“黒”の紅茶《完結》   作:山中 一

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三十四話

 浅い眠りから早朝の日差しで覚醒した。

 薄い掛け布団をどかして身体を起こすと、すぐ隣で膝を抱えて眠る少女がいる。彼女は、母親(マスター)の起床に気付いて、もぞもぞと動き出し、目を擦りながら欠伸をした。

マスター(おかあさん)、おはよう」

「おはよう、ジャック」

 銀髪とアイスブルーの瞳を持つ少女に母と呼ばれるのは、髪をブロンドに染めたアジア人の女性である。

 六導玲霞というのが彼女の名である。

 その名が示す通りの日本人である。ゆったりとした長い髪で、美しいというよりも艶めかしいというべき容貌は、見ようによっては西洋人にも見えて、あらゆる男を誘惑する。

 もともとは新宿で生計を立てる娼婦であった。

 だが、運命のいたずらによってジャック・ザ・リッパーを召喚するための生け贄に選ばれ、そして“黒”のアサシンに気に入られてマスター権を手に入れた。

 玲霞はアサシンの髪を櫛で梳く。

 アサシンは大人しくされるがままになっている。 

 普通の親子がそうするように、彼女たち主従(親子)はそれを自明のものとして毎日を送っていた。

 玲霞にとってはアサシンは自分の娘に等しく、アサシンにとって玲霞は母親に等しい。

 互いに空虚を埋めるために、互いを必要としている共依存的関係は、これを維持するために他の命を奪い尽くしても構わないと思えるほどに深くなっていた。

 ただの人間である玲霞には魔術など理解できない。

 自分がとてつもないことに巻き込まれたことは正しく認識している。しかし、だからどうした。自分の娘が夢を叶えたいと言っているのだから、母親が手伝わないわけにはいかない。

 もとより人生を見失っていた玲霞にとって、目的を与えてくれたアサシンは何にも勝る宝である。

「これから、どうしましょうか、ジャック」

「うーん、聖杯は赤いほうに取られちゃったし、聖杯を取るにはおっかけないといけないんだよね」

「いざとなったらハイジャックでもして、あの大きな要塞に入り込めばいいのだけど、昨日やっつけたサーヴァントの仲間がまだあなたを狙っているのでしょう?」

「そうだね。だから、早くやっつけないといけないかな」

 “黒”のアサシンにとっては“黒”も“赤”も等しく敵である。聖杯を手に入れるには十三騎のサーヴァントを出し抜かなければならないのだから、陣営に意味はない。さらには、第一義として玲霞と共にいることが必要だ。どちらの陣営に就いたところで、魔術師ではない玲霞とのパスを切られるのは確実と言えたので、決して協調路線を歩むつもりはない。

「それじゃあ、今晩勝負をしかけましょうか」

「今晩?」

 ジャックは首を捻る。

「あの人たちはわたしたちを探して外に出ると思うからね。夜になれば、あなたの宝具は最大の威力を発揮するのだから、迎え撃ってしまえばいいのよ。昨日仕留め損ねた女性サーヴァントもいるんでしょ?」

「うん」

 アサシンの宝具は“夜”“霧”“相手が女”という三点を揃えたとき、問答無用で相手を絶命に至らせる強大な呪詛を叩き付ける。性別についてはアサシンではどうすることもできないが、日が落ちるのを待ち、そしてもう一つの宝具『暗黒霧都(ザ・ミスト)』を使えば霧の条件もクリアできる。戦闘を行う時間さえ選択できれば、アサシンは圧倒的強者として猛威を振るうことができる。

「でも、出てくるかな?」

「出てくるわ。絶対」

 玲霞は断言した。

「だって、“黒”のほうは聖杯を奪われちゃったんでしょう? だったら、取り返しに行かなくちゃいけないわよね」

「そうだね」

「だけど、わたしたちをどうにかしないと追いかけることができない、……だったら、必ずわたしたちを捜しに来るわ」

 “黒”の陣営が望むのは間違いなく短期決戦である。

 昨日の戦いで一人のマスターと一騎のサーヴァントを失った。しかし、だからといって聖杯を取り返さなければならない以上は空中庭園に乗り込まねばならず、そうすれば全面対決以外に事態を収拾する術はない。

 二つの陣営が激突すればアサシンに目を向ける余裕はなくなるだろう。

 そのときにアサシンを放置していれば背後を突かれて終わりだ。

 よって、“黒”の陣営は“赤”の陣営と決着を付ける前に“黒”のアサシンの問題を片付けておかなければならないのであった。

 そのような状況下で長期戦を挑んでくる可能性は皆無である。

 “黒”のサーヴァントたちは是が非でもアサシンを探し出さなければならない。

 だが、アサシンの宝具は待ち伏せに高い効果を発揮するタイプの代物である。アサシンを求めて彷徨う敵を、こちらは一騎一騎あるいは一人一人始末していけばいい。

「そうだわ、ジャック。足の調子はどうかしら?」

「怪我ならもう大丈夫」

 アサシンは敵の宝具によって怪我をしていた。魔術師ではない玲霞にはアサシンの怪我を癒す術はなく、アサシンの自己治癒力とスキルに任せるしかない。

 アサシンには『外科手術』のスキルがあり、このおかげで自身とマスターの怪我を治療できる。見た目は保証されないが、命を繋ぐこともできるから、治癒術の恩恵を受けられないアサシンが戦い続けるために非常に重宝していた。

