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急速に体が冷え込んできた。
闇に呑みこまれて視界が暗く閉ざされたこともある。
一瞬後にはまだ晴れていたはずの空に雲がかかったことで、陽の光に照らされることもなくなったことも一因である。
その上、雹と雷声が渦を巻いて轟いているからでもある。
だが何よりも冬風にさらされていた体でも、一際の清涼感を感じさせるのは、山の中に飛び込んだからだった。
どことも知れぬ原生林。
その中に碓井は吹きさらしのままでいる。
向って右手には、色取り取りの景色が楽しめる空間が広がっている。
周囲を見渡してみると、向って右手の木々の葉が、目の前に飛び込んできた。
日本の自然界ではあまり見かけないような、肉厚で大きく広がっている葉だ。全長で5mほどになろうか。厚みがなんと15cmほどもある。
これほど見事な出来であれば、さぞかし青虫芋虫が食い散らかしているであろうと思ったが、不自然なほどに黄色く変色してもいなければ、穴があいているわけでもない。
緑青色の葉。
どことなく完成された神秘性を感じて、思わず右手で触れてみようとした。
迂闊だった。
葉の葉脈が縦に白い一文字を刻んでいたのだが、その線突如三日月のように裂けて、中から乱抗歯を煌めかせながら不用意に近づいだ獲物を食いちぎらんと噛みついてきた。
「にょわッ!?」
全く予想していなかった出来事だったので0.1秒も引き抜くことに時間がかかってしまったことで、もう0.2秒後に耳を劈く金属音が響き渡ったときに思わず冷や汗をかくことになった。
一度噛み合わせた後は、再び姿を偽装する必要があるためか、さっさと姿を戻す擬態葉。いいや、人食い葉だ。
つまりここはアストラル界でありながら、生物を捕食する食虫植物を飼いならしている場所だということになる。
「腐海ってことかよ」
左手には果物や花が咲き乱れる極楽浄土でありながら、右手は死を食う闇の地獄。
やはりまつろわぬ神の支配する領土ということか。
元は日本の死生観をも生み出した創世神であり、記紀には倭朝廷の敵対者であり英雄神でもある存在だが、歪んだ修正を持つのがまつろわぬ神である所以だ。
人に仇なすだけでなく益する存在でもあるのだが、どうやら期せずして仇なす悪神になり果てているようだ。
これから相手をする存在は、まつろわぬ神の常として、一筋縄ではいかないようだ。
だが。
まず、これから移動する道を見つけるよりも先に。
とりあえず驚かされた苛立ちを込めて、火の魔術で炙ってみることにした。
足元にあった折れてから時間が立っていないのだろう、30cmほどの若木を強引に薪にして、火だるまにする。
火種の先で葉脈を叩くと、生体反射の通りに咥えこむ葉。
(何でも咥えこむビッチが!)
思わずスラングを思い浮かべてしまったが、まあ予想の範囲内の現象が起きている。
一息に呑みこんでしまったためか、葉の全長から行けば用意に呑みこめる大きさの木々の火が燃え移っていったのだ。
まず、中心の一番閉じるのが遅かった部分から明かりが見えた。
そこからは葉脈に広がっていって、全体を燃やし始めている。
たんぱく質の焦げた悪臭のする煙が立ち込めた後に、空に向かって溶けていく。
およそ1分で全焼した。
地面に灰になって積もった葉を眺めつつ、なにか応答があるだろうと考えていた。
元々相手から呼び出されたわけである以上、狼煙の代わりに使えば、相手からの応えがあるはずだと思ったのだ。
いらっとしてやったのも事実だが。
10秒ほど待った。
すると、突然耳元に伝法な口調の男の声が響いた。
「おう、すまねえな。待たしてしまってよお。道はそのまままっすぐ進んでくれや。目の前に河があんだろ?それに沿っていきゃいい」
その言に従って前を見通すと、確かに渓流があった。
魚も住んでいるようで、岩魚らしきものが泳いでいた。
そのそばにはシオマネキが右の巨大な鋏をこちらに向けてゆっくりと右手に向かって動いている。
「――まあ、いいか、行こう」
シオマネキがなんでこんなところにいるのか植生について考えながらも、渓流の上流へ向かう流れに沿って歩き始めた。
どことなく懐かしく感じられるのは、やはり日本人らしい意識が残っているからだろうか。
最近では緑が乱雑な植生を誇っている山というものは、案外世界中でも数少ない。
日本や欧州は論外にしても、アフリカや南米のアマゾン位しか、昨今では見かけないのではないだろうか。
標高が高い山になると、今度は生命の住まぬ雪山になる。
エベレストなんかはその筆頭だ。鳥でも集団でわずかな時を見計らっての挑戦になる。自由気ままに飛び回ることなどできなくなるのだ。
神々のおわします天国。雪山の女王。見入られれば死ぬ。
そうした異名を持つ所以は伊達ではない。
しかし麓までは人間の手を入れることはできるために、自然の植生というものは、日々失われているのだろう。
こうした緑と土が色濃い自然の山は、かつての人々が信仰したという意味も頷ける神秘性だった。
不思議と調和した世界。
こうした秩序というものが安定しているというのは、人間の意識すらも安心させるものだ。
この自然の黄金比こそ、美というものなのだろう。
「ふう、落ち着くなあ。これから戦いかもしれないから、この平常心はむしろ助かるわ」
こんな権能があったら意外と重宝するかもなぁ。
そんなことを意識の片隅で考えながら、上流へ15分ほど上ると、小さな掘立小屋を発見した。
隠す気などないといわんばかりの、膨大な呪力を垂れ流しにしている。
おそらく意識する必要もない程度の神格の切れ端なのだろう。
相手の神明が改めて明らかになったことで自然と体の細胞が熱く燃え滾って来る。
意識が研がれていく。新たな権能がこの身の内に宿っていることを自覚する。
そうして視線を小屋へ向けると、
「おう、こっちだ。遠慮せずにはいれよ。香山碓井」
50歳前後と思われる、重々しい声音が響いた。
小屋の正面を藁葺きで御簾のように隠している。
そこへ堂々と入って中を覗きみると、身の丈180cm前後の大柄の男が古めかしい囲炉裏の傍に胡坐をかいて坐っていた。
手元には手酌の皿と、熱燗なのか湯気の立っている小瓶がある。
囲炉裏には鍋が置いてあり、同じく湯気を立てている。
内容は赤いものと灰褐色のモノが浮かんでいるので、スープ類だろう。
神本人はというと、
口元を髭で覆い隠しており、髪もざんばらで無造作な長さだ。
顔は、豊穣神にふさわしく岩窟系フェイス。
そうでありながら若いころの整った容姿を思わせる気品のある色男ぶりだった。
目立つのは腹部の肥満体質のような盛り上がりだが、近接戦闘で邪魔になるとは思えないのが不可解である。
全体的に野人と称しても問題がないが、それにしては獣臭を感じさせることがない。
やはり、元まつろわぬ神らしく俗世に染まることのなく、穢れを身に纏うことなどない超常の存在であるのだろう。
トールのように街の王になるような美意識を持つこともないようだ。
首筋に赤い珠を数珠つなぎにしてぶら下げている男は、対面の場所に首をしゃくる。
指定された場所に腰を下ろすと、確認もそこそこに男が口を聞いてきた。
「よう、ここでは初めましてだな。香山碓井。俺はスサノオノミコトだ。いきなり呼んじまって悪かったな」
機先を制されたと思いつつも、相手に主導権を握られるような場面ではないことを思いつつ返事を返す。
「はい、初めまして。私は、香山碓井と申します。このたびはお招きいただきまして、まことに嬉しく存じます。以後よろしくお引き回しくださいませ、おじいちゃま」
軽い茶目っ気で、事前に効いていたようにおじいちゃま呼ばわりしてみたが、思った以上に効果があったようで、顔を軽くしかめた。
「んな杓子定規な挨拶すんじゃねえよ、気色悪りぃ。それとそのふざけた呼び方は恵那の馬鹿だけで十分だ。じじいでも御老侯でもいいけどよ、その呼び方は間が抜けすぎてるだろうがよぉ」
「それはまた、失礼いたしました、と。それではじじで」
「ああ、そうしやがれ」
じじいと呼ぶ相手を今まで知らなかったので、この呼び方はとても興味があったのだ。
