カンピオーネ!~まつろわぬ豊穣の王~   作:武内空

6 / 11
第6話

6話。

 

 

 

 

――まつろわぬ神とはなんだろうか――。

 

色々な場合がある。

神話から生まれたのか、信仰から生まれたのか、地域毎の差異を元にして、生まれたのか。

はたまた全部か。

だが、共通しているのは、枠組みから離れて太古の、より荒々しい存在へ立ち戻ることだ。

まつろわぬ神の異様さと面倒くさい部分は、そこだ。

 

特に、女神となるとその内容は多岐にわたる。

鋼に搾取される大地母神か。鋼を殺害する大母神か。鋼の本地である戦闘女神か。人に平和をもたらす慈愛の女神か。英雄を唆す、戦争をもたらす女神か。

 

例えば、ランスロット・デュ・ラックだ。

彼女は女性人格の鋼だ。そして、荷車の騎士ランスロットのようにグイネヴィアと同様に描かれている。

これは、大母神の戦闘女神の性質と大地母神の性質が、名前を変えて分化したことを示しているのではないか。

同胞でありながらも、ランスロットがどちらかといえば、上になる関係。

大女神の戦闘女神の本質が、神話上のより源流に近いからだろう。

ならば、元は一つだった大女神の権能を示しているというべきだ。

つまり、より古いイナンナなどの戦闘女神に勝てないというべきではないだろうか。

劣化した女神であることを示すのだから、権威が上の神に逆らえない。

母に娘は逆らえない。息子も又。

 

例えば、聖母マリアはどうだ。

彼女はエフェソス公会議以前は、民間信仰でしかなかった。

5世紀のビザンツ美術から、キリストの上にいるマリアという図像が生まれた。

南仏のロマネスク様式では、ビザンツ様式をそのまま継承している。

後世では。

北仏のゴシック様式では、マリアはキリストの右手という、高位の位置に居ながら、膝まづいている。

地域毎に文化が変容した証だ。

 

例えば、ラクシュミ―やフレイヤや、アプロディ―テはどうだ。

「戦争を起こす女神」という点で、共通している女神だ。

ビ―シュマやアルジュナ、ホグニ、アキレウスは最高神が大女神の要請で起こした戦争だ。

共通しているのは、自然環境が悪いか、天然痘などの病が流行しているか、などだ。

 

 

ここで主張したいのは、広範囲に散らばる信仰は地域毎の変節をするということだ。

 

 

共通しているものの、地域毎に変化するので、画一的な枠に治めることが出来ないのだ。特に、近代の神になるほどその傾向は強い。

それは大母神であろうと例外とは言えないが、神話という物語レベルでは、むしろ共通している部分が多くなることもある。

 

神話から生まれたのか、信仰から生まれたのか、地域毎の差異を元にして、生まれたのか。

はたまた全部か。

 

だが、大女神は神話の原点だ。

だからこそ、大女神はより太古に逆戻るにつれて、二つの道が存在する。

一つは、戦闘女神というオリエント代表の、自然環境が厳しい地域の大女神になるか。

もう一つは、慈愛の母としての創造女神という、南仏が代表的な自然の恵み豊かな地域の大女神になるのか。

 

これは、男神や鋼では勝てない最高神としての証であるが、生まれた女神の名前によって変化すると言わざるを得ない。

イナンナは戦闘女神となり、天照は慈愛の女神だ。観音は戦闘女神でデメテルは慈愛の神だ。

ドゥルガ―であれば、どうだろう。

彼女たちは、慈愛の女神になるのだろうか。

いいや、ならない。

ラクシュミ―に由来するのであれば、戦争を引き起こす戦闘女神だ。

旋律の女神ヴァ―チュは、『リグ・ヴェーダ』によると、ルドラの為に弓を引くという。

ヴァ―チュは大地母神ではあるが、大母神ラクシュミ―から分化していると考えられる。

ガーヤトリ―も同じ繋がりがある。

 

戦いを求める女神の表層。

慈愛を与える女神の裏相。

後世に生まれたのが、後者であれば、まつろわぬ神になるということは、戦闘女神になるのだと、言わざるを得ないのかもしれない。

そのことを間違えた愚かな魔術師には、神からの天罰が降る。

 

桃河仁のビジネスは、失敗する。

 

 

トールとの戦いの後。

荒れ果ててしまった田んぼの真ん中にて。

正史編纂委員会の面々は、惨状に目を覆いつつも粛々と隠蔽工作を始めていた。

原因不明の大火災が発生したということで、周囲を囲ったあと、雷による火災だったということで、話をまとめる心算のようである。

携帯電話を掛けて対応を準備している甘粕は、めまぐるしい忙しさに、つい現実逃避する。

「疲れます。給料が上がらないのは、ブラック企業まっさかりですね。なんてこった」

恨み事を呟きつつ3徹の頭で計画書を作成している。

 

一方。

 

トールとの戦いに勝利した碓井は、今朝までいたホテル備え付けの病院に放り込まれた。

ヘリや携帯電話は周囲に散らばった電位差が激しすぎることもあり、内部の機械が故障していた。

使用できなかった機械類のために、周囲の被害状況の整理もかなわず、相当面倒な事態になったが、魔術は使用できるために一旦、甘粕が戻って車を用意することになった。

やはり修験道の一派を修めた者である所以か、万一のときに備え、甘粕は一定の空間まで移動できる特殊な呪術具を用意していた。

 

一番近い支部から応援を呼びつけるまで、およそ3時間。

内臓破裂と肋骨骨折・ムチウチ・出血多量・筋肉断裂。

戦闘の代償である怪我の多さに、3時間では治療が間に合わないと、透湖も甘粕も冷や汗を浮かべたが、自分用に巻き込まれたときに使用する薬品を摂取させることで、一命を取り留めた・・・・・・・・・ように、見えた。

しかし、神の体である以上、滅多なことでは死亡するものではない。

透湖も徐々に呆れたように、救急セットを載せたハイヤーが到着する3時間の間に回復していく碓井を見やる。

透湖の足の感触を味わうかのように、頭をこすりつけながら昏倒する碓井。

―――これが、神殺しのバイタリティなのかと感心しながら。

 

病院のベッドで休む碓井。

診察した結果、碓井の体に満遍なく刻まれていた怪我は全て回復しており、単純に寝ているだけだという。

検査入院に3日ほど掛ける必要があるということだったが。

その事実にほっとしながら、病室で果物を剥いている透湖。

なぜ、わけもわからずほっとしたのか、自分でも理解できぬまま。

甘粕は、そんな透湖を眺めつつ、後片付けをするために京都府警や自衛隊に応援を要請しながら、うら若い上司からの言伝を頼まれた時を思い出す。

 

「甘粕さん、早速出悪いんだけど、神殺しが日本に誕生したそうだよ」

「―――はあ、それがどうかしましたか。馨さん。確かに一大事ですが未だ副支部長の馨さんには大して関係のない部類の話では?」

「うん、それが今回の一件の責任を責任を取られそうになった支部長が、4家筆頭の沙耶宮家がおこなったほうが誠意がみえるだろうってことで、僕に押し付けられたんだ。それに伴って、支部長に昇進してね。支部長は南の島に旅行に行って帰らないそうだ」

「―――それは、なんとも・・・。おめでとうございます、というべきなんですかねぇ。私は御免蒙りたいですが」

「というわけで、今回の出迎え役を任せるよ。僕は、会議でオタオタしている老体方を相手しないといけなくてね。引継ぎも終わらせる必要があるし、今回まつろわぬ神が出たときにどんな被害が出るのかを確かめることと、神殺しの対決はどれほどのものか。真贋の見極めもしないといけないんだ。僕は透湖さんに任せようと思うから、桃河家との交渉必要だしね。1週間後に関西国際空港によろしくお願いするよ」