 “黒”のバーサーカーが命を賭して負わせた傷は、セレニケの心臓を捕食したことで補給した魔力と『外科手術』によってほぼ完治していた。

「さすがに、マスターになった魔術師は効率が違うわね。もちろん、ジャックのスキルがあってこそだけど」

「ん」

 玲霞はアサシンの頭を優しく撫でる。

 彼女の右手には二画の令呪が宿っている。アサシンが『外科手術』によって本来のマスターの遺骸から剥ぎ取り、玲霞に移植したものである。

 この令呪のおかげで、今回はアサシンを窮地から救い出すことができた。

 敵の死力を尽くした一撃に対処するには、冷静で素早い判断が必要だったが、玲霞にはまったく苦にならなかった。

 玲霞には物事を俯瞰して捉える癖がある。自分の命すらも、彼女の視界の中では代替可能なピースの一つでしかなく、だからこそ最適解をその都度導き出すことが可能なのである。

 特殊且つありふれた「最低な家庭」の一風景の中で育ったからだろうか。

 彼女は極端なまでに割り切りがよく、目的遂行のための犠牲を必要なものと理解し、殺人にも手を染めている。命を奪うことはいけないことだと分かっているが、愛しい娘のためならば許容される。少なくとも、玲霞の中では。

 こうした冷徹な思考が、アサシンの危機に対して令呪を使うという素人らしからぬ判断をさせた要因であろう。

 生き残るためにはどうするか。アサシンの願いを叶えるためにはどうするか。玲霞にできることは少ない。戦闘を補佐できるのはあと二回が限度であり、これから先を思えば、この二画の使い道は決して誤ってはいけないのである。

 

 

 

 □

 

 

 

 “黒”のバーサーカーのときもそうだったが、“黒”のライダーも騒がしい。

 カウレスは包帯の取れた顔を顰めて自分のテーブルに頬杖をついて少女にも見える少年騎士を見た。

「治癒魔術ってのはやっぱりすごいなぁ。あの焼け爛れた顔がつるつるになっているじゃないか」

「ライダー。何の用だよ」

 カウレスは“黒”のアサシンの宝具の影響で全身が焼け爛れてしまっていた。喉まで焼かれていて、魔術師でなければ数分で死に至っていただろうという重傷だったのだ。

 治癒術のおかげで肌が再生し、火傷は残っていない。

 ライダーはりんごを頬張りながら、カウレスに微笑みかけた。

「その腕の怪我はまだ治っていないんだね」

「ん、ああ。まあな」

 カウレスは自分の両腕に視線を落とす。

 包帯で隙間なく覆われた両腕は指の先まで肌が見えない状況である。

「そこには治癒術をかけないのかな?」

 ライダーは膝を組んでカウレスに尋ねた。

「気付いてたのか」

「そりゃ、他が治ってるのに一番大切な腕がまだってのは疑問だろう。まあ、理由が分からなくもないけど」

 ライダーはにやにやとした顔でカウレスを見ている。

「なんだよ、その顔は」

「いや、バーサーカーはいいマスターを持ったなと思っただけさ」

「ほっとけ」

 カウレスの両腕の傷はアサシンに付けられたものではない。

 そこに刻み込まれているのはバーサーカーの最期の一撃がもたらした火傷であった。令呪で指向性を与えられたバーサーカーの雷撃は、周囲にばら撒かれることはなくすべてがアサシンに向かって伸びていったが、彼女の手を握っていたカウレスはそれでも少なからぬ被害を受けた。

 カウレスはそのときの怪我を今でも消せないでいた。

 痛みがないわけではない。激痛に顔を歪めたくなることも一度や二度のことではないのである。しかし、この痛みこそが自分を聖杯戦争に引きとどめるものであると思っている。

 バーサーカーが生き残る可能性は初めから低かった。宝具も平均的な威力でしかなく、しかも一撃使えば彼女自身が消滅するという諸刃の剣である。バーサーカーが願いを叶えるためには、宝具を一度も使用せずに生き残らなければならないという極めて厳しい条件の下で戦う必要があった。

 最期の最期で、バーサーカーは自分の宝具を使うようにカウレスに伝えてきた。何を思ったのかは分からない。だが、彼女はカウレスたちを生かすために自らの最期を選択したのである。しかし、それでもバーサーカーに死ねと命じたのはカウレス自身だ。そのために背負った痛みから、安易に逃げてはならないような気がするのである。

「で、おまえは何でここにいるんだ?」

「そりゃ、これから僕のマスターになる人間とは会話をしておかなくちゃいけないからね」

「なんだって?」

 カウレスは唐突なライダーの申し出に目を白黒させる。

「俺がお前のマスター? ルーラーと契約しただろ?」

「でもルーラーはサーヴァントでもあるからさ、前線で戦うじゃん? そうすると、いつ消えちゃうか分からないからルーラーと契約を続けるのはリスキーなんだよ」

 セレニケがアサシンに殺された後、ライダーはルーラーと契約を結んだ。そのままでは『単独行動』のスキルを持つライダーでも消滅は時間の問題で、ヒポグリフを操るためには彼に全力を出してもらわなければならなかったからである。

