“黒”の紅茶《完結》   作:山中 一

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九話

 見当識が失われた状態から、どれくらいの時間が経っただろうか。

 ホムンクルスは、自分が生きていることに驚きながら身を起こした。湿った地面。苔むした岩。風に揺れる木々。景色は意識を失う直前となんら変わらず、それでいて彼の周りにあの明るい笑顔はない。

 静まり返った森の空気。そこから伝わる虚無感が、身体の芯に染み込んでくる。ライダーが側にいたときには感じることのなかったものだ。

「これは……」

 ホムンクルスの手には、一振りの剣が握られていた。簡素な装飾の鞘に納められた剣からは、魔力の気配を感じる。彼には、一級の魔術回路がある。魔術師として完成された個体であるが故に、その剣の性質をすぐに理解できた。

 この剣は業物であるが、それ以上に魔術礼装としての意味合いが強い。治癒と簡易的ながら認識阻害の術を放ってくれるらしい。この剣のおかげで、ホムンクルスは一命を取り留めたようなものだ。

「アーチャーか……」

 自分に手を差し伸べてくれる人物で、この剣の持ち主だと思えるのは彼くらいのものだった。

 ライダーはこの剣を持っていなかったし、最後に意を決してマスターに諫言をしてくれたセイバーも魔術的な能力の持ち主ではなかったはずだ。正体不明の、それでいて実直な性格の赤き弓兵。

 彼らが側にいないというだけで、心細く思える。

 ホムンクルスにとって、数少ない理解者であり庇護者であったライダーとアーチャー。マスターと対立してでも、自分の命を救おうとしてくれたセイバー。三人の英霊に生かされて、ホムンクルスはここにいる。

 なんたる奇跡か。

 彼は、大きく息を吸って、空気で肺を満たし、ゆっくりと吐き出した。

 痛みはない。治癒の魔術が、ホムンクルスが受けた傷を癒していた。

 ただ、息を吸って吐く。この一連の動作が、これほどまでに開放感のあるものだとは思わなかった。ホムンクルスは、今は生を実感している。死に怯えていた日々からの解放。新たなる人生の門出。それが今だ。

 歩まなければ。

 ホムンクルスは、とにかく森を出ることにした。近くの人家を探す。ミレニア城砦から離れることが何よりも大事だ。捕まれば、今度こそ死んでしまうだろう。

 救い主である三騎の英雄は、これから聖杯大戦に復することになる。

 歴史に名を残した英雄でさえ、容易に生き残ることのできない絶望的な戦に。

 それが、彼らの義務ならば、自分の義務は生き残ることである。彼らに託されたこの命を、精一杯に燃やし尽くすことが、礼儀であり、義務だ。

 庇護者は去った。

 雛鳥として庇護される日々は今日を以て終わりを告げたのだ。

 歩くことすらままならなかった彼は、ついに籠から解き放たれ、自由を得た。その代償に、己の足で立ち、歩み続けなければならなくなったが、それは、いつまでも守られてばかりはいられないという至極真っ当な流れであろう。むしろ、ここまで自分を守り慈しんでくれた彼らに、感謝しなければならないだろう。

 息はすぐに上がり、心臓は破裂しそうに高鳴っている。足は瞬く間に熱を帯びて痛みを訴える。だが、それは生の証だ。

 短い人生を生きるために、必要な痛みなのだ。

 

 

 自分だけが戦いから逃れている。そのことに、後ろ髪を引かれながら、ホムンクルスは前を向いて歩き続けた。

 

 

 

 □

 

 

 

 ダーニックは自らの書斎でため息をついた。

 すでに一世紀近くの年月を重ねていながら、その秀麗な面持ちからは聊かの衰えも伺えない。その代わり、一組織の長としての気苦労が滲み出ていた。

 魔術協会からの離反を宣言し、聖杯大戦を開始してからかなりの時間が経ったようにも思う。

 半世紀の長きに渡って、大聖杯を秘匿し続け、魔術協会の中で獅子身中の虫として機会を窺い続けたのも、すべてはこの戦いで勝利するためだ。

 通称、『八枚舌のダーニック』。策謀家として名の知れた彼は政治の分野で傑出した能力を発揮する。ユグドミレニアが、今の今まで無視され続け、結果として魔術協会の不意を突く形で聖杯大戦を勃発させることができたのも、ダーニックの政治手腕によるところが大きい。

 準備は万端だった。半世紀の時間を費やして一族を肥え太らせ、魔術協会の講師職を隠れ蓑にして油断を誘い、各地に諜報員を放ち、万全の態勢を整えて聖杯戦争(・・・・)に臨んだのだ。