相手がある意味日本のソウルスト―リーの原点でもあることで、その呼び方もしっくりくる。
――思えば、神話というものはそういうものでもあった。
例えば、アーサー王物語だ。
イギリス民はその成立過程からして、さまざまな人種が入り混じりながら民族問題等を抱えているために、国家として一つにまとまるためにはある共通したストーリーを持つ必要があった。
神話の原点の一つは、そうした民族の繋がりという縁を持つことで同族であることを示すためのものである。
イギリスのみならず欧州全体で交わるために、民話としてアーサー王物語を導入する必要があった。その中にキリスト教のモチーフや、神話の原点である大女神のルーツやケルト神話のク―フーリンを始めとした英雄を下敷きにしたうえで、生み出す必要があったことも特徴だ。
その結果、物語全体には矛盾が生じてしまったものの、クレティアン・ド・トロワの作品に至ると、ランスロットという英雄の本質をしっかりと洗練した形で混ぜていたことが分かる。ここに何らかの体系化した知識を習得させた存在を感じるのは、ただの邪推とは言い切れないだろう。荷車の騎士ランスロットとグイネヴィアは【春の植物儀礼】の象徴である。鋼と大地母神がセットで語られるということは、彼女たちはもとはアジアの大女神のどれかにルーツを持つことを暗示しているのだから。
大女神は基本的に、鋼+大地母神だ。そしてルドラの矢を引くヴァ―チュだけでなくとも、戦争を起こす女神でもあるのだ。
ランスロットはグイネヴィアと共に、アーサーの治世を【愛】で崩壊させる役割を持つ。英雄同士の戦争を誘発させたことは、デンマーク王ヘジンやトロイア戦争のアキレウスを髣髴させる。
欧州全体に広がっている神話を再構成しただけとは思えぬほどの、獄中のごろつきであるトロワが生み出したとは思えぬほどの、そこに体系化した神話の知識を感じるのだ。
矛盾した物語を共通テーマにしなければならないほどに、当時の欧州は物流すらも不安定な戦場だったのだろう。
閑話休題。
御老侯ことじじいと向き合っている碓井。
こうして向き合っていると、小屋の狭さが手狭すぎることに気づく。
筋骨隆々で縦にも横にも幅を取る大男が中心に居るものだから、 その息苦しさも半端ではない。
立ち込める気を押し隠す事もなく、対面する存在同士が相手の腹の中を探り続ける。
挨拶は終わり、交渉に向けて相手を推し量っているのだ。
スサノオの顔はにやけ顔のまま変化していない。
右手に御猪口をもったまま膝に肘を掛けている。
碓井は跪坐の体勢で前後左右に移動できるように体全体に意識を張り巡らせている。
お互いに人の上に立つ戦神らしく、閉心術を体得しており心の裡をのぞかせない。目を合わせていながらも結局何も合わせていないということになる。
しばし睨みあい、3分。
先に口火を開いたのは、スサノオだった。
「……こうして睨みあってても意味はねえか。やはり神殺しだなぁ、おい」
「――それで、用件も聞いていないけれど、何の用なんだ?」
「ああ、そうだったな」
スサノオはそこでいったん口を閉じると、碓井を推し量った時のことも考えて、内容を選択するように逡巡した後、再び口角を上げた。
「……てめえは俺に関してどのくらいの事を知ってる?」
「――質問の意図も分からないが、お前がスサノオで御老侯として正史編纂委員会のオブザーバーになっていることと、最後の王といわれている鋼の神を日本に封印管理している位だな」
「……なるほどな。まあ間違っちゃいねえな。あのガキは起こすと面倒なことになるからよォ、名を明かす事は神の盟約上出来ることではねえが、邪魔にならねえようにしているのさ」
「あとは、日本各地にまつろわぬ神の封印をしているんじゃないかということだな。例えば伊勢神宮では大和朝廷の犠牲にした存在を押さえて、九州では八坂八幡の総本山として中国南海方面や東南アジアから飛来する神格に睨みを利かせていること。東北は言うに及ばず、鹿島神宮で製鉄信仰の押さえだな」
「ふん、おおよそはつかめているみてえだな。なら、教えておいた方がよさそうだな。この国にまつろわぬ神がそうそうにやってこれねえのは、俺ともう一人がこの国の雑多な奴を制圧した上に、姉貴がその上に覆い隠しているからだ。あとは彷徨ってきたやつの押さえとして、日光の猿と武甕鎚がいる」
武甕鎚……こいつ、俺との接点を知ってんだろうか。
だとしたら、カガセオについても知ってるはずだ。
そのことは隠していた方がよさそうだな。
まだ、話の全容もわからん。揺さぶりを掛けるにも情報が足らん……。
まずは、日光のサルについてだな。
「――日光のサルというと、見ざる言わざる聞かざるか」
「けけけ。そこで武甕鎚について聴かねえのは、褒めておいてやるよ。今、問題なのはそこじゃねえからな」
イラッ。
頭の片隅で、事情は知ってる存在特有の優越感が垣間見えて、苛立ちを感じた。
‐‐間違いなく、天津甕星についての情報を知っている。
「時間がたてば問題になるんだな」
「まあな。その時になればお前も動かざるを得なくなる」
動かざるを得ない……つまり、何か強制力のある事柄なんだろうか。
「ふぅ~ん。――まあ、いいや。それで今動くべきなのはなんなんだ?」
「おう。さっきも言ったが、日光には中国の鋼猿がいる。そいつで蛇神を仕留めているが、より古い蛇神には、鋼の神格を持つやつがいる。そいつはより使いやすい武甕鎚を呼びだしてあてがっているわけだ。あのガキを目覚めさせねえためにな。とはいえ、鋼と古い鋼が顕現してやりあうと当然場が荒らされんだよ。
それで、ここからが本題だ。
……最源流の鋼が顕現する気配がある。そいつを仕留めてもらいたくてな」
「――なるほどね。日光はどの神か推測できるとして、場が荒らされるってどういうことだよ。鋼同士が争うことに、何か特別な意味でもあるのか?」
「なぁに。まつろわぬ鋼が現れると、通った先は荒野にしかならねえからな。それではガキの封印が外れる可能性もあんだよ」
あからさまに話を逸らしやがった。
とはいえ、これ以上突っ込んでも神の盟約とかでごまかされるかな。
――なんかもらう方向で話をまとめるか。
「どの国の鋼なのかくらいは教えてもらえるんだよな?」
「すまねえが、そこまで確証があるわけではねえんだ。だが、間違いなく最源流の鋼だ。それも文化ってんだったか。それの間近に位置する俺達鋼の祖のどれかだ」
「――へぇ。どこらへんに顕現するんだ?」
「……あー、豊後よりも下のあたりだな。それぐらいしか分からん」
「さいですか」
大雑把過ぎるが、運悪く当たったところは諦めてくれ。
最後にそういって話を締めくくろうとするスサノオ。
このまま押しこまれたままでいられるかい。
「その話の補償になるようなものとか渡してもらえないのか?」
「……ふん、だったらこいつをくれてやるよ」
スサノオが右手を振る。
一瞬後には、何かの呪印が刻まれた珠が現れた。
「こいつに念を込めると、この幽界への道を開けてやるよ。これが代償ってことでいいな」
「受け取りました。その話に応じて俺も対応することにするわ」
放り投げられた珠を受け取った碓井は、話も終わったと判断して腰を浮かせた。
スサノオは会話の途中では呑んでいなかった御猪口を傾けている。
最後に部屋の片隅をちらりと見やると、碓井は小屋を立ち去った。
帰りは、珠に念を込めれば帰れることを、虚空の知識から強引に知識をかすめ取った。
元来た道を辿って姿を消していく碓井。
何事もなく話が終わって、それはそれで残念だったと思いながら。
碓井の後ろ姿をみやりつつ、スサノオは幽界から消えたことを確認して、一息つく。
「さて、だれがくるのかねぇ」
その呟きに答えて、部屋の奥に隠れていた即身仏が出現した。
「気にすることはありますまい。鋼と羅刹王は引かれ合うもの。 相応の結果になるでしょう。失敗すれば、それはそれで他の候補に任せることもできましょう」
「ふん、まあそうだがな」
「我が隠れていたことにも気付いていたようですし、なかなか目の端が聴くようですし、勝率も悪いものにはなりますまい。問題は、鹿島と香取の封印術ですな」
