“黒”の紅茶《完結》   作:山中 一

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静謐のアサシンちゃんといちゃいちゃする方法を示してくれたホーエンハイム先生はさすがやで。


四十八話

 “黒”のライダーはカウレスとフィオレを庇いながらも前進を続ける。

 二人の魔術師を守らなければならないので、移動速度は比較的ゆっくりとしている。人間が走れるペースにあわせなければならないのだから、サーヴァントとしてはランニング感覚である。

「ぐ、う……!?」

 走っている最中に、カウレスが胸を押さえてふらついた。

「カウレス!?」

「だい、じょうぶ。ちょっと、痛んだだけだ」

 フィオレが顔を蒼白にするが、カウレスはそのまま走り続けた。

「どうしたんだ? 胸、……魔術刻印?」

「分からない。けど、悪いものじゃない」

「どういうこと?」

 ライダーの問いかけを、カウレスは黙殺した。

 カウレスの身体にはフィオレから移植された魔術刻印がある。それに身体が慣れておらず、拒絶反応が出たのかと思ったが、そういうわけではないらしい。誰にも理由が分からないが、カウレスは思い当たることがあるようで、気にせず足を動かし続けている。

「気をつけて!」

 ライダーが叫び、紙で織り成された蝶が一斉に震えた。黒い渦が三人を取り囲み、一息に押し潰そうとするのを、ライダーの魔導書が一撃で粉砕する。

 魔術による妨害は、ライダーの前には意味を成さない。

 捻じ曲げられた道はライダーが通るときには直線に戻り、数百からなる幻の扉は飛び回る紙ふぶきに洗い流され正しい扉のみが残る。

 空中庭園の防衛機構が魔術に依存している以上は、“黒”のライダーを妨害することなどひっくり返っても不可能である。EXランクの魔術ですら、彼の行く手を阻む障害には成り得ない。

「おっと……」

 ある場所に来たところで、三人は足を止めた。

 行き止まりだった。道は閉ざされ後ろに戻るしかない。しかし、ここに来るまで一本道だったはずだ。となれば、――――ライダーは四方八方に魔導書の項を飛ばした。

 壁に張り付いた蝶が、周囲の魔術を尽く無効化していく。

 環境を書き換えていた魔術が消失する。その結果、三人の足場を構成していた床が砕けて七五〇〇メートル下の闇へ落下する。

 襲い掛かる極寒の気流が身体中に突き刺さった。

「はい……?」

 フィオレはぽかんと首をかしげる。

「お、おい……!?」

 強烈な浮遊感にカウレスは総身を震わせた。

「そーくるかああああああああああッ!」

 ライダーは魔術破りを逆手に取った罠に笑みすら浮かべて重力の手に掴まった。

「ライダーああああああああああああッ!?」

「きゃああああああああああああああッ!!」

 カウレスとフィオレが宙に投げ出されて落下する。

 高高度からの自由落下はパラシュートでも持っていない限りは死ぬしかない。魔術師としては甚だ遺憾ながら、魔術でこの高度から生還するというのは非常に難しい。礼装と魔術刻印を備えた万全のフィオレでも高確率で死ぬ。当然、魔術刻印を備えていたとしてもカウレスが乗り切れる高さではない。

「こんなもので僕をどうにかできると思うなよ、ヒポグリフ!」

 ライダーは異界から相棒を呼び出した。金色の光が結集し、ライダーを背中に乗せるとそのマスターと姉をふわりと掬い上げて、元いた場所を目指して飛翔する。

「た、助かった……?」

「ライダーが飛行宝具持ちで助かったわね……」

 一瞬で十年は老けたような最悪の気分だった。

 パラシュートなしのスカイダイビングを強制されたのだから、げっそりとするのは当たり前だ。正直なところ、ヒポグリフの背に乗っている今の状態でも非常に不安でいっぱいなのだ。徐々に、速度が低下しているのだから尚のこと――――、

