我々の理解を超えて、なおも我々に牙をむく。
捕縛をすればたちどころに自爆し、
人の手で撃破を掲げれば不可思議が殺意と成る。
我々は、神の怒りをこの身へ受けたのだろうか。
ああ、ならば崇めよう。その怒りを鎮めたまえ。
―――砲撃された深海信仰教会信者の勧誘文より
騒がしくも快活な女子の声が部屋に響いた。仕方ない、仕方ないと愚痴のようにつぶやくそれは、人の形をした艦船そのもの。魂を機械の体に収めつつ、新規の製造なくして過ぎた数十年の時を、そのころより変わらず在り続けた者の声であった。
「まーた無茶しちゃって!」
「すまぬな、怪我は治れど手が痺れたままとは思いもよらずと言ったところだ」
肩をすくめる自称アイドルとやら。はたして苦笑代わりに吐き出された、ふんすとでも表現すべき鼻息はアイドルという職に必要なものかどうか。普段の言動を鑑みるに、それはないと言わざるを得ない。
「調子の良いことばっかり言ってもダメだよー。ちゃんと治さないとね、私たちの提督さんなんですからっ」
「ふん、確かにその通りらしい」
また、考えとは正反対、器用なことに仮面だらけの会話が私の口から洩れている。
事務仕事の大半はフェイクなため、那珂には書類を持ってこさせるばかりかこうして私の前に並べさせる仕事も追加させることとなってしまった。まるで介護施設の老人の様にも見える現状に、生涯現役を唱えるこの身としては苦笑を呈すばかりである。
それはそうと、先の雷の砲撃によって破壊された執務室であったが、現在は妖精の不可思議な働きによってほとんど元通り部屋の形を取り戻している。まだ作業中なのか私の目では視認不可能な妖精の手によって道具だけが浮いている様子が見えているのだが、作業状態から推測できる限りでは残るところ壁紙の貼り直しだけと言ったところか。
こうした様子を見るたびに思ってしまう。内部抗争などせず、これほど本部の人間連中も優秀だったのなら今頃は深海棲艦の脅威すら跳ねのけていたやも知れぬというに、まったくもって嘆かわしいばかりだ。
その本部に属していた私が言ったところで、説得力の欠片もないのは滑稽なばかりであろう。自分の事を棚に上げる行為とは自嘲するほど理解している。小さな自己分析の結果では、我が身こそは都合の良い存在であるという認識らしい。これでは老害と言われても仕方あるまいに。
「ああ……ところで、これはいつの作戦かね」
「それくらい入力日見れば? ってあれれ、日付ぼやけちゃってる。えっと旗艦が北上さんの時だから」
湿気で多少はやられたか、文字が霞んで見えなくなった箇所を訪ねる。
すると、那珂は少しばかり悩むそぶりを見せた。その膨大な脳内回路から情報を引き出すのに手間を喰っているのか、はたまたこの記録がよほどに古い記録なのか、または情報量が少ない記録であるのか。完全に静止した彼女の再起動を待っていただけで数十秒ほどの時間を要し、直後顔を上げて視線をよこした彼女の口は懐かしむような感情に染まっていた。
「2年前の出撃だね。そこで初めて深海棲艦に囚われていた大井さんと出会ったんだ」
「内容を見る限りはあの大井と、東シナ海で、偶然に? それはまた運命的な事だ」
「……偶然かもしれない、なーんて言っても提督さんには通じないよねっ」
「はてさて、まったくもってだ。加えてこの作戦を指揮した者の名も覚えている。まさか引航を見限ったと報告されていた“あの大井”がこちらに来ていたとはな。もっとも、こちらの記録には」
すっと取り出すのは報告書の中でも私が重要だと感じた書類だ。
艦娘の轟沈記録。二十余りのそれらは、紙束として執務机の引き出し中段の中に積まれている。その中から取り出した一枚こそが、こうして目の前に薄っぺらい存在証明として我々の間へ置かれる。
さて、ここからはいつも通りの化かし合いだ。
「一年前の轟沈記録、小規模作戦において編成された4隻編成による出撃。当時旗艦であった北上と
