天才兎に捧ぐファレノプシス   作:駄文書きの道化

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「……ふぅん?」

 

 

 空気が最悪だった。

 ここは戦場か、はたまた地獄か。この空気を生み出しているのは一人の少女。その様、この世に生まれた恐怖の化身にして、檻から解き放たれた猛獣。その名、凰 鈴音。

 鈴音は菩薩のような笑みを浮かべ、この場の空気を侵していた。IS学園入学2日目。今日もIS学園は修羅場が生まれている。ハルは思わず視線を逸らした。

 

 

「……一夏? その腕にひっついてるのは何?」

 

 

 鈴音は問いかけつつ、一夏の腕を見た。一夏の腕に自分の腕を絡ませているのはクロエだ。その姿を見た瞬間に鈴音の瞳から光が失われたのをハルは見逃さなかった。最初は虚ろに一夏を見ていた鈴音だったが、一夏が光速の如き速さで鈴音に事情を説明し、今に至る。

 ちらり、とハルが視線を移せばそこには無表情の箒がいる。まるで能面のようだ。こちらは鈴音とは真逆で一切の気配を感じない。先日からこうなのだが、誰もが恐れて話しかけられない。あの束でさえ躊躇う程だ。

 どうしてこんな事になったのか説明して欲しい、とハルはクロエを見て思う。先日の一夏の説明じゃ要領が掴めないし、クロエの説明も抽象的で具体的には何が起きたのかわからないと来た。

 ちなみにラウラはいない。ラウラは既にシャルロットの下に人生相談に向かった。僕も行きたかった、とハルは舌打ちをする。これも逃げるタイミングを見失ったのと、一夏が行かないでくれとハルに懇願したからだ。足を止めてしまったからにはもう逃げられない。

 

 

「……えと、そのお怒りを鎮めて頂ければありがたいんですけど……?」

「何言ってるのかわからないわね? 人間の言葉を喋りましょう? 一夏?」

「喋ってるよ! 思いっきり日本語喋ってるよ!?」

「不思議ね? 今のアンタの言葉は全部“殺してください”にしか聞こえないわ」

 

 

 それは君の願望なんじゃ、とハルは思う。このままだと世界的に貴重な男性IS搭乗者が血祭りに上げられる可能性があるのだが、ハルは正直関わりたくない。

 

 

「鈴、その――」

「……はぁ」

 

 

 すぅ、と。鈴音が息を抜いて肩の力を抜くと鈴音が放っていた威圧感が消える。肩すかしな程に小さくなった鈴音。彼女は呆れたように一夏を一瞥する。

 一夏はまるで叱られた子供のように身を震わせて鈴音を見た。暫し鈴音と一夏の視線が絡むが、再度大きな溜息を吐いて鈴音は肩と頭を下げて脱力した。

 

 

「お、おい、鈴?」

「うるさいわね。わかってたわよ。いつかどうせこんな事になるんだって。こんなに早いなんて思ってなかったけど」

「う……」

「良いわ。それでもあんたを好きにさせるって言ったから。……だけどちょっとパス。あぁ、頭痛い」

 

 

 ふらり、と鈴音は教室へと戻っていった。一夏は何も言えずにその背を見送る。続いて箒が教室に入ろうとする。

 

 

「……馬鹿者め」

 

 

 小さく一夏に囁くように告げて箒も教室へと入っていく。一夏は二人を何も言えずに見送っていた。何かを言いたげに、しかし自分でもどんな言葉を告げれば良いのかわからずに。

 当然の結果だろうな、とハルは一夏を見て思う。そして視線をクロエへと移す。サングラス越しに隠された瞳は彼女の感情を隠してしまっている。

 

 

(……クロエ。本当にどうしたの?)

 

 

 クロエらしくない。何かがおかしい。けれど何がおかしいのかが掴めない。言い様のないもどかしさにハルは眉を寄せた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

(……これは全員集めない方が良いかな?)