「あの、ら、ライダー。ヒポグリフ、大丈夫ですか?」

「うん、なんかきつそうだよね。どうしたのかなー。やっぱり重かったかな」

「重かったって!?」

 ヒポグリフも要塞突入時の戦闘で怪我をしているのだ。休ませるために一時送還していたが、ここで無理を押しての再登場である。身体に負担を感じてもおかしくはない。

「やっぱり、あれだ。言いたくないけど、フィオレが重い」

「何か言いました、ライダー?」

「い、いや。えぇと、ほら。……その礼装、鉄の塊でしょ」

 手綱を操るライダーでは背後が見えないのだが、それでもフィオレが氷のような微笑を浮かべているのがよく分かった。

「ここでこの礼装を捨てたら、わたしは動けなくなります! ライダー、ヒポグリフ、何とかしてください!」

「わ、分かってるよ。ヒポグリフ、頑張れ。あと少し、二メートルだよ、ほら!」

 結局、不安に負けたフィオレが(アーム)を伸ばして庭園の床を下から掴み、全体を引き上げる形でヒポグリフを助けた。

「死ぬかと思いました」

 何とか庭園の内部に舞い戻ってからフィオレは息をついた。心臓は未だに激しく音を立てている。今までで一番死を自覚した瞬間だった。サーヴァントに殺されるとかは現実感がないのだが、墜落死は想像できるから恐ろしい。

「と、ともかく生き残ったね。あ、ぶなかったぁ」

 ライダーはヒポグリフから降りて、冷や汗を拭った。

 ヒポグリフの身体の大きさだと、空中庭園の内部を探索するのには向かない。また霊体化させる必要がある。

「とりあえず、ヒポグリフの傷を何とかしましょう」

「できるの?」

「分かりません。幻想種に通常の魔術が効果を発揮するのかも怪しいですから。一応は、治癒魔術の他にも持ち込んだ霊薬がありますけど……」

 神秘の結晶である幻想種は、存在そのものが魔術の上位に当たるものも珍しくない。神秘はより強い神秘に打倒されるのが魔術の道理であり、その道理に沿えば幻想種に魔術をかけるのは非常に難易度が高い。

 それでも、相手が受け入れれば何とかなるだろう。治癒魔術は、害になるものではないし弾かれることもないと思い、とりあえずフィオレは簡単な治癒魔術をヒポグリフに施した。

 

 

 

 □

 

 

 

 時は僅かに遡り、未だ“赤”のアサシンが“赤”のセイバーと“黒”のアサシンを押さえているころのことである。王の間での戦闘が佳境に入ったそのとき、王の間の下方に位置する地下空間でも二人のルーラーの戦いは最終局面を迎えていた。

 “赤”の陣営と“黒”の陣営が互いに到達すべき場所。

 大聖杯を背景に、ルーラーは鎬を削りあう。

 圧倒的に不利なのは、当初の予想に反してルーラー(ジャンヌ・ダルク)。聖杯の主となり、膨大な魔力の支援を受ける四郎の破壊的な攻撃を、ルーラーは受け止めるのが精一杯であった。

 一瞬の勝機を逃したルーラーは、もう接近戦を挑むことはできない。 

 

 “黒”のセイバーの消滅を確認。

 “赤”のライダーの消滅を確認。

 

 サーヴァントが敵味方を問わず倒れていく。

 すべてはこの場に辿り着くため。

 “黒”のアーチャーは見事に“赤”のライダーを討ち果たした。正直に言えば、驚愕している。まさか、足止めだけでなく、討ち果たすところまで行き着くとは。しかし、消滅を確認できていないものの、受けたダメージは相当なものであろう。こちらに間に合うかは微妙なところだ。さらに懸念事項として“赤”のランサーが生き残ったという点である。

 あの大英雄を相手にするには、こちらの残りの戦力では厳しい。となれば、“赤”のランサーが戦線に復帰するまでに、事を終わらせねばならない。

 四郎を武で打ち倒すには時間も能力も不足している。

 ルーラーは、左手に持った旗を振るう。

 絶対無欠の防御宝具。

 ありとあらゆる邪悪を寄せ付けない神秘の楯にして故国を救済したジャンヌ・ダルクの象徴である。

 しかし、それはあくまでも守るためのもの。味方を鼓舞し、奮い立たせるための光であり、決して敵に向けるものではない。

 ルーラーは右手で剣を抜く。

 銀色に輝く直剣である。聖カトリナ協会で授けられた剣は、大聖杯の輝きを受けて青く光り輝いている。

 旗と剣は、そのまま西洋騎士の楯と剣の役割を果たす。

 敵の攻撃を左手で受け止め、敵の首は右手で落とす。至ってシンプルな戦い方だ。だが、それがどうした。銀の剣は宝具に換算してCランク程度の神秘しか有さない。それは、天草四郎の三池典太と同程度の宝具であることを意味する。直接斬り付けられれば死ぬだろうが、そんな隙はもう作らない。あの剣で、天草四郎を殺すことは不可能である。

