女が強い世界で剣聖の息子   作:紺南

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第12話

暖簾をくぐったすぐ目の前に、その女性はいた。

母上が出るのと同じタイミングで入店しようとしていたらしく、つんのめるように立ち止まり、驚いた様子で目を丸くした。

しかしそれもほんの一瞬のことで、すぐににっこりと笑顔を浮かべたかと思うと、深々と頭を下げた。

 

「……」

 

「……」

 

後頭部をじっと見つめる。

すぐに頭を上げるだろうと待っていたが、いつまで立っても上げないので妙な空気が漂い始める。

何も言わずに10秒以上。なおも頭は下げられたままだ。いつまで続くのかと顔を見合わせる。

 

「……なんだ、一体」

 

さすがの母上も困惑気味だ。

てっきり店の前ではチンピラみたいなのが群れを成していると思ったのに、蓋を開けてみれば年若く背の低い子供の様な女性と、それに付き従う四人しかいなかった。

 

内三人は今日一日俺たちを監視していた目つきの悪い三人である。手に武器の類は何も持っていないが、相も変わらず目つきが悪い。

チラリと母上に一瞥され、挑戦的に目つきをより一層険しくする。度胸ある。いつかの役人を思い出した。

 

残りの一人はと言うと、これがまた異彩を放っていた。

比較的背の高い母上よりもさらに長躯であり、その手に持っているのは2メートルはあろうかと言う長さの棒。

それに寄りかかるように立つ様は猛々しい歴戦の勇士を思わせる。この分ではさぞかし腕に覚えがあるに違いない。

 

思わずその人をじっと見つめてしまう。

期待やら羨望が籠った視線は余りに露骨だったらしく、その人は居心地悪そうに頬を掻いた。妙な空気を掻き消すためか咳払いを一つして依然頭を下げ続ける女性に一言発する。

 

「カオリ。いい加減にしな」

 

「……失礼いたしました」

 

二人の間で交わされた短いやり取りに、言葉以上の意味が込められているのを薄ら感じる。

名を呼ばれ、ようやく頭を上げた女性は微笑みを浮かべて母上に話しかける。

 

「あちらの馬はあなた方のものですか?」

 

「そうだ」

 

居たたまれなさが雲散したことで、母上はあからさまに胸を撫で下ろした。

それを知ってか知らずか、悠然とした所作で女性は軒先の隅を指す。

その方向には我が家のペットが二頭いた。

 

どちらも最初に繋いだ位置から微動だにしていない。

赤毛の馬は泰然とその場に佇み、栗毛の馬は通りがかる子供に手を振られ、僅かに尻尾を振っていた。飼い主としては、他人に尻尾を振っているのを見ると複雑な気持ちになる。

 

「あんなところに置いておくなんて、盗んでくれと言っているようなものですよ」

 

「心配ない。躾けはしてある」

 

「躾け?」

 

「少しでも危害を加えられたのなら、遠慮なく暴れるように躾けてある」

 

そんな躾け俺知らない。

母上は基本的に嘘は言わないから本当にそう躾けていてもおかしくはないけど。

もし本当なら、下手をすれば血の雨じゃ済まなかったと言うことだ。とんでもないことになっていたかもしれない。

 

「とても個性的な躾け方ですね」

 

「盗もうとする方が悪いのだ」

 

「ごもっともです」

 

若干引いた様子ではあったが笑顔は保っている。

腹芸が得意なタイプなのかもしれない。だが母上とは相性が悪そうだ。

大真面目に非常識な人の心理など、誰が理解できようか。

 

「用件はそれだけか」

 

「いいえ。まだ少し」

 

「だろうな」

 

「お分かりですか?」

 

「ずっとつけていただろう」

 

「流石は剣聖様。素人の尾行などお見通しですね」

 

母上が剣聖であることは把握されていた。

人相書きでも出回っているのだろうか。領主を斬ったことがあるそうだから、例え出回っていても何らおかしくない。むしろ出回ってないとおかしいとすら思う。

 

「お許しください。悪意があって尾行していたわけではないのです」

 

「あれほど悪意を滲ませていたのにか」

 

ギロリと母上は件の三人を睨んだ。

空気が震えるほどの威圧感が発せられる。刀を抜いたわけではないのに、それに当てられただけで三人は顔を真っ青にしてしまった。

青くなった顔色が段々と白くなり、あと少しで気絶するかと言うタイミングで、長躯の女性が間に割って入る。自分の身体を盾にして三人を守った。格好いい。

 

「お怒りはごもっとも。しかし、あの子たちには目を離さない様にと命じただけで、詳しい事情は伝えていなかったのです。勘違いさせたのは私の責任です。怒りを向けるなら私にお向けください」

 

「……勘違い?」

 

