朝の空気を一杯に肺に取り込む。まだ日の昇らない時間に街を駆け足で走るのは一人の少年だ。肩下げ鞄を揺らして、白い吐息を吐き出しながら少年は走っていく。
鞄の中から取り出したのは新聞。新聞をポストに放り込み、次の家へ。少年の足は止まらず、次々と新聞を配達していく。鞄の中に詰められた新聞の数は決して少なくないのにも関わらず、彼は軽快に走っていく。
最後の新聞の配達を終えても少年の足は止まらない。そして朝日が昇り始める時刻となり、少年は差し込んだ日の光に目を細めた。
燃えるような朱。暗さを残した藍。そして眩い白。色が入り乱れる空を目にして少年は息を吐き出す。足を止めて空の色を手に収めるように手を伸ばす。だが幾ら少年が手を握った所で空を掴む事など出来ず、拳には何も残らない。
「……遠いな」
少年の名は織斑 一夏。日本に住まう“戦乙女”の弟である彼は、目を細めながら空を睨んでいた。
* * *
「ただいまー」
返事が無い事を理解しながらも一夏は自宅の扉を開けながら帰宅の挨拶をする。
彼の日常は朝の新聞配達のアルバイトから始まる。最初は自転車を使っての配達だったが、今は身体を鍛える一環として新聞を担いで走っている。
汗を掻いた身体に水分を与え、シャワーを浴びて汗を流す。男らしく豪快にシャワーを浴びた後は朝食の準備に移る。
朝食は一日の活力となる。新聞配達を終えてエネルギーを消費した身体にとってこの朝食を欠かす事は出来ない。そして、今日は食事を取るのは自分だけではない。気合いが入るというものだ。
包丁を握った一夏の姿は正に主夫そのもである。ネギを手早く切り刻み、味噌汁の味を確かめる。今日のダシは昆布ダシ。味噌汁の味を確かめて小さくガッツポーズ。味見が終われば切り揃えておいたネギ、そして豆腐をサイコロ状にして味噌汁へと入れる。
次にフライパンを踊らせれば、熱々の卵焼きが完成する。少し甘めに味付けされた卵焼きは織斑家でこよなく愛されている。これこそが織斑家の家庭の味の代表格だった。
そして身体の資本となるのは肉。衣がさっくさくの唐揚げは湯気を放ち食欲をそそる。思わず涎を垂らしてしまう。ついつい一夏がつまみ食いをしても、咎める事は出来ないだろう。
野菜を適度に盛りつけて即席のサラダに。テーブルに並べられた朝食は多少、量が多いが一夏にとっては丁度良い。運動を終えて、栄養を欲している身体は急かすように腹の虫を鳴かせる。
今すぐにでも席について腹を満たしたい所だが、その前にやらなければならない事がある。家で一人でいる事が多い一夏だが、今日は家を空ける事が多い姉が帰ってきているのだ。まずは彼女を起こさなければならない。
「千冬姉ー! 朝ご飯だぞー! 起きろー!」
一夏は姉の私室のドアにノックをする。一度、二度叩くも反応がない。いつもの事か、と溜息を吐いて一夏は勢いよく扉を開けた。
織斑 千冬。それが一夏の姉の名前だ。彼女はなんとも安らかな顔で、布団にくるまって寝息を立てていた。だが一夏は容赦しない。放っておけばこの姉は惰眠を貪ろうとする事は間違いなしなのだから。
「ほら、千冬姉! 朝だって! 起きろー! 今日からまた学園なんだろ?」
「むぅ……。すまないが月曜日は帰ってくれ……」
「何言ってるんだ。もう日曜日はとっくに終わってるぞ? ほら、起きろ!」
「わひゃぁっ!?」
布団を剥ぎ取れば寝間着姿の千冬が転がっていく。外気に晒された事で眠気が吹き飛ばされたのか、不機嫌そうに千冬は一夏を睨み上げた。
「一夏! 少しは遠慮しろ!」
「だったら頼むから惰眠を貪るのをどうにかしてくれよ。休日だったからってだらけすぎじゃないか? 千冬姉」
「うぐ……っ」
「っていうか、また部屋汚くして……勘弁してくれよ。お酒は飲んだら片付けてくれっていつも言ってるだろ?」
「わ、わかった! わかったから出て行け! 女性の私室に我が物顔でいるな! 馬鹿者が!」