 しかし、どうしたことだろうか。

 四郎は焦燥している。

 啓示を受けることはできなくなったが、彼の両腕には奇跡を起こす宝具がある。その内の右手『右腕・悪逆捕食(ライトハンド・イヴィルイーター)』が、四郎の脳裏に危険信号を発している。

 可能な限り迅速に叩き潰せ。

 この女は、今に天草四郎の夢を食い潰すぞ――――。

 

  

 ルーラーはすでに決断していた。

 天草四郎の夢を根底から否定できたわけではない。ルーラーとて、彼の理想は理解できる。流れる血も、苦しむ人々も、少ないに越したことはない。零になれば、文句なしに喜べる。

 しかし、人が生きていくのに、未来は必要なのだ。

 未来を否定して過去を拾い上げるのは、やはりどこか歪な救済ではないか。

「諸天は主の栄光に。大空は御手の業に――――」

 ルーラーの心に迷いはない。

 ただ、自分の為すべきことを為す。宝具の使用を決断したとき、あらゆる葛藤は彼方へ置いてきた。

「暖かな光は遍く全地に、果ての果てまで届いて、天の果てから上って、天の果てまで巡る――――」

 そもそも悩むこと自体が、問題だ。

 未来を信じ、未来に結末を委ねるのなら、自分たち過去の亡霊が口出しをするべきではない。

「我が終わりは此処に。我が命数を此処に。我が命の儚さを此処に――――」

 ルーラーは柄ではなく、刃を握り己の手を斬り付ける。

 聖女が血を流す。滴る赤は、ゆっくりと宝剣を濡らしていく。

「我が弓は頼めず、我が剣もまた我を救えず。残された唯一つを以て、彼の歩みを守らせ給え――――」

 青い光が墜ちる。

 聖旗の守りは打ち捨てた。直撃すれば、死ぬだろう。けれど、問題ない。なぜなら、この宝具は――――ルーラーが唯一、敵を撃ち果たすために用いる刃は、彼女自身すら焼き尽くすからである。

「主よ、この身を委ねます――――」

 少女の祈りは輝かしい奇跡となって具現する。

 巨人の腕は、ルーラーを止めることができずに燃え落ちた。

「固有結界ですと……!?」

 驚愕に目を向いたのは“赤”のキャスターであった。世界が捲れ上がるような感覚に、聖杯から与えられた一通りの魔術の知識に備わる大魔術を思い浮かべた。

 だが、それを四郎が否定した。

「いや、違う。あれは概念武装! 己の心象風景を結晶(やいば)として立ち向かう特攻宝具です!」

 ルーラーが持つ剣の柄から紅蓮の炎が立ち上る。

 太陽英雄の焔にも匹敵する裁きの火。

 ジャンヌ・ダルクの聖性は、故国の救済を成し遂げた英雄としての側面もさることながら、そのあまりにも印象的な最期が多くの人々の涙と同情を誘ったことに一因がある。前者を象徴する宝具が守護の旗『我が神はここにありて(リュミノジテ・エテルネッル)』であり、今遂にその真価を発揮した宝具『紅蓮の聖女(ラ・ピュセル)』は後者を象徴する宝具である。

 この炎こそはジャンヌ・ダルクに死を与えた火刑の炎。

 彼女を魔女として火刑に処した者たちは、この炎を懲罰と信じ、そして彼女自身は自らの戦いの終焉であると信じた。

 滅びはもとより覚悟の上だった。

 どれだけ大義を掲げても流れた血と朽ち果てる骸は確かにあったのだ。多くの人を救ったが、同時に多くの人を死なせてきた。その報いをいつの日か受けることになると理解して、それでも尚駆け抜けた人生。この火はまさに、その終わり。ルーラーのすべてを終わらせる報復の炎にしてあらゆる不浄を焼き尽くす断罪の火炎。聖杯の余剰魔力で編み上げた巨人の腕はなるほど確かに強力で、対軍宝具並の威力を誇るだろう。けれど、それもこの炎の前には無意味である。跡形もなく、灰も残さず燃え落ちるのみ――――。