「ああ、碓井の野郎が完成すれば、いよいよ計画を始める時だ。媛にもそれに合わせて封印術を強化してもらっているしな」
「私も鹿島がそのような役目を持つとは、御老侯より話を聴くまでは知り申さんでした」
「ああ、あのガキも厄介なもんだが、最低でもそれに並ぶくらいの面倒な奴だからな。ガキなら、俺でもどうにか倒せることもあるが、あの女だけはどうしようもねぇ。相性が悪すぎる」
「御老侯でも鹿島でも勝てない存在。それは畏れ多くも天皇家の祖霊神であらせられる天照様ですら防ぎようがないほどの、大災厄であるということ。――やれやれ、面倒な話でござる」
「碓井の野郎の手際に期待だな」
「ふふふ、下界のモノに期待せねばならないとは、いよいよ我らも焼きが回ったというべきですかな」
「ああ、早く隠居でもしてぇな」
「はてさて、いつになることやら」
「くくく」
「ふふふ」
なにか可笑しげなことでも呟いたかのように、日本に巣食う妖怪以上の手に負えない外道どもが、声をそろえて嗤う。
その笑い声は、しばらくの間止むことはなかった。
▲
碓井が日本の裏側との対面を終えた次の日。
先日の道場とは違う、透湖の通っているという道場へ来ている。
昨日突然大雨になったことなど忘れたかのように、空は蒼天に晴れ渡っている。
時刻は、朝4時30分。鶏が鳴く時間に合わせて起床でもしているのだろうかと疑うくらい、思ったよりも人が動いている。田んぼの管理でもしているのだろうが。
場所は東京。三鷹市の外れ。
近所には赤坂ホテルなども見える、世界でも有数の値段をもつ土地を50畳以上もある板間を2・30ほど用意しており、優に区画の一部分を丸丸使用した空間である。
東京といえども畑なども多く存在していたり、廃ビルも非常に存在しているので、国が管理している土地ということもあり、それほど奇異なことではないが、やはり建物と庭がそれほどの広さをもつというのは、驚かされるばかりだった。
そこに碓井は、透湖を伴って門構えの前に居る。
道路は意外と広く取られており、コンクリートがロータリーのように整備されていることがどことなく近所の空間と違っており、面白かった。門柱の横にはシクラメンが飾っておりどこかのセンターで購入したもので彩りを出そうとしているのだろう。
少し後ろに下がって、碓井は全体を見回す。
「……広いなぁ」
「媛巫女だけでなくとも、表向きの警察関係者も使用するものですので、昨日の青竜先生の道場とは少々趣が違っております」
「うい、気をつけましょう。昨日は確かに少々やりすぎたかもだし」
「そのようなことはありません。ただ、整理する私が30分ほどしか眠れなかったほど忙しくなったくらいです」
「あっ、はい」
「今回は私の用事が主になりますので、御手数をおかけせずともよろしかったのですが」
「昨日の今日だけど、ぶっちゃけ暇だから」
「なるほど。それで若々しいお嬢様が多数寝泊まりしている所で獣欲を満たそうと。御命じ下されば御付き合いいたしましょう」
「ないない。今回はある程度育成中の存在がどうやって成長するのかを見たくてね。俺の成長は効率がいいのかわからないし」
「つまり幼女のミルクのような汗を嗅ぎ分けたいと。素晴らしいです。まさに王の仰せ」
「ないない。1時間ぐらい見学したら、どこか空いてる板間で練習させてもらえれば時間も潰れるよ。あとはせんせ方と賭けごとでもして巻き上げるかな」
「かしこまりました。私は巫女の練習に付き合う必要がございますので御同行できかねますが、申し訳ございません」
「うん、じゃあ行こうか」
「……」
返事の言葉を返さないまま、斜め後ろに三歩下がって影も踏まないように佇む透湖。今日は、フローラル系の香水を纏って冷たい空気の中、袴姿だった。
吉祥色の銘仙に紺の袴を付けており、これから会う少女たちとの年齢を意識した色柄になっている。
透湖の透明感があるかんばせは、他の少女たちに比べても図抜けた眼にとまる存在感がある。少女たちの他愛ない嫉妬を抱かせないためのものなのだろう。
狂の主役は、あくまで生徒たちであるということを暗に示している。
と、なれば。
香水は、女性としての最低限の嗜みとして身に纏っているのだろう。
その細やかな気遣いに、20代の女性が抱える社会の苦労を感じ取り、なんだかほろりとしてきた。
碓井は思う。
なんて男は楽なんだろう。自分も誤魔化すけど、普段からそこまで気を使うほどになれない。
今日も普段着であるネイビーのスーツだし。
そうして考えてみると、透湖の凛とした雰囲気になかなか袴というものはいいのではないだろうか。
わずかな動きの差から、スパッツを着用していることがわかる。
足元はブーツな点がポイントをわかっていると言わざるを得ない。
和装用ストッキングが覗いていることからも、見えないところでは防寒対策をしている。
袴を10cmほど短くして踝より上に上げているところは、袴の意味がないとも感じるが、足さばきが軽やかになって、それはそれで足のラインが……。
余計な妄想を片隅で考えながらも、足はゆっくりと前へ進ませる碓井。
透湖は、碓井の思考など知る由もなく、3歩下がった状態で影を踏まずに続いてくる。
黒々とした樫の木の扉をくぐると、視界が急激に開けた。
ところどころに梅や桜、牡丹などが飾ってあり、女性の空間らしき装いとなっている庭。それもサッカー場のような茂みを作ってある。スポーツ用の茂みはそれなりに値が張るが、やはり国の施設だけあって十分に使用されているのだろう。その中央に鎮座している屋敷も非常に大きい。
3階建てのようで、格式あるたたずまいである。一階は開いた道場形式で庭からでも見渡せるようだ。まだ、誰もいないが2時間前ということを考えれば、それほど不思議がることでもないが。
庭に鶏が放し飼いなのは芝生で大丈夫だったかななど考えつつ、立派な黒檀の屋敷まで続いている石畳を歩き、横引きのドアから中に入る。
(正直、俺がさきに入ったら不審者扱いじゃないのかな)
些細な不安を感じつつ、靴を脱ぎ目の前の柱に掛けられた案内図からどこが関係者用の部屋なのか確認する。
「碓井様、私はこちらですので、ここで一時御傍を離れます」
「ああ、わかった。俺は道場主に挨拶してから顔を出す事になる」
「では、失礼します」
透湖と別れた。
向って右手に移動した碓井は階段を上っている。
この道場に内弟子の形で寝泊まりしている少女たちは3階のフロアを貸し切っているようだ。
この広さなら100人位は常時寝泊まりできるだろう。
二階に上がりさらに右手を歩いて行くと、関係者と立札のおかれた部屋へ突く。
軽くノックをして名前をいう。
慌てて壮年の道場主がドアを開いて土下座する。
面倒ながらもなだめるように話をして、しばしの間、どういった育成をしているのか質問していく。
内容だけ切り取ればなごやかな談笑に思えるが、よく考えれば昨日の悪行が伝わっているだろうし、尋問以外の何物でもなかったことに気付いたのは、2時間ほど質問攻めにしたあと、部屋を出た時だった。
以外とアウトローぞろいと聞いていたから、そこまで気にしなくてもいいかと考えていたが、よく考えなくても荒くれ者はより強い蛮族にひれ伏すものだった。
(失敗。失敗。てへ)
二回連続の手違いには少々危機感を感じたので、脳内でごまかしておく。
これから稽古が始まるということなので、あてがわれた部屋で着替えを済ませる。
やはり管理が行き届いているようで、新品の柔道袴を手に入れることが出来た。
サイズは小さめなので、筋骨隆々の男たちではなく女性用になったが。
軽くシトラスの香水を首筋に掛けて、道場へ赴く碓井。
一方。
透湖は、指導者室で紺色の道着に着替えながら、碓井が本当に少女たちを食い散らかさないか、少々不安を覚えていた。
(そんなに状況を見ない人だとは思わないけど、つい荒れてしまってということがあるかもしれないし。その時は私が身を持って受け止めないと。やったことないけど、どうにかなる……はず。それ専用の術式があることを知って習ったし。家にも、そんなことをしていた歴史があるようだから 、それも覚えた。――イケる!!!)