母上は背中越しに俺を振り向き目で何かを訊ねて来る。

左腕に引っ付いているアキが、母上の威圧感に当てられ少し震えていたが、これはいつものことである。

一体何を求められているのかよく分からず、アキの頭を撫でながら少し考えてみる。考えた所で何も分からなかったので、取りあえず頷いておいた。

 

「……まあ、良いだろう。それで、お前たちはなんだ。なぜ私たちを監視していた」

 

「我々は自警団です。彼女たちの藤の紋はその証になります」

 

女性は背後の四人を指さす。

それぞれ着ている袢纏の背中に紋様が入っている。

親切にも、長躯の女性が見やすいように背後を向いてくれた。

背中に描かれる紋様は、中央の葉から左右に花房が垂れて円を描くようになっている。

母上が目を細めながら消え入るような声音で呟いた。

 

「自警団……? まだ、そんなものがあったのか」

 

その言葉には僅かに苦々しさが宿っている。

それを聞いて、女性は殊更優しい笑顔になった。

 

「領主は変わりましたが、これまで受けた傷跡は生々しく残っています。簡単に忘れることはできないでしょう」

 

「……そうだな。すまない。考え足らずだったか」

 

「いいえ。剣聖様のおかげで今があるのです。心から感謝しています」

 

再び頭を下げる女性に、母上は再び狼狽える。

幸いにも、今度はものの数秒で頭を上げてくれた。

 

「あなた方を監視していた理由は、不躾なお願いがあるからです。聞いていただけますか」

 

「……聞くだけなら聞いてやろう」

 

直前に謝ったせいで断ろうにも断りづらい。

この流れを狙ったわけではないだろうが、良いように利用してやろうとは考えているかもしれない。途端に笑顔に胡散臭さを感じ始めた。

 

「とある方に会っていただけませんか?」

 

「誰だ」

 

「自警団の舵取りをしている方です。本来ならばこちらから伺うのが筋でしょうが、高齢で足腰を悪くしている上に、今は体調を崩しており歩くことすらままなりません」

 

足腰が悪いと聞いて、ヨボヨボの老人が頭に浮かぶ。

そんなのが何の要件だと言うのか。

 

「なぜそんな人間が私に会いたがっている? 会ってどうするつもりだ」

 

「ただ、話を」

 

「何の話だ」

 

「それは――――」

 

言い澱みながら、周囲を気にするそぶりを見せる。

ただでさえ注目を集めやすいのに、自称自警団が加わって物見が増えていた。会話も筒抜けだ。

 

「一先ず場所を移しませんか。詳しい話はその後で」

 

「ダメだ。ここで話せ」

 

「大っぴらに話す内容ではありません。噂が立つと剣聖様にもご迷惑がかかってしまいます」

 

どんな話をするつもりなのか。

面倒事であることに間違いなさそうだが、その度合いはどの程度のものなのか。判断するには情報が足りなさすぎる。

 

「場所を移すだけです。いかがですか?」

 

「……」

 

悩む。

この連中について行った先が読めない。

悪人なら絶対ついては行かないし、なんなら展開も読めるが自警団となると何も分からない。

悪人じゃない分打つ手も限られそうだ。

刃物一本持たない相手に刀は抜けない。下手に押し通ることも避けたい。

……仕方ないか。

 

「母上」

 

「どうした」

 

「このまま粘られると日が暮れてしまいます。自警団なら、まあ悪い連中でもないのでしょう。どんな話か聞くだけ聞くのが手っ取り早いと思います」

 

「……そうか」

 

俺と母上が話している最中、女性は横目に俺を見ていた。

その瞳の奥に薄暗い感情が見え隠れした気がして、フードを目深にかぶり直して顔を隠す。

 

「聞くだけ、聞いてやろう」

 

母上の了承に女性は微笑む。

けれど、その目はずっと俺に注がれていて、絡みつく視線がすごく気持ち悪かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

人の気配のない道を、6つの影が歩く。

先頭を歩くのは、先ほど変な目で俺を見てきた女性――――カオリと言うらしい。自己紹介された――――で、その後ろに母上以下俺とアキが続く。

 

カオリさんは歩く速度が普通より遅かった。そのおかげで比較的歩調の速い母上はペースを掴めず、歩幅が乱れていた。内心早く行けと急かしているに違いない。

反対に、アキに左腕を掴まれている俺としては丁度良いペースである。

 

そんな俺たちの背後には、付かず離れずの距離を保って長躯の女性と、例の目つき悪い三人の内の一人が歩いている。残りの二人は馬の監視に残してきた。文句ありげだったが、人を監視するのも馬を監視するのもさして変わるまい。仕事なのだから文句は言わずに頑張ってほしい。

 

いざ移動して見れば、物の見事に前後を挟まれる形になったわけだが、逃がさないぞと言う意思表示にも思えた。

今更そんなこと気にしてもしようがないことではあるが、相手の掌の上だと考えると否が応にも不愉快な気分になる。実際のところどうなのだろうか。

 