 しかし、その後生じた問題としてはルーラーが最前線で戦うサーヴァントであるということと彼女の最強宝具が“黒”のバーサーカーと同じ自滅宝具であるということであった。

 ルーラーが全力を出さなければならない相手と戦うことになった場合、高確率でルーラーは消滅する。

 そうなれば、ライダーも共倒れすることになりかねない。

 よって、マスターはルーラーではないほうが現実的だと判断されたらしい。

「君のお姉さんにも許可は取ったよ。後は君次第だ」

「姉さんもか」

 確かに、ライダーの言い分はもっともである。

 これから“赤”と最終決戦に入るに当たって、サーヴァントが二騎も共倒れするような可能性は排除しなければならない。

 今の時点で手の空いているマスターはカウレスだけである。

 ライダーがカウレスに白羽の矢を立てるのも分かる。

「バーサーカーに義理立てしているのかな?」

「別にそんなんじゃないさ。ただ、こんな俺がマスターとしてまた契約する羽目になるとは思わなかっただけだ」

 弱小魔術師でしかないカウレスには、同じく弱小サーヴァントであるライダーですら荷が重い。

 魔力供給はゴルドが何とかしてくれているからいいとしても、身を守る力にも乏しいのだからマスターに選ばれること自体がおかしいのである。

「でも、見越してただろ?」

 ライダーに言われて、カウレスは言葉に詰まる。

「なんでそう思う?」

「あの状況で、アサシンの宝具の性質を書き残すような判断力のある魔術師が、考えていないほうがおかしい」

「マスターとして、俺にできることはほとんどない」

「僕もサーヴァントとしてできることなんてほとんどないから、お互い様だね」

 カウレスは黙り込んだ。

 ライダーの言っていることはすべて理解できる。そして、彼自身も後々ライダーと契約することになるだろうとは思っていた。――――戦う意思は、まだ消えていない。

「分かったよ。じゃあ、契約しよう」

「よし、おっけ。令呪は後でルーラーから移譲を受けてくれよ。今はルーラーが僕の令呪を持ってるからさ」

 ライダーはにかっと笑ってカウレスの手を取った。

 ルーラーからカウレスへ、パスが切り替わる。ルーラー自身も認めているため、契約変更は何の問題もなく行われた。

「で、そのルーラーは?」

「寝てる。朝まで起きないと思うよ」

 騒がしいサーヴァントを寄越し、彼との契約を迫った挙句、自分は寝ているとは夜通し作業をしなければならないカウレスに対するあてつけか何かだろうか。

 そんなことはないと分かっているから、口をへの字にしてパソコンに向かう以外にカウレスは取り得る行動がなかった。

 

 

 □

 

 

 

 ルーマニアは日本人にとっては観光地としてマイナーの部類に入る。

 旅行客数も年間で一万人程度と決して多いとはいえないのが現状である。そのような中で、日本人が入国すれば、記録の上でも非常に目立つ。

 聖杯大戦が始まってからの入国者に絞れば、該当する日本人は十名しかおらず、その大半がすでに帰国していることを加味すれば、ほぼ確実に絞り込めたと言えるだろう。

 さらにバス会社やタクシー会社に忍ばせた血族と連絡を取り、また、ホテルの宿泊記録を確認すると、奇妙なことにルーマニア国内にいるはずなのに、宿泊記録がまったく出て来ない人物が浮上した。

 カウレスが持ってきた書類を見て、フィオレは呟く。

「六導玲霞。……年齢は二十三歳ですか」

 パスポートから得られる情報では、その人物の人間性などには触れられない。人相と年齢が分かる程度である。

「一般人かどうかはまた別として、彼女の行動が不審であることは疑いようがないだろう」

「アーチャー。では、彼女がアサシンのマスターとして考えていいのですか?」

「恐らくはな」

 玲霞の情報は入国記録とブカレストからシギショアラに向かうバスの監視カメラに映っていた姿が最後である。

 それ以降は、玲霞の足取りを示すものはない。

 では、ほかの日本人はどうかというと、玲霞以外の日本人は、全員宿泊記録が残っており、すでに出国した者も多い。

「六導玲霞がこの街にいるとして、どうやって探し出すかですね」

「日本人は目立つはずだが、変装している可能性もあるな。ホテルに宿泊していないのも宿泊記録を残さないためだろう。ならば、この女性はなかなか頭の回る人物だということになる」

「アサシンに脅されているわけではないということですか」

 令呪を使用するなど、聖杯戦争の基礎となる部分は理解している。そして、勝ち残るために、彼女たちなりの戦略を編み上げている。

「ルーラーがいる限り、アサシンの奇襲は防げるでしょう。アーチャーも物見台から目視で街を監視してもらうことになりますがよろしいですか?」

「ああ」

「後はルーラーにお任せしましょう」

 “黒”のアサシンは狡猾で強力であるが、聖人であるルーラーならば、アサシンの宝具に対処できる可能性が高い。

 また、ルーラーの『カリスマ』は交渉に強い効果を発揮する。

「とにかくカウレスが持ってきてくれた資料はすべてルーラーに回します。ライダーにも偵察に出てもらいましょうか」

「総力戦だな」

「時間がありませんから」

 フィオレは微笑み、そして資料をファイルに仕舞って膝に乗せた。

 “黒”のセイバーは仮にアサシンが要塞に攻め込んできたときの備えに残しておかなければならないが、それ以外のサーヴァントは出撃させることができる。“赤”のサーヴァントが一騎を除いて戦場から離脱しているので、そちらに警戒心を割く必要がないのである。

 アーチャーはフィオレの車椅子を押して、ルーラーの下に向かうのであった。

 

 

 

 □

 

 

 

 六導玲霞は魔術師ではないという。ならば、一度でも捕捉してしまえれば、どれだけ逃げても追いかけることは可能である。魔術から逃れるには、魔術を以てするほかない。

 太陽が南に輝き、昼時の麗らかな日差しが石造りの街に温もりを与える。

 夜の不気味な街並とはまったく別の世界にいるような気分にすらさせる。連続殺人犯が活動するのは夜である。昼のうちは、ユグドミレニアによる影からの支援によって比較的よい治安が維持されている。

