天才兎に捧ぐファレノプシス   作:駄文書きの道化

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 IS学園での初日の授業が終わる。固まった身体を解すようにハルは背筋を伸ばす。まだ凝った感覚が抜けきらないので首を何度か回すと、こきり、と音が鳴った。

 

 

「よぉ、ハル。お疲れ」

「一夏。お疲れ様。ちゃんと授業が理解は出来た?」

「あぁ……束さんとクロエに見て貰ったからな」

 

 

 苦笑する一夏を見て、やはりIS学園に入学する前、皆でISの基礎知識について勉強をしておいて良かったとハルは思った。やっていなかったら一夏は当然、箒も危なかった。元々毛嫌いしていた箒は束との関係が改善されてからは意欲的に取り組んでいて勉強も捗っている。

 ただ難儀したのが一夏だった。思ったより飲み込みが悪く、束が主に授業を行っていたのだが、一夏は束の言う事が理解出来ない。束は一夏が何故理解出来ないのかわからない。この悪循環に陥ってしまったのだ。

 この状況を打開したのはクロエだった。束の言う事がわからない一夏にクロエが捕捉を入れて説明するとなんとか理解が出来るようになったのだ。なのでクロエは必然的に一夏のサポートに入る事が多くなった。それからだろうか、一夏とクロエが気安く接するようになったのは。

 クロエも最初はまだ優しかったのだが、段々と言葉に遠慮が無くなった為だろう。なんで理解できないのかは当たり前。これ見よがしの溜息。これならわかりますよね? と嫌みったらしい捕捉。負けず嫌いな気質の一夏が反骨精神で乗り切ったのは流石だと思った。僕だったらまず間違いなく心折れる、とハルは思う。

 ハルとラウラは既に通った道だったので授業を改めて受ける事はなかったのだが、一夏からの愚痴とラウラ経由で聞いたクロエの愚痴の両方を知っているので状況を把握しているだけだ。

 どうにも一夏とクロエの相性は悪い。仲が悪い、という訳ではない。どちらかと言えばクロエが一方的に一夏に噛みついている。一度どうしてか聞いてみたが、クロエ曰く、デリカシーが無くて見てて苛々する、との事。

 確かに一夏には鈍感な所があるが、それがクロエの気に障るのだろうか? とハルは悩む。それならばしっかりと情緒が育ってくれていた事を嬉しいと感じるが、しょっちゅう喧嘩しているのはどうかと思う。

 一度、ラウラに相談したのだがお手上げだそうである。ラウラとしては一夏には好感を持っているのだが。剣術の稽古だけでなく、格闘訓練なども仕込むようになっていると言う。その風景を目にしたことがあるが、なんというか出来の悪い兄弟を見ているようだ、とハルは思った事を覚えている。

 

 

「とりあえず学校も終わったんだ。さっさと高天原に戻ろうぜ」

 

 

 もうここから早く出たい、と疲労を見せている一夏。やはり女子だけのこの空間は一夏にとって辛いものがあるのだろう。急かす様子の一夏に苦笑しながらハルは鞄に荷物を詰めて席を立った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「あー、やっと初日が終わったぜ……怠い」

「……そんなダラダラと歩いて恥ずかしくないんですか?」

「うるさいな。疲れてるんだよ」

 

 

 一夏が疲れを隠さないままダラダラと歩くのを見て、我慢ならなかったのかクロエから指摘が飛ぶ。だが一夏はそんな事は知らん、とばかりに態度を改める事はない。

 むっ、と口元を一文字に結んだクロエにラウラがすかさずフォローに入る。一夏の隣を歩いていた箒と共に一夏の背に手を叩き付けて、折り曲げていた背を真っ直ぐにさせる。

 

 

「クロエの言う通りだ。流石にだらしないぞ」

「いってー! くそ、お前等には俺の苦労はわからないんだよ! 辛いんだぞ!?」

「気持ちはわからなくもないけど、往来で叫ぶのはやめよう? 一夏」

 

 

 これには流石に恥ずかしい、とハルは一夏に指摘を飛ばす。今、纏まって歩いているのは高天原で生活をしている面々だ。鈴音とシャルロットは途中までは同行してたのだが、流石に初日から寮を抜けるのは不味い、とそれぞれの寮の部屋へと戻っている。

 ルームメイトもいるのだから、確かに初日から遅かったり、いなかったりすれば何を言われるかわからない。それに寮の管理人は千冬だと聞いている。門限とか厳しそうだな、と思うと、高天原で暮らす事で在る程度、自由が利くのはありがたい事だった。