先を行くカオリさんの背中を眺めながら歩く。

角を曲がる度、道幅は狭くなって小汚くなり、辺りの雰囲気も寂しくなった。

何とも不安を煽る道を歩かされる。この道がどこに続いているのか。地獄ではないと断言できないのが酷い話であった。

 

「どこまで行くつもりだ」

 

「もう少し先へ。腰を据えて話せる場所がありますので」

 

母上の問いもぬらりくらりと躱される。

こうしている間も、後ろのお方の視線はきついものがある。一人になったと言うのに、まるで衰えない悪意には舌を巻く思いだ。

先ほど、カオリさんは悪意はないと弁解していたが、今もってなお悪意を感じる以上はそれは嘘だと言わざるを得ない。

この視線に何か理由があるとしてもそれに心当たりなどはない。いい加減勘弁してもらいたい。

 

背中に突き刺さる視線から意識を逸らし、沈黙ばかりの道中に華を添える目的でカオリさんに話しかける。

 

「カオリさんは自警団の方なのですか?」

 

「……」

 

その一言でカオリさんは急に立ち止まった。かと思うと機敏に振り向き、じっと見つめてきた。

笑顔が良く似合う人なのに、無表情で見られると変な圧力を感じてしまう。母上の暴力的なそれとは違う圧力に、アキ共々一歩退いた。

 

「どうして、そんなことを言うの?」

 

「袢纏を着てない上に藤の紋がどこにもないので」

 

「……」

 

興味深そうな顔で薄ら微笑みが浮かんだ。

怖い笑顔だ。どことなく禍々しくもある。母上に見せていたものと笑顔の種類がまるで違う。

笑顔が似合うとは言ったが、それは粘り気のある暗い笑顔のことではなく、さっぱりした綺麗な笑顔の方だ。

 

「君の言う通り、私は厳密には自警団の人間ではありません」

 

じっと俺を見つめながら、俺以外の二人にも聞かせている。

瞬き一つしないので、その顔は作り物のようにも見えた。

 

「自警団と言うのは、どうしても荒っぽい仕事が多いものですから、私のような人間には――――」

 

袖を捲り腕を露わにする。

皮と骨ばかりで血管の浮き出た生白い肌。

健康的な人間のそれとはかけ離れた腕だった。

 

「この通り貧弱ですので、いささか荷が重いのです」

 

「……左様ですか。その割には――――」

 

背後の二人を見る。

長躯の女性が目を眇めて見返してくる。その視線に悪意はない。

もう一人の方にはあえて目を向けなかった。それで視線が悪化したら目も当てられない。実際、本当にそうなりそうで困る。

 

「仲間って感じがしますね」

 

「関わっているには関わっていますから。それに年上ですし。こう見えて、もう20年以上生きているから」

 

その言葉が信じられず、カオリさんの風貌を爪先から頭のてっぺんまでまじまじ見つめた。

母上より頭一つ以上背が低く、容姿も子供のそれとしか思えない。

はっきり言って、年上と言っても俺よりも精々二つ三つ程度だろう。成人しているかすら怪しい。

 

「一つ質問に答えたから、一つ質問をしてもいい?」

 

「……どうぞ」

 

「あなたは男の子?」

 

「そうですが」

 

「そう……」

 

一歩距離を縮めてきたカオリさんに対して、アキが俺の腕を引き寄せ、両腕を広げてカオリさんの前に立ち塞がる。

敵愾心を燃やしてカオリさんを睨みつける顔は、母上にそっくりだった。

 

「それ以上近づくな」

 

「え。どうして?」

 

首を傾けながらもう一歩近づいてくる。

アキはカオリさんが近づく以上に距離を取ろうとした。

背中で俺を押して、後ろに居た長躯の女性にぶつかったことすら構わず、まだ後ろに下がろうとする。

 

「どうして、そんなに離れるの? 少しお話がしたいだけなのに――――」

 

そんなことを言いながら手を伸ばし、アキに触れようとする。

その手を痛烈に叩き落としたアキは、頬を上気させていつになく興奮していた。

 

これ以上はまずいことになりそうだと、一先ず二人を遠ざけるため位置を入れ替わろうとしたが、それに気づいたアキが頑強に抵抗する。

アキにとっては俺とカオリさんが近づくことこそが何より嫌らしい。

 

「――――どうして」

 

「やめろ」

 

今まで静観していた母上がカオリさんの肩を掴んで制止した。

その手にはかなり力が籠っている。カオリさんが顔を歪めたのを見て、長躯の女性が動こうとする。

それをカオリさん自身が首を振って押しとどめた。

 

「失礼しました。今までこんなに子供に嫌われることはなかったもので、少し驚いてしまい……」

 

「そうか。一つ学んだな。お前を嫌いな子供もいる。とっとと案内しろ」

 

「……こちらへ」

 

移動再開。

アキが痛いぐらい腕を握りしめてくるので、上手く歩けない。

 