 

 

 授業中にハルは昼食の事を考えていた。先日のノリで弁当は作って来てしまったが朝の調子を見ていると、あの気まずい空間に自分から飛び込んでいく勇気はハルには無かった。

 ハル自身は一夏に対して何か言うつもりはない。一夏は一夏で、ハルはハルだ。恋愛の観点で言えばハルは現時点で一夏と相容れない事を察しているので自分から話したくないのだ。

 一夏の恋愛観を正しいとは言えないし、かといって自分が正しいとも言えない。そもそも恋愛なんだから本人の自己責任だろう、と。

 一夏が悩み、相談してくるならば話にも乗れよう。だが自分から動く事は出来ない。ならば自分に出来る事はない。

 そもそもの原因は一夏だ。一夏がハルに関わって来ないならばハルはこの事態に静観を貫くつもりだ。

 ただクロエだけは心配だ。何かがおかしい。せめてクロエから感じる違和感だけは払拭したい。ラウラにも意見を聞いてみるか等、色々と考えていると今日の昼食は集まらない方が良いんじゃないかと頭を悩ませる。

 

 

「……どうしたの?」

 

 

 ハルは頭を悩ませていると隣で座っていた簪が心配そうに声をかけてきた。ハルは顔を上げて簪を見た。

 

 

「あぁ、ごめん。ちょっとね……」

「……織斑くん?」

「あ、察してるんだ」

「なんとなく……というか、わかりやすい」

 

 

 ちらり、と簪が視線を一夏へと向ける。一夏は一番前の席なのでよく目立つ。なにやら肩を落としていて、時折手で頭を掻いている。恐らく悩んでいるんだろうな、というのは察する事が出来る。

 

 

「うん。それでさ……昼食、多く作っちゃってさ」

「……多いの?」

「うん。いや、帰ってから食べても良いんだけど……」

 

 

 そこでハルは思いついたように簪を見た。簪は少し首を傾げたが、ハルの意図を察したのか眉を少し寄せた。

 

 

「どう? 一緒に食べない?」

「……本音?」

「んー? なにー? かんちゃんー?」

「お昼、どうする?」

「ハルちーと食べるのー?」

「ハルちー……って僕の事か。良ければ本音さんもどうかな?」

「食べたいー!」

 

 

 ばさばさと余った裾を振って本音は頷いた。この微笑ましさに癒される思いでハルは笑みを浮かべていた。見れば簪も仕方ない、と言うように息を吐いているが、本音を見る目が微笑ましそうなのはきっと気のせいじゃないだろう。

 こうしてハルは簪、本音と一緒に昼食を取る約束をするのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「一夏ッ! 昼食、食べに行くわよ! 弁当を作って来たわ! とにかく食べろ!」

「どわ!? り、鈴!?」

「どれ、協力しよう鈴。一夏、私も弁当を作ってきた。私のも食べて貰うぞ」

「ほ、箒? ちょ、ちょっと待てお前等、どわぁああああ!?」

「ま、待ってください! 一夏! 箒! 鈴音さん!」

 

 

 午前の授業が終わり、昼休みになった瞬間の嵐だった。ハルはどう言い訳を考えようか、と思っていると、突如過ぎ去っていった嵐のような光景に呆然とする事しか出来ない。

 鈴音と箒が左右から一夏を挟み込み、両腕を掴み挙げて勢いよく引き摺っていき、その三人をクロエが追いかけていく。あまりの鮮やかさに目を奪われてしまったが、鈴音と箒は計画でもしてたのだろうか? 周りの生徒も唖然とする中、ハルは思い悩むのだった。

 

 

「……なんだか凄い事になっちゃってるね」

「シャルロット」

 

 

 苦笑しながらハルに近づいてきたのはシャルロットだ。彼女は呆れたように肩を竦めた後、ハルへと視線を移して問いかける。

 

 

「昼食、どうするの?」

「今日は簪さん達と食べるつもりなんだが……ラウラは?」

 

 

 ハルの問いかけにシャルロットは何とも言えない笑顔でラウラの席を指で示した。

 そこには悟りを開いてそうな表情で座り、微動だにしないラウラの姿があった。

 いっそ後光すら差しているのだが、あまりの不気味さに周りの生徒達も引いている。

 