 髪を目立たないように金色に染めたホムンクルスが街中に散って行った。一般人に対して暗示を使い、記憶の奥にある玲霞の情報を引き出すためである。

 ルーラーは彼らとは別行動をする。

 ルーラーの感知能力は“黒”のアサシンを確かに捉えている。おぼろげで掴みづらいが、まだこの街の中にいる。

「あの、すみません」

 とりあえず、ルーラーは路肩に停まっていたタクシーの運転手に尋ねてみることにした。

「どこか行くのかい?」

「いえ、そういうわけではないのですが、人を探していまして。この方なのですが、ご存知ありませんか?」

「うん?」

 ルーラーは玲霞の顔写真を見せる。

「綺麗な人だね。アジア人か?」

「日本人だそうです。このシギショアラからこの街に来たようなのですが」

「うーん、アジア人を乗せれば覚えているはずだけど、この人は記憶にないな」

「そうですか、ありがとうございます」

 ルーラーは礼を言って、また別の人を当たることにする。

 人が集まる場所、特に生活必需品を購入するショッピングモールなどを重点的に調べようと思った。

 それから三時間、延々と聞き込みをして回るルーラーであったが、有益な情報はまったくと言っていいほど出てこなかった。名前と顔と国籍だけを頼りに二万人の人口の中に潜むたった一人を探し出すというのがこれほど大変な作業だとは夢にも思っていなかった。

 アサシンに気取られないように、サーヴァントの気配を極力薄めていることも災いして、足腰が悲鳴を上げつつあった。

「はあ、疲れた。ふぅ……」

 ルーラーは小さな喫茶店で紅茶を啜り、遅めの昼食を摂る。

 人間をベースにしているルーラーは、睡眠も食事も必要とする不完全なサーヴァントである。昼食を摂らなければ、いざというときにアサシンと戦えない。

 サンドイッチを頬張りながらルーラーは店内に視線を走らせた。

 客はルーラーともう一人、中年の男性しかいない。赤レンガの古風な店で、カウンターに腰掛けるルーラーの前で白髪頭の女性店主が皿洗いをしていた。

 日が沈めば、アサシンが活動する時間となる。――――もしかしたら、アサシンが夜に活動するのは宝具にも関わるのかもしれない、と不意に思った。

 宝具はサーヴァントの伝承を具現化したものも多い。ジャック・ザ・リッパーに魔術的センスはないはずだから、呪詛を使うのは彼あるいは彼女に纏わる伝承を再現する宝具であるはずだ。となれば、殺人事件をなぞる宝具ということだろうか。発動条件に“夜”が含まれていても不思議ではない。

 確証はない。それに、聖杯戦争は夜に行うのが基本である。夜に戦闘を仕掛けてくるのであれば、こちらにとっても都合がいい。

 探すのであれば、マスターでなければならないが、向こうから出てくるのであれば戦闘を行えばいいだけであり、そちらのほうが幾分か楽である。

 店主がルーラーの面前にやって来たのを見計らってルーラーは声をかけた。

「なんだい、お嬢ちゃん」

「今、人を探しているのですが、このお店にこの方が来店したことはありませんでしたか?」

 ルーラーは、この日何度目になるか分からない質問をした。

 女性店主は、眉根を寄せて写真を見て、首を振った。

「いや、知らないね。この街の人間じゃないんじゃないか?」

「日本人だそうです」

「日本人? そりゃあ、珍しい。あんたの知り合いかい?」

「ええと、わたしの友人の知り合いみたいなもので、……何日か前にトゥリファスに来たみたいなのですが、その後連絡が取れなくて」

「あら、そうなの。心配ねぇ。今はほら、ジャック・ザ・リッパーなんてのがいるし、早く見つかるといいねぇ」

「はい……本当に」

 嘘をついたことに一抹の罪悪感を覚えつつも、ルーラーは頷く。

「ねえ、あんたはどうだい。この女の子、連絡付かないんだってさ」

 店主はカウンターの端で新聞を読んでいた中年男に親しげに問いかける。どうやら常連客だったようである。

 写真を見せられた男は気だるそうにしながら首を捻る。

「あー……どこかで見たような気がするなぁ」

「ほ、本当ですか!?」

「アジア人なんて珍しいのがいるなぁって思ったんだ。でも、髪の色が違うしなあ」

 髭をなぞりながら男は首を捻った。

「まったく、はっきりしないねえ」

「いえ、アジア人だというのであれば、恐らくこの方です。それで、どちらで見かけたのですか?」

「もう何日も前だけどなぁ。旧市街地の奥のほうに入っていくのを見かけたんだ」

 それを聞いて、声を上げたのは店主であった。

「旧市街地の奥って、もしかしてあの危ない場所かい?」

 男性は頷いた。

「どうしてこの時期にあんなところに行くのかねえ」

「あの、そこはそんなに危ないところなのですか?」

「そりゃあねえ。あそこは、不良の溜まり場みたいな区画だから、そんなところに女の子が一人でうろついていたら狙われるに決まってるよ。あんたも、捜しに行くようなまねはしないほうがいい。可愛いんだから尚更だね」