「ちょっと力緩めてくれるか」

 

「もう話さないでください」

 

「え……」

 

「あの女と、話さないでください。近づくのもダメです。あれは兄上を誘おうとしています」

 

「誘うって、どこへ?」

 

「分かりません」

 

要領を得ない。

アキにだけ分かる何かがあるのかもしれないが、生憎と俺には何も感じられなった。

とは言え、話して楽しい相手でもない。

 

「必要以上には話さないよ。なんか気持ち悪いし」

 

「一言も話さないでください。必要があるなら私が間に立ちます」

 

カオリさんはかなり嫌われたようだ。

こうしている間も、親の仇を見るような目でカオリさんの背中を睨んでいる。

 

一連のやりとりで空気が悪くなった。

これ以上何がどうこじれたとしても、大して変わらないと悟りを開けるぐらいの険悪なムードだ。

 

「――――着きました」

 

無限にも思える苦行の末、ようやくたどり着いたのは、人が何十人と住めるような立派な屋敷だった。

カオリさんはおもむろに振り返り、例の目つきの悪い方に目配せする。そうすると、その人は一足先に屋敷に入って行ってしまった。

 

屋敷をじっと眺めていた母上が、ぽつりと呟く。

 

「腰を据えて……?」

 

腰を据えるだけで、わざわざこれほど立派な建物に来る必要はない。

どうしてここに連れてこられたのか。理由は一つしか思い浮かばなかった。

 

「騙したな」

 

「申し訳ございません」

 

仰々しく頭を下げるが、それほど謝意は感じられなかった。

 

「この屋敷に剣聖様にお会いいただきたい方がいます」

 

「まだ何も聞いていない」

 

「聞けばお会いしていただけないでしょうから」

 

「一体何を話すつもりだ」

 

「……」

 

やはりカオリさんは何も答えてくれない。

ここまで来たのだから、話だけでも聞いておくべきだろうか。

騙して連れてこられたのだから、有無を言わさず帰ってしまうべきだろうか。

別にどちらでも構わないだろう。

 

「少なくとも子供に聞かせて良い話ではありませんから、別室で待機させることもできますが」

 

「馬鹿を言うな。別室に連れ込んで何をするつもりだ。斬るぞ」

 

「何も致しません」

 

「たった今人を騙しておきながらよく言えたものだ」

 

カオリさんは言い訳の一つも述べず、門を開いて中へと誘導した。

 

「どうぞこちらへ」

 

葛藤があった。

果たして、行って良いものかどうか。

騙されたことは確かなのだから、この先にどんな罠が張られているか想像もつかない。

 

その場を動こうとしない俺たちをカオリさんは殊勝に待つ。

背後の長躯の女性の方が焦れるほど、その場に留まり続ける。

 

結局は空気に流されて行くことにした。

仮にここで逃げたとしても、この分ではいずれ村までやって来て要件を果たそうとするだろう。

遅いか早いかでしかない。そう言う判断だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その部屋は窓を布で遮られ、暗闇の中で火が焚かれていた。

護衛と思しき人間が寝台の左右に一人ずつ刀を携えて正座し、寝台の(とばり)の向こうに人の影が見えた。

それがいったいどのような人物なのか、顔はおろか姿かたちすら判然としない。

パチパチと火の燃える音を聞きながら、直前に別れたカオリさんを思う。

 

あの人は最後まで、得体の知れない感情で俺を見つめていた。

何を思っていたのか本人に聞かねば分かるまいが、聞くことにも勇気がいる。正直に言って、とんでもないことを言われそうで聞くのが怖かった。

 

「ご足労いただき、感謝します」

 

帷の向こうからしわがれ声が聞こえる。

老人の声だ。恐らくは老婆だろう。声のトーンはそう聞こえた。

 

「本来なら、私が直接お伺いすべきところを、このような形でお会いすることになり、とても申し訳なく思います」

 

「御託は良い。用件はなんだ」

 

「お怒りは、無理もございません。しかし、事情があるのです」

 

呂律の回らないゆったりした口調だった。

せっかちな母上はそれとは真逆の忙しい口調で急かす。

それで怒っていると勘違いしたらしい。ここまでの経過を踏まえると当然だ。

しかし母上は普段からこんなものであるから、余計な気遣いや心配は無用だった。わざわざそれを言いはしないが。

 

「私は、自警団の世話役を務めています。しかし、見てのとおり老い先短く、後を継ぐ者を探しておりました」

 

「そもそも見えん」

 

目を細める母上は真剣に帷の向こうを見ようとしている。

黙って聞きましょうと裾を引っ張った。

 

「単刀直入に申し上げます。剣聖様には、我々の新たな指導者となっていただきたい」

 

「無理だ」

 

考える間もなく即答。

左右の護衛がいきり立った気配を見せ、張りつめていた空気が軋んだ。

「よしなさい」と老婆が言わなければ、刃傷沙汰が起こっていたかもしれない。護衛二人は命拾いした。

 