 

 

 

 □

 

 

 

 見たところ、宝具のランクはEX――――評価規格外だ。

 Aランクを超える宝具を持ってやっと一流の(きざはし)を踏み出せるサーヴァントの世界でEXランクを誇る攻撃宝具を有するサーヴァントは紛れもない大英雄である。

 もちろん、極東の小英雄でしかない天草四郎時貞には、そんな大出力の宝具はない。彼の宝具は対人宝具であり、しかもランクはDと底辺にある。

 この炎を止める手立ては、ない。

 しかし、立ち向かわなければならない。

 この炎は世界を焼き払う。消滅するのが四郎だけならばまだいいが、背後の大聖杯まで巻き込むとなれば話は別だ。

 ルーラーは四郎ではなく大聖杯をこそ破壊の対象としているようだ。

 この戦いの根幹を成す大聖杯を焼き払い、聖杯大戦に終止符を打つ積もりなのだ。故に、四郎は逃げられない。逃げれば夢が潰える。そんなことは、あってはならない――――。

天の杯(ヘブンズフィール)所有者(オーナー)への注力開始。『右腕・空間遮断(ライトハンド・セーフティシャットダウン)』、『左腕・縮退駆動(レフトハンド・フォールトトレラント)』」

 四郎の両腕が奇跡を練り上げ始める。

 手順を意識することはない。やることは魔術の領域にあることだが、この両腕は目的達成のための知識の有無を無視して術式を組み上げる。

 四郎個人の能力では、ルーラーの特攻宝具には及ばない。拮抗も許されない。しかし、今の四郎はそれ以前の四郎に比べて遙かに強大な力を有している。そう、――――聖杯を支配する四郎ならば、その莫大な魔力を一つの魔術として利用することも不可能ではない。

 四郎は、自分の右腕の機能を縮小して左腕に移し代える。体内へのフィードバックを抑えるために、右腕の回路そのものは遮断し、そこだけで魔力が完結するように調整を加える。型落ちはするが、左腕ですべての機能を賄えるようにしつつ、大聖杯の魔力を右腕に注ぎ込む。魔術回路は一気に暴走を始め、遮断しきれない力が身体に激痛をもたらす。さらに目の前には炎が迫る。一秒後には四郎は蒸発しているに違いない。恐怖はない。爆走する魔力の渦を右腕に抑え込み、術式を駆動する。時間感覚は崩壊し、すべてが静止しているかのような錯覚の中で、四郎は確かにその魔術を完成させる。

 

「――――右腕・零次収束(ライトハンド・ビッグクランチ)

 

 あらゆる罪障を払う紅蓮の炎に対するのは、何もかもを塗り潰す漆黒の闇。

 掻き集めた魔力を集中して、解き放たれた四郎の魔術は、彼の右腕を代償として絶大な破壊力を実現した。

 ルーラーの炎は外へ向かう力だが、四郎の闇は内へ墜ちる力であった。

 超重力の塊――――極小のブラックホールが、襲い来る炎の津波と衝突する。

 四郎は右手を消失しているが、痛みそのものは喪失した。今はこの戦いの結末を見届けるのみ。魔力を全力で闇に送り込み、聖女の炎を食い尽くさせる。

 四郎が思いつく限り最良の防衛方法。

 爆発に爆発で挑めば、余波で聖杯が傷を負う。超重力で余波すら食いつくすことが、儀式を成功させる上での最良の方法なのだ。

 しかし、それも拮抗、ないし凌駕できればの話。

 聖女の炎は、四郎の死力をあざ笑うかのように闇を溶かして前進する。

「お、のれ――――」

 四郎は歯軋りする。

 右腕を犠牲にして、大聖杯の魔力まで注ぎ込んだ。儀式が遅延するがそれも仕方がない。だが、ここで大聖杯を破壊されることだけは、仕方がないでは済まされない。

 人類救済は世界の望み。今こうしている間にも何人の命が奪われていることか。どれだけの人々が餓えに苦しみ、病に脅えているだろうか。

 ここで失敗しても、次を目指せばいい。

 しかし、その次にどれだけの年月がかかるのか想像もできない。

 魔術協会ですら、まともに再現できない冬木の聖杯だ。他の亜種聖杯では魔法に至ることができないので論外であり、魔術師たちは根源に至るという目的に聖杯が利用できることにすら気付かず、願望機という表向きの理由のみに焦点を絞った粗悪品である。