「私、急に用事を思い出したんで、そのお役目は失礼させて頂きます」

「それで、香山碓井さんの性格と傾向・行動原理なんかを探ってきてよ。―――できれば、透湖さんが傍に侍る事ができるかも」

「話を聞いてください。それに、桃河透湖さんが、ですか?……」

「賢人議会からの報告によると、羅刹王さまは性格は安定しているみたいで、変な刺激をしなければ問題ないだろう、だってさ。賢人議会とも友好関係にあるみたいだし、正史編纂委員会も勢力を維持しないといけないしね。あとは、桃河家の強い推薦があってのことでもあるんだ」

「桃河家というと、透湖さんのように優秀な巫女を排出する一方、野心の強い父君が4家に成り代わりたいという見通しもありましたね。連城冬姫さんも巫女の素質が皆無で、あの性格ですしねぇ。お役目のひとつである、神奈川県鶴岡八幡宮のことの管理。福島県貴船・菅原・鹿島神社の管理などは欠かすことのできず、優秀な媛巫女が必要な土地でもございますしねぇ。無理もないですか」

「まぁ、鹿島神社は厳密には連城家の管理ではないけど。御老公の一喝が響けば、その管理は[香山家]が行う必要があるなんてね、面倒なことを仰せ付かっているよね。そういえば、香山碓井さんもこの香山家と若干関係があるんだっけ?」

「古い時代に分かれた分家筋のようですけれど、実は厳密に関係しているのか不明なんですよ。あそこは御老公直属の一門ですし。連城家もあの一族に関してはノータッチ。知っているのは、最高幹部だけ。……馨さんもご存知のことですよね、これ?」

「あはは、部下のストレスを少しでも減らそうとしただけだよ。甘粕さん、薀蓄語り好きでしょ」

「でしたら、今回の―――」

「それは、無理だね」

「ですよね~、……それ、なんです?」

「ああ、これは件の香山碓井さんのレポートでね。彼が倒した神格と、暫定的な権能の名称が乗ってるよ。見てみてよ」

「では、失礼しまして・・・…」

甘粕は、白いテーブルの上に置かれた、A4サイズの用紙を引き寄せた。

2枚ほどになっているらしく、いかにも急遽でっち上げたサマリーとしか思えないほどだ。

ざっと目を走らせていく。

 

 

 

 

 

香山碓井。

今回、新たに発見されたカンピオーネである。

別途、掲載している表に、殺し奉った神格の来歴がある。そちらも参照されたし。

今回は、彼の持つ権能についての名称とその行動原理を簡単ではあるが記してある。

 

権能。

1:至高の人(The one of supremacy)

神の体そのものである。

神の体と神殺しの精神・勘を融合させた権能であり、単体で非常に攻撃力の高い能力を持つ。

人を無意識に従える脅威のカリスマをも内包することから、並みの術者では傍によることも難しいかもしれない。

この権能のために、すでに一流の王と肩を並べるほどの成長を果たしていることも特筆に価するだろう。

格闘においても、非常に優れた成長力を魅せるとのこと。

入手したわずかなコメントによると、格闘技術はおろか魔術師の知識においてすら、造詣を深めつつあるとのことである。

 

2:破邪見正(Seeing the truth)

ギルタブルルから簒奪した、呪力を消去する邪眼である。

あらゆる魔術を消去するので、魔術師は彼に睨まれたが最後、そう心得るべきである。

 

その他にもケルヌンノスを殺めている為に、その部分でも名称が必要になるかもしれない。霊視によると、杖をイメージするとのことなので、ケルヌンノスの携えている槍の能性が高い。クロウ・クルワッハの杖であるならば、魔術の杖のことの源流でもあるウロボロスだ。

魔術の杖は水星のメルクリウスも使うとされるが、この大本はこうした豊穣神。さらには大母神からの継承であることは確かだろう。

我らの母であるマリアの素であるイナンナが、蛇の絡む杖を持つ表象画が存在していることも、その証拠になりうる。

こうした来歴を前提として、簡易的に名称を決定する。

以上から、魔法少女の杖(Cane Fantasia)と呼称したい。

あらたな情報が入り次第、随時更新することにして、一度筆を置く。

 

性格。

一言で言うと、冷静である。

我等の天敵である黒王子と同じく、ある程度の政治力を行使するタイプである。

そのため、基本的に自分の立ち位置を計算するようだが、だからこそ自分の力というものを的確に使用することを知る王である。

交渉においても、自分から融通を利かせるというわけでもなく、ごり押しする癖も見受けられる。

又、イタリアにおいては、中堅魔術結社を壊滅させることもあるので、力を振るうことも簡単に行うことは明白である。

以上から、やはりカンピオーネの一人なのだということを念頭において注意深く対応する必要があるだろう。

手を出せば悲惨な運命が待っているのだから。

 

 

「なるほど~、向こうでも第一の権能はどの神から簒奪したのか判っていないのですね~。とはいえ。魔術泣かせですね、権能は。自分が鍛えた技術がすべて吸収される糧にしかならないとは・・・・・・・・・」

「ある意味、人に嫉妬しているとも思えるけどね。いや、すべてになのかもね」

「ハハハ、カンピオーネが嫉妬するというのは、本当に最悪の結果しか待っていないようにしか思えませんね」

「ま、そこはなんとかなると信じて、仕事に移ろうか」

「―――はぁぁぁぁ。わかりました。給料分は働きますよ。給料分は」

そうして齢13で室長に就任する新進気鋭の新鋭と、くたびれきった25歳ほどの忍者は、それぞれの仕事に戻っていった。

 

「桃河桃湖さんですか~。さて、桃河家についても調査する必要がありますかね、これは。馨さんもそういう意図があるんでしょうし。最近、黒いうわさが耐えませんからね~。給料上がってほしいですよ、ホント」

 

この自分に言い聞かせたような独り言が、正史編纂委員会を揺るがす問題がすでに始まっていたことを示していることは、計画にかかわっているもの意外は、いまだ、誰も知る由はなかった……。

 

 

 

そうした経緯があったとは露知らず、3日後に目覚めた碓井は、正史編纂委員会からの熱烈な歓迎とともに、暫定的ながらも日本の王であることを承諾した。

 

何より、組織を持たないと、天津甕星の再出現に応じた行動をとることができなくなるかもしれないのだから。

無論、そんな秘めた事情など知る由もない、委員会の重鎮はよろこび、わらいを止めることはなかった。

まつろわぬ神が現れたときは、一切の用件を受諾しないとの文面も用意させたにも関わらず。

 

 

賢人議会のプリンセスが描いた図面どおりに、おおよその出来事は消化されていったのだが。唯一の問題は、腹黒姫自身が論の根拠にした宣託の曜日が違ったという、予測不可能ながらもかなりの重大な問題が発生していたことも事実である。

そうした問題が発生したこともあり、腹黒姫といえど若干痛みを覚えるような条件を飲まざるを得なかったのである。

 

―――これで、貸し借りなし。

 

 

 

相手を攻め立てれば、香山碓井の身柄を駆け引きできるほどの情報を送ったにもかかわらずの失態である。

 

その報告を受け取った時の、ゴドウィン公爵家にて。

 

「ねえ、ミス・エリクソン。今回は結局、あの神殺しの王様にしてやられたということなのかしら。勿論、礼を尽くせば、そう無碍にはしないでしょうけれど。主導権はあのイケメン王様に握られた形になるわ。これは私だけのミスともいえないかしら」

本性を映し出しているかの如く、眉間にしわが一本増えたプラチナブロンドの美女は、腹心に愚痴を吐く。

「いえ、姫様。これ以上の深いかかわりは災いを招きかねません。ただでさえ、黒王子めの活動が活発になっておりますのに」

「そういえば、そちらも急務ね。全く、彼がなにをしでかすのか、それを考えると胃が痛むわね。インドネシアの次は、アルゼンチン、かと思ったらインド。今は、カナダだったかしらね。アメリカ大陸はかの守護聖人様の領土だというのに、そこでも災厄が起きそうで困るわ」

「姫様。そうおっしゃいますが、顔が若干緩んでおられますよ。いささか不穏な御考えをされていらっしゃいますね。今度はにがしませんよ。体調も含めて御考えになるべきお仕事がございますので」