千冬の部屋は一言で言ってしまえば汚かった。机には高々と積み上げられた参考書の数々。それだけならばまだ笑って許せるのだが、床に散乱したつまみのゴミにアルコール飲料の空き缶。まったくもって酷い有様だった。
そんな有様を見られたのが恥ずかしいのか、一夏に千冬は顔を赤くしながら出て行くように促す。はいはい、と一夏は投げやりな返答をしながら部屋を後にする。
千冬がリビングに出てくるまでの間にお茶を用意しておく。お茶が用意出来た頃、着替えた千冬がリビングに出てくる。そして二人でテーブルについて食事を始める。
「「いただきます」」
織斑家の変わらぬ朝の風景がそこにあった。
* * *
一夏の通学方法は徒歩だ。学校までの道のりを一夏はランニングがてら駆け抜けていく。そんな一夏と並走する自転車がいる。自転車に跨っているのは赤い髪にバンダナを巻いた一夏と同い年の少年だった。
「相変わらず頑張るねぇ、お前」
「よぉ、弾。おはよう」
「おっす、一夏」
自転車に跨る少年は五反田 弾。中学校に進学した一夏と同じクラスで、意気投合した友人だ。
これは二人にとってありふれた登校風景だ。自転車に並走しながらランニングする一夏と、そんな一夏を茶化しながら学校に向かう弾。そんな二人の姿に街の住人達は微笑ましそうに視線を送る。
学校にたどり着くと、校門には一人の少女が腕組みをして一夏と弾の二人を待っていた。少々小柄な体躯だが、意思の強さは人一倍ありそうな少女は一夏と弾の姿を見つけて笑みを浮かべる。組んでいた腕を解き、二人に手を振った。
「一夏! 弾! おはよう」
「おぉ、鈴。おはよう」
「おっす。鈴」
彼女の名は凰 鈴音。一夏と弾は彼女の事を鈴、と愛称で呼んでいる。弾が駐輪所に自転車を預けに行く為に離れ、一夏と鈴音は二人で並んで自分たちの教室へと向かう。その間に一夏は僅かに浮いた汗を鞄から取り出したタオルで拭っている。
そんな一夏の姿を鈴音は感心したように見ていた。鈴音は一夏とは小学校の高学年からの付き合いだ。だから一夏とはそこそこ付き合いがあるのだが、彼を知るからこそ鈴音は一夏が始めた習慣に感心を覚えていた。
「まさかアンタがいきなり身体を鍛え出す、って言った時は何か悪いもんでも食べたんじゃないか、って思ったけど……本気なのねぇ」
「冗談と思ってたのかよ」
「そういうキャラじゃなかったでしょ、アンタは」
鈴音から見た一夏は誰にでも優しいが、どこか抜けているような少年だった。少々華奢にも思えた身体は中学校に上がってから、段々と男らしさを周囲に感じさせるようになっていた。
昔は身体を鍛えるというキャラでは無かった筈だったのだが、ある日を境に一夏は変わった。今までどこか抜けていた筈の少年はどこ行ったのか、今では無心で身体を鍛える一夏の姿が当たり前になっている。
「中学校に入ってから剣道部になんか入っちゃって……。本当、変われば変わるもんねぇ」
「元々、俺は剣道をやってたんだけどな。教えてくれる先生がいなくなったから止めちゃったし」
「そうなの?」
「あぁ。鈴が引っ越して来る前の話だしな」
「じゃあ何で再開したのよ?」
理由を問いかけてくる鈴音に一夏はどこか遠くを見つめるように視線を上げる。
「強くならなきゃいけないんだよ。俺は」
* * *
日本にはIS学園というISについての教育、技術習得の為の育成機関が存在する。IS搭乗者の多くはこの門戸を叩き、学んだ知識と技術、経験、友人、多くのものを自国へと持ち帰っていく。
そのIS学園にスーツ姿の織斑 千冬の姿があった。ふぅ、と溜息を吐いて千冬は眉間を揉みほぐすように手を添える。そんな千冬の視界の端に差し出されたコーヒーが目に映る。
「織斑先生、お疲れ様です」
「山田先生か、ありがとう」
千冬は差し出されたコーヒーを手に取る。コーヒーを差し出したのは穏和そうな女性だ。山田と呼ばれた彼女の名は山田 真耶。千冬の古くからの知り合いである。