 

「……解脱でもしてるの?」

「なんか悩みすぎて悟りを開いちゃったみたいで……」

「……ねぇ、簪さん。本音さん、アレも良い?」

 

 

 ラウラを指さしながら問いかけると簪は苦笑しながら、本音は特に気にした様子もなく承諾してくれた。

 何とかラウラを現世へと呼び戻してからハル達は屋上へと向かった。中庭には一夏達が向かったと行き交う生徒達から聞いていた為だ。

 今日の天気は晴天。屋上に吹く風は気持ちよく、外で食べるには絶好の環境だった。

 

 

「……ふふ。うまいな。しかし少し塩辛いぞ? ハル」

「ラウラ、それは自分の涙の味だと思うよ」

 

 

 きらり、と瞳に光るものを浮かべながらラウラは食事を続けていた。シャルロットが指摘しているものの、なかなか現世に戻ってこない様子に最早何も言うまい、とハルは諦めた。

 ラウラは昨日からこの調子である。もういい加減、指摘しても暫くはどうにもならないんだろうな、と諦めの気持ちが出てくる。ラウラの世話をシャルロットに任せながらハルは思う。

 恐らく、いきなりクロエの態度が変わって彼女を遠く感じてしまったのだろう。確かにクロエは昨日まで本当に様子が異なる。あまりにも急激な変化の為に逆に気になる所なのだが、これではラウラに意見を求める所ではないな、と。

 

 

「おいしい? 簪さん。本音さん」

「……ん。すごく美味しい」

「おいしー」

 

 

 もくもくと食事を続けていた簪に料理の感想を求めると食べていたものを飲み込んでから微笑を浮かべて好評を返してくれた。またもくもくと食事を再開するのだが、どうにも小動物のような食べ方で愛らしかった。

 一方で本音はのほほん、と食事を続けていた。もきゅもきゅと口に入れた食べ物をよくしっかり噛んで食べている。幸せそうに食べてくれているのだから作った者としてはありがたい限りだ、とハルは笑みを浮かべた。

 

 

「……大丈夫かなぁ」

 

 

 ぽつりと呟き、ハルが思うのは一夏達だ。自分から関わらないと決めたからには気にしない方が良いんだろうが、こうして穏やかな時間を過ごしているとやはり気になってくるのだ。

 ハルの呟きを耳にしたのだろう。簪が顔をあげ、口の中のものを飲み込んでからハルに問いかける。

 

 

「心配……?」

「まぁ、ね。一緒に住んでる家族みたいなもんだしさ」

「……それは気まずいね」

「本当ね」

 

 

 簪の慰めの言葉が痛い。本当に昨日の内に何があったんだろうかと気になってしまう。やはり話は聞かなければならないと思いつつハルは重く息を吐き出した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「一夏、稽古に付き合え」

「お、おう」

 

 

 IS学園での授業が終わり、ハル達は高天原に戻ってきていた。そして戻ってくるなり箒が一夏を連れて運動場に向かっていった。

 クロエも後を追おうとしたのだろう。だがクロエの足は進む事は無かった。その手をハルに握られていたからだ。

 

 

「……ハル?」

「クロエ。話がある」

「……後じゃ、駄目ですか?」

 

 

 一夏を視線で追いながらクロエは言う。彼女は目を合わせようとしない。ここでハルはクロエの異変に気付く。クロエは一夏から視線を外していないような気がする、と。

 違和感が膨れあがる。やっぱり何かがおかしい、とクロエを見て思う。こんなに聞き分けの悪い子だっただろうか、と。ハルはクロエと目線を合わせるように屈み、クロエのサングラスに手を伸ばした。

 

 

「――ッ、嫌ッ!」

 

 

 ぱん、と。ハルの手がクロエに叩かれる。そしてクロエはそのまま自分の口元を抑えた。ハルはクロエに叩かれた手を一瞬、呆然と見る。

 しかしすぐに眉を寄せ、そのままクロエの手を繋いだまま、彼女を引っ張るように歩き出す。

 