「あら、書類整理は終わってるはずよ」

「勿論、黒王子の計画についてです。アナトリア方面にて、ギリシャ神話の神らしき存在が顕現したかもしれないという情報も御座います。そして、それは黒王子の通りがかった道と該当します。そのうえ、顕現した神獣に応じたのか、各地にギリシャ神話の神獣である巨人が発生しているとも言います。いまだ具体的な被害状況が生まれてはいませんが、呪力の塊をどう処理するかを含めまして、面倒な問題になるやもしれません」

「それはそうだけど~。……もう、いいわ。今日はこのまま休みます。いいわね!」

「かしこまりました。我らの姫様」

その傍には、これ以上の災厄の傍らで働かなくてすむようになった、35歳の喪女ことミス・エリクソンが慈愛の笑みを浮かべつつ、姫の秘書仕事をこなしている姿もあるそうだ。

「なんか、嫌な予感もするんだけどね~」

「何がですか?」

「神様が生まれそうというか~」

「そうですか」

「あら、もう少し驚いてもいいのよ」

「あの香山碓井にでも打診すればよろしいでしょう。黒王子とは別の方面に派遣することで対処いたしましょう」

「……そうね。おやすみ~」

 

 

 

そうした経緯を終わらせると、既に、12月の初週になっていた。

ついで、桃河透湖が正式に、香山碓井の秘書として傍に侍る事になった。

委員会の先達どもは、愛人か妾の様に思っているようだが…。

 

その時の一幕。

 

12月の冬空が目にしみる。

朝は、太陽が穏やかながらも空気の冷たさを彩るようなオレンジ色の光彩を振りまいていたが、いまは黒雲におおわれて、寒々しい世界でしかなかった。

水分を多く吸って重くなっているのだろう。

大きく黒々とした雲は、かつては死の世界の具現とされたこともうなづける威容を、空に刻みつけている。

太陽の光を取り入れることができずに、カーテンを引いて明かりをともしている病室509号室に、二人の男女がいた。

 

香山碓井と、桃河透湖である。

 

重々しい空に負けず劣らず、この病室の空気も重苦しい。

なぜか、重装備のリュックを背負った透湖は一言断りを入れると、モノリウムの床に肩に欠けた荷物を下ろした。

体勢を整えると、透湖は背筋を伸ばして何かの要望を伝えたいが不敬にならないだろうかと考えているようなしぐさを取る。

理由は、碓井にはよくわかっていなかったのだが。何が目的なのか、さっぱりわからない。

(……なんで、こんなに空気が重いんだ……)

ノックして来訪した透湖が、なぜか重苦しい空気で入室してきたことに疑問を覚えながらも、暗殺にしては礼儀正しすぎるしなぁ、とも考えていたが。

先ほどから、云うまいか、どうしようか、でもすぐに言わないといけないし。

変な切り口だと、悪印象を持たれるかもしれないし……。

などなど、口をもごもごさせている透湖に、話を促すにしても、切り出し方をどうするべきかなと考えている、結局はコミュニケ^-ション障害の気がある碓井だった。

やがて、決心したのか。

拳を軽く握ると、決意の表情で、ついに口を開いた透湖。

 

「碓井様!」

(さて、何が飛び出してくる?)

「お、おう、なんだい」

「私を貴方のモノにしてください!」

(何言ってんだ、このバカ女)

「言い間違えてるよ」

「ハッ!?申し訳ございません!言いなおします」

「はい、どうぞ」

「この度、正史編纂委員会の命により、貴方様のおそばに控えさせていただきます!以後なんなりとお申し付けください!」

「うん、それで」

「もし、なにか性欲などを催された折には、私が精いっぱいお相手を務めさせていただきます」

(実はこいつ、俺で性欲処理したいのか?)

「そんなのはいらないけど、正史編纂委員会に正式に取り込みをしようということだね」

「そ……そういうことになります……。

しかし、私が御傍に存在することで、正史編纂委員会の権威をもつということで、日本国内でしたら十分なバックアップが可能ですし、

諸外国に際しましても、手前味噌ながら秘書業も経験がございます。それほど御目汚しにならないかと」

「別に、俺一人でもどうにでもなるよ?」

「畏れながらも、貴方様の面倒の解消もさせていただければと。

簡単に接触してくる魔術師に一から対応し続けることも、これから増えてまいります。

そのたびに、時間を取らせることは非常に厄介な事と存じます」

「別に、全部断ればいいんじゃない?」

「断るにも、労力を使われるでしょう。そのご不便を解消させていただきたいのです。

そして、貴方様と肩を並べて、戦いの手助けをするという名誉を頂きたいのです」

「ふむ、名誉ね」

「はい、戦いの邪魔になりましたら、遠慮なく御使い下さい。

それでも、私も勝利を見てみたいのです。

神殺しになられた方が、神に勝利する、その時を」

「なるほど」

「政治に関しては、多少であれば心得も御座います。

御助言できる場面も多いかと。

失礼ながら、今回の件で届いた賢人議会の要求にございました、

香山碓井様の政治的所有権の有無につきまして、

私が処理させていただきました。

許可を得ることなく行いましたこと、申し訳ございません。

御手を煩わせることになることはございませんので、何とぞお許しくださいませ」

(そんなのがあったのか。なかなか面倒なことがあるもんだ。別に正史編纂委員会じゃなくてもいいんだけどね。とはいえ、すごく面白い。これぐらいの気概があると、俺も仕事が省けそうだし)

「――へぇ」

空気が突如色濃くなる。

透湖の発言に、興味をそそられたからこその圧迫感だった。

そう。

今の発言にこそ、心を揺さぶられた。

自分という存在を使ってでも、立場を整えようとする図々しさ。

暫定的ながらも、立場を得た時に自分の利益を増やそうとする傲慢さ。

こちらの面倒を減らす事が出来たという、確かな成果。

自分のモノを奪われるなら、怒りも生まれるというものだが、

この場合は、実態のない自分の傍にいるという、

不確かな利益を、3日のうちに奪い取ったというのだ。

勝利する存在こそが、なにより好ましい。

勝ち抜いてきたということに、心ひかれるほどには、香山碓井の中心を占めているものをくすぐった発言だった。

だからこそ、次の言葉を投げかけられて、より楽しくなった。

「【碓井様は賢人議会、並びに正史編纂委員会のどちらの影響も受けない】ということで合意を得ました。

甘粕さんにも、その旨を伝えておりますので、私を受け入れていただいた場合にも、

私を送りだしてきました方々の要求を聴く必要はございません。

あくまで、碓井様の御気の向くままに動かれてくださいませ」

「――面白い。面白いぞ。いいね、自分を含めて最大限に状況をコントロールしようとするその才覚」

「ありがとうございます」

「しかし、わかっているのか?俺と共に闘うということは、必ず守ってやるなんて絶対に寝言は言えない戦いだ。魔術師としても生きられる才覚があるなら、止めておいた方が身のためだろうな」

「承知しております」

「100人と1人を選ぶときに、100人を選ぶという、人として正しい行動をいずれできなくなる。

つまり、外道に落ちるということだ。

犠牲を少なくするだの、無くなった人間への弔いなんて考える暇はない。

それが日常の世界になる」

「覚悟の上です」

「当然、何かを手に入れることもままならない。勝利だけしか、最後には見ることはできない。その戦いを見届けるのか」

「出来るならば」

「――そうか。なら、遠慮なく使い捨てよう。俺の役に立て、桃河透湖」

「はい、碓井様」

お互いに外道になるという、悪魔と悪魔の契約を交わした二人は、ベッドを境にしてお互いに右手を握りしめた。

(さて、予定はなににするか。とりあえず組み手の相手を探すべきかな)

懸念事項を考えた碓井は、認められたという開放感で胸がいっぱいになっていると思しき透湖に、告げた。

 

 

「ところで、格闘能力を鍛えたいんだけど、正史編纂委員会御用達の道場とかないかな」

「はい?」

(何いってんの、この人)

 

 

 