ふんすと息を吐いて拳を握ると、透湖は時間を確認して慌てて着替えていった。
(それにしても、碓井様は何を練習するのかしら。昨日は片付けする位暴れ回ったけれど、今回も暴れるのかしら。技術ってそんな簡単に身に突くものじゃないと思うけれど、それも権能なのかしら。――そういえば、権能といえば碓井様の背後に新しい呪力が見えたけど、それも確認しておかないと、碓井様本人でも気付いていらっしゃらないようですし。背後の神の憤怒の表情も気にしていらっしゃらないのかしら)
透湖は亜麻色の肩口まで伸びている髪を、青色のゴムで雑にまとめる。
これくらいしないと、少女たちに無暗に敵愾心を持たれてしまうのだ。
自分たちよりも遥かに上を行く存在でありながら、同格程度でしかないというのは、相手もどう対応していいか分からなくなる時もある、中途半端な立ち位置なのだ。自分と比較してしまうから、余計に少女たちは無心でいることができなくなるのだ。
鏡へ向いて、ポニーにもならないぴょこんとつまめる程度の尻尾ができたことを確認する。
集合15分前だったので、足早に更衣室を去っていった。
▲
「憂理!そんな振り方では腕を痛めます!常に肘を脇につけて、肩を緩めるのです!」
透湖の鋭い指導の声が入る。
「はい!」
黒髪ショートの憂理が短く返事を返す。
「もう一度、初めからです」
「はい!」
憂理と呼ばれた少女が、木刀を上段から透湖めがけて振りおろす。
それを、透湖が上斜めに軽く打ちつけるだけで、体勢を崩させる。
「憂理!木刀に振られています!頭も前に出ているので反応が遅れますよ!足運びと腹筋の鍛え方が足りません。ランニング5kmをしていらっしゃい!終わったら、15分休憩して、果物ジュースを用意していますので水分補給も忘れないように!」
「はい、行ってきます!」
憂理が一階の大道場から庭に素足で出ていく。
小石がほとんどないので走ってもそこまで怪我はしないが、慣れていないと非常に痛い。
だが、素足で移動するのは剣道の基本であり、脳の活性化にもつながるのでスポーツ生理学と組み合わせて、古来からの稽古法も練習する必要があるとされている。
(庭1kmを5周するまでにはそれなりに時間がかかるとして、それまでにメニューを変えますか)
思考の一部で、一人一人の稽古法を考えつつ、次の生徒を呼ぶ。
「では、次!玲子!」
「ハイ、お願いします!」
返事を返すと同時に、下段を奇襲する玲子と呼ばれた黒髪長髪の少女。
軽く体勢を崩すとともに、全力で地面をけることで動きを封じる実戦剣術だった。
その攻撃に思い切り木刀を地面にたたきつけることで、奇襲を強引に受け止める透湖。
この奇襲は生半可な防御では刀ごと足くびが吹き飛ばされることもあるので、受け止める方が鉄棒位の意味を持たせることが出来るのだ。
そして、同時に足を持ちあげるだけで顎に蹴りがかすめるので、カウンターにもなる。
脳を揺らされた少女は目を回して、地面にたたきつけられる。
ここで軽く上に跳ねた透湖は、背中部分を踏みつける。
喉が詰まったように息を短く吐き出した少女は、反撃を狙っていた意識ごと闇に引きずり込まれた。
透湖は横に居る救急役の保険医に担架を持ってこさせると、そのまま次の稽古に移る。
呼ばれた少女は一様に強者と対峙する辛さを噛み締めながらも、闘志を衰えさせることなく、3時間の朝稽古は終わった。
訓示にて透湖は簡単に述べた。
「なにより大事なのは、地に足を付けることです。武道でもそうですが、足場がないというのは、なにより怖いことなのです。座ったままでも、足は地面につけておくべきです。あらゆる硬いものに足を賭けるからこそ、全ての事に対応できます。私にとって、それは食事を楽しむこと。神に祈りを捧げること。自身を持つこと。それだけで、あらゆる七難八苦は私のもとをさります。どんなに怖いことがあっても、最後に頼れるのは自身だけなのですから。貴方達も用心することを学ぶように」
「はい!」
「では、解散。後の稽古は道場主の玄武先生が勤めて下さいます」
練習からの解放感に一息つく媛巫女たちの卵。
思い思いに話をしながら、シャワーへ赴く。
その後は昼食だそうだ。
1カ月に一回の予定なので、今回は一日だけの稽古になるそうだ。
毎日練習しているのに、このうえ合宿で何日も厳しく稽古すると、気力が尽きるというのも確かだった。
筋肉痛になるような練習を合宿では行うので、回復に時間を掛ける必要があるというのも理由だそうだ。
そんなことを道場主から聴きつつ、碓井は別の道場で技術練習を受けていた。
「突きを軽く左手で払ってそのまま円回転をさせて相手の背後にまわります。そのまま肘を潰して頭部を落とすと同時に、膝と挟んで一撃で仕留めます」
「なるほどなるほど」
サンドバックを人間大の形に整えたもので、同じように膝と肘で叩きつける。
「ああ、だったらこの体勢から投げることもできるか」
「はい。特に顔が潰れると次の行動が鈍りますから」
碓井はそのまま地面にバックブリーカ―で叩きつける。
「次は何を?」
「ええ、でしたら少々厄介ですが、小手返しなどを練習してみましょう」
道場主はそういうと、徐に頭部が潰れているサンドバック人間を持ちあげて、手の甲部分を指す。
「ここです。小指の拳部分から甲にかけて、およそ2~3cmの部分にわずかに骨がへこんでいる場所があります。この部分を相手と正対したときに対応できる手の親指で押さえます。通常は相手の突きを払ってから、この形に持ち込みます。これが極まれば、片手で相手を制圧することができます」
「ふむふむ」
サンドバッグ人間の手が伸びている部分を掴んで合わせてみる。ひねる。
相手の肘が固まり、肩口にかけて首と体が倒れていく。
「このときに自分の肘をアバラで締めることで、相手に自分の体重がかかるので自分ひとりだけの腕力では、相当の差がない限り逃げられません」
このサンドバッグは内部にそれなりにきちんとしたバネや金属骨格を入れているので、人体の反射に似ている部分を練習することが出来るのだった。
そのまま地面にたたきつける。軽く浮かせることで、さらに半回転させて肩を裏に回すことで、極め。膝を相手の肺臓部分に撃ち込み、同時に肩をひねることで外す。
「これで制圧と」
柔術の技に多い、基本的な小手返しの連続技だった。
その様子を見届けた道場主は、感嘆の表情で碓井を見やる。
「これが羅刹の化身と呼ばれる方の成長ですか。一度伝えて一度で完成するというのは、驚きです」
「単純な殴り合いなら、どうにかなるけど技術体系は習わないと覚えられないしな」
「確かにそうかもしれませんが……いえ、なんでもありません。それでどうなさいます、碓井様。今は12時を回りましたが」
「ああ、そうだな。では休憩ということで、ありがとうございます」
「こちらこそ、修行不足を痛感しました。ありがとうございます」
お互いに礼を返すと、道場主は退出した。
気配が遠くへ行ったことを察知した後、碓井はそのままサンドバッグを殴ることにした。
(やれやれ、教わるのも時間がかかるわ。いっそ羅豪教主とかいうのと殴り合いを所望するのもいいかもなぁ。相手の技術をコピーすることも権能の一部だし)
サンドバッグに素早く左上段蹴りを叩きこむと、サンドバッグが衝撃に耐えられずに横に振りぬく形になった。
砂が大量にこぼれていく床をみながら、そもそも自分の攻撃に耐えられるような練習道具がないことを思い出していた。
「本気で叩くものだ見つからないのは、やばいな」
小声でこの惨状をどうするか考えて、面倒なので何も言わないままずらかることにした。
後に掃除当番の少女は現場の状況を見て、面倒なことになったと溜息をついたという。
その後も稽古は続いていき、一度碓井は庭の方で薪藁を突きながら道場ではどんな練習をしているのか見ると、誰が来てるのかときになっている少女たちの迷惑になるということで、透湖に退出させられるということも起きつつ、終了した。
▲
夕日も沈んでいき、幽明の闇に閉ざされようとしている午後6時。
碓井と透湖は、迎えのリムジンに乗り込んで今後の予定を確認することにした。
「それで、どんな予定があるって?」
「4家の方が会食を望んでいますね。断りの御返事を入れましたが。関わってくることがないように念を押しましたが、下手に格の高いレストランなどですと偶然出くわす形で話を振られる可能性があるので、強引に貸し切りにした旅館を用意しました」
「ああ、それはいいね。冬になったことだし、鍋があると嬉しいけど、あるの?」
「ええ、用意しています」
「うんうん。――それで、本題に入るけど」
「はい」
2車線の国道という、何時もは長距離トラックなどで賑わう場所で、不意に併走車が少なくなっているように感じる。
急にリムジン内部に入り込んでくるライトの量が減ったことで、お互いの顔が暗く輪郭しか映らなくなっていった。すぐに対応できるが、その分のわずかな空気の落差が、人間のにじみ出る恐怖を揺るがしてくる。
碓井は伝える。
「近いうちにまつろわぬ神が生まれる可能性があるということだ」
「……なるほど」
透湖の返事は短く端的だった。
芯の強さを表す目に力を込めて、ただ頷く。