帷の向こうの老人は少し間を置いて、切り口を変えてきた。

 

「この町の、物見やぐらはご覧になられましたか」

 

「ああ」

 

「無様な物だったでしょう」

 

心なしかその声は震えていた。

 

「昔、あの場所には大きな堂が建っておりました。中央に釣られた鐘が時報を告げ、厄を払って、福を呼びこむ。とても大事な堂でした」

 

「それがなんだ」

 

「戦争で、焼け落ちました」

 

老婆の弱弱しい声音に、はっきりとした憎悪が滲む。

 

「40年以上前の戦争で、町には火が放たれ、たくさんの人が焼け死にました」

 

「そうか」

 

「その、直後でございます。兵たちが海の向こうへ撤退を始めたのは。私たちのすぐ背後まで、敵国の兵が迫っていると言うのに、祖国は私たちを見捨てた。……そこからは、地獄でした」

 

アキの耳を塞ぐべきか迷う。子供が聞くべき話ではないだろう。

実際そうしようとはしたのだが、呆れるほど頑固に抵抗された。

一言一句聞き逃さない、何も見逃さないと五感を研ぎ澄ませて周囲を警戒している。それを邪魔されたくないようだった。

 

「たくさんの人が死にました。老若男女関係なく、斬られ、殴られ、抉られ、潰され。町は血に満たされて、惨たらしい死体が山のように積まれました。あの悲劇を二度と引き起こしてはなりません」

 

「そうならないために、私にお前の後を継げと言うのか」

 

「左様でございます」

 

考えを纏める必要がある。

目頭を揉む母上は明らかに疲労していた。

しかし纏う気力は少しも褪せることなく、帷の向こうを見据えて口を開いた。

 

「虐殺など二度と起きん。そもそもが有り得ん話だ」

 

「……」

 

どんな根拠があってそんなことが言えるのか、俺にはてんで分からなかった。

根拠のない自信はいつものことで、今回のこれも考えなしに言っているのだろうとすら思った。

しかし続く母上の言葉を聞くには、きちんとした理由があるらしい。

 

「私は今の領主を知っている。あれは虐殺などしないし、他人の非道を見過ごすような真似もしない」

 

「……剣聖様が、領主と懇意であることは存じております」

 

「ならば安心するがいい。少なくともあれが領主でいる内は虐殺など起こりえない」

 

ふと、名前の長い依頼主とやらが頭に過る。

ひょっとして、それが領主だったりするのだろうか。

毎度毎度、領主に指南を依頼されているのか? この人は。

 

「……貴方様には、心から感謝しております。悪逆非道の限りを尽くした前領主を殺し、先代剣聖の庇護もあって、無罪になった貴方様がいるからこそ、我ら自警団は大っぴらに動けるようになりました。もしそうでなければ、我らは未だに陰で活動することを余儀なくされていたでしょう」

 

「ならば――――」

 

「だからこそ、貴方様でなくてはいけないのです」

 

帷の向こうで老婆は身を乗り出す。

 

「我ら東の民は、前領主を斬り、終いには剣聖の地位に納まった貴方様に、希望を見ているのです。貴方様がいれば、我らは明日を生きることが出来る。奪われたものを取り戻すことさえ、可能ではないかと」

 

老婆の言葉を飲み込むのに、少し時間が必要だった。

自警団のリーダーとして母上を勧誘したいと言う話だったはずだ。

しかし今の老婆の言葉は明らかにそれ以上を望んでいる。

 

瞑想する母上の様子を窺う。

この流れはまずすぎる。出来るなら、今すぐにでも会話を打ち切ってこの場を飛び出したい。

刃傷沙汰だって構いやしない。何なら俺が斬る。

 

「つまり、お前たちが本当に私にやらせたいことは、国への反逆か」

 

「左様でございます」

 

「片棒を担げと」

 

「旗印になっていただくだけで結構です」

 

「関与することに違いはない。公になれば死罪は免れん。仮に剣聖であったとしてもだ」

 

「祖国のため、民のため、何を躊躇することがありましょう。貴方様は、守護家の末裔ではございませんか」

 

守護家って何だろう。

俺の知らない我が家のルーツか。完全に蚊帳の外に置かれてしまった。

 

「守護は祖母の代で終わった。家名も取り上げられた。もはや過去のことだ」

 

「雅様のご遺志を継がれないと仰るのですか」

 

「遺志?」

 

母上がふっと小馬鹿にするような笑みを浮かべる。

こんな笑い方をするのは珍しい。意外な一面を見た。

 

「私は母が嫌いだ。母をあのようにした祖母も嫌いだ。あれらが残した遺志など継ごうとは思わん。その価値もない」

 

「なんと言うことをおっしゃるのです……!」

 