透湖に、退院後のスケジュールを伝えた後、病室のベッドの中でトールとの戦いを反芻する。

そして、思う。

これから必要なのは、武神とも殴りあえるだけの格闘技術だと。

それは自分がいまだに磨き切れていないところでもある。

どこか、自分の体を最強だと。戦いで鍛えればどうにでもなる、と。

そんなふうに考えていなかったか。

義母の明確に残っている会話の中で覚えていること。

カンピオーネは戦場でしか成長しない。

しかし、権能で自分の体を変質させている碓井に限って言えば、成長性はそれだけにとどまらないと。

変身ではなく、変質そのものである。

この体のスペックをまだまだ自分は意識していないのではないだろうか。

より強くなるために必要なこと。

 

それは。

 

――創造し、考え、信じることでより最適化することだ。

 

一日のうちの、2・3時間どころの話ではない。

本来、人間ではなりえない睡眠の時間も極力削り、神の体を持つことの利点を最大限に利用して、シミュレーションを行い続けている。

心の中で戦うだけでも、通常のカンピオーネの肉体とはかけ離れている自分の権能だからこその、実戦に寄らない成長性。

信じれば信じるほどに、自分が強くなっていくことは分かる。

その過程はとても楽しいものだ。

人間のころに鍛えるときとは、明確に違う、ほんのわずかな時間の区切り方。とらえ方。

 

自分の質はこれだ。

 

最強の体を持つということ。

誰よりも優れた肉体を持つということ。

越えられない壁などはありえない。

訓練による怪我などに、なにも気をつける必要がない。

祈り、願い、信じる。

元来、正しい正拳付きをおぼえるだけでも、通常の人間では1000時間は練習する必要がある。

あるいは、10万回ほど同じことを行うだけでも、徐々に癖は付くが体をどう動かせばいいのかが分かってくる。

右拳を縦に構えて、突く。

これを全力で繰り返していけば、肘を痛めるだろう。

そこで、わずかに小指と人差し指の力を抜いて、中指2本で握るようになるだけでも、全身で突くことが出来るようになる。

あるいは、人差し指にのみ力を入れることで、素早く突けるようになる。

指導する存在がいない場合は、このことに気付くだけでもかなりの時間を要する。

左手をどこに構えておくか。

全身に意識を集中しているか。

脚は不自然に曲がっていないか。

膝はほどよく落ちているか。

腰は背筋を伸ばしているか。

頭は前に出すぎていないか。

そうしたことを総合して徐々に、正しくなっていくのだ。

飽きないこと。疑わないこと。怠けないこと。

鋭く、鋭く、鋭く。

それと同時に、神々に対する知識を得るだけでも、今後の方向性を絞りやすくなるから、特に天津甕星に関する知識を調べていく。

性格を思い出し、どうすれば戦えるのかを、試行する。

 

このサイクルが、成長する神の体を持つという一点で、一秒ごとに戦い方も技術も格段に上昇させる。

元来、神殺しは勝率を作りだす生物だが、やはり、相性次第という場合も多い。

どのように運用するか。

自分の特徴を究めるか。

多彩な手札で攻撃を変えていくか。

罠にかけるか。

 

どちらも自分の特徴を突きつめていくことに注力している。

やはり、勝てるとはいってもあっさりと死ぬことも多いのが神殺しの戦いだ。

自分では勝てないだろう、圧倒的な実力を持つ相手に一矢報いるとは、簡単にいくような話ではない。

近接戦闘主体ならば、身をかわすスキルを含めて、体をいかに使っているかを意識する必要がある。

 

香山碓井の特徴は、体そのもの。

 

出足を封じて接近戦に持ち込むことが本領だ。

腕力で負けるなら敏捷性で負けてはならない。

格闘技で負けるなら、意表を突く。

この原則を忘れることなく、常に自分に刻み込んでいく。

 

――あの神と戦うのに、なによりも大事なことだと思うから。

 

 

 

 

「よかった、何とかなったわね」

碓井との契約を終えた後、透湖は病院を離れ、空きビルの目立つ商店街へやってきていた。

その中では設備が安定している廃ビルの一室へ、非常食を含めた鞄を下ろした。

碓井の病室の床に直接下ろしていたモノだ。

壁はひび割れているが、いかに隠密に優れたものであろうと、超常の能力を持つものであっても発見することが出来るために、わざわざ不便な場所を選んだのだ。

軍用の盗聴器であっても、音の振動を判別するタイプが多いので、外の喧騒が煩く、それでいて壁が割れている部屋の盗聴は非常に煩雑になる。

ひとまず自分の領土へ戻ってきた安堵から一息つくと、敷いてあるゴザの上に寝転がった。

圧迫感のある碓井との会話は、肝が生来坐っている透湖も疲労させるものだった。

「ちょっと大風呂敷を広げちゃったけど、今の桃河家への問題視を考えるとこれぐらいのウルトラCを使わないと、ちょっと生き残れないかもしれないものね。でも、もうちょっと女の子らしく、おしゃべりとかしたいわね」

今は薄暗い雲が水平線までも途切れることなく続いているために、それを眺めるものにもどんよりとした気分を与えてくる。

透湖はいつも薄暗い雲を見ると、睡蓮という花を思い出す。

睡蓮は、暗くどろどろとした闇の中で生まれて、誰よりも美しく咲き誇る。

そして、首が落ちて死ぬ。

雲の水を含んだ重苦しい表情と、睡蓮の根になる泥の苦しさが、なぜかとても似ているような気がしてならないのだ。

そんなこと、だれにもいえないものだが。

ただの自己憐憫かもしれないが、自分の人生も睡蓮のように闇の中で咲いているのではないだろうかと、いつも不安になるのだ。

透湖という名前も、そうして考えてみたらとても名付けた存在が皮肉っているのではないだろうかと、やっかんでいる。

 

私は父が嫌いだ。

私の父は桃河家の45代当主にして、45歳の蟷螂みたいな細い男だ。

父から愛情を受けて育ったとはお世辞にもいえずに、生まれて1年未満で媛巫女として、そして桃河家の独自の立場から、軍事教練も受けた。

生まれてすぐから指を自分の意思で動かす事が出来て、半年足らずで完全に首が据わるという恵まれた肉体。1年で立ち上がって自分よりも重いものを片手で掴めるということは、相当な珍事であり、それに応じた行動だったのだろうと、考えなくもない。

しかし、私が嫌いなのはそこではない。

3年後に、媛巫女としての洗礼を浴びて、格闘技も2歳で始めることで同年代を圧倒する神童ぶりを発揮していた。勉学も立ち回り方も人並外れた行動が可能だった私が父と再会した時。

当年、5歳。

そんな私が、父に感じたもの。

――何かの、道具にしようとしている――。

ただ、それだけだった。

彼が私と目を合わせた時に見える、無感動な目が問題なのだ。

格闘技を一定以上修めた人間が標準的に可能としているのは、相手の眼を深く見ることで相手の人生や行動原理を把握していくというものだ。全体の呼吸を見るだけではなく、相手の心が見えてくるのだ。

仁から見えたものは、無感情。心揺さぶるものがないと実感できるものだ。

この時に感じたのは、相手がどんな人間なのか。そして桃河家はいずれ私を利用してなにか厄介事をするだろう、という確信だった。

それは、自分の腹に埋まっている珠が原因だと。

あるいは彼が、この男が、この家系自体が、望んで生まれて来た意味が全て、この珠を扱える存在を欲しがったからなのではないかと。

この父は庇護者では、断じてない。食うか食われるか、お互いに不干渉で居られれば恩の字である。

私は、この父から貪れるだけ貪って、自分の立場をきちんと見極めて用意する必要があることを実感した。

自分は自分で操るのだと。

なにをしてでも、この父の思惑に打ち勝ってやる、と―――。

行きずりの男に、この身を捧げることになっても――。

(そうした意味では、碓井様みたいなイケメンで英雄みたいな人に捧げることが出来るのは、神様とせめぎあうという栄誉も含めて、とても嬉しいな)

勇者とともに過ごす事の出来る、お姫様という、幼い夢想の世界への入り口。

虹を渡り、天を超えて、地の底へ赴く。

現れる大魔王を倒して、勇者に身を捧げて、愛を誓い合う。

――自分ひとりだけでどうにかなるような存在じゃないのは分かっているんだけど、一度だけでも二人きりで……。

暗闇が押し寄せてきている夕暮れ。

世界の全てをゆるやかに包んでくれる、穏やかな時間。

そんなふうに思えるのも、碓井という男、世界で6人しかいない戦士。そんな相手と生きることが出来るからだろうか。

自分以上の存在に寄りかかることのできる安堵感。自分の立場がようやく安定したことの嬉しさ。温かい。そう、香山碓井という人は、孤独な星のようだ。でも皆も個人も見つめて、優しくしてくれるんじゃないかしら――?