「まぁあの提督だし泣きながら描いてたんだろうね。でもねぇ提督さん、残念だけど那珂ちゃんはね、ぜーんぜんその時のこと知らないよ?」
「知らぬのは承知の上だ。だが私が聞きたいのはこの作戦に赴いた前任者の心情ではないのだよ。何故、建造技術が失われた艦娘を沈めてまでこのような作戦を決行したのか……そうまでして手に入った
「そのために、私が来るまで待ってたんだ? 業務どおりに仕事に来るいたいけな少女をそんな目的のためだけに通わせるなんて、おさわりもあったらファンの子が黙っていないよ?」
「さて、気になる事を見つけては、それを探らずにはおられん性質でな。これも私と付き合っていくからには慣れるべき性分であると納得してもらいたい。既に何度か言ったかもしれぬが」
「……まぁいっか。さっき言ったとおり、そんなには那珂ちゃんは詳しくないのだっ! なんて言うけど、ホントは手に入った物の方を知らないんだよねぇ。何かと貴方と一緒で、秘密の多いヒトだったからなぁ。感情はすぐに出すけど」
言葉の選び方にすっと違和感を感じる。見上げると、こちらに視線を寄越す那珂の顔があった。この時において適切な解答をしなければ、恐らくは気心が知れた程度の友好関係でしかない那珂ははぐらかすに終わるだろう。
ともなると、答えるべきは言葉そのものへの疑問だろうか。
「分からない、ではなく知らないとは、つまりそういう事か。やれやれ」
「うん、まぁ簡単だったけど意図を察してくれて嬉しいな。馬鹿正直に言っておくと正解ってのは“何かの情報”だね」
「情報、なるほど。これ以上は聞くまいよ」
「私、那珂ちゃんも文字通り何かの情報って事しか知らないから、これ以上は何も言えないけど」
「いいや、謎解きというものには前進が必要だ。そしてその前進のためには僅かながらも足がかりが必要だ。さもなければその場に踏みとどまるか、はたまた滑って転ぶのみに終わってしまうであろうな」
「わぁ、提督さんって頭固いと思ってたけどそんな言い方もできるんだ」
「ただ単に年を食っているだけでは無い。少なくとも、そう遠くは無い過去に老害と多くの者に陰で罵られる程度には人の心を熟知しているつもりだ。あえて呼ばせるような言動ばかりを取っておったのだからな」
返すのは己への皮肉に満ちた解答。無意識では唯我独尊に人を動かしているといわれているらしいが、私の人格といえば作戦後、行動後になってようやく後悔や自身への戒めを自覚する程度の器でしかない。
なんという矛盾。このような立ち振る舞いに反し、小賢しくも戦果だけは上げて来たおかげで文面上でしか戦果を確認しなかった
―――ああ、ユートーセージジイがまた来たぞ、と。
まったく、ほんの数週間前に言われていただけの出来事がこうも懐かしく感じるとは、リンガ泊地へ向かっていた航海を長く感じるようになった「あの出来事」が挟まっていたためだろうか。
いや、逃れてからは数日がほんの数分のように感じていたな。アレと会ったからこそ、私はこの地にて目的を達するのだと確信を持てるようになったのだったか。これだけは忘れてはならぬというのに、この脳は朽ちるのみか。盛者必衰よ。
「本当に那珂ちゃんの提督さん達はさぁ」
那珂の言葉で、記憶の海から帰還する。
ふと目に入るのは呆れたような表情の那珂。しかしその瞳だけが大きな何か負の感情を帯びて怪しい輝きとなっている瞬間。
「だーれも、艦娘に秘密を明かしてくれないんだから」
「ならば、頼られるようになるまで精進をすべきであろう」
書類をまくる手を止めず、視線も合わさず言ってやれば、那珂はそれはそれは感情のこもった重いため息をついて見せた。
「そう言ってる提督さん自身も明かさないうちの一人だしー、那珂ちゃんも伊達でアイドル名乗ってるんじゃないんだけどなー。でもやっぱり目指すはトップ、かな?」
「さて。話の脈絡すらない上に、生憎とそういった類の娯楽に余裕を作った人生は歩めておらんものでな。私から言えることは薄く濁った年の功とも呼べぬ人生から来る経験則だけだ、それも答えるには明確な話の方向性が無ければ……とてもではないが、この耄碌したジジイの頭では質問の理解すらできぬよ」