母上の言葉を聞いた老婆は怒りをあらわにしたが、次の瞬間には咳き込んでしまう。感情の急激な変化に身体がびっくりしたらしい。

激しくせき込む老婆の元へ、右に居た護衛が帷を潜って姿を消す。

 

少しの時間を置き、落ち着いた老婆は絞り出すようなか細い声になっていた。

 

「なんのために、剣聖になられたのですか……民のためでは、なかったのですか……」

 

「お前たちの期待を裏切り済まなく思うが、必要に駆られてだ。それ以上の理由はない」

 

帷に映る影が項垂れる。

勝手に期待し、勝手に失望し、勝手に打ちひしがれている。

なんとも自分勝手だ。それでいて憐れみを禁じ得ない。

これで勝手に早死にされでもしたら、後味悪いことこの上ない。

 

「私からも問いたい。なぜ今更謀反などを企てる。領主は死に、女王は考えを改めた。長らく続いた迫害は、少しずつ弱まっている。なぜわざわざ事を荒立てるようなことする」

 

「……」

 

帷の影は答えない。

母上には重ねて問い質した。

 

「なぜだ?」

 

「……遅い」

 

その小さな呟きが鼓膜を震わせる。

 

「現女王が王位に就き、前の領主が権力を握ってからの30年ばかりは、我々にとって地獄そのものでした」

 

失意の底に居ながらも、老婆は訥々と答えてくれた。

もしかしたら、母上が考えを改めてくれるかもしれないと僅かな希望を胸に抱きながら。

 

「強権を得た領主に、多くの民が殺されました。官憲は機能せず、女王は見て見ぬふりをした。抑えられていた差別意識が膨れ上がり、迫害は激化した。こんなことは全てご存知のはず」

 

「……ああ。だが過去の話だ。なぜ今更……」

 

「過去と仰るか。ああ……あなたにとってはそうかもしれません。その手で領主を斬ったのだから、そう思えるのかもしれない。だが我々は違う。私どもは、まだ何もしてはいない」

 

老婆が立ち上がった。

フラフラと危なっかしい足取りで、帷を掻き分け顔を見せる。息をのんだ。

 

「貴方様には分かりますまい。失ったことのない貴方には」

 

それはまさしく老人だった。

皺だらけの顔に隈をこさえ、その瞳は充血し落ちくぼんでいる。

もはや余命幾ばくも無いのは見てわかった。その形相を見るに、正気すら失っているのかもしれない。

 

歯の抜け落ちた口から唾を飛ばす勢いで、老婆は懇願する。

 

「地獄を乗り越え、人の営みこそ取り戻しましたが、戻らないものがたくさんある。それを思い出した瞬間、蓋をされていた憎しみが膨れ上がったのです。家族親類縁者、友人から知人まで、昨日生きていた人間が今日には死んでいる。明日には自分の命も危うい。そんなことが繰り返された結果、我々の恨みは骨髄にまで達した。もはや後戻りなど出来るはずがない! 剣聖様。あなたのお力をお貸しください。何卒、何卒……!!」

 

崩れ落ちるように頭を下げた。

足腰が悪いせいで満足に膝を折りたたむことも出来ていない。それでも気勢だけは衰えず、なりふり構わない姿勢で、是が非にも母上を取り込もうとしている。

しかしどれほど熱心に勧誘しようと、情に訴え頼み込んだところで、母上の答えは頑として変わらなかった。

 

「断る。私にそのつもりはない。やりたければお前達で勝手にやるがいい」

 

「あぁ……」

 

絶望の嗚咽が聞えた。

 

「貴方様は我々の敵になると、そう仰るのですか……」

 

「そうは言っていない。しかしお前たちの味方にはならない」

 

「同じことです……。我々が王権に剣を向けた時、真っ先に我々を討ち滅ぼさんとするは、剣聖の役目のはず。かつての戦争でもそうでした……」

 

母上が何か言う前に、老婆は言葉を続ける。

 

「我々にはもう英雄はいない……剣聖を討ち、万の敵を屠った英雄はどこかへ消えてしまった……。だからこそ、貴方様のお力が必要なのです……」

 

「断る。話は終わりだ。帰らせてもらうぞ」

 

取り付く島もない三度目の返答。

これ以上何を言ったところで無駄でしかない。

老婆もそれを悟った。プルプルと震える両手で己の頬を包み込む。

絶望に染まった瞳は何も映していない。虚空を見つめ、半開きの口から言葉にならない声が漏れ出ている。

 

「あああああぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!」

 

その絶叫に、母上を除く全員が肩を飛び上がらせた。

来るか来るかと戦々恐々とし、実際来たわけだが、耐えられるものではなかった。その叫び声には、筆舌に尽くしがたい絶望が込められていた。

 

即座に護衛の二人が抑えにかかったが、老婆の力は凄まじく、護衛を振り回した。

 

「売国奴がっ! 穢れた血を生み増やした大馬鹿者がっ! 恥を知れ! 雅様のお心をなぜ理解しようとしないっ!! お前はああああああぁぁぁぁ!!!!!!!!!!」

 