「うふふ」

思わず漏れ出してしまうささやかな歓喜の声。

心が穏やかになるにつれ、眠気が襲ってきた。

各種警戒網を張り巡らせて、体に密着させる形の寝袋に包まれる。

――何かあれば、寝巻型の寝袋ごと動くことが出来るから機動性も抜群で保温も完ぺきという最新式の軍事設備さまさまよ。体型にぴっちり張り付くなのが難点だけど、最新技術はありがたいわ。100万円で済むし。

どこまでも警戒したまま、碓井と関われることを夢見ながら透湖の意識は闇に包まれた。

 

 

 

 

 

 

透湖との契約を交わしてから、さらに1カ月。

1月の初めごろの寒い空気が、世界を満たす。

雪が積もることで悪路の原因になった東京は、交通事故も非常に増加しているという。

そんな中。

正史編纂委員会などとの手続きなどを終えた碓井は、今、東京の道場で修業していた。

 

トールとの戦いで判明したことを克服するためだ。

 

―――自分には、格闘能力で負けると、どうしようもないのだと。

 

噂では、羅豪教主が格闘能力でトップにいるという。

一切が不明な存在だが、権能の一つに「剛力」というものがあるらしい。

曰く、剛力と格闘能力のコンビ―ネーションによる圧倒的な戦闘力を持つという。

曰く、彼女の息吹は、1000里に潜む荒くれ者を吹き飛ばして徳を見せるという。

 

これらの逸話が全て事実だとすれば、なによりの天敵はこの教主だ。

身体能力で負けるほどこの体は甘くないが、そこに至るまでにどれほどの事が出来るのか不安にもなる。

そうしたことを踏まえて、成長できる体に技術を叩きこんでいくことにした。

そして、現在は東京に存在する、正史編纂委員会御用達の日本武術を伝えるという道場に来ている。

なんでも、この道場は撃剣世話係という、戦前までに存在した様々な殺人武術を伝承する場所のようである。

GHQ指導下で殺人要素を薄めていったのが、日本発祥の少林寺拳法や空手・柔道などに分かれていったそうである。

一方で、過激すぎる技と精神を持つ専門家が集まった事により、殺人武術としての洗練さを増していったのが、通称:撃剣会という組織になり、正史編纂委員会の存在を鍛えさせる場所になっていったのだとか。

よくよく考えていったら、戦前と今では、明らかに親殺し、子殺し、キレる子ども・大人の数は、10倍以上も違う。

 

体罰・流血などが許された時代。

 

力ある者が、学校の頂点に立つ。

 

いじめられたものは、死ぬか、別の学校を転々とする。

戦時下では、インドネシアのプンチャック・シラットの要素を再構成した軍隊シラットが、占領地で流行ったなど。

日本の武道に関する過激さを表すエピソードは枚挙にいとまはない。

昔の日本が良かったのは、おおよそ今と変わらぬ、力ある者が生き残ることができる。

弱いものは死ねを体現する世界だったのだろう。

 

明治・大正ロマンという言葉がある。

きっと、明治・大正ロマンは血と呪い、凶器と狂気と狂喜と侠気と虐殺で出来ていたのだろう。

 

人を誰よりも殺した複雑な時代の事でもあるのだから。

そんな時代を主導権もなく過ごすということに、だからこそ平和を求めるようになったのだろう。

ただ、巻き込まれただけだから。

戦うこともできなかったのだから。

だれもが、勝利を願うものなのだから。

 

そんな存在がまつろわぬ神に対して慈悲を乞う。

あるいは、神殺しに対して。

ヴォバン侯爵は300年間の戦いで、孤児から王に上り詰めるという快挙の末に、神殺しになったという。

人を憎まなかったことがないのだろうか。

いくらでもあるはずである。自分に逆らった勇者を永劫支配する、という傾向を持つとは余り思えない。

死せる従僕の檻。

殺害した存在をゾンビとして使役する権能。

人を憎んで神殺しになったであろう彼が、なぜ、彼らの存在を使用する権能を持ったのだろう。名前を覚えて自分を憎む存在を使役して神々との闘争に臨む。

ケルヌンノスを見たからこそ、強く思うのだ。

 

窯にくべて永劫の苦しみを与えてやった方が、自分の強化もできるし、逆らった存在への罰や見せしめになるはずだと。

 

それをしなかったケルヌンノスは、闘争に対して生真面目だった。

 

誇りある、悪魔だった。

 

やはり、ヴォバン侯爵は、どこか人を信じる気持ちがあるように見えるのだ。

力こそ全てと謳う存在が、力で打ち負けてなにが反則だというのだろうか。

自分を省みてからの話ではないだろうか。

 

そんなことを、撃剣会の逸話を聞いた時に思ったことだ。

 

碓井は自分でもある程度分かっているが、学校では体が弱いこともあり、いじめられていたこともある。

いじめた存在が更に強い存在からいじめられる。

そうした光景は、いくらでも学校ならずとも街の中でみることができた。

 

―――人を殺す事がそんなに許されないことなのだろうか。

 

なにをしてでも勝たないと、こいつらは何をするか分からない。

そんな恐怖を元に生き続けるからこそ、体を強くするための理論も学んだ。

スポーツ工学の理論を知るとともに実践していく。

戦わねば。

強くないと、何もできない。殺される。殺してやる。

そうした絶望を持ったまま生き続けるからこそ、自分の立ち位置を計算する必要がある。

なにをするかわからない。でも、生活態度はまじめに。

蝙蝠や変節漢などと思われないように、常に多数派にいる。

問題を常に大きくして、無駄に争うとするならば、地域・PTAを巻き込んだ事件にすることも厭わない。

相手の親が自分の子は違うのだと言い張っても、弱弱しい子どもが勇気を振り絞って告発したのだという行動を取らせるということは、倫理観を持つ大人なら、正義感を刺激されるものだ。たとえ違うのだと気づいても証拠を提示し続ける様な面倒事にまでは話を広げないのも特徴だ。

最初に植え込まれた先入観のままに、会議は決定する。

学校でやりすぎると思ったことに関しては、どんなことをしてでも、しかし相手に危機感を覚えさせて暴走させることのないように。

誰よりも。

誰よりも。

誰よりも。

苦しんでいる相手がいたら、保健室に連れて行き。

一人ぼっちで居る相手に付き合って休み時間を過ごす。

楽しんでいる自分すらも、常に制御し続ける。

自分の感情をより的確に動かすにはどうすればいいのか、計算する。

必要以上に関わらず、多少の金銭で解決できることなら、モノを与えることで感情を和らげる。

少しの話題の提供もできるだろう。

それに関わっている存在であれば、それほど敵視することもない。

または、喧嘩してでも自分を押しとおさねばならない。

変な奴ではなく、あくまで自分が生きていて同様に自分に影響を与えて、危険な存在でもあるのだと教え込まなければならない。

かくして、計算した立場でいつづけるのだ。

 

――科学こそが唯一絶対の真理なのだから、神様を信じるなんておかしい。

 

かつて、同級生にこう言われたことがある。

碓井は、こう思った。

 

―――科学が何をしてくれたんだ……?