 

「ハ、ハル! 離してください!」

「ハル?」

 

 

 抵抗しようとするクロエの姿を見て、ラウラがようやく現世に戻ってきたのか疑問の表情を浮かべてハルを見た。ハルは埒が明かないと見たのか、クロエの身体を抱き寄せてお姫様抱っこでクロエを抱え上げる。

 ハルはそのまま高天原の廊下を歩いていく。抵抗していたクロエも次第に大人しくなり、ラウラは心配げに二人を見ながら歩いていく。ハルはそのままクロエを抱きかかえたまま歩いていき、そして探していた姿を見つけてそのまま近づいていく。

 

 

「束!」

「ハル? クロエにラウラ。お帰り。……どうしたの?」

 

 

 ハルが探していた束は食堂にいた。なにやらクリスと相談していたのか、突如食堂に入り込んできたハルの姿に目を丸くして驚いた様子を見せた。

 ハルはクロエを抱きかかえたままクリスへと視線を向けた。ハルの視線を受けたクリスは小首を傾げたが、何かを察したように立ち上がった。

 

 

「込み入った話のようだな。席を外した方が良いか?」

「うん。ごめんね、クリス。……ラウラも悪いけどクリスと一緒に席外して」

「ハル? 一体どうしたんだ? 姉上に関わる話なら私にも聞く権利がある筈だ」

「クロエが聞かれたくない話をするからさ」

「ッ!」

 

 

 ハルの言葉に身を震わせ、一瞬抵抗しようとするも、すぐに諦めて大人しくなる。

 束は驚いたようにクロエを見て、目を険しくさせてクロエの様子を窺っていたが、すぐにクリスへと視線を向けた。まるで出て行け、と言わんばかりにだ。

 束の辛辣とも言える視線だが、クリスは飄々とした様子で肩を竦めてラウラの肩を押して部屋を後にしようとする。ラウラはまだ納得がいかないのか、クリスの手を払ってハルへと視線を向ける。

 

 

「ハルッ!」

「ラウラ。……僕を信じて欲しい。悪いようにはしない。ただ今のクロエは放っておけない」

「なら!」

「必要な事なんだ。ラウラ……お願いだ」

 

 

 ハルが真剣な表情でラウラを見つめる。ラウラは苦しげに眉を歪めるが、やがて自分に言い聞かせるように瞳を伏せる。そのままクリスに連れられるままに部屋を後にしていった。

 残された三人。食堂は一瞬にして静寂となり、ハルはクロエを下ろして椅子に座るように促す。クロエ項垂れながら、ハルに促されるまま席に座る。

 クロエが座ったのを見て、ハルもクロエの隣に座る。対面には束がいる形となる。束は心配げにクロエを見ていた。

 

 

「……どうしちゃったの? クーちゃん。昨日からやっぱりおかしいよ?」

 

 

 束の問いかけにクロエは無言のまま顔を俯かせるだけだ。何も答えが返ってこない事に束は辛そうに表情を歪める。

 ハルがゆっくりと息を吸い、クロエと向き合うように体制を変えた。

 

 

「……クロエ」

「……」

「クロエは一夏と何があったの?」

「……何も」

「本当に?」

「本当です」

 

 

 淡々と抑揚のない声でクロエは返す。ハルはまるでその声が感情を押し殺そうとしているようにしか見えなくて、見ているのが辛かった。

 

 

「クロエ。僕は、まるで君が一夏に依存しているように見えるのは気のせいかい?」

「……ッ……違います……!」

「じゃあクロエ。サングラスを外して僕と目を合わせて」

 

 

 ハルの言葉にクロエは嫌がるように首を振った。外したくない、と言うようにだ。

 

 

「……昨日、一夏に何を言われたの?」

「何も言われてません! 昨日は何もありませんでした!」

「君が声を荒らげるなんて珍しいんだよ。それがわからない程、僕等の付き合いは短くも浅くもないだろう? 家族なんだから」

 