 その後、ルーラーは昼食の代金を支払って外に出た。

 店主は最後までルーラーが該当区域を訪れないようにと念を押してくれたが、チンピラ程度にどうこうされるルーラーではない。

 店主が言うには、そこの住人もここ数日はかなり静かなのだという。夜な夜な街に繰り出して騒いでいた若者が急にいなくなったという話も聞いた。

 ここに来て、ルーラーは確信する。

 アサシンとそのマスターが潜伏しているのは、旧市街地の奥のとある一画であると。

 フィオレに念話で情報を伝え、ルーラーは早足でそこに向かう。

 太陽は沈み始め、夕暮れの光が街を燃え上がらせる。

 辿り着いたのは、トゥリファスの旧市街地の中でも特に奥まった場所で、どことなく荒廃した雰囲気の区画であった。

 街の空気が住人をそうさせるのか、あるいは住人がこうだから街の雰囲気が変わったのか、疎らに見える人々は、皆厭世的な空気を漂わせている。

 なるほど、ここならば隠れ潜むにはもってこいであろう。

 住人たちは自分のことしか考えていない。自己中心的ということではなく、他者を鑑みる余裕がない。そのため、誰が消えても気にすることもなく、日常が回る。

 先ほどまでに比べて、アサシンの気配が強くなっている。

「ここにいますね、“黒”のアサシン。今日はあなたに用があって来ました。隠れていないで出てきてください。まさか、聞こえていないとは言わせませんよ」

 人気のなくなった街にルーラーの言葉が空しく響く。

 これで大人しく出てくれば話は早かったのだが、そんなはずもない。呼ばれて顔を出す暗殺者(殺人鬼)など、三文小説にも出て来ない。

 ただし、返答はあった。

 速やかに、風に乗り、硫酸の霧が一区画を覆い尽くす。

「やはり、そう来ましたか」

 ルーラーは霧が濃くなる前に素早く鎧を身に纏い、聖なる旗を掲げて警戒する。

 先手は敵に譲る。

 ルーラーはその後を狙う。

 ルーラーの感知能力からはアサシンとて逃れられない。

 ルーラーを攻撃して、『気配遮断』の効果が薄れたその瞬間を狙うのである。

 未だ、六導玲霞を捕らえたという報告はない。

 アサシンがどこまでこちらの行動を察しているかは不透明だが、ルーラーにアジトを見抜かれたことは確信しており、だからこそ霧を発生させているのであろう。もしかしたら、この霧に乗じて玲霞が逃げ出すかもしれない。それは、非常にまずい。

 フィオレが交通規制を敷いている。さらに空からはライダーと使い魔たちが監視網を形成しているのである。ただの人間がトゥリファスから逃げ果せるなどできるはずもない。

 だが、この霧の中ではサーヴァントの視界すらまともに機能しない。

 決して戦う必要はない。

 霧に紛れて逃走すれば、新たな塒でこちらの寝首を掻く機会を探れるのだから。

「しかたありません」

 正直に言えば、この手だけは使いたくなかった。

 判断を誤れば『ルーラー』の職権を乱用することになるからである。

 だが、“黒”のアサシンは特定の陣営に属さず、一般人を公になる形で惨殺している。これは、聖杯戦争のルールを根底から覆すルール違反である。

「令呪を以て“黒”のアサシンに告げます。わたしの前に出てきなさい」

 業を煮やした、と言うこともできるだろう。

 ルーラーの腕には各サーヴァントに対応する令呪が二画ずつ存在する。一部は“黒”のマスターと獅子劫界離に移譲して失われたが、“黒”のアサシンにはまだ二画残っていた。その内の一画を消費して、アサシンを強制召喚した。

 颶風を纏って現れたアサシンは、何が起こったのかまったく理解できていないといった顔つきでルーラーを見た。

「始めまして、“黒”のアサシン」

「どうして……?」

「わたしは『ルーラー』のサーヴァントですので、今回の聖杯大戦に召喚されたすべてのサーヴァントに対応する令呪を所有しています。その一画を用いてあなたを呼ばせていただきました」

「な、そんなの、ありえない!」

 アサシンは目を見開いてルーラーから距離を取ろうとする。その機先を制して、ルーラーは旗を突きつけた。

 ルーラーとアサシンの『敏捷』は互角のAランク。そして、戦場を駆け抜けたルーラーのほうが戦士として強靭である。アサシンの霧もルーラーにとっては視界を遮る程度の効果しか発揮しておらず、『敏捷』の低下すらも引き起こせない。桁外れの『対魔力』が霧の影響を遮断しているのである。

 ルーラーが驚いたのは、アサシンが子どもの姿で召喚されていたことであったが、すぐにそれもありえると納得する。

 ジャック・ザ・リッパーは正体不明として語られた殺人鬼である。

 存在するのは確かながらも真実は虚飾に塗れて一定した形を取っていない。ならば、どのような姿で召喚されても不思議ではないのである。

「さて、アサシン。わたしとしてもこのような形になったのは心苦しいのですが、あなたのマスターの下に案内してください。あなたが引き起こした凶行について弁明していただきます。もちろん、あなたでも構いませんが」

「ッ」

 アサシンは悔しそうに唇を噛んだ。

 アサシンにはルーラーの能力値は視えないが、それでも強力なサーヴァントだということは理解できる。ぶれることのない旗の先は地面に膝をついた自分の鼻先に向けられている。

 下手な返答はこの場で頭を打ち砕かれることを意味しており、アサシンでは到底彼女と打ち合うことはできない。

「あなたをおかあさん(マスター)のところにはいかせない!」

 アサシンは肉きり包丁を振るってルーラーの旗の先を逸らさせ、弾かれたように後方に跳躍した。さながら軽業師のような動きであったが、ルーラーはすぐにこれを追って疾駆する。