 

信じるだけならタダだ。

誰でも信仰を知る機会があるなら、なにか信じていた方があやしい勧誘員にもだまされることは、逆にないんじゃないか。信じるものがないから、そんなふうにカルト宗教にはまって逃げ出せないんだよ。

 

高校に入って別れたあとに知ったところによると、カルト宗教に入ってノイローゼになったという。

有名な宗教に形だけでも信じていますと言えるくらい、考えていればよかったのにと思った。

かつて自分をいじめていた一人だからこそ、腹が立った。

 

―――いつか、ころしてやりたかったのに………。

 

そうした感情を持った碓井は、勝利こそがなによりも大事なことなんだと、ようやく高校生にもなって結論した。

 

撃剣会。

かつて自分をいじめていた人間に近いだろう、力こそが全てを証明している集団。

たとえ性格が立派であるかもしれなくても、魔術界に関わっている警察関係者のなかでも武闘派集団である存在を踏みつぶす事に、なにも良心の呵責を感じることはない。

あくまでもルールにのっとって、相手を殺さなければいい。

―――ただし、死んだ方がましだというような痛みを与え続けるように。

 

そして、自分が磨き上げて来た技術を、暗い意識を持った存在に一秒ごとに盗まれて吸収されていくことに、やがて、絶望を覚えるだろう。

 

―――すべて、俺のために生まれて、そのために生かされているのだと。

 

「ああ、羨ましい。妬ましい。なんでこいつらはこんな無茶のできる体に生まれて来たんだよ。どうして、お互いを傷付けても問題のない体に生まれてこれるんだよ……」

 

道場の板間に正座の状態で指導相手を待つ間に、ぽつりと碓井が小声でつぶやく。

この道場に存在する、血と汗で彩られた数々の器具を見るにつけ、この場所で一体何があったのかを悟る。

笑いながら、お互いをぎりぎりまで傷つけあうことを楽しんでいるのだろう。

それを、きっと彼らと同じくらいにすることのできないものにも、与えている人生を送ってここにいるんだろう。

思えば、魔術師もそうだ。

社会の裏に潜んでいられるなんて、どんな悪いことをすれば、そんなことを許されるのだろう。

経営者として一流で、魔術師としても凄腕。

イタリアにある赤銅黒十字が、その筆頭だと聞いた。

優良企業にも、いくつかの分類がある。

国からの支援も多数入っているからこその莫大な利益を得ている企業なのか。

あくまで自力で成長した企業なのか。

先進国であろうと、ある分野で一位を獲得し続けることは、並大抵ではない。

独占状態にある産業も、実は結構あるが、競争が以上に激しいところでは、そんなことはできない。

1~3位で、それぞれどちらがでるか競い合っている状況が多い。

特にアメリカの産業では顕著だ。

徹底した差別化を行っても、新しい商品にまで結びつかないことも多い。

 

トップを走り続けることは難しい。

 

ならば、経営者が、優良企業を経営し続けるというのは、どれほどの時間がかかるのかということだ。

銀行でも、マネーゲームで利益を出し続けることは、常に可能ではない。

その銀行で、トップがかつて席を離れていてもなお、安定しているということは、どれほどの癒着がそこにあるのかということを物語る。

癒着自体は、国を代表する企業ならば、当然必要なことではあるが、道理に合わないほどの安定ぶりは、その枠を超えたぐだぐだっぷりがあることを示す。

間違いなく、魔術師同士のネットワークは、通常とは異なるレベルの癒着と合意が存在しており、その中に食い込めない企業は相当な不利益を得ていると言えるだろう。

 

平等など、とんでもない。

 

だれよりも利益を得ている集団だからこそ、その権益を守るためと嘯き、世界の秩序を安定させると言い訳して、利益を貪っている。

賢人議会をはじめとして、正史編纂委員会も、だ。

 

魔術師とは、そのレベルの、客観的に見た悪党の職業だ。

 

 

ぶっちゃけ体よく使っているわが身としては、そこまでのいちゃもんは付けないが、だが、武道の試合では違う。

断っても断っても、逃げても逃げても。

追い詰めて叩くことを指導とする道場での、行いならば。

魔術師で技術指導をする雄の群れ。

遠慮なくぼっこぼこにして、泣いたり笑ったりできないくらいまで、追い詰めてやる。

 

改造してやる。

調教してやる。

意識を失ったらどうしようもないが、手加減の特訓にもなる。

繊細な技術には、力を入れるポイントも合わせる必要がある。

足茂く通って、弄んでやる。

そう、これは全世界の暴力におびえる人間を代表した正しい行いである――。

そんなひねくれた妄念を抱きながら、静かに腹の奥で気を整える碓井。

そんな碓井に、声をかける甘やかな声。

桃河透湖である。

 

「碓井様、そろそろ試合でございます。よろしいでしょうか」

王に見せるということで張り切っていた演武が終わったようだ。

「ああ、始めてくれ」

「はい、では青竜先生の模範演武です」

中央に佇む壮年の男性が、青竜という存在らしい。

周囲を囲んでいる存在に一礼すると、無手の型を披露するようだ。

「ハァっ!」

裂帛の気合と共に、高速の右突き。

左外払い受け。

腰を落として、手刀受けからの内腕受け。

両手で観空の型。

右開手と蹴りを同時に放つ。

体重をためて、下段打ち。

左足刀と共に、右手刀打ち。

それを左右交互に軸がぶれないように。

最後にもう一度、気合を吐くと、中央で礼。

(なるほど。素手なら、確かに神と競うこともできるか。無手の神なんて普通いないけど)

正史編纂委員会の指南役の腕を確認した碓井は、簡単なシミュレーションを脳内で行っている。

その間にも、模範演武は続き、そのあとは、二人同士で10分間の自由組手になった。

 

となれば、相手を指名するしかない碓井。

なので、差し出がましいように、自分が手伝うという透湖を尻目に、

道場最強の存在との演武とした。

 

「お願いします」

「お願いします」

お互いに道場で構えた二人。

中央を貸し切っての組み手に、周囲のモノも固唾をのんでいる。

碓井は合掌の型で構える。

青竜は手刀構えの基本構えで動きやすくする。

「……」

無音のままで手刀打ちを繰り出してくる青竜。

その手に全く同じタイミングで、打ち返す碓井。

冷静に、右手で払うと、足を変えて右の正拳突き。

これも同時に返す碓井。

お互いの道着に拳が寸止めで当たると、目線を切って、唐突に腕絡みからの関節技を仕掛けて来た。

 

腕か首のどちらかを守る代わりに、どちらかを犠牲にせねばならないという、柔術の投げ技の一つだ。

 

もとは甲冑を着た存在に対して有効な技だったという。

 

その技に対して、即座に全身の力を抜いて、拘束を外した碓井。

そのまま、体勢を崩した青竜へ、まったく同じように腕絡みをかけて落とす。

狙う場所は、足で三角形を造った時の中心部分だ。

体勢を大きく崩しやすいポイントであり、一度崩れると力を入れにくいのだ。

その原理通りに、手を引かれた青竜は、肩から板間へ向けて顔をぶつけようとしていた。

わずかに大きく手を引くことで、かろうじて受け身を取ることに成功したが。

代わりに、筋をたがえる様な無理な体勢で受けることになってしまった。

軽く呻いて、肩を押さえようとした青竜の顔に、下段突きを寸止めで入れる。

「一本!」

審判である透湖の声が響く。

どよめきながらも、青竜に肩を貸す道場のモノ。

それを見やりながら、全滅させるまで組み手を続けようと、声を上げる碓井。

「次!」

神殺し何するものぞという血気盛んな青年が立ちあがった。

合図もそこそこに、跳びかかってくる。

その突進に軽く指を掛けると、後ろへ放り投げる碓井。

腰を落とした、見事な隅取りの形になった。

数百m跳んだ青年は、道場の壁に激突して気を失った。

「次!」

210cmを超える巨漢は、正面からの中段突きで悶絶。

「次!」

廻し蹴りを仕掛けて来た相手には、そのまま半歩でて、足を取った。

そのまま、金的と首に手刀を手加減して撃ち込み、気絶した所の腹を踏みつける。

血を吐いて動かなくなった彼は緊急搬送された。

「次!」

若干震えながら突きこんできた190cmの大男は、殺気を受けたことで、精神に異常をきたし失禁しながら退場。

「次!」

三人で来た存在は、碓井に突撃を掛けると同時に、三人でぶつかり合って板間に思いっきり叩きつけられた。

そこに空中で一回転した碓井がぶつかってきて、三人がアバラを折った。

「次!」

残りの戦意の残った存在は、突き蹴りで壁にぶつかって刺さりながらぶらさがっているものが多数。

関節を決められて、山のようになって呻いているモノ。

一番使いやすい大きさの存在は、関節が全部あらぬ方向に曲がり、最低限の生命維持機能を残して、失神していた。

 