「驚かないのかぁ……結構なネタだと思ったけど」
「予想は付いていました。本題というほどですから、きっとそうでないかと。昨日は御老侯の世界へおいででしたか」
「うん。知られるのもまあ、それもそうかだな。――それで、相手の神格は最源流の鋼だということだ」
「鋼……」
「それについては、実際の兆候が現れてから、改めて霊視とかで確認したい。あと、御願があるんだけど」
「……はあ、わかりました。なんでしょう」
「――スサノオってどんな神なのか、教えてほしいんだけど」
「……なるほど。それでしたか。……複雑な道筋を辿っていますので、正確なルーツは考古学でも比較文化学でも比較神話学でも、決定的と言えるほどの説明は受けておりません。正史編纂委員会でも、出雲の神であるという通り一遍の説明しか受けておりませんので、その点、ご了承いただけますか?」
「うん、取り敢えず触りだけ」
「かしこまりました」
女性にしては少し低めだが甘やかな声は、人から物語を聞く時にはむしろ心地よい位のものだった。
透湖の朗々とした口調に揺るぎはない。
「……まず、記紀についてですが、日本書紀を大事にして考えるべきです。日本書記は日本の正史として、発刊以降はすぐに教科書として扱われましたが、古事記は一部の豪族の間でのみ伝わったからです。つまり古事記は天武天皇の歪んだ陰陽思想と、政治的な偏見で生み出されています。日本書記は対外文書になるために、基本骨子事態はしっかりとして作られているからです。その上に藤原不比等の欲望による異伝が多数付け加えられています」
「あ~確か、藤原氏と天武天皇は敵対したっけ」
「はい。敵対していますが、その力を借りねばならないほどの権力者であり、編纂当時の政治状況も大きく関わってきます。教科書に載っているのは道鏡の宇佐八幡神託事件が有名ですね。皇后と蘇我の権力が衰えるのも、この30年の間の事になります。この事を念頭に置いて日本書記を見ていきます」
「お願いします」
「はい。――スサノオ様はまずインドの世界観である、天地海が平行になった世界観を踏襲しているのは明らかです。これはイマなどが当たりますね。起源自体はそれほど古い神です。山海経にも風神雷神の話もありますしこのころに流れていったと考えてもいいかもしれません。そして、誓約神話です。書紀では明確に示されていますが、天照さまの勝利としています。なので、スサノオさまは海の支配者となります。そして書紀に高天原という概念はありません。なので根の国という表現も現れないのです。古事記よりも書紀のほうがもとの世界観に沿った形で話を展開しているのです」
「高天原がない?」
「ええ。なので根の国の女王であるイザナミの異境訪問譚は別伝に記載するだけで、本伝には最後まで国生みを果たして、三貴士も主催者を決めるためと明確にしています。
――そして、一番の違いは、大国主様の出雲に関する扱いの違いです」
「大国主か……」
予想以上に複雑な経緯を持つようで、ランプの弱い光源と街柱の電灯の明かりだけが、話の空気を和らげる。
眠くはなれない体だが、うんざりしてくる気持ちはどうしようもなく。
その様子を見て、透湖は口元に袖を当てて上品に笑う。
「うふふ、少々長くなるのは申し訳ございません。予定地まではもうしばらくかかりますので、その間の寝物語にしてくださいませ」
「いやー、大丈夫。しっかり聞いてるから」
「くす。……では続けます。大国主様の出雲ですが、書紀での扱いは短くて古事記では長くしています。さらに大国主様がスサノオ様の系譜とするのは古事記だけで、書紀では根の国に行くという件は全部カットしています。続いてタケミナカタ様の件もです
――そして、ヤマトタケルさまです。天叢雲を持つ英雄ですが、悲劇の英雄像は古事記にしかなく不意打ちも古事記だけ。書紀では代わりに景行天皇に戦いを譲っていますので、ヤマトタケルさまは天叢雲そのものとしてしか扱われません。不意打ちもなく7年を掛けた現実的な戦争になっています。確執の問題なども起こっていませんし。徹底してモノガタリの要素を省いているわけです。……大丈夫ですか?碓井様。そろそろ終わりますが」
「お、おう。大丈夫やで」
「纏めますと、やはりインドの世界観を踏襲したのが起源です。そこから大陸の蛇剣信仰を両方受け取っていることになっています。それを書紀で纏めなおしたという所ですね。天叢雲は青銅の剣、鉄の剣、玉鋼の剣の三段階に分けて信仰が上書きされていっている、最源流の鋼と言い切れない不純した逸話の剣ということになります。そして物部氏に負けた神でもある。……こんなところですね」
一区切りついたことを示すように、備え付けのペットボトルで喉をうるおす透湖。
透湖の白い喉が蠢いている様子を横眼で見つつ、碓井はため息をつく。
「――はぁ~驚くなあ。意外と面倒な神格だ。……だからひねくれてるのか。一筋縄ではいきそうもないけど、大体の性格は掴めそうだ。ありがとう、透湖」
「御役に立てましたら、幸いです……そろそろ着きますね。15分ほどで纏める事が出来て良かったです」
「纏まらない可能性があったのか……」
「それは、まあ。細かいところをはぶくのは意外と手間取る者でして」
「勉強になりました」
そうして透湖は、リムジンのスモーキードアで運転席を区切っているので、無線で運転手に泊まるように指示を出す。
旅館らしきモノが見えているが、それはまだ1kmほどの先にあるようだ。
左右のドアから、碓井と透湖が周囲を眺めつつ下車する。
車から降りた二人は、共に並び立って夜風に髪をなびかせている。
冬だというのに生温い風で、リムジンの内部で暖まった体温がゆっくりと冷えていくのが気持ち悪い。
碓井は、リムジンの後部でトランクを椅子にしている。
透湖は、前足底で腰を浮かせつつリラックスした状態で、状況の推移を全力で読み取ろうとする。
その時。
世界が歪んだ。
それほどの錯覚をさせたのは、目の前から10mほどの至近距離に現れて来た、腐乱死体だった。
体躯はおよそ3m。
それほどの大きさではない。しかし腐臭がまったくしないゾンビというのは、ある意味超常現象であることを如実に表しており、実に気味が悪いものだと、碓井は思う。
そして、後続の彷徨えるアンデッドが体をぶらつかせつつ等速3mで歩いてくる。
骨しか見えない形でありながら、筋肉があるかのように動くのは、まぎれもなく誰かに操られているからでしかない。
碓井は、軽く全体を認識するように見やると、ゾンビたちの周囲に魔力の弦が繋がって地面に伸びているのが分かる。
「どうやら地面から生えてきたみたいだ。地下深くにあるのかねぇ、本体は」
「東京の地下と言いましたら、大空襲から続く地下鉄を含めて迷路のようになっています。元凶が上がってくるまで待つほうがいいでしょうね。被害はどれほどになるか想像もつきませんが」
「それが現実的だな。闇雲にさがすことになりかねん」
透湖が碓井のそばに近寄りつつ、返事をする。
碓井がカバーするのにわずかにラグがある後ろを確認している。
3m近くまで来ても歩き続けるだけだったことで、碓井はこれ以上の異変はないだろうと、静かに邪眼を輝かせて消去する。
魔力弦を失ったゾンビは、路上に打ち捨てられたチリ紙になって、ぼろぼろと風に巻かれていった。
舞上げられたチリ紙の行く末を見つつ、碓井は一言つぶやく。
「これ、自然破壊になるのかな」
「この世界に生命があること自体、ゴミの山なのは確かですね。神も私たちも。ゴミのように消えていくんでしょうね……」
「そういえば、日本にゴミの神様がいるんだっけ」
「九十九神から百鬼夜行、そして塵塚怪王ですね。まつろわぬ神になると、神話から外れて生物の山にでもなるんでしょうか」
「さて、何故か人に仇なす方向にむしろ基準がある気がする。異形の生物でも生命活動してるなら、もっといろんな方向に動いてもいい気がするけどねぇ」
四方山話をしつつ、本日の宿泊先まで歩いていく二人。
リムジンの運転手は、ゾンビが現れた時点で、碓井を吹き飛ばして走り去っていった。
▲
宿泊先にて。
夜10時。
鱈鍋を食べ終わった後に、大人の時間が始まっていた。
無論、愚痴酒である。
透湖は宿泊先のバーでかっぱかっぱとウイスキーをがぶ飲みしながら、碓井に管を巻いている。
「大体ですね、私だって媛巫女の座からは引いているんですから、先輩が教えてやれと言われても、いたたまれない間が生まれるんですよ。10代と20代の違いはかなり大きくて断絶している空間があるんですよ。それを玄武先生も青竜先生も分かっていないんですよ。少女という生モノがどれほどの鬱陶しい存在なのか。男性と女性では、それぞれ対応する顔がほとんど違うんですよ。いい子はたくさんいますが、集団になったときには意識が止まるんですよ。わーわーきゃーきゃー言える子と言えない子がいるということを、少し考えてほしいですね」
「なるほど。なるほど」
碓井はそう言いながら、未成年禁止の熱燗を傾けていた。
二人の手元にあるのは、急遽作らせた魚料理だった。
鱈鍋を食べた二人だったが、つまみにするなら魚がいいだろうということで頼んだのが、どうも王であることを事前に伝えていたらしく、用意されていた鮎の焼き魚やウツボの洗い、ヒラメの刺身などが並ぶ。