 アサシンは八本のメスをルーラーに投擲。旗を振るってこれを撃ち落すルーラーには、傷一つつけることはできない。が、旗を振るったことが僅かにルーラーの速度を鈍らせる。

 その一瞬を、アサシンは利用する。

「――――此よりは地獄。“わたしたち”は炎、雨、力」

 アサシンはルーラーと打ち合うだけのスペックを持っていない。そのようなことは他ならぬアサシンがよく理解している。

 近代に現れた一介の殺人鬼に過ぎないジャック・ザ・リッパーが神話の英雄豪傑の中を生き抜くのは難しい。だが、不可能ではないのである。

 “夜”“霧”“女性”すべての条件が今満たされている。自分とマスターを付け狙う不届きなサーヴァントが何者かは知らないが、この必殺からは逃げられない。アサシンはただ必殺宝具を発動させるだけの時間があればそれでよかった。

 そうして、アサシンは『解体聖母(マリア・ザ・リッパー)』を発動する。 

 ルーラーに呪詛が絡みつき、その美しい肢体を解体する。

 ルーラーが頬を歪め、アサシンは勝利を確信した。すべての条件が満たされた環境で、アサシンに挑むことこそが悪手である。この世界では、あらゆる女はその実力の有無に関わらず解体されて肉の塊に変貌する――――そのはずだった。

 確かな手応えに反して旗を棚引かせるルーラーが猛然と突進してくるのを見て、アサシンは瞠目して動きを止めてしまった。

「逃がしません!」

 ルーラーが旗を一閃する。

 アサシンの目には光が横一文字に過ぎったとしか思えなかった。

 アサシンは胴を強かに打たれて宙を舞う。

「くは、あ、ぐぅぅぅううううううッ」

 背中から地面に叩きつけられて、アサシンは苦悶の声を漏らした。

 アイスブルーの瞳が苦痛に歪む。

 あばら骨が二、三本折れたかもしれない。じわりとした痛みが胸に広がるが、武人でもなければ医者でもないアサシンには細かいことはまったく分からない。

 ただ、一つ確実なのは――――このままでは、自分は殺されるということだけである。

 『解体聖母(マリア・ザ・リッパー)』が通じない相手に、アサシンが勝てるはずがない。ルーラーはアサシンの天敵である。宝具を無効化し、近接戦闘では圧倒的にルーラーが勝っている。アサシンは知るよしもないが、ルーラーにはマスターが存在しないというのも、マスター殺しのクラスで召喚されたアサシンにとって致命的であった。

「終わりです、アサシン」

 万民からすれば聖女であるルーラーも今のアサシンからすれば悪魔に等しい。

 迫るルーラーから逃げようと、アサシンは必死に起き上がろうとした。

「い、やだぁ」

 うつ伏せになり、地を這ってルーラーから遠ざかる。

 子どもの外見で召喚されたのではなく、彼女は正しく子どもなのだろう。どのような巡り会わせで、ジャック・ザ・リッパーの形を取ったのかは分からないが、伝承が形を得るための核に子どもに関わる何かが取り込まれているのかもしれない。そうなると、ここで討ち果たすのは気が滅入る。僅かな憐憫の情を抱きつつも、ルーラーはアサシンに止めを刺すべく旗を振りかぶる。

おかあさん(マスター)!……おかあさん(マスター)! おかあさん(マスター)! 助けて、よう……!」

 もはや霧の宝具を維持する力もないアサシンは、マスターに救いを求める以外にない。

 その訴えが通じたのか、アサシンの身体が魔力の光に包まれる。

「令呪……ッ!」

 失敗した。

 ルーラーは舌打ちする。

 アサシンの外見と言動に惑わされ、僅かに情を移してしまったことが令呪を使われる隙となってしまった。“黒”のバーサーカーの宝具から逃げる際にも空間転移をしていることもあり、アサシンのマスターは令呪を使えば如何なる危機からでも逃れられると分かっていたのだろう。

 アサシンは目の前で掻き消えた。

 だが、ルーラーの知覚能力はまだアサシンを捕捉している。間違いなく、そこにアサシンのマスターもいる。ルーラーはその場に向かおうとして、気付いた。

 サーヴァントがもう一騎、アサシンがいる辺りに潜んでいたのである。

 

 

 

 □

 

 

 

 六導玲霞は、恐ろしいまでに動物的な勘に秀でていた。

 これまでの逃避行で一度たりとも魔術師に足跡を辿られなかったのも、アサシンという最良のパートナーがいるだけでなく、彼女自身の才覚によるものでもあった。

 昨夜、敵のサーヴァントとマスターを倒すという大金星を上げたアサシンを労った後、捕食とスキルによって傷を癒したアサシンが告げた情報は玲霞の退路をほぼ断ち切るものであった。

 即ち、街中に“黒”の陣営が使い魔を放っているというのである。

 敵の膝元で魔術師たちを殺害していたのであるからいつかは捜索の手が伸ばされるとは思っていた。そのため、それ自体に驚きはなかったが、ではどうするかという点で手詰まり感があった。 

 サーヴァントとマスターを殺されたからといって、相手がこちらの都合に合わせてくれるはずもない。

 ここは敵の領域なのだから、本気で捜索されれば、仮の塒もすぐに発見される。しかし、逃げようにも使い魔とかいう魔術師のペットが空から見張っているのでどうにもならない。

 一番は動かないこと。息を潜めて、やり過ごす。“黒”の陣営は“赤”の陣営に奪われた聖杯を取り戻さなければならず、アサシンとの短期決戦を望んでいるはずである。ときが来れば否応なく“赤”の陣営に勝負を挑まなければならないのではないかと玲霞は睨んでいたので、そのときまで潜伏できればマスターを狙える可能性は残る。