 

 家族、という言葉にクロエは身を震わせた。かたかたと小刻みに震えるクロエの身体は明らかに普通じゃない。

 束も異変を察したのか、テーブルを回り込んでクロエの傍へと近づく。そして、その手を握ろうと手を伸ばした所で、クロエが束の手を振り払った。

 

 

「……ぇ?」

「……ぁ」

 

 

 束が何をされたのかわからない、という表情で呆けた。クロエの呟きが零れ、クロエも呆然と束を見上げた。

 場が沈黙に包まれる。束は呆然として動きを止めてクロエを見ている。クロエは顔を俯かせて自分の身体を抱きしめている。

 

 

「……ほら。クロエ。今の君は普通じゃない。一体何があったの? 話せないなんて、これじゃあ認めてあげる事は出来ない」

「……ッ……!」

「やっぱり一夏に問い糾した方が良いのかい?」

「それは駄目ッ!」

 

 

 駄目、と。何度も呟きながら首を振るクロエ。ハルはクロエの両肩に手を置いてクロエを自分の方へと向かせる。

 

 

「だったら、君の口で言うんだ。クロエ。じゃないと僕は君をここからどこへも行かせるつもりはない」

「……ッ……」

「何を隠してるの? クロエ。そんなに僕たちに言いたくない事?」

 

 

 ハルの問いかけに、身動きを止めていたクロエだったが。ゆっくりとその首を縦に振った。

 

 

「それはどうしても僕達に隠していたかった事なんだね?」

 

 

 続けられたハルの問いにクロエは小さく、何度も頷く。

 

 

「でも……僕は聞かなきゃならない。クロエ、君らしくない。君は誰かを傷つけてまで我が儘を言う子じゃなかっただろう? 何が君にそうさせたの? 僕に教えて?」

「い……や……」

「何がそんなに君を怯えさせた? ……一夏と何があったの?」

「いや……」

「クロエ」

 

 

 ハルはクロエの手を握る。払おうと力を込めたクロエの手を痛い程、握りしめた。

 

 

「っ……!?」

「クロエ……。お願いだ。言ってくれないと僕はもう君を助けられない。このまま君が遠くなる。クロエ、君は良くない事をしてる。僕はそれを叱らないといけない。わかるだろ?」

 

 

 懇願するようにハルはクロエに告げる。ここで彼女の手を離せばもう届かない気がしたからこそ離さない。

 クロエは手を振りほどこうと力を込めたが、次第にその力を抜いて項垂れた。

 

 

「……ごめん、なさい」

「どうして謝るの?」

「…………」

「クロエ」

「……クーちゃん」

 

 

 ハルが握ったクロエの手に束が手を重ねる。心配げにクロエの顔を覗き込む束には困惑の色が見えた。

 

 

「クーちゃんがどうして何も言ってくれないかわからない。クーちゃんは束さんが嫌いになったの?」

「ッ、そんな事ないです!」

「じゃあどうして束さんに触られるの嫌がったの?」

「……」

 

 

 頑なにクロエは首を振る。左右に首を振って二人を拒絶するように。それでもハルと束は手を伸ばす。クロエの手を握りしめて問いかけを続ける。

 

 

「クロエ」

「クーちゃん」

「……ひっ…ぅ……! いやぁ……!」

 

 

 とうとうクロエは泣き出して涙と嗚咽を零した。引き攣ったように息をしながら嗚咽を零す様は見ていて痛々しい。そんなクロエを束は抱きしめる。クロエを自分の腕の中に閉じこめるように。

 束に抱きしめられたクロエは暴れようとして、しかし動きを止める。力を抜いて束の為すがままに身を任せてただ涙を零している。

 

 

「いや……」

「何が嫌なの?」

「…………抱きしめちゃ……いやぁ……」

 

 

 いやいや、と緩慢な動きでクロエは首を振る。束はどうして拒絶されているのかわからず、今にも泣きそうになっている。ハルは束とは逆側から、クロエを包むように腕を回し、かつて束にしてもらったように心音のリズムで優しく背を撫でる。