真耶から受け取ったコーヒーの蓋を開けて喉に通す。隣で同じくコーヒーの蓋を開けていた真耶も、コーヒーを喉に通して溜息を吐いた。
コーヒーの苦みが身体に染み渡り、何とも言えぬ息が千冬の口から漏れる。そんな千冬の様を見て真耶はおかしそうにくすくすと笑った。
「お疲れですね」
「慣れぬ事ばかりだからな。……山田先生には世話になっているよ」
「いえいえ。これも先輩のお仕事ですよ。織斑先生」
「奇妙な話だな。君に物を教えていた私が教わる立場になろうとは……」
「あははは。そうですねぇ、織斑先輩」
千冬の呟きに真耶はおかしそうに笑いながら呼称を先生から先輩に改めた。
山田 真耶は元々はISの日本代表候補生だった。だが彼女は第1回モンド・グロッソの際、千冬に代表の座を譲る事となる。それ以降、真耶は教師の道を目指していた。
今では立派な教師となった真耶の仕事は、同じく教師の道を歩み始めた千冬への研修だ。かつて代表候補生だった頃、教えを請うていた先輩に先生として教えている。それがおかしくて真耶は笑う。千冬も同じ思いなのか、穏やかに笑みを浮かべている。
「でも吃驚しましたよ。突然、織斑先輩が教師になる、なんて言い出した時は」
「……まぁ、な。私も思うところがあったのさ」
「……第2回モンド・グロッソの事ですか? もしかして気にしてるんですか? 誘拐事件の事。弟さんの話は聞きましたけど、別に先輩が悪い訳じゃ……」
「言っただろ? 思うところがあるんだよ。山田君」
真耶が眉を寄せながら出した話題は自然と空気を重たくした。千冬は苦み走った顔を浮かべる。そんな千冬を見つめる真耶の表情は暗い。真耶の視線を受けながら千冬は自らを嘲るように鼻を鳴らした。
「私は日本代表にあるまじきISの私的使用を行った。そんな者が代表という地位に就いていたことがおかしかったのだよ。実力だけで計ってはいけない。相応しき節度を持つ者が代表にならなければならなかった。私は、今まで許されていただけなんだよ」
「そんな……。先輩はそんな人じゃないですよ。普通、弟さんが攫われたと聞いて冷静になれる筈がないじゃないですか! しかも未確認のISまで確認されていたんでしょう? 全てが先輩の責任なんかじゃ……」
「それでも、だ。結果はどうだ? 私は未確認ISを取り逃がし、弟を攫った犯人の足取りさえ掴めなかった。ただ感情のままに暴れて残ったものはなんだ? 何も残らないじゃないか。あの時ほど最強の称号が虚しく思えた事はないよ。私はちっぽけな人間だと思い知らされた」
――あまつさえ無力な筈の弟にまで庇われた。
言葉にこそしなかったが千冬の心に残り続けている後悔だ。一夏が誘拐されたと耳にし、周囲の制止を振り切り、当てもなく彷徨いながら一夏の姿を探して駆けめぐった。栄えあるモンド・グロッソの事など頭に無かった。代表という地位をかなぐり捨てて千冬は一夏を探した。
ただ走った。息が荒れる度に足を止め、休めばまた走り、また足を止めて、また走る。自分がどこにいて、時間がどれだけ経っているのかすらわからない。足を止めると後悔に押し潰されそうで恐ろしかった。
そうしてようやく見つけた一夏の姿に安堵して、歓喜した。同時に傍にいた未確認のISに対して激情を覚え、流されるままに牙を剥いた。その結果、突然のISの機能停止という事態が起きてしまい、1つ間違えば命を落としてもおかしくはない状況にまで追い込まれた。
だが千冬は生きている。一夏も無事に帰ってきた。一夏の話を聞けば、結果的には一夏を救ってくれたのは未確認のISだったという事になる。
そして忘れられないのが自分を“オリジナル”と呼んだ自分に良く似た“誰か”。その意味を悟れない程、千冬は愚かではない。
千冬は自分が虚しくなったのだ。自分のやっていた事は一体何なのだ、と。虚無感に囚われ、後悔し、思考を止めている間に、気が付けば再び最強の座に上り詰めていた。