 が、それも予想以上の早さでやってきた少女の姿をしたサーヴァントによってご破算となった。

 『気配遮断』を持つアサシンの居場所が容易く割れるはずがない。

 玲霞は素人であるが、アサシンの言葉は信じているしそのスペックも把握しているつもりである。見つからないはずのアサシンが見つかったのには理由があるはずと考えて、すぐにそれが自分であると気付けた。

 アサシンは隠れることができても、六導玲霞はきちんとした戸籍を持つ個人であり、気をつけていても情報は残ってしまう。残さないようにしても、むしろ残っていないほうが不自然なこともある。とにかく素人の玲霞はどうあっても存在を完全に消すことはできないのだから、“黒”の陣営は玲霞を追いかければアサシンに辿り付くこともできるだろう。

 敵も味方もマスター狙い。

 色々な手段で引っ掻き回していたが、それも限界がある。

 “赤”の陣営が去ったことで、短期間ながらも全エネルギーを“黒”のアサシン捜索に注ぐことができたこと。

 トゥリファスが“黒”の陣営の本拠地であり、管理下に置かれていたこと。

 玲霞が魔術師ではなかったためにアサシンの補助を満足に行えず、挙句に様々な痕跡を残してしまったこと。

 天地人のすべてが、玲霞たちに災いしたのである。

 空には監視の目があり、すぐ近くにはサーヴァントが近付いている。

 こうした状況の中で、玲霞はアサシンと図ってトゥリファスからの逃亡を画策した。

 この街に留まるのは危険すぎる。相手は時間をかけたくないようだから、こちらは目一杯時間をかけてやればいい。街を出れば、玲霞たちを捕捉することなど不可能なのだから。

 そして、アサシンが出した霧に乗じて外に出た玲霞はマンホールの蓋を外してその中へアサシンと共に身を翻した。

 そこまでは上手くいった。

 上空に監視の目があるのなら、地下から逃げるしかない。霧に乗じたことで、下水道に飛び込んだ姿は捉えられなかったはずである。

 しかし、ほっと一息ついたのも束の間、アサシンは強制転移で連れ去られてしまった。令呪はマスターだけが持つものだと聞いていたが、そうではなかったということか。玲霞にはアサシンの状況を知る術がない。外に出るわけにもいかず、我が子の身の安全を願いながら暗闇の中で息を潜めていた。

 そして、今、玲霞の腕の中には弱りきったアサシンがいた。

 二度目の令呪の使用に戸惑いはなかった。

 我が子が助けを求めている。令呪以外に救う手立てがなかったのだから、使うのはしかたない。

「大丈夫、ジャック?」

「ん」

 アサシンは尻餅を突くようにして座っている玲霞の胸に顔を埋めて頷く。

 強がっているのだな、と玲霞は思いながらアサシンの頭を撫でる。

 しかし、困った。

 魔術師の心臓のストックはもう底を突いている。

 玲霞ではアサシンを回復させる手段がない。

おかあさん(マスター)……」

「大丈夫よ、ジャック。大丈夫だから……早くここから出て、新しい居場所を見つけましょう」

 弱ったアサシンは一刻も早く魂食いを行わなければ消えてしまう。

 玲霞が魔力を提供できない以上は人間の生け贄を探すしかないがトゥリファスではもう狩りができない。少なくとも、敵の監視の目のない場所まで逃れなければならない。

おかあさん(マスター)

 身じろぎしたアサシンが玲霞から離れた。覚束ない足取りで立つと、包丁とメスで武装する。

「もう少し様子を見ようと思ったのだが、さすがに気付くか」

 反響する声。その直後、実体化した赤い衣服の男。

「サーヴァント」

「如何にも。“黒”の陣営でアーチャーを務める者だ」

 “黒”のアーチャーは武装もせずにアサシンと玲霞の前に立つ。

 この時点でアサシンは完全に詰んだ。

 もはや逃亡できる可能性は皆無であり、玲霞もまた同じであった。

「どうして、ここにいると分かったのですか?」

「君の判断は正しかったが、相手にしていたのが魔術師であるということは念頭に入れねばならなかったな。まあ、魔術師ではない君には不可能なことだが。……この街は我がマスターの血族が作り上げたものだ。当然、用水路の形状から流れまで街の中で魔術を扱うことを前提に設計されている。他所の街ならばまだしもトゥリファスの用水路に逃げ込んだのは悪手だったな」

 魔術と液体は切っても切り離せない関係にあり、大きな水の流れはそれだけで霊脈にも影響する。近くに工房を構えれば、術式の残留物が川を汚染する可能性もあり、魔術の儀式もそうしたことを念頭に置かなければならない。同時に、大きな水の流れをそのまま都合よく操ることができれば、それだけで一つの巨大な儀式場を作ることも不可能ではない。

 トゥリファスが長年ユグドミレニアの影響下にあったことを考えれば、用水路に魔術的な仕掛けが施されていないはずがない。

 玲霞の敗因はどこまでも「魔術師ではない」という点に尽きるだろう。

 魔術師にとっての常識は彼女にとっての常識ではない。

 これは、プラスに働くこともあればマイナスに働くこともある。

 これまでは、魔術師ではないという点がプラスに働き、正体を覆い隠していたが、身元がばれた途端にそれは尽くマイナスに働き続けた。今回の判断ミスも、魔術師の常識を知らなかったが故にしてしまったものであった。