死屍累々の山を造った碓井は、若干顔色が悪くなった透湖の視線を気にすることなく、見事に晴れ渡った青空を眺めながら、喜色満面に宣言した。

 

「あ~、すっきりした!」

 

そうして、道着からジャケットにジーンズに着替えて、透湖が医療班への連絡をし散るうちに、バイクに飛び乗って消えていった。

この時の彼は、御老侯と呼ばれる日本を裏から牛耳っている存在のもとへ呼びだされていたのだ。

ご丁寧に、風の精霊を伝令役に仕立てて。

御老侯筆頭の巫女は、今回は山での修業により不参加だという。

そのために、近所の公園に特定の術式である、「八雲立ち」という儀式を行うことで御老侯が道を開くのだそうだ。

吹き付ける風は、さきほどまではれ上がっていた空が、暗雲に包まれようとしていることを示しているように、冷たい季節による人間の天敵であった。

 

そう、子どもの頃は、こんな風にも体が怯えていたのだ。

はっきり言って、冬が嫌いだった。

冬の朝がどれだけ神秘的であろうとも、神様の慈悲は僕には届かないのではないかとも感じていた。神様にも両親にも見捨てられていないから生きていられるけれど、感謝の心を伝えることが出来ないほど、冬の空気は体を蝕んでいた。

はっきり言って、子どもの頃の記憶はこうした世界と両親への恐怖と感謝の気持ちぐらいしか、感情が見当たらない。

だから、パノラマのように、風景を思い出しても、そこにある感情は「辛い」だった。

自分が覚えていることを、自分だけがはっきりと情景が浮かび上がる出来事もあれば、みんながよく覚えているのにあたしだけが忘れていることもある。

俺が思うに、風景写真というのは、その時の自分の感情がどうだったのかを味わいつくすものではないか。

店に売られているどこかのビーチを映した写真に興味が持てないのは、きっとそんな感情が生まれないからだ。

そして、感情はある程度のパターン化がされている。

その色を見極めることが出来るのであれば、どこにいても一緒なんじゃないかなとも感じる。

世界は、感情で色を変える。

もっと、自分にどんな色があるのかを知っていきたい。

神々との大戦は、天津甕星との競い合いは、きっとそうした色を見せてくれる。

戦った神たちとのせめぎ合いは、心を波立たせてくれた。だが、まだ足りない。

もっと戦って、勝利して。

その時、俺は自分が生きている意味を理解できるのだ。

 

公園に到着する。

ラミネート加工された魔方陣に、血文字で呪文を書きつけていく。

すると、天侯が悪化していた空が嵐の前触れを思わせる雲を増殖させていったのだ。

――まるで、神様が現れるかのように。太陽に覆いかぶさって。世界を犯して、現実をゆがめる。心身ともに、強力な神の気配が周囲に滲んできたことを感じ取って、呪力がみなぎってくる。わずかな気だるさが消え失せていく。モチベーションが高まっていく。

「ははーん。御老侯がどんな神なのか、分かってきたわ。ふん、日本の英雄神ねぇ」

その声が引き金になったかのように、魔方陣が黒白の円環を描いて、不思議の国のアリスのように、異世界への道標となりはじめた。

遂には、雨音が流れだしてきており、雲の結界が破られたことを示す。

不思議を調べることができるという好奇心の充足。

謎を追い求める人間に特有の、変質的な目線。

自分のルーツを求める旅というのは、このように明確な上位者が伝えることなんて、ほとんどない。手探りで調べるしかないのだから、どのような結果が待っていようと望外の幸運というべきなのだろうか。

一回でどこまで話が出来るか分からないが、きっと有益なモノになるのだろう――。

そうした感情が沸き立ち、碓井はほくそ笑む。

笑ってばかりもいられないので、行動を始める。

「嵐と共に去りぬ、なんちゃって」

軽口を叩きつつ、躊躇することなく、渦を巻く道に飛び込んで行った。

あとに残ったのは、ただの泥と靴痕だけだった。

 

 

 




( ゚д゚ )彡< 白いバニースーツを着た魔法使いが、ピンヒールに網タイツ穿きの完全武装の下半身を誇示するように歩いてくる。
鮮血を思わせる少し黒みが入っている赤のピンヒールは、夜の街で働いている存在しか使わないと思っていた。
しかし、その穏やかな物腰はむしろ茶道をたしなんでいるような上流階級の姫君や王子様を思わせる。駅線のコンクリートの床を音を鳴らして歩くさまは、自信とカリスマに満ちている。
その特徴はというと、まず、目に飛び込んだのは、大理石を思わせる白磁の肌だ。何がしかの香水を身に纏っているのか、上品な芳香が、鼻をくすぐる。恐らく白檀だろう。少々、流行に沿っているとは言い難いが、気品ある素振りには、むしろふさわしいだろう。
身長は、210cmを超えているであろうか。腹筋と背筋が凄まじく盛り上がっているために、身長の高さをさらに強調している。

髪は、黒髪だ。風になびく腰まで届く黒髪は、丁寧に解きほぐされていて、波立つ波濤の先を見通す事も出来るだろう。
その美貌はどうだ。
安定しているその眼じりの柔らかな印象といったら、通り過ぎていく草原の風を浴びている、サナトリウムの病弱な姫であるかのようだ。蒼の眼に見つめられるだけで、得も言われぬ衝撃が伝わるだろう。
口元は、優美な丸みを帯びており、新月の後、待望の三日月が生まれだした時の喜びをも内包している。その鼻の高さといったら、顔の周囲のバランスのよさを最大限に整えているので、欠点が見当たらないと言わざるを得ない。
なんといっても、胸だ。
筋肉で盛り上がっており、一般的な成人女性をはるかにこえるボリュームが、そこにはある。
その胸に抱かれるだけで、人は幸福を覚えるとともに、絶頂するだろう。どこにいくのかは知らないが。

日本の総武線に来る電車に座っている自分との、莫大過ぎる非日常感に、口を開き呆けるしかできない。周りの汗を拭きつつ乗り込んでいた大人が皆、目を合わせたくもないというように、中央のドアから、鉄板の入り口を捻じ曲げつつ強引に入ってくるものを境目として、左右のドアから、一斉に整然と退出していった。
取り残されたのは、見捨てられた、小学生の自分だけ。