 だが、戦争というのは、いつの時代も、そしてどのような場合も生物だ。この戦いでも、ダーニックはそれを痛感させられた。

 宣戦布告してから、今日に至るまで、策謀家のダーニックをして想定外の事態がいくつか生じている。

 まず第一に、聖杯の予備システムを起動させられたこと。

 本来、ダーニックは聖杯大戦など想定していなかった。一族内で聖杯戦争を行い、聖杯をユグドミレニアで独占する腹だった。だからこそ、自分以外のサーヴァントの霊格が低くても問題はなかったのである。最後にはダーニックが召喚したランサーが勝利を手にすることが約束されているようなものだからだ。

 だが、魔術協会が放った五十人の刺客がその前提を崩してしまった。

 生き残った魔術師が予備システムの起動に成功、結果として聖杯大戦という形で魔術協会が介入してきた。おまけに、魔術協会は“黒”の陣営を上回る強大な英霊を揃えてきた。一族内での戦争にダーニック自身が確実に生き残るために、あえて触媒の探索を各自に任せていたことが、ここにきて仇となった。もしも、ダーニックが率先して触媒を集めていれば、もっと高いスペックの英霊を呼び出しうる触媒を手に入れていただろう。

 第二に、アーチャーの存在。

 正体不明どころではない。真名はおろか、宝具の投影という破格の魔術を使う無名の英雄。過去の文献を漁ってみたが、この英霊に該当する魔術師は見つからなかった。

 だが、今となってはこのアーチャーも貴重な戦力だ。

 第三に、アサシンの欠落。

 “黒”の陣営に属するはずのアサシンは召喚されていながら連絡がとれない。今、どこにいるのかも分かっていない。最悪、敵側にいる可能性もある。

 “赤”のバーサーカーを手に入れたが、あれは戦場で使い潰すための兵器に過ぎない。アサシンの不在は、敵を利することにしか繋がらない。

 そして、第四に、キャスターの最終宝具が完成しないことである。

 ゴーレム使いのキャスターの宝具は、やはりゴーレム。史上最高のスペックを持つA+ランクの対軍宝具『王冠:叡智の光(ゴーレム・ケテルマルクト)』である。その材料を集めるために、ダーニックは資産の三割を費やした。だが、それだけではまだ足りない。この宝具には核となる炉心が必要だ。その炉心だけは、ダーニックでも容易く手に入れられるものではない。

 すなわち、一級品の魔術師。

 そのようなもの、マスターの中にすら二流の魔術師がいるユグドミレニアが用意できるはずがない。

 唯一、代替案として突然変異的に才覚を持ったホムンクルスが使えるという話だったが、これもライダーたちによって庇われてしまった。

 生粋の魔術師であるダーニックには、ライダーやセイバー、アーチャーがどうしてそこまでしてホムンクルス一体を救おうとするのか理解できない。合理的に考えれば、本来、替えの利かない魔術師を使うべきところを、消耗品一つで補えるのであるからこちらの方が優れた案のはずだ。本音を言えば、今からでも、追いかけて捕らえたいところだ。だが、それはできない。こちらの陣営でも最高位の一角であるセイバーとアーチャーが共にホムンクルスを庇っている。主犯格であるライダーも、貴重な戦力であることに変わりはない。彼らの思いを踏みにじることは、“黒”の陣営を二分することに繋がってしまう。

 ダーニックは、冷静且つ合理的に物事を考えられるがゆえに、魔術師としてでなく戦術家として彼らを尊重することができる。

 また、ホムンクルスを追わなかった理由として、ランサーが彼らの行動を英傑の振る舞いとして理解を示したことも大きい。

 領主(ロード)と仰ぐ者が認めた事柄に、異を唱えるわけにもいかない。

 なによりも、今回は運がよかった。

 聞けばセイバーは自分の心臓をホムンクルスに捧げてでもその命を救おうとしたという。

 アーチャーが止めなければ、こちら側は切り札であるセイバーをつまらぬいざこざで失っていたのだ。替えの利かないセイバーと、他にも方法を探ることができるキャスターの宝具。どちらを優先すべきかは言わずとも分かるだろう。

「ままならぬな」

 再度、ため息をつく。

 キャスターの宝具が起動すれば、万に一つも負けはない。

 だからといって、セイバーを失えば、“赤”のランサーを抑えられる者がいなくなる。敵のセイバーもまた強力。戦力を失うわけにはいかない以上、ホムンクルスを追うという判断もできない。無理を押してホムンクルスを追えば、陣営内に不穏な空気が流れることになる。令呪で縛る手もあるが、それでは万全の状態で敵を迎え撃てなくなる。ただでさえ、質で劣るのだ。できるだけ、令呪はブーストとして使いたい。