「だーいじょうぶっ! これは那珂ちゃんが考えることだからー。それよりもさ、お仕事始めまーす!」
「ああ分かった、よぉく理解したとも。では狐狸妖怪の化かし合いは此処までにして通常業務へ戻るべきか。しかし、既に書類に関しては大方分別が終わっておるのだよ。故に貴艦には本格的に記憶と報告書の照らし合わせのために付き添ってもらうとしよう」
これは中々効果があったのか、お熱い「逢引き」の誘いには随分と困ってくれたようで、那珂はこれまた兵器には程遠いうんざりとした表情を見せた。だからと言って前線へ送り込む躊躇など持ち合わせるような気兼ねも持ち合わせてはおらぬし、まさか色恋がどうとかをほざく経験も年齢もとうの昔に過ぎ去っているのだが。
それからしばらくの間、通常の業務において怪しげな出撃記録、遠征記録に関してはあえて先送りにするような態度を崩すことなく表面上の仕事をこなしていたと思えば既に時刻は夕刻に差し掛かっていた。本日の予定としては、深夜帯までいけば後は楽しい楽しい暗躍の時間だ。そこに多少の理解をさせてある信頼を置く艦娘であったとしても、同席させるのはまだ計画段階としては早すぎる。早々に、本日は業務終了のお告げとともに引き払ってもらうこととなった。
ヒトキュウマルマル、麺類と魚類だけが豊富な食堂に訪れる。
もはや毎日のこととなった一人だけでの食事風景ではあるが、ぼろを出す可能性も低いことから逆に安心できる。時折年のせいで痛めた箇所の疼きや痛みといったものが再発しては喉に食べ物を詰まらせて咳を吐き出してしまう。
そして咳は更に肺を痛め、これ以上の被害が出る前にコップを引っつかんで水を流し込む。精神で押さえつけた咳の違和感が胸の内へ襲い掛かってくる。最後に二、三ほどの小さな咳でようやく落ち着き、若き頃とはかけ離れた皺だらけの顔を覆って食事の手を止めた。ようやく落ち着き始めたが、少しばかり喉の異物感が取れていないようだ。
「む、ごほっ……いかんな」
何度も咳を鳴らして声にならない「あ゛」と「ん゛」を繰り返す。
喉の調子を確かめながら、食べ続けるうちに「好物になっていた」麺類の食事へ再度手をつけた。いくら生涯現役を噂されている元気な上官であっても、行き過ぎた加齢が齎す肉体の衰えは誤魔化せない。
健康のラインを保っているとは自負している伏見ではあったが、本当のところは常に長さを二分させた麺類や、形式的には流動食に近いものではないと喉を簡単に通り過ぎてはくれないようになってしまっているのが現実。一人で飯を食うにも、どうしても時間がかかってしまうのは近年の彼の悩みであった。
軍人たる者、いかなる時であろうとすぐさま戦場へ駆けつけることができねばならないというのに、伏見の体はもう休めと言わんばかりに反抗しているのだ。それを、他ならぬ彼自身が嫌っているというのだから何とも言えない。ちなみに、このご時世彼程の高齢となった軍人は大抵が使えないと評されて上から直々に辞めさせられているか、もしくは事務処理程度にしか配属させてはもらえない。人材がかつての大戦時よりも圧倒的に不足している軍部であるからこそ、老人であってもギリギリまで使って「いた」のだが。
何とか私の喉を通ってくれた食物に手を合わせて感謝の念を送る。冷たい水道水を両手に浴びながら、伽藍と静まり返った食堂には私が水場を使う音のみが響いていた。片付ける皿のカチャンと鳴る甲高い音は無性に寂しさを自己主張しているようにも聞こえる。もっとも、その孤独な音の中に他人の音が紛れ込むのならば、話は別であろうか。
「あら、いらしていたんですね提督」
足音、食事を必要とせず、本当の娯楽程度にしか食事という命のやり取りを行わない艦娘の一人だろうか。この食堂には訪れることが無くなって久しいのであろう寂れ具合の中、昼の時間になれば必ず私はここに来る。だからこそ、食堂へ訪れる艦娘がこうして私に直談判を望む者しか来ないのは明白だ。