珍味として、アワビの内臓が出されている当たり、どうも一流の鮨店から取り寄せたと思しき品もいくつか。
内臓は、苦味が強く日本酒とセットじゃないと余り嬉しくはなかったが、内臓特有のとろみが苦みを抑えるので、思ったよりも箸が進んだ。
鮎の焼き魚は、焼き加減がよく塩味だけで食べるのが、食欲をそそった。
白身がほくほくと口内を温める。少し舌で味わうと、ゆっくりと白身が蕩けてくるのが、楽しい。
ウツボの洗いは、うん……なんていうんだろう、洗いで食べる気になれないというか……。
というより、普通に微妙。
これが珍味っていうんじゃないだろうか。
白身だからウナギとかアナゴの味がするというが、ウナギを生で食べてもおいしくないのは自明だった。
腹いせにケチャップを山ほど掛けて食べることにした。
取り分けているものの、山のように積もっていく赤の暴力に、透湖が目を丸くする。
「どうしたんです、碓井様。敵でも見る様な目つきになってますが」
「いや、なんでもない」
赤色に変色した白身を熱燗で呑みこみつつ、ケチャップは不味かった。
――どうしよう。
いや、さすがにケチャップは不味かった。焼いた方がいくらかましだろうか。
そんな気になっていると、透湖が何かを察した目つきになって、徐に碓井の手前の皿を手に持った。
「少し厨房に行ってきますね」
「お……おう」
そうして10分。
ケチャップまみれのウツボは、刻まれてレタスとマカロニのサラダの一部になった。
「なるほど、こうするのか」
「白身魚ですので、棒棒鶏サラダのウツボ版ということにしました」
皿に取り分けて食べてみる。
「あ、おいし。特徴がないから焼くとウツボの生っぽさが消える。それにケチャップと醤油を混ぜることで、サラダが少し和風の味になった。うんうん」
ぱくつく碓井。
やり遂げた顔になって、満足した様子で再び席に着く透湖。
今度はショットグラスにバーボンのようだ。
碓井は、終始一貫して日本酒だった。
未成年だから、余り御酒お酒したものを呑みたくないという、ささやかな罪悪感ゆえだった。
しばし時間は過ぎて、午後1時。
透湖がいい具合にアルコールが回ってきたようで、部屋まで案内する。
何でも体の不調は勝手に体の珠が直してくれるから、戦闘時には勝手に治るとのことだった。
勿論、碓井は酔うことなどない。
ただ、すっきりした感情になる。
本来の酒精というのは、ストレスを軽減するために呑むものだからこそ。
同じ部屋のふすま一枚を隔てて、休息する。
透湖も疲れが取れることを祈るのみだ。
碓井は窓際の蔓椅子に座って、月光浴のまま、読書をすることにした。
――製鉄信仰の分布について。
▲
そうした用事をこなして1週間。
問題が発生した。
▲
――突如、茨城県の犬吠先で剣の神使が誕生したというのだ。
太陽を背にした3m型の人間が、天にめがけて剣を掲げると、とある山に投げ込んだそうな。
その後、姿を消したようである。
これが、今回碓井が赴いている理由だ。
道端に突如死せる生物が生まれたことも、きっとそうではないか。
あらたなまつろわぬ神が出現する予兆ではないのだろうか、と―――。
同行者は桃河透湖だけである。
というのも、桃河家が所有する山の山頂に剣が突き立ったというのだから。
案内役としても、責任者としても適任だったのである。
透湖の父であり現当主の桃河仁は、海外への出張中ということで、今回は同行しなかった。
ただし、タイミングが悪いということと、桃河家の悪評が重なっており、もしかしたら何か関わりがあるかもしれないという話を、内密に甘粕から受け取っている。
事件の誘発要因にもなるし、透湖をそばに置いておけば守ることも看取ることもできるだろうという判断で、同行を許した碓井も碓井だが。
△
街から山のふもとまで、半日ほど車で移動する。
1月になるにつれ寒波が南極から押し寄せたことで、例年にはない雪の積もりぐらいだとか。
雪の重みで揺れ動く枝を引きちぎり、ジープに傷を刻みつけながら、どうにか山のふもとまで到着した。
運転していたのは、技術習得こそしたが実地はほとんど初めての碓井である。
透湖も助手席にいたが、運転による危険に意外なほどしぶとく、涼しい顔色でドアから降りる。
碓井もまた、躊躇せずに、雪の積もるアスファルトに跳び下りる。
軽く腰をのけぞり、山の全体を見やる。
白く肌を染めている山脈は、2000m前後だろうか。
連なる峯の尾根は、神々しい純白の美女を思わせる。
透湖によると、ここからは徒歩での移動になるとか。
媛巫女に特有の亜麻色の髪を風になびかせた透湖は、艶やかな唇を開き、白い蒸気を空気に溶け込ませて、傍らの男に語りかける。
「碓井様、こちらからは徒歩で登ることになります。猿飛びの術…魔術による移動法を覚えておられる方で、およそ1時間ほどかかります」
「へぇ、結構遠いもんだね。2kmならそれほどと思ってたけど、思ったより魔術は有効ではないのかな」
「何分、媛巫女の修行場としても使用される深山ですので、戦後の林業刈り取りの際にも国有地という形をとって、伐採から逃れて来たものです」
「伐採?」
「ええ、戦後は60年代まで民間が保有していた山々は、斜面地での居住を推奨する国の計画や、木材の利益が跳ね上がっていくことで、いわゆる禿山になるまで伐採されたのです。それから50年たって針葉樹林が増えたりで花粉症などの問題も大きく発生してきたんです。今登っております名称も決まっていないこの山は、桃川家と国が保有していたからこそ、現代にいたってなお、霊山としての神域としてあらせられるのです」
「へ~そうだったんだ。そんな山だったんだ」
「そんな山に、まつろわぬ神の痕跡が生まれたとするのは、皮肉なモノですね。まつろわぬ神が地上の精気を吸収すれば、どのみち残るのは荒れ果てた砂地でしかありませんし」
「まさに、煮ても焼いても食えたもんじゃない…か」
「そういったこともありますので、碓井様が山林を生みだすという権能を獲得なさいましたことは、御身がどのような性格・経歴でございましても、民草の魔術師ですら服従を叫ぶでございましょう。不敬な物言いではございますが」
「カンピオーネって概ねそういうもんだそうだし、そこらへんはヴォバン侯爵と同じことやったらキャラが被るのは面白くない。知られている奴らが、世界を破壊する方に特化しているなら、俺は豊穣を与えるという形で従えるのもいいね。舐めたら…いかんぜよ、ということは折につけ云っとかないといけないけど。まあ、それと引き換えに必要な物も交渉して入手できるし、環境保全といえば誰もがよろこびわらわないと魔術師といえど、企業や国家への影響力を維持するのは難しいだろう」
「正史編纂委員会はまた少し勝手も違いますが、お話に聞く諸外国の結社は、とりわけ影響力の維持も必要でしょうしね。お金だけでは作れないモノもございますし」
「そうした所の取りまとめをさせることになるが、よろしく頼む」
「御身は王なのですから、お命じくださればよろしいのです。見返りは御身の風評などを自分で計画することで勝手に頂きますので」
「そうそう。自分で出来るくらいの才能がある存在じゃないと、魔術師との交渉も面倒だしねぇ。俺を利用すると公言できるその気概が、なにより大事なことだよ、透湖」
「恐れ入ります」
「―――にしても、意外と道が悪いな。獣道というレベルじゃない。人の脚が少なからず入っているにしては、おかしな位の自然の険しさだ。ここは桃川家の所有地なんだろう?透湖はいつもこんな道を?」
「いえ……各所の目印はなくなっておりませんが、植生がだいぶ異なっております。今は冬の12月ですが、雪が積もっているにもかかわらず、未だ春の植物などが多数混入されております。ありていに言って違う山に入った気分です」
「うーん、これもまつろわぬ神の影響かな?」
「全体的に春夏秋冬の植物が混在しておりますね………。
三つ葉・竜胆・桃・薊・蕗………どれも食用や漢方にも使用できるものばかりですね。
かつては山菜としてよく食べられた、豊穣の証といったところでしょうか」
「豊穣……はぁー、またかいのう」
「急に高齢者のような事をおっしゃらないでくださいませ。自然環境に影響を与えるのは豊穣神だけとは限りませんし」
「それはそれとして、透湖は体調とか問題ないの?俺は雪崩が起きても死なないだろうけど」
「私も道中での目印含めて、体調を整える準備を致しております。足手まといにはならないように致しますので」
「余計な事を聞きました。……鉄の剣を持つ豊穣神か……それが霊視で生まれた外郭なんだよな?」
「はい、私と特に霊視の強い子たちで行った結果ですので、そう外れてはいないかと」
「そういえば聴いておきたいことがあるんだけど…」
「はい、なんでしょう」
「日本の源流の鋼ってどこから来たんだ?」
「―――あれっ?ご存じありませんでしたっけ!?」
「うん、神も常識として共通認識を持ってるもんだと思って話しかけてくるから、専門用語で話を振ってきてさ、どうにも聴き出せなくって。後援者もそこまで熱心じゃないし」
「左様でございましたか。それでしたら僭越ながら、移動中の無聊を慰めさせていただきます」