 

 

「あれ? なんだあれ?」

「ん? どうしたの?」

「なんか……トレーラーが来てるな」

 

 

 高天原は現在、IS学園から程近い土地を開拓して置かれている。IS学園に通うのは少し交通の便が悪いのだが、これは最早仕方ないと諦めている。ハル達もISを使って土木作業を手伝ったのは記憶に新しい。

 そんな経緯から急遽、舗装された道の先。切り開いただけの土地に置かれた高天原の傍に見えたのは一台の大きなトレーラー。何とも珍しい光景だった。気になるのは皆、同じだったのか少し早足でトレーラーまで近づいていく。

 

 

「お。皆、おかえりー」

 

 

 皆を迎えたのは束だった。トレーラーの傍でなにやら作業をしている人たちとは少し外れた場所。そこに置かれたコンテナの上に座って足をぶらぶらとさせていた束は皆を見るなり、コンテナから飛び降りて駆け寄ってくる。真っ先に抱きついたのはハルだ。

 ハルは抱きついてきた束をしっかりと抱き留めながら笑みを零す。そしてトレーラーの周りの人たちを指して問いかける。

 

 

「あの人達は?」

「倉持技研の人達だよ。頼んでたモノを納入して貰ってたの」

「納入? 何の?」

「いっくん用のISさ」

「俺の?」

 

 

 一夏は自分を指さして首を傾げた。そう、と束は笑いながら答える。

 

 

「世界に技術協力するって言ったからね。ちょうど倉持技研には開発が凍結されてた機体があったから、それを改修していっくん用のISにするんだ。既存のISの改造のテストケースだね。まぁ、手を抜くつもりはないけどね」

「へぇ……じゃあ遂に一夏にも専用機が」

「各国からいっくんのデータも欲しい、ってせっつかれてるからね」

 

 

 面倒くさい、と呟いて溜息を吐く束の姿に皆は呆れたように苦笑する。もう大分慣れたが束は相変わらずの通常運行らしい。世界相手からの要望を面倒くさいと言って切ってしまうのは精々束のものぐらいだろう、と。

 そしてトレーラーから運び出される鋼鉄の機体が日の下に晒される。白の装甲。穢れを知らぬ純白の色合いは光を反射しながら存在を見せつけた。一夏はあれが、と呟きを零して食い入るように己の機体となるだろうISを見た。

 

 

「もう付ける名前も決まってるんだ」

「どんな名前なの?」

「“白式”。あれには白騎士のコアを組み込むからね。それにちなんで名前をつけたよ」

 

 

 一夏のISに束が保有し、封印している白騎士のコアを使う事は以前から決まっていたので驚く事はない。だが次に束から告げられた言葉に一夏は目を見開く事となる。

 

 

「この機体はね。途中で開発が凍結されたけれども、実質“暮桜”の後継機にあたるんだよ。いっくん」

「暮桜って、千冬姉の!? こいつが千冬姉のISの後継機……」

 

 

 己の姉が乗っていたIS“暮桜”。名実共に最強の名を冠したIS。その後継機と聞いた一夏の驚きは計り知れなかった。そしてその機体が己の機体となるという事実に胸が熱くなってくる。

 

 

「どうしてそれが凍結されたの?」

「この子は第三世代型にあたるんだけど、“零落白夜”を再現する為に作られたんだよね。だけど作ったは良いんだけど、“零落白夜”を発現させる事は出来なかった。どう試行錯誤をした所で駄目だったんだ。そして前提条件が崩れてしまったが為に、路線を変更した日本のIS企業から忘れ去られた翼」

 

 

 最強を欲しいままにした千冬の暮桜。その意思を受け継ぐ筈だった機体は今まで日の目を見る事なくただ眠り続けていた。

 束は笑みを浮かべて、コアを抜かれて沈黙しているISに触れた。慈しむように装甲を撫でながら束は言う。

 

 

「大丈夫。私が飛ばせてあげる。いつかの貴方が待っていた人がここにいるよ。正しく貴方を受け継ぐ人が」

 

 

 ね? と微笑みかけるように束は一夏を見た。一夏もまた束が触れていたように装甲を撫でるように触れて、何かに思いを馳せるように瞳を閉じる。暫しそのまま佇んでいた一夏だったが、再び目を開いた時、彼の纏う気配は一変していた。