「何の用かね、正規空母・飛龍」
「頼みごとじゃないですよ? ちょっとお尋ねしたいなって思いまして」
にこやかな笑みを浮かべているが、その腹の中は尋ねるまでもなかろう。
そうだ、出撃と呼べるような行為は幾度かあれど、空母系統は私はまだ率いた記憶はない。艦娘の起源とはすなわち軍艦、戦うことを至上とする。だというのに個人の采配で戦いの場を減らされれば意思を持つ物体として不満も蓄積するというものだ。
軍部でまかり通ってきた鉄仮面はまだ外してはいない。内心では大いなる苦に満ちた息を吐き出しながらも、橙色の改造道着に身を包む正規空母の艦娘を見やる。しかし、対面してみれば不思議と大きく見えたのは幻覚か、はたまたその熟練の経験が為せる威厳であったか。我が老いぼれの命は常に薄氷の下にさらされていることを自覚させんとする勢いが、無言の飛龍からは発せられているようであった。
「どうして私たちを、出撃させないのでしょうか」
いやまったく、この劣勢を極めんという時世に沿う常識に満ちた質問だ。無論、私はこの中では異彩と異形に満ちた排斥される者のうちに入るのであろう。それもそうだ、かつての大戦は人の手による更なる発展があれば、航空部隊の活躍に軍艦の役割は持っていかれていただろう。
その先駆けたる空母を活用しないということは、つまり自らに枷を課して死を追い求めているようなものだ。艦娘の総司令・提督たる者が取るべき判断としては大いに間違っていることは確固たる事実であろうか。
「ふむ、まだあるのならば先にすべて話してみたまえ」
「では……幾つか尋ねたいことが、確か航空巡洋艦の最上さんはあの形態無視をする戦艦の出現時、迎撃に運用なさいましたね。あの時艦載機はちゃんと発着艦されていたことから、私たちの出撃にも問題はないように思えますが」
「ああ、乱戦時における敵潜水艦は脅威故の判断。あの混戦し始めた戦中、水上機の偵察・牽制能力は必要だった。空を飛び、それぞれが己の意思で的確な位置への攻撃が可能な航空機は戦力として申し分ない」
「……そこまでわかっていて、どうして空母を活用しようとは思わないのですか? 確かに戦艦形態を含め、その幅や脆さは航空能力を失くしても戦える航空巡洋艦には汎用性として劣っています。確かに適材適所という言葉もあります、ですが私たちは」
「ふむ、航空機の修理に必要な“資材:ボーキサイト”は足りている。飛ばすために必要な多大な燃料も、これから輸送路を確保できるならば運用は十分以上に可能だろう。そして広大な海の中、敵を殲滅させるための強大な戦力としても有用性は計り知れない、それが空母艦娘というわけだ」
「そこまでわかって、どうして」
「どうして、そう来たか。ならば君は知っているかね? 圧倒的に足りないものを」
「……それは、その」
間が、始まる。
ここで分からぬようであれば、的確な随時判断が不可能として出撃はさらに難しくなるものだろうが、どうであろうか。老いぼれの腐りかけた脳味噌が弾き出したのは、現在の資料や報告書を漁っていたときに偶然気がついた程度の答えでしかない。
永遠に柔軟かつ高度な判断が可能な艦娘という存在である以上、そう答えには困らないはずであるが―――さて。
「あっ……失礼しました。確かにこちらの落ち度だったみたいです」
「ほう。ほう。だが、潔かろうとこの度に関しては其方へ苦労と時間をかけるやもしれんな。こればかりは可能性の問題であるが故、空母が海を走るのは何時になるやら分かったものではないが」
「いいえ、此方も勝手ながら
「それはそれは、宜しく伝えておいてくれたまえ。私は“事”が無ければ執務室にて次期の案を練っている。臨時の際は掲示板か放送を定時に行うため、逐次確認を怠るな」
「飛龍、了解しました」
こちらに向けられるのは海軍式敬礼。そして瞳の奥に秘められた悔しそうな感情の光。こちらへの挑発を込めた接触だったのだろうか、それとも単に艦娘として出撃を望んでいたのだろうか。それは人の心を読める訳でもない私には何一つ知りえないが、恐らくはあやつの望んだ結果とは程遠い終わり方だったのであろう。