「そこまでかしこまらなくても、会話しにくいよ」
「うふふ、申し訳ございません―――では、お話させていただきます」
「はい、お願いします」
△
「まず、日本列島に最初に来た製鉄集団は、砂鉄を操る集団だったということです」
「―――ああ、あの天叢雲とかがそうだっけ。日本刀もその製法だよね」
「ええ、そこに日本刀の特殊な焼き入れによって形状記憶合金の使いやすい武器が生まれました。備前長船はその形式があるそうです。それでその集団について砂鉄分布の形式を調べた結果、樺太からウラジオストック、そしてバイカル湖……そしてタジキスタン付近まで分布していることがわかりました。人口移動も考えますと、それほど外れた結果でもございません。つまり文化の中心地であるトルクメニスタン付近から移動してきた集団のうち、シベリアを通った集団が、日本における源流の鋼ということになります」
「はぁ~ロシアから……ん?七枝刀なんかは百済の好太王碑文と共に、日本に来たというけど、それが源流じゃないの?」
「石神の御社のことですね。それはまぎれもなくサマルカンドからシルクロードを通ってきたものでしょう。それか三国志の蜀が南方に移動したように、東南アジアから流れてきたかです。そして蛇剣信仰は前8世紀から2世紀にかけて、アルタイ地方から移動したそうです。それが八岐大蛇から天叢雲劔を入手したスサノオ様の伝承に繋がります。そういえば、製鉄でいえば白神信仰もその系譜でしたね」
「ごめん、白神ってよくしらないんだけど……」
「ああ、申し訳ございません。日本には当時……つまり5世紀ごろまでに様々な民族が世界中から集まっておりました。そのうちの一つが物部・秦などでして、その民族達が倭朝廷などになっていったんです。白神は秦の製鉄集団のことです。秦・物部は日本に大きな影響を与えます。丹塗りの矢などはよく御社で奉納されますが、それも秦氏の影響とされております」
「ああ、あんな感じの……うん、巫女さんしか見てなかったわ」
「うふふ、大体の方はその視線に気づいておられるでしょうし、事実、委員会にも白と赤の袴こそ日本の美である!なんていう方もおられますね。よく媛巫女同士でうざがっておりましたが」
「あ、そっすか。踏んでもらいたいなんて思ってごめんなさ~い」
「性癖を暴露されても困ります。―――話がそれました。秦・物部は近畿から東北に漂着したそうで、鹿島や香取の御社にもその痕跡がございます。特に物部は百済とも繋がりがあったのでしょうね、蘇我氏との乱の後も、蘇我氏がおびえ続けるほどの勢力を維持し続けて蘇我氏没落後は藤原氏と共に、勢力を残し続けております。現在でもなお」
「つまり、紀元前6000年前位に分派した人類と共に、製鉄集団も円周上に分かれていった。先に日本に来たのはロシア側。次は朝鮮半島………ということか…」
「はい。そのうちの陰鉄剣はギリシャ・ローマで、砂鉄はアジア側で、それぞれ発達していったということです。日本にも陰鉄剣は存在しておりますが、ごく一部の秘蔵品です。巖置信仰も隕石の信仰から続く岩石信仰ですね。日本における鋼の神格が持つ【不死性】は、形状記憶合金の硬さからなるものと考えられます。その細かいところまで気にしている神格はいないでしょうけれど」
「うん、確かにあいつら大雑把だし……いや、勉強になった。それも委員会が教えている知識なの?」
「ええ、媛巫女は委員会とも協力関係にあるという前提ですので、こうした知識を知る必要があります。特に、源流の鋼と目される【天叢雲】【布津御霊】を奉納するのも、媛巫女の役割でございますし。御老侯もおりますのでなおさらです」
「ああ、あいつらか。そりゃそうだな」
「碓井様は直接お会いになられたんですよね」
「うん、面倒だった。あんなのと付き合うのは大変だわ…マザコン・シスコン・ブラコンのトリプル役満風情が……」
「まあ、そのような物言いを許されますのも羅刹の君の特権でございますね」
「透湖もなかなか毒を吐くよね」
「口には出しておりませんわ」
「HAHAHA」
「HOHOHO」
…
……
………
…………
……………
「―――気付いてるか」
「はい、碓井様。後ろから誰か付いてきておりますわね」
「どうする?土地勘があるのはそちらだが」
「でしたら、さっさとムーンウォークで後ろに下がった方がよろしいかもしれませんわね。前にも気配を感じます。殺気がございます」
「うん、俺も感じてるけど、人間の殺気に近い鋭さだな」
「ええ………」
透湖が返事を返そうとした時、後ろ50mの草むらが激しく触れた音を出すと同時に、黒い棒手裏剣が投げられた。
月があやしく浮かび上がる森の暗闇の中で投げるということは、相手に刺さった事も確認できない、諸刃の剣である。
躊躇なく使えるということは、よほど扱いに慣れた存在なのだろう。
人差し指と中指で挟んで受け止めたが、なにか液体が塗られていることから、毒物による暗殺もこなしている集団なのだろう。
それが、およそ20人。
前方には10人ほど、影が浮かび上がった。
透湖も目つきを鋭くしているが、手がかかりそうでもある。
―――なので、とっとと仕留めることにした。
軽く呪力を脚に込めると、指で黒い布をかぶっている顔面を吹き飛ばす事30回。
およそ1秒で終わらせたが………
(感触がない)
泥に指を突っこんだような、ゆるい感触。
人間の感触ではない。
土をこねたあと焼き入れもしていない操り人形のような………
「碓井様、新手が参りました!それに今霊視が下ったのですが、この者たちは神獣が生みだした死者の軍団だそうです!邪眼で消し去ることも可能です!」
「よし、分かった!」
神獣が生みだした程度の軍団ならば、邪眼で軽く眺めるだけで消滅する。
この森で無くなったのだろう死者は、断末魔の悲鳴を叫びつつ、あっという間に消えていった。
闇が渦巻く森の中に、血みどろの化粧をした男と女。
月が照らす雪に浮かぶ血は、あたかも薄紅の化粧を施した、あでやかな美女をながめるかのようだ。
佇む男に女が問いかける。
「碓井様。現在は山の7合目といった辺りです。目的地は9合目の開けた場所との事ですし、少しペースを上げていきましょう。これ以上面倒な事にはなりたくありませんし」
「だな」
「では、参りましょう」
軽くうなずきあった二人は、魔術を使い、天狗のように山を飛び跳ねていった。
△
そうして、山の中腹に来た二人は、件の山の中腹に突き刺さっていたと言う、鉄製の剣が立つ平原に到着した。
碓井は平然としていたが、透湖はやはり地形が変形した道をハイスピードで掛け上げるという動作に、少々気疲れしたようである。
息を整えようとしている透湖の前に立ち、鉄拳と相対する碓井。
平原は、標高3000mの山脈の中腹にあることから、草が積もっている中にも雪がしんしんと降り続けており、雪原の中にある草を見ていると奇妙な寒々しさと開放感を併せ持つ空間を表現していた。
「―――これが、剣ねぇ…呪力は感じるけど、あんまり面白みはないな。この剣が死者の軍団を出したにしては、若干不思議が残る………」
「ハァハァ………スゥッ………。お待たせいたしました、碓井様。かの剣に関しましては霊視が降りておりませんが、報告にあった形状と一致します。細く分厚い鉈のような形状をしていると申しておりました」
「おや、結構早く回復したね。うらやましい体をしている。寒い草原の空気を吸って体に異常が全く生じないとかね。やはり生物として強いというのは妬ましいくらいに残酷な結果をもたらすなあ」
「ハァ…ハア………申し訳ございません…?」
「責めてるわけじゃないんだ。それより、剣が死者の軍勢を生みだしていたのは確かなのかい?」
「―――はい、そのようです。豊穣は生と死を司ることも御座いますし」
「なるほど……。来たぞ!」
碓井が突如危険を示す怒号を発すると同時に、透湖を抱えて右に跳び跳ねていった。
すると、地面から蠢く手が無数に現れて、沈んでいった。
「――――ウォォォオオォォォッォオオオ」
大地の産声にも似た、死者がむりやり生き帰るという矛盾に対する、世界のうめき声。
手が飛び出た後に残った穴から生じる響き。
知らぬものが見れば、気味の悪さに腰がひるむだろう、人間の根源を揺さぶる恐怖。
それは碓井にとっても、視認できないものがいるという面倒くささにつながっていた。
「面倒だなぁ」
ぽつりとつぶやく碓井。
腕には、巻き込まれて栄養分になるとうざったいから抱えたままの透湖。
透湖の表情を見ると、頬を染めるなどという形式にのっとった行動などせずに、死角になる背後に集中して監視している。
そのことに頼もしさを感じつつ、碓井は元凶を叩くことを優先するべきだと考え、剣に向けて睨みつけた。
すると、剣の呪力を元に死者が潜んでいる地下に向けて、呪力の縁が出来ていることがわかったが、その術式は神のモノというより、人の手で歪められているような奇妙なねじれ具合だった。
「―――まあ、いいか」
なにものかが裏に居ようとも、リスクを望んでより高みへ上り詰めることの重要性に比べたら、そこまでのことでしかない。
なので、気にすることなく縁を断ちきり、呪力を消去する。
と。