「そう。またわたしはジャックの足を引っ張ってしまったということね」

おかあさん(マスター)。そんなことないよ」

 悄然とする玲霞にアサシンが声をかける。それだけを見れば、本当の母娘のようだ。

「さて、手早く用件を済ませてしまおうか。“黒”のアサシン。この場で降伏し、我々の軍門に降る気はあるかね?」

 問われたほうは意外な申し出に一瞬だけ唖然とした。

「どうして、わたしたちを殺さないのですか?」

「私としてはこの場で君たちの首を刎ねることに異論はないが、我がマスターは違うらしい。君たちが討ち果たしたバーサーカーの分だけ、そこのアサシンを働かせるつもりのようだな」

 腕を組むアーチャーの顔を見れば、それが彼の意に反するものだというのは分かる。あからさまに不愉快そうにしているのは、アーチャーにとってマスターの意思を尊重しているが自分は違うという意思表示であり、自分はいつでもアサシンとそのマスターを殺す用意があると明示するものであった。

「ここで降伏した振りをして、わたしたちがあなた方を裏切るとは思わないのですか?」

「無論、裏切れないように契約を結んでもらう」

 そう言ったアーチャーは一巻きのスクロールを玲霞に投げ渡した。

 古い羊皮紙には英語で契約の文章が書かれていた。

 玲霞は一通りの英会話ができるだけの教養はあるので、この文章を読むことに苦労はしなかった。

「これにサインするとどうなるのですか?」

「契約者の意に反して、契約内容を履行させる力が働く。口約束は信用ならんのが魔術師の世界だからな」

「そうですか」

 困ったことに玲霞は魔術師ではないので、この契約書の真贋を見極めることができない。騙されている可能性も当然あり、一方的に玲霞が不利益を被るということもあるだろう。

 だが、玲霞にも相手の思惑は読めた。

 アサシンを戦力として迎えたいという気持ちは本当だろう。傍から見ていても“黒”の陣営は不利な立場にある。だからこそ、アサシンの価値は高い。そして、玲霞の存在はアサシンを縛り付けるのに都合がいいと向こうは判断したのであろう。そのために、アサシンではなく玲霞に降伏の判断をさせようとしているし、契約も玲霞と結ぼうとしている。玲霞を人質にしてアサシンを動かそうというのである。

「それと、君たちが本気になって聖杯が欲しいと言うのなら我々と手を結ぶ以外にないぞ」

「どういうこと?」

 アサシンが尋ねる。

「すでに“赤”の陣営は願いを叶える段階に近付きつつある。我々が勝負を挑もうが関係なくな」

「そんなことありえない。聖杯戦争は最後の一人になるまで戦うものでしょ」

「ところがそうではない。いいかね、願いを叶えるのは聖杯だが、その原料となるのは膨大な魔力だ。ならば、その魔力さえどうにかしてしまえれば、すべてのサーヴァントを脱落させる必要はない。前回脱落したサーヴァントの分が一部残っていると言うし、今回脱落したサーヴァントもいる。よほど大きな願いでなければ今の時点でも叶えられるだろう。もっとも、向こうも些細な願いではないから、そう簡単にことは運ばないがな。さらに君にとって悪いことに、向こうには人間のマスターが存在しない。よって、聖杯で願いを叶えるなら、聖杯を求めて戦う意思を持つ我らと組むほかないわけだ」

「人間の、マスターがいない?」

「そうだ。向こうのアサシンのマスターは受肉したサーヴァントだったのだよ。それが裏で策謀を張り巡らせて、“赤”のセイバー以外のサーヴァントのマスター権を簒奪している。よって、人間狙いという戦術はすでに使えないわけだ」

 そして、“黒”の陣営に敵対しようものならば、この場で“黒”のアーチャーが斬り捨てる。

「お、おかあさん(マスター)?」

 話を聞いて不安そうにするアサシンを後ろから抱きすくめ、玲霞はアーチャーを見つめる。

「その話を信じる根拠はあるのですか?」

「ないな。私は君たちの生死には頓着しない。信じるも信じないも自由だが、君の行動次第では私の行動も変わる。ただそれだけだ」

 感情を感じさせない声は巌のように揺ぎなく、これ以上の譲歩を引き出すのは難しそうだ。

 今、“黒”の陣営に降伏するべきだと説いたのも、彼のマスターの意向を尊重してのことだろう。彼本人は、彼の言葉どおり玲霞とアサシンを殺害することも辞さない構えである。

「一つだけ確認させてください」

「なんだね?」

「ご存知かとは思いますが、わたしはこの娘に魔力の供給ができません。この娘を戦力とするのなら、そのための魔力をどうされるのですか?」

 契約内容を見れば、玲霞は“黒”の陣営の管理下に置かれることとなる。玲霞がアサシンの魂食いを容認していたのは単純にそうしなければアサシンが消えてしまうからであり、それができなければアサシンは戦力には数えられない。

「我々にはマスターからの魔力供給とは異なる形での魔力供給を可能とする技術がある。君はそのアサシンと契約したままで構わない。むしろ、我々にとってもその方が都合がいい」

「そうですか」

 素人がマスターであれば、様々な面で与しやすい。魔力は別から持ってくればいいのだから、マスターの資質は大きな問題にはならない。アサシンが玲霞を慕っていることから、精神的にもアサシンを縛り付ける材料とすることができる。

 アサシンを戦力とするのなら、玲霞を傷害するのは得策ではないというのが“黒”の陣営の考え方のようだ。

「分かりました。降参します」

 アサシンと離れる必要はなく、アサシンが夢を叶える可能性を残すには、どの道契約書にサインするしかない。その結果、自分はどうなるか不透明だが、娘には希望を残すことができる。今はそれだけでも、収穫としなければならないだろう。

 そうして、玲霞は契約書にサインをした。

 悪魔との取引のように思えたが、悪魔のような所業を繰り返してきた自分にはこれが似合いだろう。

 


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