 となれば、真実を知っている魔術協会の上層部以外に冬木の大聖杯を再現できる者はおらず、その魔術協会ですら満足に解析できていない秘法中の秘法である。

 百年や二百年では、再現しきれないかもしれない。 

 もう二度と、次の機会がないかもしれない。

 今、ここで勝ち抜く以外に世界を救う手段はないのだ。

 故に、天草四郎に敗北は許されない。

 断じて、ここで折れるわけにはいかないのである。

「侮るなよ、ジャンヌ・ダルク。この俺を舐めるな。この俺の――――七十年の執念が、貴様に劣るはずがないッ」

 二十も生きていない小娘が、どうして四郎を否定できようか。 

 この結論は長らく生きてきた中で見つけ出した人類救済への唯一の手段であり、その理想系なのだ。

 穢されるわけにはいかない。

 聖杯の光が、炎に押されていく。

 闇が必死になってそれを妨げる。

 光と闇が混ざり合って、大気に激震を走らせた。膨れ上がる炎に肌が焼かれていく。思考はただ一点、黒の星をより強めることにのみ集中する。

 余計なことは考えるな。

 今は、ただこの瞬間を押し切ることだけを考えろ。

 己を叱咤し、天草四郎はありったけの魔力を叩き込む。

 絶望などしない。そのようなものは、天草の地に置いてきた。この程度の炎如きで、絶望などするものか――――。

 

 

 息が止まり、紅蓮の光は消え果てて、静寂の中に青い光が漂っている。

「か、はッ。――――、あぐ、く……」

 倒れこんだ四郎は、口から血を吐き、失った右腕から鮮血を撒き散らしながらも生きていた。呼吸によって肺を動かし、自らの鼓動を感じて生を実感する。

 生きている。

 生きているということは、即ち――――四郎の執念が、ルーラーの特攻宝具を受けきったということである。

「聖杯はッ」

 四郎は半ば潰れた身体を起こして、聖杯を見た。

 見るも無残な、破壊痕。

 大聖杯は、半壊を通り越して崩壊しかけていた。その有り様に、四郎は絶句し、しかしそれでも脈打っている奇跡に感動した。

「やった……聖杯は、生きている。生きているぞ!」

 太刀を拾い上げ、それを支えに立ち上がる。

 身体に走る痛みは忘れた。左腕が勝手に治癒魔術を使い始めているが、そんなものはもうどうでもよかった。自分の身体ではなく、大聖杯こそが儀式の根幹なのだから。

 魔力を一部失い、ダメージも受けた。儀式の成立には多少の遅延が発生したが、問題にはならないだろう。恐らくは夜明けまでには、すべての人間を不老不死にするべく第三魔法への道を開くに違いない。

 四郎はそれからルーラーに視線を向ける。

 最大宝具を使い、己の魂すらも賭けた最期の一撃を防がれた聖女は、その結末を見届けたのか否かも分からなかった。

 そこにいたのは、たった一人の少女であった。

 顔立ちはルーラーと同じだが、四郎のスキルが教えてくれる。

 あれはただの人間だ。

 四郎に抗する力はなく、ジャンヌ・ダルクに巻き込まれた一般人に他ならない。

 勝利した。

 最大の敵であったルーラーはここに滅びた。

 これで、儀式は一層高い確度で成功への道を進むことができる。

 勝利を確信したとき、王の間から続く回廊から獅子劫と“赤”のセイバーが現れた。見れば、獅子劫の背に背負われていて、満身創痍だということが分かる。

「“赤”のセイバー」

「よぉ、久しぶり」

 彼女がここにいるということは、“赤”のアサシンは敗北したということなのか。パスは繋がっているので、消滅はしていないはずだが、突破を許したらしい。

 あの身体のセイバーの実力がどの程度なのかまったく予想がつかない。攻めかかって倒せるか否か。しかし、彼女がどのような思想の下に動いていようと、大聖杯は四郎の願いを聞き届けたのだ。