食堂から遠ざかる足音の不規則さは、この静寂に満ちた空間ではいやに耳に残って聞こえてくるではないか。はて、嫌われてしまっただろうか。ならば此方としては良い結果になったというべきだが、空母連中はその搭載された人となりから「有能な人物」には敬意を払うだけの感情と人格を持ち合わせている。己の失態をフォローするような輩であれば、なおさら信頼とやらが芽生えるらしい。
全くもって、ややこしいことだ。普段が近づきがたいだけあって、高嶺の花も一度摘み取ってしまえば他の花と同じく愛でる人間は全員に当てはめられてしまう。人間らしさがあるという事はすなわち、そういった「雰囲気」を辺りに撒いてしまうという事。そういったことで、私自身の評価が上がってしまっては身も蓋もない。
この際なのだ、はっきりと思い起こしておこう。私は、消えたとしても誰もが悲しまない存在でありたい。すでに親しい人物には気の毒だと、残される側の気持ちが分かっているからこそそう思う。だが、そのような人の感情ごときで終わるような使命をこの頼りない胸に抱いてリンガ泊地へと来たわけではないのだよ。
と、洗い物がまだ途中だったか。冷たい水は身に沁みるが、日本よりも南に属するリンガ島はまだまだ暖かい。もはや季節の境すら、気にせず戦い続けてきた日本人、そしてこの世界に住む者たちの為に、私は。
頭の中では悔しい、と思うと同時に恥ずかしいとばかり思ってしまう。そうだ、こんなに単純なことにいったいなぜ気づかなかったのか。そもそも、本部との距離が開きすぎて前の提督くらいしか本部との繋がりが持てていなかったのに、どうしてこんなに私たちは戦うことばかりを考える、視野の狭い選択をしてしまっていたのだろう。
特に空母は、資源なんかよりも圧倒的に足りないものがあるじゃない。資源があっても、私たち空母が「戦い」を行うために必要なものが。
「あら、お帰りなさい。どうだったの」
「気づいている人、多分いないと思います。完全に私たちが忘れてること指摘されましたぁ……」
「うちら艦娘が忘れる事? そない大層なもんあったかいな?」
龍驤の疑問はご尤も、と言わざるを得ない。以前より皆が知ってのとおり艦娘というのは見た目が生身に見えてはいるものの、その皮膚をはがしてしまえば機械部品が見えるアンドロイドのようなものだ。それが電子的な脳に貯めた記憶は、人間の技術をはるかに上回る絶対的な記憶容量・引き出し能力を所持している。
故に、伏見は那珂を秘書として扱う際にその完全な記憶力を当てにした書類と記憶との照らし合わせを行っているのだ。だが、そんな艦娘も感情を持っているからこその失態というものがある。
「私たちの艦載機って、動かすのに何が要ります?」
「そりゃ燃料に…うちら艦娘のパワーやろ。それから……あ」
漏らした声は幼げなもの。他でもない、質問した龍驤自身が納得していた。
「この鎮守府、長門さんたちが沈んでからは減ってますよね? “妖精”の数」
裏打ちするように言ってみれば、案の定。
加賀さんみたいに感情が表に出にくい人でも分かりやすいくらいに動揺してる。一瞬口がひきつるのを見逃さないのが私たち艦娘ですよね。確かに妖精は死にませんけど、遠いところにいれば帰ることもできずに「いなくなる」事は普通にあり得ますから。
鎮守府から遠く離れた洋上で、沈没した艦娘に乗っていた妖精は戻ってこないのは当たり前です。それが、大規模出撃計画で万全の準備を整えて、妖精も多く搭乗させたのなら沈没した分減る数も大きいのは自明の理と言わざるを得ません。
「そう、そうだったわ。私たちは一人で戦ってるわけじゃないもの。どうして気付かなかったのかしら、こんな単純なこと」
「加賀、多分だけど私たちも焦ってたんじゃないかと」
「焦っていた……そうね赤城さん、その通りだわ。……ところで、五航戦のあれは? 姿が見えないようだけど」
