何度目になる呼び掛けか。
しかし、今度は起こさないための配慮なんてない。
むしろ起きてほしいから、いつもの声音で、いつもより少し強めに、レンを呼ぶ。
「兄上っ」
今度はちゃんとその頬に触れた。
やっぱり冷たい。掌に伝わる感覚は、信じられないほど冷たい。いつも同じ布団で寝ているアキは、レンがこんなに冷たくないことぐらい知っている。
自分の背中に縋りつく父親を煩わしく思いながら、両手を伸ばし、両の頬を包み込む。
「兄上?」
やはり、掌の感覚は冷たかった。
どこを触っても、何度となく触れ直しても、頬ではなく額に触れた所で、それは変わらない。
「兄上……。兄上……!」
何か取り返しのつかないことが起きている。
未熟ながらも本能的にそれを悟ったアキは、遠慮も配慮もかなぐり捨てて、レンを揺さぶって目覚めさせようとした。
両肩を揺らして、胸をぽんぽんと叩いてみて、頬をぺチぺチと打って。
そこまでして、レンは目覚めない。
いつものように優しく笑ってはくれない。頭を撫でてはくれない。頬をつねったり、ちょっとした意地悪をしようともしない。
不機嫌でいい。怒っててもいい。
あとでどんな説教も受けるから。ゲンコツ一回ぐらいなんてことないから。だから、だから……。
「起きてください、兄上!」
レンを目覚めさせようとするアキを、ゲンも父もただ見守っていた。かける言葉はなかった。二人とも、この現実を呑み込めていないのは、アキと同じだったのだ。
――――春の終わり際、雨の降りすさぶ日。
この日、その家からは慟哭が漏れ聞こえ続けた。
剣聖の住まう家は広く、声もよく通る。家の中に居れば、聞こえないなどと言うことはなかった。
だが、その声は一度外に出れば雨の音に掻き消され、誰の耳に届くこともなく空に消えていく。
剣聖の居ぬ間に村を襲った辻斬りは、村の子供二人を斬り、最期は返り討ちとなって死んだ。
斬られた子供は二人とも重傷を負い、村人による懸命な治療の末、一人は奇跡的に助かったがもう一人は命を落とした。
歴史書に残るはずはなく、誰かに報告されるわけでもない事の顛末は、簡単に纏めればこの程度である。
この事件に関しては、この後に起こる一件によって、誰の記憶に留まることなく忘れ去られてしまう。
後世誰にも伝わることのない事実は、ただ一言。
『レンが死んだ』
それだけである。