 まるで鞘から抜き放たれたように鋭く研ぎ澄まされた気配。まだ未熟ながらもあの千冬を思い出させるような瞳と気配。そんな一夏の姿にハルはぞくり、と背筋を震わせた。本当にいつからこんな顔をするようになっていたのか、と驚くばかりだ。

 

 

「束。確認の上、受領のサインを頼む。……む。お前達、帰ってきてたのか」

 

 

 そこに倉持技研の職員だろう、白衣を纏った男性と共にクリスが歩いてきた。クリスの手にはクリップボードがあり、なにやら書類を挟んでいるようだ。そこでクリスはようやくハル達の姿を確認して笑みの表情を浮かべる。

 ただいま、とハル達が各々伝えるとクリスは嬉しそうに笑ったまま、おかえり、と優しげな声で迎えてくれた。しかしすぐに表情を引き締めると束にクリップボードを渡して、束が書類の内容を確認している。

 

 

「クリスさん。この子達が?」

「あぁ。皆、こちらは倉持技研の社員の方だ」

「倉持技研第2研究所から来ました如月 誠と申します」

 

 

 よろしく、と手を差し出しながら告げた声は随分と優しげだ。柔和な笑顔は優しげで人当たりの良さを感じる。

 一番近かった一夏がよろしくお願いします、と返しながら握手をする。それぞれが誠との握手を交わしていき、握手を終えた後、誠は興味深げに一夏を見た。

 

 

「君が織斑 一夏くんか。……少しお姉さんの面影があるね」

「え?」

「私は元々、暮桜の整備員の一人だったんだ。その時、千冬さんには大変お世話になったんだ。千冬さんの弟である君がこいつを受領する、と聞いた時は思わず興奮を覚えてしまったよ」

「暮桜の……」

 

 

 思わぬ姉の関係者の登場に一夏は少し驚いたように、そして興味深げに誠へと視線を注ぐ。視線を向けられる事に慣れていないのか、少し照れたように肩を竦めてみせる。

 

 

「本来は別のプロジェクトの主任を務めて居るんだが、人当たりが良いからって言う理由で所長に扱き使われてるんだ。参ったよ」

「……思い出しました。如月 誠。日本でも有数のIS研究者。今、日本で主流となっている量産型IS“打鉄”の開発者の一人」

 

 

 クロエは小骨が喉に引っかかったように首を傾げていたが、ようやく思い出したと言うように彼のプロフィールを引っ張り出した。

 誠は少し驚いたようにクロエを見たが、やがて納得したというように笑みを浮かべた。

 

 

「流石は篠ノ之博士の助手さんだね。よくご存じで。……といっても打鉄の構造に関してちょっと意見を出したぐらいさ。私だけが作ったものじゃないよ」

 

 

 大したことはしてない、と笑う姿はハル達より上の年齢ではあるが、どこか親しみやすさを感じさせた。童心を忘れていない大人と言うべきなのか、随分と無邪気な印象を受ける人だとハルは思った。

 すると契約書の確認を終えたのか、サインを施した書類を見せつけながら束が割って入った。クリップボードを無造作に誠へと差し出して渡そうとする。

 

 

「はいはい。サイン出来たよ」

「ありがとうございます。篠ノ之博士。……覚えてはいないと思いますが、お久しぶりです」

「んー? 誰?」

「これは手厳しい。表舞台に戻ってきたから少しは変わったのかと思いましたが、まったく貴方は変わらない」

 

 

 束の反応に予想通り、と言うように苦笑しつつも誠は束から預かったクリップボードを抱え込む。強かな人だな、とハルは思った。この人はこうして束にあしらわれるのが一度や二度じゃない気がした。まるで何度もあしらわれたような慣れが見えたからだ。

 さて、と誠は話の流れを変えるように束からうけとったクリップボードを軽く叩いて音を鳴らす。

 

 

「これでこの機体は篠ノ之博士の預かりとなります。データはまた後ほど。ウチの所長が首を長くして待っておられますので。あんまり遅いとモリ刺しに行くぞ、だそうですよ?」

「……ん? ……げぇっ! 倉持の第2研究所って言えばあのヘンタイがいる所か」

 

 

 誠から告げられた伝言に何かを思い出したように心底嫌そうな顔を浮かべる束。珍しい反応にハルは目を丸くする。

 

 