「少し、遅かったですね。“赤”のセイバー」

「何だと」

「大聖杯は、私の願いのために稼動を始めました。もう少し、ルーラーが来る前に辿り着けていれば、あるいは間に合ったかもしれませんがね」

 聖杯が万能の願望機たりえるのは、偏に無色の魔力であるからだ。しかし、そこに四郎の願いが加われば、それはもう無色の魔力とはいえない。つまり、万能の願望機は、この時点で四郎の願いを叶えることにのみ魔力を使う存在に堕してしまった。

 獅子劫とセイバーの願いは、恐らく届かない。願いの方向性が異なる以上、応用するという発想も使えまい。

「てめえェ……!」

 獣の唸り声のような声をセイバーは上げた。

「だったら、儀式を止めるだけだ!」

 そこに飛び込んできたのは“黒”のライダーだった。事ここに至り、天草四郎は冷や汗をかく。“赤”のセイバーはまだいい。すでに死に体だからだ。やりようはある。しかし、見たところ“黒”のライダーは軽症。この場には“赤”のキャスターはいるが、戦力には数えられない。四郎一人で、この二騎と対峙しなければならないのである。

「来るなら、来い。セイバー、ライダー……!」

 能力は従来の半分に低下した。身体の損壊も激しい。しかし、だからといって敗北するわけにはいかない。ここで負ければ、すべてがなかったことになる。

「行くぞッ」

 ライダーが折れ曲がった槍を片手に走り出した。

 あの槍は宝具だ。アストルフォの魔槍。折れ曲がったところで穂先に宿る転倒の魔術は消えていない。近接戦において、この危険な槍は要注意である。

 もちろん、近付かせる理由もない。

 四郎は、左腕に魔力を集中し、聖杯と再接続する。巨人の腕で押し潰す。

“出力が……再接続に時間が……”

 愕然とした。予想以上に宝具の起動速度が遅く、大聖杯からの魔力供給が遅れている。ライダーが迫る。しかたない、と四郎は片手で太刀を操る。

 弾丸のように迫るライダーに、突然青銅の鎖が絡みついた。

「な……これはッ」

「アサシン!」

 四郎の傍に転移してきたアサシンが、その魔術で召喚した鎖でライダーを絡め取ったのである。

 さらにアサシンは鎖を手繰り、ライダーの小さな身体を振り回し、投げ飛ばす。

「ぐ、あッ」

 投げ飛ばされたライダーに、さらに鉄球が襲い掛かった。

「オラァ!」

 ライダーと鉄球の間に飛び込んだのは“赤”のセイバーである。弱りきった身体に鞭打って、鉄球を砕く。

 セイバーは鉄球を砕いた直後に、呻いて膝をつく。

「セイバー、君!」

「うるせえ、触るな!」

 セイバーは獰猛に叫んで、立ち上がる。

 四郎の夢が叶う一歩手前にあって、セイバーの戦意は衰えない。自分の夢はもう叶わないかもしれないが、それ自体はどうでもいい。今のセイバーを突き動かすのは、怒り――――王の治世そのものをなかったことにしようとしている四郎への怒りである。

「マスター、悪いな」

「ん、まあいいさ。これも運命ってヤツだ」

 無念がないわけではないだろうに、獅子劫は頭を掻いて笑って見せた。

「やろうぜ、王さま。これが最後だ。派手にやろう」

 獅子劫は自らの腕をセイバーに突き出した。令呪が蠢き、淡い輝きを放つ。

「セイバー、全力で戦え」

「受けたぞ、マスター!」

 セイバーの身体は限界に近いが、それを無理矢理令呪で動かす。命を救うことはできないが、死ぬまで戦うことはできる。やはり、“赤”のセイバーは途中で倒れるような存在ではない。最期まで戦い抜くのが“赤”のセイバーなのだ。