「ドックで追加の燃料汲みにいっとるで。前に補給したんは3週間前や言うとったし」
「出撃できない現状がわかった以上、無暗矢鱈と燃料の貯蓄を消費して無ければいいけど」
「瑞鶴さん、ある意味一番好戦的ですもんね」
ある意味、満場一致で同じ結論に至る空母四隻。
だが出撃できない理由が理由だけに、これより先は当分出番も来ないという事を知ったからか、その空気も重かった。結局のところは提督の手腕に期待を寄せ、妖精が存在するであろう、至る人の手が加えられた場所から運よくパイロットになりうる艦載機妖精を見つけてくることを祈るのみである。専用の妖精でなければ、彼女たちの指揮に耐えうる操縦技術は生まれないのだ。
何もさせられなかった時よりも、改めて何もできない現状は戦うために作りだされた兵器としては歯がゆいばかりである。この勇み足から浮いてしまいそうな現状を、果たして伏見が止められるのかどうかは今のところ、まだ分からない。
「補給完了! それで、当然出撃案件もぎ取ってきたんでしょ!?」
「……はぁ」
誰が息をついたかは言うまでもなく、全員である。
当たり前のように予想を裏切らない、一番の危険要因を前にした空母艦娘。満ちた疑惑と焦燥の香りは霧散したものの、やりきれない思いばかりが込み上げてくるのであった。
飛龍の直接訪問から数日、とくに何事もない穏やかな日々が続いた。
ちょうど伏見が職務に慣れを感じ始めるころ、というべきであるのだが何度も言うように職務の大半はフェイクでしかない。本部への報告もなく、この途絶されたリンガ泊地にてしたためられるのはポーズをとったインクの付いた紙きれ。
パラパラと傷の残るしわがれた腕で報告書へ目を通し、一人の老人は喉に引っかかったような吐息の音を部屋へ浸透させる。されどほんの少しの違和感がある。正体を探ってみれば、その横には着任初日からいつも控えていた秘書艦の姿が今は無いようだ。
「だからと言って、よもや貴艦が訪れるとはな、苦手意識ばかりがあると思っていたが」
「え、来ちゃだめなんですか提督?」
「いいや構わんよ。今回は軽巡洋艦のみ遠征に出しておるのだから、駆逐艦の貴艦が来たことは何らおかしくはない」
「この書類、どっちに片付けます?」
「それは燃やしてかまわん。ごみ箱だ」
パタパタ、と駆け回るのは吹雪型の1番艦、吹雪。
今回遠征に派遣した那珂の代わりにと掲示板へ秘書艦の募集をかけてみれば、後にも先にも定時にこの執務室にてあ奴だけが待っていた。そつなく何でもこなし、時代遅れと言わざるを得ない性能の吹雪型であったとしても、人間と比べてみればあまりにも優秀であると言わざるを得ない、少女の形をした兵器。
「……提督さん、本部にいたんですよね?」
「む? あぁ、そうとも」
「じゃあ、前の提督さんのことって知ってます? 私、書類も弄るの初めてで……まだ名前すら聞いたことないんです。でもリンガ泊地へ派遣された提督さんなら、前任者の人のことわかりますよね?」
「さて、どうだったか……」
「え?」
なにも、私は彼の後を継ぐためにここへ来たのではない。私の目的の達成がこのリンガ泊地ならばちょうどいいと思ったからこそ、計画に取り入れたからこそこの地へと訪れたのだ。前任者もまた、私がここへ渡るための様々な意味における「先人」であることは確かだが、その名前や素性には全くもって興味はない。
ただ、与えられた役目すら果たせなかった。そして今そそぐべきではない愛情を艦娘たちにそそいでしまった愚か者。あと50年は早く生まれていれば、賞賛されていただろうにと思わずにはいられない。
だがそうであるからこそ、私はこの惜しい人物をあくまで先人であるという認識から外さないために多くの情報は得ていない。彼に関してわかるのは、この古びた報告書を通じて見れる彼の功績と、求めようとした「もの」だけだ。
「残念だが、忘れてしまったらしい。この老いぼれの頭ほど頼りないものもあるまいよ」