「束、知り合いがいるの?」

「うん。ヘンタイがいる。ハルもいっくんも近づいたら駄目だからね?」

「ヘンタイ!?」

「あぁ……確かにウチの所長はヘンタイだね。もし会う時があれば気をつけた方が良い」

「如月さんも認めた!?」

「あんな奇妙な生物、忘れたくても忘れられないよ」

 

 

 忌々しそうに束は吐き捨てる。しかも人間じゃなくて生物呼ばわり、人間扱いされていない。一体どんな人物なんだろうか? とハルは思わず想像しようとして止める。束がヘンタイと言うぐらいなのだから空前絶後のヘンタイなのだろう、と予想が出来たからだ。

 しかし他人を滅多に認識しない束が認識している人がいるのは驚いた。まったく悪い方向ではあるのだが。

 

 

「……如月主任。パーツ運び終わりました」

「あれ? 簪さん?」

 

 

 不意にした声にハルは驚いたように声をあげた。誠に近づいてきたのは簪だったからだ。

 簪の姿を見た誠は笑みを浮かべながら簪の下へと歩み寄る。

 

 

「ありがとう、簪ちゃん。悪いね、手伝って貰って」

「いえ……いつも弐式の事でお世話になってますから」

 

 

 淡く笑みを浮かべながら簪は誠に返事をする。簪が普通に話している所を見てハルは二人の関係が短い付き合いのものではない事を悟る。

 そして先ほど、クロエが告げた彼のプロフィールを思い出して納得したように掌の上に拳を置いた。

 

 

「まさか如月さんが主任を務めるプロジェクトって……」

「あぁ。この子の専用機である打鉄弐式の開発さ。まだ完成は先なんだがね。私にとっては渡りに船だったんだよ。この話はね。直接簪ちゃんにデータも貰えるし」

 

 

 誠は笑みを浮かべて簪の頭に手を置いて撫でる。そうしていると兄と妹の姿にも見えるから不思議だ。

 簪も拒否していないという事はよほど二人は親しい仲なのだろうとハルは推測してみる。

 

 

「まだまだ篠ノ之博士に劣りますが、次代を担う人材だと私は確信していますよ」

「き、如月主任……! そんな、恐れ多い、です……」

 

 

 思わず簪は声を大きくしてしまう。束の前で次代を担う人材だと口にした誠はまったく自分の言葉を疑っている様子はない。誠の言葉に反応したのは束と、そしてクロエの二人が反応していた。 

 

 

「へぇ……この子がねぇ?」

 

 

 ずい、と。束は覗き見るように簪の顔を覗き込んだ。簪が緊張が高まった所為か、身を硬直させて目を見開いている。束の目つきが若干悪くなっている為、睨んでいると思われたのだろう。

 クロエも興味を刺激されたのか、サングラス越しに簪へと視線を向けているようだ。あうあう、と見るからに上がってしまっている簪が少し哀れに思えてハルは苦笑した。

 

 

「簪ちゃん。今度から弐式の開発には篠ノ之博士の助力を得られる事となった」

「えぇ!? ほ、本当ですか!?」

「契約に盛り込んでいたし、それがロップイヤーズがここに逗留している条件の1つだしね。トップクラスの技術を学ぶ良い機会だ。簪ちゃん、もっと自信を持ちなさい。君はまだまだ伸びる」

「まぁ私は直接開発には手を貸さないけどね。まずは白式があるし。……クーちゃん?」

「はい。束様」

「以前話していた通りに。これはロップイヤーズとしての正式な仕事としてクーちゃんに託すよ。“現行IS強化改修計画”はクーちゃんに一任する」

「了解しました」

 

 

 束の指示にクロエは頷いてみせる。これは前々からロップイヤーズで上がっていた話題だ。どうやって世界に束の技術力を伝えるか? 束の技術力は間違いなしに世界一だ。だが直接その技術を授ける事は束の性格等を考えると正直難しい。

 そこで束が白羽の矢を立てたのはラファール・アンフィニィの開発実績があるクロエだ。クロエも元々、束とは別の形でISを発展させる方法を試行錯誤していたので、クロエが束の名代として世界各国のISに触れ、強化案を提案し、開発協力を行う事は予め決められていたのだ。

 

 

 ――現行IS強化改修計画<リインフォース・プロジェクト>。

 

 

 それがクロエが主導となって世界に広められていく計画だ。尚、束は束で自分の研究の片手間にアドバイザーとして時折口は出すが、直接的に技術の教授は行わないつもりだ。つまり束の技術はクロエを通して伝えられる、という事になる。