「アサシン。身体は?」

「問題ない。向こうのアサシンに一発貰ったがな……我は黒魔術師よ。例え宝具であったとしても、呪詛の類が効くものか」

 四郎には視線を向けることなく、アサシンは敵の二騎を睨み付ける。

「アサシン、頼みます」

「無論だ。後は意地の張り合いだな」

 四郎は“赤”のアサシンに目を向ける。

 傍目から見れば、傷がないように見えるが、取り繕っているだけだというのが分かる。仮にもマスターだ。彼女の身体の内側に、多大なダメージがあることを理解できていた。その身体を敵と同じく令呪で保護し、儀式の完成に向けて時間を稼ぐ。

「邪魔を……するなッ」

 “赤”のアサシンが無数の鎖鎌を召喚する。

 鎖鎌の海を、セイバーの『魔力放出』が割った。鎖鎌の破片の中を、ヒポグリフを召喚したライダーが一気に駆け抜ける。

 ヒポグリフの突進は、アサシンでも四郎でも脅威以外の何物でもない。

「一歩遅かったな、ライダー!」

 四郎が魔力を充填した青い拳が完成した。突進してくるライダーを側面から襲った。ヒポグリフを殴り倒すことができる拳を貰うわけにはいかない。

「ちくしょう……!」

 ライダーは高度を上げて、辛うじて巨腕の一撃を回避したが、攻撃の機会を喪失した。

 しかし、ライダーが通り抜けた穴はぽっかりと開いたままである。その道を通り抜け、“赤”のセイバーが突貫する。

「ランサー、来てください!」

 アサシンの魔術は間に合わず、四郎の腕もライダーを牽制するので精一杯だ。故に、令呪を以て最強の槍を転移させる。

「な……ッ!?」

 セイバーが兜の向こうで目を見張る。

 突然現れた黄金の豪槍が、セイバーの白銀の剣を受け止めていた。

「申し訳ありません、ランサー」

「構わん。聖杯を敵にくれてやるわけにはいかんからな」

 “赤”のランサーに四郎を手伝う理由はない。彼のマスターは今でも脱出した召喚主だからである。しかし、聖杯を守るのは、その召喚主の意向に沿うものでもある。サーヴァントとして敗北は許されていない。だからこそ、ランサーは四郎と矛先を揃えた。

「てめえはッ」

「下がってもらおう、セイバー」

 炎が上がり、豪槍を一閃する。セイバーは大きく跳ね飛ばされた。

 空中で猫のように一回転したセイバーは、バランスを立て直して着地する。

 ランサーは一瞬にしてセイバーに肉薄する。

「う、おぉ……!?」

 ランサーは胸に深い傷を穿たれながらも衰えることのない槍捌きでセイバーを追い詰める。鎧の端が次々と抉れ、セイバーの柔肌が露になっていく。

「舐めんじゃ、ねえッ」

 爆弾が爆発したかのような衝撃が炸裂し、赤雷がランサーを押し返す。

「オオオオオオオオオオオオオオオオオッ」

 狂戦士の如き突進。

 セイバーの猛攻をランサーが受け止める。一撃一撃が周囲に衝撃波を放ち、床石が粉々に粉砕される。

 ライダーはそんなセイバーとランサーを睥睨し、聖杯に向けてタックルをする。

 ランサーは自らの怪我を省みずにセイバーを蹴飛ばし、炎の羽を纏って空のライダーに猛然と襲い掛かる。

「嘘だろッ――――!」

 ライダーは絶句し、攻撃を中断せざるを得なかった。

 事もあろうにランサーは炎を噴き出して進路を変え、弧を描いて逃れたライダーを猛追する。弧に対して直線で飛んだランサーは、ライダーに難なく追いついて神槍を以てヒポグリフを撃墜する。

「ぐ、うあああああああああ」

 地面に叩きつけられたライダーとヒポグリフは、そのまま三回ほどバウンドして転がった。

「お前に恨みはないが、これも定めだ。ここで倒れてもらおう」

 ライダーに止めを刺そうと槍を振り上げたランサーは、槍の向きを変えて真横に振るう。

 接近してきたセイバーが剣を振るってランサーに挑みかかったのである。剣と槍が激突し、赤雷と炎が舞い上がって、近くにいたライダーとヒポグリフはさらに飛ばされた。

 