いくつもの罵詈雑言を投げかけ、味方である護衛に幾筋の引っかき傷を付ける様は見るに堪えなかった。

哀れ以外の言葉はない。人はここまで醜くなれるのか。

 

否応なく、老婆の暴れっぷりを見せつけられていると、背後で戸が開いた。長躯の女性が顔を見せる。

女性は喚き散らす老婆を憐れんだ目で一瞬見つめた後、俺たちに向け微かな頷きを見せ手招きした。

これで用件は済んだ。

 

立ち上がって部屋を後にする俺たちの背中に、理性を失った獣の咆哮が絶えることなく向けられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

酷い一日だった。

廊下を歩きながら思う。

せっかく町に来て美味しいものをたらふく食べて、後は帰るだけだったのに。

知りたくないことを無理やり知らされ、正気を失った老婆の醜態を見せられて。

溜め込んだプラスが一瞬にしてマイナスに食いつくされた。

総評して、酷い一日だった。

 

誰も一言も発さないまま、長躯の女性に案内され玄関口まで戻ってきた。

とっとと帰ろうと前を向けば、煙管を咥えたカオリさんが煙を吐きながら座っている。

 

「何を吸っている。薬か」

 

「はい」

 

未だに多少余裕が残っている母上が訊ねる。

カオリさんは煙を吐きながら頷いた。

 

「ご心配せずとも、悪い物ではありません。お見せした通り身体が弱いもので、こうして薬を摂らなければいけないのです」

 

そう言って、カオリさんは懐から青草を取り出した。

薬草らしいが、どこかで見たことがある気がした。そこら辺に生えている雑草だと言われても判別つかない。

 

「これで痛みが和らぎます。多少頭がぼんやりしますが、慣れればどうと言うこともありません。お土産に一つどうですか」

 

「……身体が弱い理由はなんだ。先天性か」

 

差し出された青草を無視して、母上は一歩踏み込んだ。

自ら深入りしようとするのは珍しい。先ほどあんなことがあったばかりで、疲労で正常な判断が出来ていなかったのかもしれない。

チラリと母上を窺ったカオリさんは、大きく煙管を吸い込み、天井に向けて煙を吐いた。

 

「……前の領主は、色々なことをしていました」

 

滔々とした語り口調に、重い話がくると分かってしまった。その抑揚のなさに耳を塞ぎたくなる。

だがそうはしなかった。聞くべきだと心のどこかで声がした。

 

「攫ってきた子供におかしな薬を飲ませ苦しむ様子を楽しんだり、子供同士を殺し合わせて見世物にしたり、あるいは親に子を殺させ狂わせたりと、本当に色々なことをしていました。私の場合は、成長を阻害する薬とやらを飲まされました。その結果がご覧の通りです」

 

「……」

 

何も言えない。

言える口も持っていない。やっぱり聞かなきゃよかった。耳塞げばよかった。

 

「一つ質問に答えましたので、一つだけお願いを聞いていただいてもよろしいでしょうか?」

 

「……内容によるが、聞くだけ聞いてやる」

 

カオリさんは立ち上がり、こちらに歩み寄ってくる。

あれほどカオリさんを警戒していた妹は、今や疲れ切ってろくに反応できていない。俺の左腕に縋る様に立つので精いっぱいのようだ。

 

そんな妹の様子を心配した隙を縫うようにして、カオリさんは母上を通り過ぎ、俺の目前までやってきていた。

ほんのわずか屈んだだけで、俺たちの目線は等しくなる。

 

「顔を見せてくれる?」

 

「……」

 

それが願いなのか。

正面からぶつかる瞳の奥に暗い感情が渦巻いていた。

その暗闇が全て俺に向けられていて、じわじわと蝕まれるのを感じる。

最早考えることすら億劫だった。どうにでもなれと半ば開き直ってフードを脱いだ。

 

「……」

 

「……」

 

視線が絡みつく。

カオリさんが間近にいることに、今になって気づいたアキが腕を引っ張って遠ざけようとしたが、もう遅い。

一歩先んじて俺の頭に手が置かれ、そのままゆっくり撫でられる。

 

「固まった血の色」

 

俺の髪色のことだ。

暗い赤色。母上とアキは黒で、父上は紺色だ。

恐らく先祖返りしたのだろうと思われるが、カラフルな髪色が一般的な西でもこの色は珍しいらしい。東は黒ばかりだから、どこに行っても目立つ色だ。

 

「瞳は黒で、鼻は少し高い? でもそれ以外は東の特徴か……」

 

頭を撫でていた手が目尻を過ぎ頬を撫でる。

顎先を優しい手付きで触られるのは、そこはかとないこそばゆさがあった。

 

「ねえ。生きるの辛くない?」

 

「は……?」

 

「死にたいって思ったことはない?」

 