 様々な事情を勘案し、ここはキャスターに引いてもらうように願い出た。

 キャスターのゴーレム作りにかける意気込みは、同じ魔術師として理解できる。実際、ダーニックは今回召喚された英雄たちの中でヴラド三世と同じくらいにキャスターを理解しているつもりでいた。

 汚名を雪ぐ。その一点のために召喚されたヴラド三世の願いには共感するところが多々ある。そして、魔術に対する姿勢という点で、キャスター――――アヴィケブロンに対しても共感することができる。

 しかし、彼は、魔術師らしい魔術師であるが故に、英雄の思考は想像の埒外である。

 おまけに、王と騎士では重んじる方針も異なる。アーチャーに関しては魔術師なのか騎士なのかよく分からない。

 様々な個性が入り混じった陣営。しかも、一人一人が英雄であり、精神の強さは人間を凌駕する。華々しいと言えば聞こえはいいが、誰もが主役という状況は、采配する側としては気が気でないのだ。

「だが、最悪の事態にはなっていない」

 そう、まだだ。まだ、絶望的な状況ではない。

 アサシンを除いて、こちら側は無傷で陣営を整えている。そこに加えて、スパルタクス(バーサーカー)がいる。ミレニア城砦という鉄壁の砦もある。頭を悩ませている采配に関しても、ダーニック自身の才覚と、全体がランサーを王に戴くという共通認識を持ってくれているために上手く成り立っている。そして何より、こちらのランサーは、あのヴラド三世だ。ルーマニア最大の英雄。串刺し公。彼のステータスはほぼマックスであり、この辺り一帯をスキルで領土と化している。

 ルーマニアで戦う限り、彼に敗北はない。

 一流の魔術師を如何にして手に入れるか。それが、悩みどころであった。

 

 

 

 □

 

 

 

「一時はどうなることかと思ったねー」

 私室に向かう道すがら、ライダーは相変わらず明るい顔で言う。

 ホムンクルスを意図して逃がした件に関して、事情聴取を受けていた三騎の英雄は、これといった咎を受けることなく解放された。それは当然、戦力の半分である三騎のサーヴァントが一様に庇うホムンクルスを害することなどできないということである。

「令呪でも使われるかと思っちゃったけど」

「戦争も序盤、しかもこの程度のことで令呪を消費するなどありえんよ。ダーニックのような魔術師ならば尚のことだ」

「ハハハ、だろうね。それにしても、ランサーがご機嫌だったのは意外だった」

 アーチャーの至極まともな答えにライダーは顔を綻ばせて笑う。

「彼は、誇り高い行いを尊ぶ。尊厳、意地、忠義、そういったものだ。それを貫いたライダーの行為を英雄として否定できなかったのだろう」

 自らの枷を壊したセイバーは、そう言って(・・・)ランサーを分析する。

 ランサーは自らの誇りをとりもどすためにこの戦いに参加している。ならば、誇りを傷付ける行いを許すはずがない。そして、その逆はむしろ賞賛するだろう。利敵行為ならばまだしも、失われたのはホムンクルス一体だ。英雄の誇りと釣り合うものではない。

「大丈夫かな、彼は」

 ライダーは一瞬、崩していた相好を不安そうにした。

「さてな」

 アーチャーは、肩を竦めて言った。

「アーチャー。少しくらい大丈夫とか言えないのか」

「彼が外の世界でどう生きるか、それはもう我々には関わりないことだ。心配するのは君の勝手だが、いつまでも子離れできぬ母親のようでは、この先が思いやられるぞ」

「うわ、辛らつだな。まあ、分かってたけどさ」

「君たちは理想主義すぎるからな、私が現実主義を気取ってもまだ二対一だ。全体としての調和は取れているはずだが?」

「待て、アーチャー。さり気なく俺をライダーと同種のように数えるのは止めてくれないか。俺は彼ほど真っ直ぐな男ではない」

「それ、誉めてる? 貶してる?」

 首をかしげているライダーがセイバーに尋ねる。

「ところで、セイバー。君のマスターは?」

 セイバーのマスターであるゴルドは、セイバー自身の手で意識を吹き飛ばされた。

「今、自室で休んでいる。じきに目が覚めるだろう」

「覚めてからが問題だな」

 セイバーは沈鬱な表情で頷く。

 ゴルドは、セイバーを信じきっていない。今回のセイバーの行いはゴルドのプライドを激しく傷つけたに違いない。

「もう一度、彼と話をする。同じ過ちは繰り返さない」

「そうか。ならばいいが」

 セイバーは一拍置いて、

「どうやら、マスターが目を覚ましたようだ。俺はこれで失礼する」

「健闘を祈るよ、セイバー!」

 ライダーが去っていくセイバーの背中に声をかけた。

 気難しいマスターに仕えると、サーヴァントも大変だ。マスターのご機嫌取りなど、サーヴァントの仕事ではないというのに。

 


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