――詰んだ。

そんな感情がふいに飛び込んできたのは、やはり目の前に立つ300kgを超えているであろう重量の、強大な圧迫感ゆえだろうか。
本来は、将棋などで玉将が飛車角の大群に囲まれているときなどに用いられる発言が、そのまま次の瞬間には何も親に残せずに潰されて人肉ハンバーグになる未来しか想定を許さず、選択肢が残されていないからだろうか。
気付けば、汗ばんでいたはずの皮膚の汗腺から、一切のアンモニア臭を生みだす液体を噴き出す事もなくなっていた。決定的な落差というものは、自分が生きているのか死んでいるのかすらも判別できないほどの、本能的な停止状態という、生物的な擬態を人が残していることを示している。
余りにも発達した胸板。厚い腕。シマウマさながらの、異常発達を遂げた脚線美。猛禽類さながらの、生爪などを剥ぐことなどできようはずもない、獲物をとらえるためにだけ存在している、全てを切り裂くだろう、節くれだった指爪。そこに赤くマニキュアが塗られているのがとても印象的だ。
いいや、他にも目立つ要素がある。
岩窟というものを見る者に痛感させる、角が立ちすぎているとしかいえない強面顔。一回掘削してからにしないと、猥褻物陳列罪で警邏に捕獲されるような印象を受ける。
乳首がうっすらと透けており、白の布地がどれほどの節約をされた装束なのかと、まるでかの名作『フランダースの犬』を涙を浮かべずに思い出さずには居られない、人の目線を余りにも惹きつける、魅惑的な衣装。
そんな存在が、目の前に居るか弱い少女の視線を感じて見下ろすと、にっこりとほほ笑んだ。
「怖がることはありません、わたしは神官です。人と人の仲介者なんですよ」
そう嘯くと、魅力的な乳房を開いている扇情的な胸部から、おもむろにおしぼりを取りだした。
軽く布地を広げると、少女の汗の残滓を丁寧に拭き取っていく。
「絆を繋ぎ、縁を結ぶ。これが私の使命であり、役割です」
「そう、わたしは人の心に偏在します」
低いバリトンボイスの色気に、ふと少女は訪ねてしまった。
「――あ、あなたのお名前をお聞きしても……よろしいでしょうか」
私の言葉を待っていたかのように、この者は誇らしげに胸を張り、堂々と告げた。
「わたしは、アテナイがオリュンポスの救世主、ディオニュソス。――この世界に、愛を探しに来ました」
「変態は十分です」
ディオニュソスが、はちきれそうな胸襟の間におしぼりを放り込むと、今更澄まし顔を作った。
「承認します。あなたが、私を【ローマ】まで導くことを」
「話を聞いてください」
そうして、二人は道を外れる。少女はどうやって空港付近で降りることが出来るか。神は、世界に愛をばらまいて、人々の心をつなぐかを。
運命が人をいやおうなく連れ去るかのように。

それは海からやってきた。
夜明けの太陽と共に、50m以上の生物が浮かび上がってくる様は、あたかも深海魚が水底から這い上がってきたという、原初の生物としての生存競争を表しているようだ。
這い上がってきたのは、コンクリートと石畳が混在している場所。
その怪物は、目から赤外線のように目には見えない赤い糸を、そこらじゅうにばらまきはじめた。
まず犠牲となったのは、お台場のデートスポットに居た、20代前後の、何かと道を踏み外しそうなカップルだった。なので影響下に囚われてしまったことにも気付かなかった。
栗色の髪をする少女は、金髪の男性に人目もはばからず腕に抱きついている。
男性も女性と共に歩くことがとても楽しいのだろう。終始笑顔である。
今日は、お台場で朝日を見届けようということで、お互いのテンションも高まっている。
実は、男性は今日、結婚をプロポーズするつもりだったのだ。
すでに懐には、高校を卒業してから3カ月の給料で溜めた貯金をはたいた指輪を忍ばせてある。
女性も何か勘づいているようで、そわそわしている、何とも幸せいっぱいの【愛】されるべきカップルだった。
だから、犠牲になった。
赤い魔力弦が二人を繋ぐ。
二人の眼はお互いを情熱的に見つめると同時に、この【愛】を世界中に届けることが、この世界に生を受けた意味であり、自分たちが結ばれる道なのだと悟った。
奇妙で不可思議な愛に包まれたまま、二人の愛されたカップルは、道行く人に視線と笑顔を振りまいていった。
そして、視線と共に魔法は感染した。感染する人が増えるほどに、吸血鬼が人を同族にする、理論上7日で地球上から人類を無くすだろうほどに、感染速度を亜拡大させていく。
海岸に怪物が出現してから、わずか5分でお台場が汚染された。
その段階で、正史編纂委員会もようやく異常を感知した。視線に冒されると同時に、精神を強制的に解放させるという、まつろわぬ神か神獣にふさわしい愛の侵略だった。
対抗手段を持たない人間にとって、これもまた一つの神に屈するべき出来事でしかなかった。

しかし、通常ではフジテレビも近いこともあって、警察による警備体制も万全である。
ならば、ここは既に何かが違っていた。

男と男のカップルのようだ。
偶々、道端ですれ違っただけの、なんの縁もゆかりもない者たちだった。
それが今では、愛を確かめ合うために、全裸になって身の潔白を証明する、妖しくも険しい道をたどろうとしていた。
オレンジ色のニット帽を被った、やんちゃめいた若者はこう叫ぶ。
「産め。俺の子を!」
「さあ、来い!」
受け入れる準備が万端なようで、すでに相方は臀部を上に向けてドッキングによるユニゾンの着陸態勢を完了していた。
その周りでは、大小さまざまといわずに、むしろ同性同士の恋愛が多いようだ。
タイミングを周囲と合わせて、同時に狙いを定めて声をそろえるさまは、見事な教会の讃美歌でのコーラスを聞いているような、法悦と呼ぶのだろう、人の持つ可能性と神秘性を肉の体に響かせてくる。

封鎖されて交通の便が途絶えたレインボーブリッジ。
車がいなくなり、広々としているはずの橋は、いま解放されたら戻ることのできない愛憎のブラックホールと化していた。
この先に行けば、なにものであろうと、愛から逃れること叶わず。
〈救援頼む、救援頼む!もう駄目だ。俺達も引きずり込まれそうだ。嫌だ、あんなとんちきな愛なんていらねぇ!俺にはカミサンがいるんだよぉ!〉
[こちら管制室。返事はこうだ。イって来い。繰り返す、イって来い]
〈ああ、わかったよ!ぎりぎりまでネバリャいいんだろうが!fuck off foolish GOD!!!〉

その中を一人の若い男性が行く。
銀の髪を海風になびかせて、黒い道着を着込んだ、少年のような人間だった。
いや、人間とは言い切れないのはその存在感が違いすぎるだろう。
大群が迫り来ているかのようなそのプレッシャーは、愛をばらまく装置でしかない深海魚ですらも、目線を向けざるを得ないものだった。
その赤い弦を輝く蒼玉で打ち消して、なおも無人の野を行くがごとく。
やがて、橋をふさぐ車両群と、〈愛〉を叫んでいる群衆が見えて来た。
「愛は、正義だ!」
「愛が世界を救うんだ」
「愛はヒトの争いを止めるんだ」
「愛を!愛を!愛を!オオ、神よ。わたくしどもに愛という最大の試練をお与えくださいまして、ありがとうございます!オオ、グローリアス!今こそ、神は来れり!」
赤い魔力弦を放つ愛の亡者たちは、この桃色の魅惑あふれる世界へ、いまだ愛を知らない存在すらも飲み込もうと、正史編纂委員会の人員だけでなく、橋を封鎖している自衛官にも群がって服を剥ぎ取ろうとしている。
「止めろ、止めろ!止まらなかったら、撃つぞ!」
「私の腸にマジカル☆シューティングだって!?いいぞ、その調子だ。そうやって世界に愛を広めていこうじゃないか!もっと、愛を!もっと、愛を!病のように!」
「ぎゃぁぁあぁぁぁぁああぁぁぁ!!!」
そうして勇気ある自衛官がまた一人愛に呑みこまれていった。

――そう……今では、この場所ならずとも、世界中で同じ現象が起きようとしている……。
人と人をつなぐ、不毛な愛の儀式が。ソドムとゴモラの都市のように。

これは、神が起こしたものなのだから。
海から浮上した生物は、「インコウマイト」。
かつて海の底に封印されていた、【愛と絆】の神獣である。

自分が間接的に関わってしまったことに対する余りの惨状に、空いた口がふさがらないどころか、目線をそむけて目を覆うほどに痛い、【愛】という人に残された最後の力。
自分の傍らで、目を覆っている少女の背中を優しく撫でさすっている男は、優しげな風貌を崩すことなく、目線を上にあげて、碓井にこう言った。

「私は、デュオニュソス。――この世界に、愛を探しに来ました」

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。