 

 

「……そう言う訳ですので。更識 簪さん。クロエ・クロニクルです。よろしくお願いします」

「あ、は、はい……! さ、更識 簪です……簪って呼んでください」

 

 

 がちがちに固まり、ロボットのような動きで簪はクロエへと手を差し出した。クロエは震える簪の手を取って優しく握りしめた。後の歴史、多数のISを世に輩出する科学者の卵である二人。その出会いと交友はここから始まる事となる。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 夕焼けで空が紅く染まっている。そんな空の下、海が見渡せる丘に一夏はいた。

 一夏はゆっくりと丘を登るように歩いていく。視線を上に上げれば丘の先が見える。

 紅く焼けた空。その日の色に照らされた鈴音の姿に一夏は目を細めた。

 

 

「……よぉ、鈴。来たぜ」

「……うん」

 

 

 ここに二人がいる理由。それは鈴音が一夏を呼び出したからだ。一夏に背を向けたままで鈴音は一夏に応じる。

 

 

「良いのかよ。寮にいなくて。ルームメイトに何を言われるかわからないから来ないって言ってたじゃねぇか」

「そうよ。でもね、これはね。早く済ませちゃわないと決意が鈍っちゃうし……フェアじゃないもの」

 

 

 くるり、と鈴音が振り返って一夏を見下ろす。夕日が振り向いた鈴音に影を作る。だがそれでも赤い光は彼女を鮮やかに照らし出していた。一夏は眩しげに鈴音の姿を見つめた。

 わかっているとも。ここに来た理由も、ここに呼ばれた訳も。だからこそ一夏は真っ直ぐに鈴音へと視線を向けた。一歩、二歩、進めば手が届く距離だけ二人は離れて向き合う。

 

 

「……約束、覚えてる?」

「だから俺はここに来た。だから俺はお前に聞きに来た」

「……そっか」

 

 

 嬉しそうに鈴音は微笑んだ。歯を見せて微笑む表情はあまりにも彼女らしい。

 緊張を解すように鈴音は息を吸った。なのに吐き出した息は震えていた。何かを言いかけた口は吐息が震えて声にならない。もう一度、顔を俯かせて、肩を震わせながら鈴音は息を吸う。一夏はただその姿を見守る。ただ鈴音が言葉を紡ぐのを待つ。

 

 

「……ッ……!」

 

 

 声が出ない。まさか言えないなんて。身体が震えて鈴音は拳を握りしめる。あぁなんて情けないんだろう。変えなきゃいけないのに。変わる事を望んで来たのに。いざ変化を受け止めようとすると、こんなにも怖くて身体が震える。

 言わなきゃ。そう思うのに唇は震えて声に出来ない。どうして、と。唇をきゅっ、と噛みしめて鈴音は込み上げてくる涙を抑える。ここで泣いたらきっと一生言えないのに。

 

 

「――鈴」

 

 

 一夏がそんな鈴音の名前を呼んだ。いつもと違う、どこか頼りがいのある声で。

 視線を上げれば一夏は真っ直ぐ鈴音を見ていた。穏やかに彼は鈴音の言葉を待つ事が出来た。一夏にもう覚悟は出来ている。そう、先ほど彼は言った。だから自分はここにいるのだと。

 言わなきゃ。もう一度心の中で呟く。いつの間にか彼は先に行ってしまっている。以前とは違う。なら自分だって変わらなきゃこの距離は縮まらない――ッ!!

 

 

「――……一夏」

 

 

 ようやく呼べた。そうすれば身体の震えは止まった。硬直していた身体から緊張は消え去って、今度はするりと言葉が出る。だってわかったから。受け止めてくれるって。だからもう、何も心配要らない。例えその先にどんな変化が待っていても、もう私は踏み出せる。

 

 

「私は、凰 鈴音は――貴方の事が、織斑 一夏の事が好きです」

 

 

 さぁ、と。波風が鈴音の髪を揺らした。吹き抜ける風は一夏の下まで届き、そのまま過ぎ去っていく。

 一夏は鈴音を見つめた。鈴音は僅かに涙を滲ませた瞳を穏やかに緩ませて、満面の笑みを浮かべている。彼女を照らしている日のように美しい。見惚れるままに一夏は、あぁ、と感嘆の息を零す。

 

 

「……鈴」

「……はい」

「ありがとう。凄い嬉しい」

「……はい」

 