なんだこれは。千冬は思った。最強と崇められる人間がこんな人間なのか。良い試合だったと、悔しさを飲み込みながら褒め称えた相手を討ち果たした人間がこんな人間だと? そんな事実が認められる筈も無かった。そして千冬は栄光の座から逃げ出した。それらしい言葉を並べ立てて。
「山田君、私はISが無ければただの粗忽者だ。弟がいなければ生活もままならない。家事など出来やしない。ただISが私を守ってくれた。ISが私の力だと思っていた。そんなもの自分自身の力などではないのにな。何を勘違いしていたんだ、私は。殺してやりたくなる」
手で顔を覆いながら、喉を震わせるように千冬は笑った。罰を求める咎人のようだと真耶は千冬の姿を見て思った。一体、何が彼女の心を折ってしまったのだろう、と真耶は胸を痛める。今の千冬の姿はあまりにも痛々しすぎる。
だからこそ千冬を放っておけなかった。かつて世話になった先輩がこんな姿になってしまった事が悲しかったし、助けてあげたかった。だから真耶は誰もが“ブリュンヒルデ”の名に遠慮する中、千冬の研修を請け負ったのだ。
「……それで教師の道を?」
「馬鹿をやる奴は少ない方が良い。そして馬鹿をやった時、助けてやれる人になりたい。笑ってくれ。山田君。私は今更ながらに自分自身の目標を見つけたんだ。何かになりたい、なんて思わなかった自分が初めて見つけたんだ」
「笑いませんよ。今までずっと弟さんの為に頑張って来たんですよね? 自分のやりたい事なんてわからなくなるぐらいに」
「……頑張ってきたつもりだった、だ。結果、本当に私達は助け合っていたのかわからなくなった。守っているつもりで守られていたからな」
「家族ってそういうものじゃないですか? お互いを思い合うのが家族なんじゃないんですか?」
自分自身を嘲笑するように呟く千冬に真耶は励ますように告げる。しかし、千冬の表情は晴れる事はない。
無表情を貫く千冬の顔はまるで泣いているようだった。けれども既に涙は枯れ果てているかのように。乾いた瞳は何も映しはしない。
「私は何も守れていない。あの子の命も、心すらも守れなかった。そして今も救えていない。救えていないんだ……」
* * *
「織斑、お疲れ様。それじゃあ先に失礼するぜ」
「お疲れ様です」
部活が終わり、先輩達が先に帰宅していく中、一夏は道場の掃除を行っていた。今日は一夏が当番の日だったからだ。熱心に道場の掃除を行い、一通り終わった所で一夏はふと、竹刀を手にとって道場の中央へと立つ。
しん、と静まりかえった道場の中には一夏一人だけ。竹刀を構えながら一夏は瞳を閉じる。脳裏に映し出されるのは――白きISの姿。
一夏には後悔がある。それは姉の晴れ舞台を応援に外国の地へと訪れた時、彼は誘拐されてしまった。今でも、あの時の恐怖を思い出すと身が震えそうになる。
そんな自分を助け出してくれた白き翼。一夏の目に焼き付いて離れない白の姿を一夏は忘れる事が出来ない。
未確認のIS。アレの正体が一体何なのか一夏には推し量る事は出来ない。自分を助けたかと思えば、自分を助けに来たのだろう千冬と交戦が始まってしまい、ISが停止した千冬を無造作に地に放り捨てた。
訳がわからなかった。ただ状況に流されるままだった。ただ、それでも白のISの前に立ち塞がったのは愛おしい姉を失いたくないという思いからだった。足が震えて、今にも逃げ出しそうな自分を必死に奮い立たせて睨み付けた。
死という突き付けられた事実に怯えた。それでも逃げてはいけないと、自分に言い聞かせて。そうしなければ全てが崩れ落ちてしまいそうだった。
一夏にとって頼れる人は千冬だけだったから。だから刃向かった。今となってはそれが正しかったかなんてわからない。結局、あの白きISは一夏や千冬に何をするわけでもなく姿を消したのだから。
――本当に助けるつもりで助けてくれたならば、俺は最低な事をした。