「……そうですか、せめてご家族の方には」
ぼそ、ぼそ。吹雪の声は、艦娘ほどの聴覚を持たない私には聞こえなかった。
彼女が何を言ったのかは、まったく分からない。だが耳に入れる必要はなくとも、その能面の如く凍らせた表情からは何を思うかくらいは読み取れる。今日のうちに、この駆逐艦・吹雪の本質の一端を垣間見れて運が良かったというべきか。
今後、吹雪との接触は細心の注意を払わなければ距離感にずれが生じてしまいそうだ。今のうちに、彼女への対応を考えておくとしよう。
「ところで吹雪よ」
「あ。はっ、はい!」
「同型艦の白雪、深雪からは言伝は預かってはおらんか?」
「えっと……特には、何も。今の提督さんのやり方は前みたいに優しくはないですが、この上なく効率的ですし、“燃料”の補給も安定しているので緊急出撃時に名前が呼ばれればそれでいいって感じです」
「それは、どういう意味での発言かね?」
「ええっと、自分の実力は分かったうえでのことですね。だから、私も最初にお聞きしたじゃないですかぁ。私で本当にいいんですかって」
「なるほど」
ただ運用する兵器ではない、己の意思をもって、己自身を運用できる兵器。それが艦娘と一般的に呼ばれるものだ。あれらは自己の姿が形成されたその時より、成熟し固定化された性格・人格を持ち合わせており、同時に人間を凌駕する自己管理能力をも持ち合わせている。
そして擬似的にも生きている要素を取り入れたのか、艦娘という存在は「戦うごとに強くなる」という成長要素をも持っている。ただ、機械の体を持つ限界であるからか上昇できる能力値にもある程度の上限はあるようだが、それすら感じさせないほど
だからこそ、私は吹雪を選び、抱えている問題を除けば第一艦隊としての活躍もまた間違いないと確信している。それが、目的に結びついているかどうかは別として、一刻も早く全艦を十分に戦えるようたたき上げるための足掛けに、吹雪という1番艦の存在は必要不可欠なのだ。
「なにも、問題などありはしない。貴艦を選んだのには相応の理由があり、私自身の判断は何一つ間違っておらぬと断言しよう。たとえ一時的な敗北がその先にあったとしてもだ」
「……提督さん」
帰ってきたのは、胡散臭げなものを見る目。
それもそうだ。これまで出撃は両手で数えるほど。編成した出撃用の艦隊はたったの4艦隊。そして遠征に出す艦娘は決まってバラバラな組み合わせ。統一性のない、まるで手探りのような現状で唯一私の判断が出した功績といえば艦娘用「燃料」の安定供給のみ。
これだけの例を知ったうえならば、私の評価は妄言を騙る、夢見がちな死にかけの翁で決定する。そんな輩が語ったことに、信頼性もなにもありはしない。
「人を指揮する、それと全く違う軍艦そのものへ命令を下すのはまだ慣れておらんのだ。大目に見ろ、小童」
「そういうことにしておきます。……ところで、手が止まってるますけどちゃんと業務やってるんですか?」
「もちろん、本部へ送る分はすでにしたためてあるとも」
「提督さんが、隠し事の多い上に無能な人だったら流石の私でも怒りますよ!?」
「ふむ、初めて見たな。貴艦が怒りの感情を見せるところは」
「話そらしても無駄ですからね。那珂さんはどうか知りませんが、私は監視と評価の意味も込めてこっちに来たんですから……あ」
「言われずとも知っている。一部はともかく、人間というのはそこまで愚鈍な精神を持ち合わせているわけではない」
こうした、固定化された「ドジを踏むという性格」を持ち合わせている兵器というのは実に頼りない。なぜこのような人格を搭載したのか、是非とも一世紀前の開発者に聞いてみたいところだが開発者自身がたった100年の歴史に埋もれてしまっているのだから聞きようもない。
元来より女性名詞が使われるからこそ、魂をおしこめる機械の体が女性系になったのは頷けるが……いや、今考えるのは詮無きこと。艦娘の発生理念がどうあれ、私は深海棲艦の脅威に大した「備え」をしなければならぬ、か。
「……また手が止まってます」