同時に、地面からの唸り声も消え失せていった。
呪力を失っていったのか、鉈剣もまた徐徐にその威容を薄れさせていく。
剛健と呼ぶにふさわしい形状でありながら、血を吸った形跡が薄く、どこか純粋さと誇りを感じさせる。
鉄の欠片と内包されていた呪力が泡として、空中に消えていくのは、シャボン玉で遊んだ子どもの頃のわずかな思い出の記憶を覗いているかのよう。
束の間の懐かしさに目を柔らかく細めると、山に分け入った時から感じていた重圧を感じなくなったことを理解した。
それは透湖も同じだったようで、温かい肢体に漲らせていた緊張をわずかに緩めた。
碓井は、人の気配であれば、どんなに隠すのが上手だろうと感じ取れる。
トールが使用した霧の権能による、気配を隠す事にすら、わずかな違和感を感じ取ったほどの肌感覚なのだから。
それを知っているからこその碓井と透湖の余裕でもあった。
周囲を一瞥した後、これ以上の脅威は存在しないだろうと判断して、透湖を地面に下ろす。
体重の軽さを感じさせる接地した時の衝撃の弱さに、やはり女子なのだと思う碓井。
天蓋を見上げると、標高の高い山に登らねば、街では意識することも少ないだろう程の、満天のきらめく星空。
闇に金平糖を放り投げたような、壊れやすそうできらきらしている星空だった。
冬の大三角形―――オリオン・こいぬ・おおいぬが南西の空に浮かび上がる、人々の道標。
三角形の中に天の川が流れるさまは非常に美しい。
それまで曇っていたかのように、星の光を感じることがなかったが、こうしてみると美人と共に満天の星の下、山の草原に冬風が流れていくことに、充実感を感じる。
どうやら透湖も同じような意識になったらしく、気を抜かれたように頭上の星を眺めている。
天の川に輝く星の明かりは、かつては人々が営んできた道路も怒りも呪いも絶望も希望もよろこびも全てを見届けてきて、唯、動かない。
その姿こそが、砂嵐のひどい地域でも、旅人にも、世界に住む全ての人々の信仰を移し続けて来たのだろう。
星を見上げながら女子と一緒にいて、とりとめもないことを考えられるというのは、戦い続ける必要のある人生でも、そんなにないだろう、優しく温かく安らげる時間である。
寒い山奥にいるというのに、心が温まる。
星から。
森から。
月から。
大地から。
水から。
空から。
太陽から。
この世に存在するすべてから、祝福されているような。
この世に存在する全てから、慈愛を受けているような。
―――この世に存在する全てから、まるで呪いと略奪を楽しんでいるような。
ふと、わけのわからない感情を覚えて、慌てて顔を振り払った碓井は、傍らで同じようにぶんぶん顔を横に振っていた透湖を見やる。
「―――どうした、透湖?」
「―――いえ…申し訳ございません……突然、変な思考が飛び込んできたもので…って何を言ってるのでしょう、私ったら。電波が頭に来るなんて、そんなことがあったわけではございませんよ!?」
わたわた手を振りながら、テントウムシの電波美女になったという妄言を否定しようとしている。
普段は冷静に見える人間が慌てふためく姿は、とても楽しいものだ。
つい、生暖かい眼差しで見やる碓井の柔和な顔に、少しむかっ腹がたったのか、透湖が口を固く締めて顔をそむける。
時々、大人でも行うことのある、紛れもないふくれっつらである。
あまり、微笑ましく眺めるのもまずいかと思った碓井が、声をかける。
「ああ、いや、申し訳ない。俺も変な思考が出て来たものでね」
「―――変な思考ですか?」
「ああ、なぜか一瞬前まで感じていたこととは違うことを感じてな」
「私は巫女として呪力を自然に端を発する神々に祈りを捧げていました。神々もそれを祝福して下さいました。それが突如、全ての神々よりそっぽを向かれたような、そんな気配を感じました。これでも媛巫女筆頭の一人。神々に殉じる覚悟も組織の中で生き抜くことも、常日頃より怠っておりません。おかしなことなんです」
「―――おれも同じように、世界から呪いを受けたような気がした。なんなんだろうな。同じような考えを同時に得るなんて……さすがに寒かったかな……」
「環境もなかなか厳しいですからね。とりあえず、ミニチュアの小屋を用意いたしますので、今日は休憩して明日に下山いたしましょう」
そういうと、透湖は背負っていた赤色の登山用の40Lバックを下ろすと、ミニチュアの木々で編まれたオルゴールのようなものを取りだした。
いまでこそ、雪が降りしきることはないが、木々が冷たいだろうミニチュアに触れて、雪をかぶせていく透湖に、なにか神秘的なモノを感じるのは、巫女であることを今一度確認したからだろうか。
あるいは、神々であってもこれほどの神秘性というものを感じなかった。
彼ら彼女らは、非常に人間臭く、自分の心に赴くままに、人にとっての災厄でありつづける。
感情を爆発させ、地上を放浪して、自分が歪んでいることに気付いてもなお、歪んだ正義感の下に戯れる。
自然とはそのような制御できない暴威なのだろうか。
しかし、嵐も森も月も人間の手を入れることができた。
いずれ、まつろわぬ神ですらもなくなっていくような、そんな世界が生まれるのだろうか。
手持無沙汰な男が、懸命に働いている女の周りでうろちょろしていることに、つい現実逃避している銀髪褐色の男。
はっきりいって非常にうっとうしかっただろう。
しかし、そんな哀れな男を顧みることなく、透湖は呪によってサイズを小さく・質量もミニチュア並みにしていた小屋を解放した。
体を折り曲げ、招待客をもてなす女主人のように、優雅に入口を示す透湖。
それが当然であるかのように、堂々と入る男。
態度をつくろわないと、さすがに上下関係の示しがつかないと考えていたからだ。
当の透湖には、既に見破られているようだが。
内部は、温かく光が柔らかい。
暖房をどうやって入れているのか分からないが、非常に友好的な魔術であることは疑いえない。
「暖房はどうやってるの?」
「特殊な呪を込めた札を小屋全体に貼っております。羅刹の君であろうと、触れない限りは壊れることはないだろうと考えております。呪力を解放されないようにお願い申し上げます」
「ア―――じゃあ、外で動物でも作ってくるか」
「お願いいたします。外で解体いたしますので」
「―――ん?透湖が……やるの?」
「え……ええ、そのつもりですが」
「鶏だけど…」
「鶏は羽をむしるのが面倒なので、よろしければ牛でお願いします。解体しなくても腹部を切り裂けばステーキになりますし」
「お……おう……じゃ、じゃあ頑張ってみるわ」
「お湯を用意するための電気ポットも用意しておりますので、水を入れ次第、そちらへ伺います」
「はい」
どことなく、先ほどの神秘性と今の発言のギャップに、男の夢を砕かれたような顔をする碓井が悄然と玄関から出ていく。
それを不思議な顔で見ながら、透湖は食事とお湯の準備をする。
△
トールから簒奪した権能は「森」だ。
正確に言うと、森の中に存在する生物を含めて生成することが出来る。
一度生成した物体は、自然物としてのサイクルの中に持ち込まれる、非常にエネルギー保存の法則に疑問点を投げかけている能力だ。
その代わり、多量の呪力をつぎ込む以外は、空気中に有害物質が存在している時のみ、使用できるようだが、現代に有害物質が存在しない地域は、まず存在しない。
はっきりいえば、木々を燃やすだけでも自然物とは言い難いものも生まれるのだから。
それを吸収する能力が、原始の時代にはあったというだけである。
まあ、それはともかくとして、この権能は戦いにこそ使いにくいが、呪力で操作も可能だし行く先々で発動するだけで、神のごとしといわんばかりの歓待を受けるだろう能力である。
なにかを生みだすとは、破壊するよりも難しい能力なのだから。
賢人議会のレポートを見る限りでは、似たタイプの権能を持つ者はいないようだ。
怪しいのは、詳細不明のアイ-シャ夫人と羅豪教主だが、たぶん使うようなこともないんだろう。
つまり、オンリーワンの個性が出来たと、実はホクホク顔の碓井なのだ。
生みだした牛を躊躇なくさばいて肉を用意していた朴葉に包んでいくあたり、もうどうしようもないくらいの野蛮人だが、そのことに気付いていない。
ただの野生人なのかも知れないが、やはり神という毒を呑んで性格が変わったのかもしれない。
そんなことは気にせず、碓井は小屋に戻り、透湖の手助けをしつつ、食事。
透湖は一度来たが、作業が佳境に入っていたので、準備に回ってもらった。
その後は、軽く洗顔ペーパーで体を拭いたあと、就寝した。
△
翌朝。
正史編纂委員会の要請を片づけて、碓井と透湖は帰還したが、正史編纂委員会からの連絡により、事態はすでに計画の最終段階に移行していたことを知った。
桃川家の悲願。日本というまつろわぬ神が生まれない神話の世界観。古老。桃河透湖の珠。そして、まつろわぬガユーマルス。
碓井が戦う敵。透湖は自分の血脈から生まれた怪物に対して、どのような決断をするのか。
神との決戦は、もうすぐだ。
皆、離れて!行くよ、必殺技!せーのっ、デイジービーム!
これが私の、全力全開!SLB!!!
後輩にいいところ、みせなきゃ。ティロ・フィナーレ!!!
らぶらぶびーむ!