答えはわからない。真意を知る事は出来ていないから。だがもしも本当に助けようとしてくれていただけだったら。自分は助けてくれた手を振り払って、あまつさえ石を投げた。じくりと胸が痛みを覚えて息が乱れる。
あの日、もっと強ければ真実が見えたのだろうか。そもそも誘拐なんて事にはならなかったんじゃないか。後悔が付きまとう。まるで身体に括り付けられた重りのように。
「……強くなれ、か」
千冬はあのISについては何も語らなかった。そして千冬は一夏にISに関わらせたくないのか、一夏にISの事を知ろうとする事を咎めるようになっていた。千冬もきっと後悔しているのだろう。だからこそ代表の座を辞した。輝かしい成績だけを残して。
けれど、もしかしたら自分が誘拐なんてされなければ千冬はまだまだ現役でいて、もっと輝かしい功績を残せていたかもしれない。だからこそ後悔が胸に突き刺さる。それも全部自分が弱かったから。そんな自分にあのISは言った。お姉さんを大事に、と。強くなれ、と。
「そうだ……。俺は強くならなきゃいけない。ならないといけないんだよ……!!」
ISがある以上、一夏の決意はどこまでも世迷い言でしか無いだろう。嘲笑すらされてしまうだろう。
それでも足を止める事は出来ない。強さとは何か、一夏にはまだわからない。腕っ節だけ強くなってもそれは強さとは言わないだろう、と。
答えが出ない。わからない。辛くて膝を折って喚き散らしたくなる。教えてくれ、と叫ぶように。強くなる為にはどうすれば良いと、一夏は藻掻き苦しんでいる。
救いを差し伸べた手を払ったかもしれない。姉の努力を穢したかもしれない。じくり、じくりと。一夏の後悔は心を侵していく。へばり付くように、爪を立てるように、一夏の心に痛みを練り込み、刻みつける。
――だから、織斑 一夏は己を憎み続ける。
* * *
剣道部の部室を後にして、外に出てみれば夕日がすぐにでも沈みそうな時刻だった。闇が迫る中、一夏は荷物を抱えて校門へと歩いていく。
歩めども、歩めども、答えは見えず。励めども、励めども、成果は見えず。
時折、どうしようもなく自分のやっている事が虚しくなる時がある。何を頑張っても手の中には何も残らない。心が軽くなる事など無い。そしてその度に思う。
結局あの日、救われた事を後悔しているんだろう。救われた命は救った手に対して手を払った。命を救おうと足掻いた姉は無力に心を折った。全部、全部、全部、全部、全部! 自分がいたから! 自分が弱かったから!!
「……ちくしょう」
一夏は前髪を掻き上げた。何度も繰り返した問答だ。終わった時は巻き戻らない。後悔は消えない。一夏は知っている。そんな自分を千冬は時折、後悔に満ちた瞳で見ている事を。
千冬がどこまでも遠かった。あんなに頼りがいのあった背中は、今は触れれば砕けてしまいそうに弱々しくなってしまった。それでも変わらぬようにと振る舞い続けて、今もきっと身を削っている。
これが望み? そんな筈がない。だったらどうすれば良い。もう千冬を悲しませたくないならこの後悔を乗り越えるしかないじゃないか。自分が許せないなら、許せるまで罰するしかないじゃないか。
だから強くなれ、という言葉を一夏はただ守り続けている。それが唯一、自分に残された道標だったから。
「一夏」
声がして一夏は顔を上げた。朱く焼けた空の下、影が濃くなった校門。一夏はそこに立って、自分の名を呼んだ相手に目を丸くした。
鈴音がそこにいた。僅かに顔を俯かせている姿は、どこか奇妙だった。
「鈴? お前、どうしたんだ? こんな時間まで何してんだよ?」
「……ねぇ。答えなさいよ」
「は? いや、聞いてるのはこっちなんだが?」
鈴音が見上げるように上げた顔にはまるで挑み掛かるような表情が浮かんでいる。
朱の光で照らされた為か、肌に朱の色を浮かべた鈴音は言葉を放った。
「あんた、何をそんなに苦しんでるの?」
突き刺すように放たれた言葉に、一夏の心臓が悲鳴を上げるように強く跳ねた。