 

 

「どこにもいかないよ」

「……っ……」

「ここにいるよ。僕等はここにいる。いなくならない」

「……ぁ……ぁ……っ!」

「消えない。絶対に。だから怖がらないで。ここにいるから」

「ッ!? ぁ、ぁあっ、ああああああっ!!」

 

 

 ハルの言葉がクロエの心の何かに触れたのか、クロエは叫ぶように泣き出してしまった。天を仰いで嘆くように。束は堪えきれないと言うようにクロエの身体を強く抱きしめる。

 どうしてクロエがそんなに泣くのかはわからない。ただ自分が愛おしいと思う子が悲しみに震えて、そして泣いている。

 答えを聞く事が出来ないのであれば、せめて強く抱きしめる。ハルもそんなクロエと束を支えるように二人の背を撫でる。

 

 

「ごめん、なさい、ごめん、なさいっ……!」

「クーちゃん……」

「怖いの……怖いの……捨てられるのは嫌……愛されるのが怖い……怖いよぉ……!!」

 

 

 ハルの頭が冷えた。そして疑問が浮かぶ。一夏、アイツ何言った? と。

 捨てられたくない、愛されたくない。それはクロエの最も望まない言葉と、最も相反する言葉。一体それがどうしてクロエの口から飛び出して来たのか理解が出来ない。

 

 

「良い子になるの……我慢するの……! それで良かったの……!」

「……じゃあ、どうして良い子を止めちゃったの?」

「一夏が、幸せになって、良いって、諦めなくて、良いって……我が儘になって良いって言うんだもん……!」

「……一夏が言ったのか。ソレ」

 

 

 思わず呻く。それはクロエにとって禁断の言葉だ。どうして一夏とクロエの話が、クロエのトラウマを刺激するような話題になったのかはわからない。だが、トラウマを刺激されて前後不覚になってるクロエに幸せになって良い、というのは些か間が悪すぎる。

 クロエは弱い子だとハルは知っている。必死に努力を積み上げて、認められようと、受け入れられようとしてきた子だと言うのは知っている。ずっとその姿を見守ってきたのだから。だからハルは頑張れば褒めてあげた。求められれば何度だって受け入れてあげた。

 束だって同じだ。束が同時に拾われたクロエとラウラの扱いに差が付いたのは二人の精神性にも起因があるのだ。ラウラは在る程度、独り立ちをしていて甘える事が無かった。だがクロエは違う。クロエにはラウラのような拠り所が無かった。

 だから愛情を与えた時、クロエは縋るように求めたのだ。一心に自分を求めてくれるクロエだったからこそ束も一心に愛した。だから束はクロエをの事を可愛がっているのだ。それこそ我が子のように。

 普段は抑え込んで何も求めてくれないから。成果を以て求めて来た時には一生懸命に褒めてあげた。それがハル達とクロエの付き合い方だった。無償の愛はこの子には重すぎたから。

 

 

「一夏は、受け入れて、くれたからぁ……! 一緒だって、言ってくれたからぁ……!」

 

 

 全部吐き出したんだろう。弱かった自分を。抑え込んで、抑え込んで、溜まりに溜まった思いを全て吐き出したんだろう。そこで一夏が受け入れてくれたというなら、それはクロエには抗えない話だ。

 今までの努力を半ば否定されたんじゃないかと思う。我慢する事は良くないと。そうだ。ハルだってここまでクロエに溜め込んで欲しくもない。怯えて欲しくもない。傷ついて欲しくない。

 

 

「嬉しかったの……! 一緒だって言ってくれたから……! 私も良いんだって! 我が儘言って良いんだって! 受け入れてくれたから……! だって知っちゃったら……もう、我慢出来ないよぉ……!」

「……どうして僕等に言ってくれなかったんだい? 僕等には受け入れて貰えないと思ったの?」

「違う……! でも、でも……怖かった……! 言えない、言えないよ……!!」

 

 