「そうかもしれんな」
「真面目にやってくださいよ! 指揮してる時は凄いなって思ってたのに、私の抱いてたイメージ台無しじゃないですか」
「そちらの価値観を押し付けられ、なぜ私が変わらねばならん? 理想を抱くのは、現実を知ってからしたまえ。戦場に関しても勝手な暴走、あまつさえは上官に向かって意見の押しつけか」
そう言ってやれば、いいようもなく慌てだす吹雪の姿は、やはり「規格書通り」の人格がもたらす、想像以内の反応だった。いくら人の感性が変化に富んでいるとはいえ、記録が取られ続けた数十年間、その思考・理念・人格がすべて規格通りというのならば、それらを記録しまとめた書類を読めばおのずと返ってくる反応をコントロールできる。
まだ艦娘の替えが効いたころ、感情や人格といった内面的な差異の記録実験が行われていたというのは本部に60年以上属していたものなら全員が知っている有名な話だ。そこまでいなくとも、記録に残っている以上閲覧したものは皆知っている。
見目麗しい女性の姿をしていたとしても、我々にとっては人間の開発した唯一の防衛手段であり、攻撃手段たる兵器。道具に過ぎない。ゆえにどう扱おうとも問題はないというのがそのころの見解だったらしい。今でも、その認識はあまり変わってはおらぬが。
「では、不必要な書類の処分をしておけ。残りは私が管理する」
「はーい、焼却炉ってまだ使えましたっけ?」
「使えぬようなら妖精に頼め、壊れた程度なら極少量の“鋼材”でも代用は可能だったはずだ」
「えっ、私たちの資材ってそこまで万能だったんですか?」
「艦娘と妖精が出現してからどれだけの時間が経ったか、貴艦も数十年稼働している個体ならば知識として知っていてもおかしくはないと思うが」
「いくら何でも知りませんって。ああもう、気になるけどもうこれ片付けたら今日は部屋に戻ります。提督さん、意外と口が回るから疲れちゃいました」
「そうか、お勤め御苦労」
「お疲れ様でしたっ!」
ばたん、と語尾を強めて吹雪は退室する。神経を逆なでするような言動も、控えねばまた電の時のように危ない橋を渡らなくてはならなくなる。それに関しては構わないが、生存できる確率が極端に少ないのなら、成功する確信がなければその展開にまで態々持っていく必要もない。
体制を整え座り直し、ゆっくりと腰を伸ばして息を吐く。
ぽきぽきと鳴った関節と、その些細な動作で生じた痛みに眠気を吹き飛ばされながら、書いていたようででたらめな業務の紙を丸め、ごみ箱へ投げ捨てる。あまりにもゆったりとした時間を過ごしてきたが、深海棲艦の脅威が去ったわけではない。何度も何度も忘れそうになる事実は、私が穏やかな時を過ごす時間だけ人類を追い詰めている事だろう。
それだけは、理解した上で時間を「使わなければならない」。まったくもって、こちらの精神が削り取られそうな話である。
ぼおおお、ざぱん、と窓の音から大きな二種類の音が聞こえて、襲撃以来新設した桟橋あたりで独特の発光が見える。そして大きな駆動音は足跡に代わり、倉庫方面へ向かう金属がカンカンと打ち合う音と別れて鎮守府へ迫ってきた。
歩くたびにギシギシと不安げな音を聞かせた廊下は、老朽化した木が軋まない、堅い音で歩く者の気配を知らせてくる。部屋の前で立ち止まったそれは、二回のノックを鳴らしてドアノブを回した。
「旗艦、軽巡洋艦那珂! ただいま帰投しましたー」
「……任務御苦労、すぐさま入渠に移れ」
「はーい」
間が空いたのは、覚悟が足りなかったからか。鎮守府海域周辺の機雷設置任務より帰投した軽巡洋艦那珂、その腕を失くした痛々しい姿は深海棲艦の脅威が迫っていることを知らせていた。
打った内線の数秒後、警報が鎮守府を赤く染め上げた。
縛り内容公開
難易度:低
・艦娘はどこまでもスペックに忠実。その性格すらも。
そのため、性格を掌握した者は実質的に艦娘を洗脳せずに操ることが可能。
ただし、どのような基準で選ばれるかもわからない提督のみに適応される。