 

 

 □

 

 

 

 “赤”のランサー一騎で“赤”のセイバーと“黒”のライダーを圧倒している。

 ランサーも胸を貫かれて重傷を負っているというのに、その槍は衰えることを知らぬとでもいうように世界に黄金の軌跡を刻み込む。

 これで、戦いの趨勢はほぼ決した。

 魔術師三人では、“赤”のアサシンはもとより四郎ですら傷つけることはできない。

 王手だ。

 ランサーという壁を突破し、さらにアサシンと四郎を乗り越えるなど、敵の戦力では不可能以外の何物でもない。

 空に現れた無数の刀剣が、四郎と聖杯に刃を向けたのはそのときであった。

「な、に……!?」

 四郎は愕然としてその宝剣を見上げた。

 この宝剣の雨は、まさしく“黒”のアーチャーの能力。“赤”のライダーを乗り越えて、ここに辿り着いたというのか。

 一体どうやってあの大英雄を倒したのだろうか。気になるが、そんなことは今どうでもいい。ルーラーによって損害を与えられた大聖杯に、宝具の雨が直撃すれば、それだけで終わる。ランサーは二騎のサーヴァントで手一杯。

「この――――!」

 四郎は大聖杯に手を向けて、巨人の腕で大聖杯を守る。降り注ぐ雨と巨人の腕が激突し、激しく世界を揺るがした。

 宝具の雨から、大聖杯は守られた。

 だが、四郎自身はどうにもならない。巨人の腕を大聖杯の守りに使った以上、四郎自身は無防備となる。刺し貫かれて、死ぬだろう。問題はない。大聖杯さえ無事ならば、四郎自身はどうなっても構わないのだ。故に、自分の命は擲った。

「馬鹿者ッ! 何をぼさっとしているッ!」

 しかし、それをよしとしない者がいた。

 四郎のサーヴァント、“赤”のアサシンであった。

 彼女は咄嗟に四郎と宝剣の間に割り込むと、魔術の防壁を展開した。

 雨を弾く傘のように、半透明な魔術の楯は四郎を宝具から救う。しかし、咄嗟に展開した防壁は、完全に防ぎきるだけの強度を有してはいなかった。

 一挺一挺が宝具なのだ。防ぐには、最高ランクの守りでなければならない。重傷を負っている上に、不意を突かれたアサシンには、その防壁を張るだけの力はない。

 結果、防壁を突破した宝具が、次々にアサシンの身体に突き刺さった。

「あ、が――――、ぐ、ぐぅああああああああああッ」

 肩に胸に腹に足に宝剣が突き立ち、黒いドレスを血に染めていく。それでも、魔力を注ぎ込み、絶叫する。アサシンは、激しい咆哮と共に宝具の雨を押し切った。

 口から血が零れ落ちる。

 ふらりと倒れたアサシンを、四郎が後ろから抱きとめた。

「アサシン、何故……」

 血塗れの顔を四郎は覗き込む。

 それは、純粋な問いだった。アサシンと四郎はギブアンドテイクの関係だったはずだ。四郎が失敗すれば、アサシンは彼を切り捨てる。そういった、冷ややかな関わりだった。信頼はあっても命を預けあうものではなかったはずである。

「何故、か……」

 ぐったりとしたアサシンは、そのまま四郎の顔を見上げて呟いた。

「それが分かれば、苦労はせんのだがなぁ……」

 女帝が世界を統べるためには、生きていなければならない。聖杯が救済した世界で君臨するためには、四郎を切り捨ててでも生き残る必要があったはずだ。それだというのに、降り注ぐ宝具に四郎が晒されたとき、アサシンは深く考えることもなく四郎の前に身を投げ出した。

 サーヴァントの存在意義に殉じたというのか、マスターを生かすために我が身を差し出すなど、本当にらしくない。

 自嘲して笑い、四郎の頬に手を伸ばしたアサシンは、そのまま目を瞑った。

 力が急速に抜け落ちて、死のまどろみの中に落ちる。

 ――――無念だ。

 命が燃え落ちる瞬間に、アサシンは脳裏に思う。

 この聖人が、自分の死に際してどのような反応をしてくれるのか、それが見れないのが残念で仕方がない。


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