母上に聞かれないためにか、小さな声でそんなことを問われる。

何も言えないでいると、人差し指の背で下唇をなぞられた。

思わず口を開いたところに指を突っ込まれる。指先で何度か撫でるようにして舌をなぞられ、うえっとえずいた。

 

「……なんですか」

 

「この先、君が生きていくには辛いことが多いよ。いっそ死んだ方がましって思うぐらいには」

 

「……」

 

突拍子の無い発言には慣れっこだ。

動じることなくじっとその目を見ていると、吸い込まれそうな錯覚を覚えた。

アキに腕を引っ張られていたり、そもそも前世の記憶がなければこのまま誘いに乗っていたかもしれない。それほど蠱惑的な人だった。

 

「ねえ? どう?」

 

何を誘われているのか、今一度考えてみる。

いくら考えた所で、やっぱりそういうことだろうと思う。

この人の目的は一体何なのか。今までの言動を振り返れば、察するものがあった。

 

「兄上、やめてください……いかないで……」

 

隣でアキの訴えを聞く。

縋りつく力は弱弱しい。その手に自分の手を重ねてみた。温かかった。

今日一日でこの小さな身体にどれだけ負担をかけてしまったのだろう。

知らなくていいものを知り、見なくていいものを見せてしまった。町になど来なければよかった。心の底からそう思う。

 

だから、せめてこの場ぐらいは早く安心させてやろう。

その一心で言葉を紡ぐ。

 

「あなたは近いうちに死ぬんですね」

 

率直に過ぎただろうと後になって思う。

もっと言いようがあったはずだと後悔する。しかし先に立てる後悔は後悔ではない。

この時の俺はこんな言い方をした。事実として残るのはそれだけだ。

 

「うん」

 

気分を害した様子はなく、落ち込む様な素振りも見せず、カオリさんは淡々と頷いた。

 

「もうあまり長くないの。だからね一緒に死んでくれる人を探してる」

 

「そんなに死にたいんですか?」

 

「死にたくないよ。でも死ぬから。一人で死ぬのは寂しいから」

 

「どうして俺を誘うんです。俺だって死にたくない」

 

「本当に?」

 

口では答えず、ただ頷いた。カオリさんの目から視線を逸らしたまま。

それが俺の答えだった。

 

「理由はもう一つあるよ」

 

悪戯っぽく笑いながら、声音も冗談めかしている。

 

「なんでしょう」

 

「君の髪色」

 

くしゃりと乱暴に頭を撫でられる。痛いぐらい力が籠っていた。

けれど、これがこの人の精いっぱいだと思うと無性に悲しくなった。

 

「女の子は血に縁があるけど、私はそうじゃない。なのに君は髪の色と言い、生まれた家と言い、血に縁があるから嫉妬しちゃった。男の癖にって」

 

「……」

 

「本当に死にたくないの?」

 

「……はい」

 

「そう。それじゃダメだね」

 

屈んでいた腰を伸ばし、俺から目を逸らして母上に向き直った。

どれだけ小声であったとしても、母上に今のやり取りが聞こえていなかったはずがない。

だと言うのに、何一つ口を挟まずただ見守っていたその心境はどんなものだったのだろう。

 

「余計なお世話かもしれませんが、これより東に行くのは避けた方が無難でしょう。特に、レン君を連れて行っては余計な騒動に巻き込まれる可能性が高い」

 

「……なにかあったのか?」

 

「先ほど報告がありました。東の町で、西の人間が惨殺されたとのことです。両手足切り落とされ、口には指が詰まっていたとか」

 

「お前たちの仕業か?」

 

「そうではないと思いたいですが、お婆の狂いっぷりはご覧になった通りです」

 

その瞬間、廊下の奥から獣の咆哮が聞こえたような気がして思わず振り返った。

それは気のせいだったらしく、何も聞こえはしなかったものの、嫌な気配は依然として漂っている。

 

「東は魔境と言って過言ありません。自警団だろうと関係なく、すっかり毒が回りきっていますので」

 

言いながら指を折り曲げて見せた。

意味の分からない仕草に疑問を抱きつつ、続きを聞く。

 

「帰り道はお気を付けください。我々は決して一枚岩ではありません」

 

「わかった」

 

「もう二度とお会いすることはないと思いますが、ご健勝をお祈りしております」

 

「ああ。お前もな」

 

カオリさんは微笑んだ。母上は無表情だった。

別れの挨拶はそれだけだった。

 

珍しいことに、母上は俺の右手を引っ張って歩き始めた。

歩くのが早いため、かなり早足にならなくてはいけない。

未だに縋りついているアキを置いて行かないよう苦心する。

 

「さようなら」

 

去り際の声に返す余裕はなかった。

一瞬振りむくので精一杯だった。

微笑みながら手を振る彼女の姿が瞼に焼き付く。

 

生まれて初めての観光は、こうして幕を閉じた。


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