 

 はい、だなんて鈴音には似合わないな、と一夏は思いながら胸の中にある言葉を形にしようとする。

 

 

「俺は鈴のお陰で変われたんだと思う。お前が俺にこの気持ちを与えてくれた。恋愛を知らなかった俺に恋をする事を教えてくれたのは間違いなくお前だ」

「……はい」

「俺は、お前にきっと恋をした。初恋はお前だ。今なら理解出来る。お前に指摘された時から俺はお前を好きになってた」

「……ッ!」

「でも、駄目なんだ。……駄目なんだ……!!」

 

 

 一夏は、震えた拳を握りしめながら吐き出すように告げる。もう片方の手で心臓を掴み挙げるように胸に手を添えて爪を立てる。

 

 

「俺はこんな気持ちを知らなかったから、どうすれば良いのかわからなくなる。好きになればなる程、俺はどうすれば良いのかわからなくなる。お前だけじゃないんだ。きっと箒にも同じ気持ちを持った」

「……そうなの?」

「俺は嬉しかったんだ。俺が好きだと思われてる事が。俺を愛してくれる事が。俺は知らなかったんだ。自分の幸せだなんて考えた事が無かった。不誠実だと思う。最低な野郎だと思う。だけど俺にはまだどっちかを選ぶ程、強くはなれない……!」

 

 

 恋をする事は当たり前じゃないから。だから好きになってくれたという事実が、どれだけ代え難いか一夏は知らなかった。恋をする事も知らなかったから。

 だから知れば知る程、悩めば悩む程、自分の中で答えが出る度に一夏は思う。手放したくない、と。その温もりが、どれだけ優しいかを知ってしまったから。

 それは織斑 一夏を壊す毒だった。今までのように気持ちが動かない。感情の制御が出来ない。ついつい目で愛おしい姿を追ってしまう。まるで確かめるように。自分でも馬鹿みたいだと思う程に。

 

 

「……ごめんな、鈴。俺はお前の告白に返す答えを持ってない。受ける事も出来ないし、断りたくない……」

「……そっか」

「……呆れてくれて良い。今の俺にはこうしか言えないから」

「そうね。本当、最低」

 

 

 最低、と。鈴音が告げた言葉はあまりにも優しい声色で、一夏が思わず顔を上げた瞬間だった。

 視界にいっぱいに目を閉じた鈴音の顔が広がった。鈴、と名前を呼ぼうとした唇は言葉を発する事はない。その唇は温かい温もりに閉ざされてしまっているから。

 ゆっくりと温もりが離れていく。鈴音の吐息が一夏の唇に当たり、一夏は思い出したように呼吸を再開した。鈴音は涙に滲む瞳を細め、柔らかく笑みを浮かべている。

 

 

「本当、最低。まるでお子様ね。でも……嬉しかったよ。初恋が私だって言ってくれて。私が考えて欲しかった気持ちを一生懸命考えてくれて。わかるよ。一夏が私を、箒を傷つけたくないから本当は言葉にしたくないんだって。一夏は優しいから。

 だから言葉にしてくれてありがとう。……だからここから始めるわ。一夏。私は貴方が好き。例えどんな結果になっても重ねた唇は後悔しない。貴方を愛した思い出になる。どんな答えでも良い。いつか必ず出しましょう。それまで私はずっと貴方を愛してあげる。だから後悔する結果だけは選ばないで。きっと、選ぶだけで今の一夏は後悔するから」

「鈴……」

「選ばせて見せるわ。どんな後悔をしたって、私を奪いたい、って。思わせて見せる。――だから好きだよ一夏。私は貴方を愛する事が幸せ。でも、貴方に愛される事も幸せなんだから。だから私は貴方を愛していける。だから貴方が選ぶその時までずっと愛してあげる」

 

 

 忘れないで、と。

 今度は頬に口付けて、鈴音はそのまま走り去ってしまった。慌てて振り返れば夕日に照らされて走っていく鈴音の姿が見える。

 伸ばした手はまた届くことはない。ようやく追いついたと思ったら彼女は先へ進んでしまっている。呆然と手を伸ばしていた一夏だったが、伸ばしていた手を顔に添えて丘に倒れ込むように仰向けになった。

 

 

 

 

 

「――……反則だろ、それ」

 




「人は恋をする。切なくて。苦しくて。でも幸せ? それは矛盾? ……でも忘れたくない気持ち。大切な気持ち」 by雛菊
 

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