 そうだ、言える訳がない。

 3年。短いようで長い時間だ。その時間を余す事無く、ずっと一緒にいたのだ。居場所を見失っていたこの子に居場所を与えて、居場所で在り続けたのは間違いなく自分たちなのだ。

 改めて関係を結び直す事がどれだけ恐ろしい事か。ハルにだって難しい。ハルにだって覚えがある。束との関係でどれだけ悩んだか。表面上には出していなくてもハルは悩んでいたのだ。怯えてもいた。もし断られたらこの世の終わりとさえ思った。

 それだけ自分たちの世界は狭かった。いつか束がハルだけがいれば良いと思っていた程に。ハルが束の為にならば全てをかけてでも良いと思っていた程に。今では解消されて夢は大きく広がった。家族が増えた。自分たちの居場所にも光が灯った。

 

 

「だから受け入れてくれた一夏に甘えて、今日みたいになったの?」

「……一夏にしか、言ってないから……!」

 

 

 甘えて良いなんて、クロエの価値観を破壊する言葉だったんだろう。クロエの価値観を育てたのは紛れもなくハルだ。ハルは今、殴れるものなら自分を殴りたかった。何故もっと気を付けてあげなかったんだと。今となっては後の祭りだけど。

 満たされていると思っていたんだ。彼女は笑っているから。だから大丈夫だと、どこか心の中で思っていた。消える筈がないのに。愛すれば愛するほど、不安なんて消える筈もないのに。そんな事はとうの昔から知っていた筈なのに!

 

 

「……馬鹿だなぁ、クーちゃんは」

 

 

 悔しさに打ち震えていたハルはハッ、と顔を上げて束を見た。束は納得したように、どこか安堵したようにクロエを抱きしめていた。いつもと変わらないように。

 

 

「受け入れるよ。だってクーちゃんは大事な家族だもん」

「……っ……!」

「捨てて、って言ったってもう離さない。クーちゃんの意思なんて関係ない。絶対、ぜーったい束さんは手放さないよ。クーちゃんは大事な家族だから。何度でも言うよ。クーちゃんが不安に苛まれる事が無くなるまで」

「でも、私は、何も返せない……!」

「うぅん……これはハルに似たな? ねぇ? ハル」

「……そうだね」

 

 

 本当に、そっくりだ。思わず苦笑が出る程に。

 他人に何かを与えなくては、求めてはいけないと思っている所がそっくりだ。

 一度は過ぎ去った道だから、懐かしさすら覚えてハルはクロエを見下ろした。

 

 

「……クーちゃんが生きてるだけで良いよ。笑ってくれるだけで良い。それが君の生きている価値になるよ。クーちゃん」

「……ぇ?」

「うん。だって束さんの宝物なんだもの」

「そして、僕にとっても、ね?」

 

 

 妹というには余りにも幼くて、娘というのには大きかった。だから決めかねていた事がある。だけど、別に決める必要がないと。

 この子は僕たちの妹で、同時に僕たちの娘であると。そんな不思議な関係。そして纏めるなら、付ける名称はたった1つ。

 

 

「ずっと何があっても“家族”だよ。クーちゃん。大丈夫。大丈夫だよ。クーちゃんにあげた全てが証だよ。天照も、高天原も、全部ぜーんぶ。クーちゃんがここに生きて、私達と生きている証で良いんだよ。無くならないよ。思いはいっぱい、いっぱい一緒に手に入れたでしょ? 良いんだよ。求めて。絶対に無くならないから。減りもしないから。もーっと、我が儘言って良いんだよ?」

「う……ぁ、ぁあ、あぁあああああっ!! 束、様ぁっ、ぁああああああっ!!」

 

 

 火が付いたようにまた泣き出してしまったクロエをしっかりと抱きしめて束は笑う。仕方ない、と手間のかかる子を慈しむように。

 彼女が信じてきたものは何も間違いじゃないと肯定するように。束はクロエをしっかりと抱きしめた。




「思いはなくならない。形がないけど。消えないもの。ずっと? うぅん。でも、消えない為に何度も思うの」 by雛菊 

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