リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき   作:観測者と語り部

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●踏み込んではならぬパンドラの領域

 ユーノとなのはは、アリシアに連れられて彼女が住んで居るという時の庭園に転移していた。

 もちろん、アリシアが魔法を使える程、万全な体調では無いので、ユーノが転移魔法を行使した形だ。座標を教わり、テスタロッサ家の起動パスワードを取り込んで行った転送は、瞬く間に三人の少年少女を別世界に誘った。

 

 そこは古城の雰囲気を漂わせた住処とでも言うのだろうか?

 ゲーム風に言うのなら、いかにも訳ありなダンジョンといった所。

 目の前に人の行列が余裕で通れそうな大通路が広がっている。海鳴の商店街にも引けを取らない大きさだ。通路の左右には、中世の騎士の甲冑が剣を構えて、ずらりと鎮座していて、今にも動きだしそうだった。

 通路の向こう側には巨大な扉が門を閉ざしている。アリシアによると、あの向こう側が玉座の間で、時の庭園を動かす制御室でもあるらしい。

 

 失礼かもしれないが。正直なところ、なのはは時の庭園を不気味だと感じた。

 活気がなくて、生きている存在の気配が感じ取れないから。まるで死んでいるようだと感想を抱くのも仕方ないかもしれない。

 こんな所にアリシアが住んで居るのかと考えると、可哀想だと思う。なのはだったら人があまり居ない広大な場所は寂しさを覚えるから。せめて多数の使用人がいて、人の過ごしている生活感さえあれば違ったのだろうけど……

 

 ちなみに三人ともバリアジャケット姿である。アリシアの親のお見舞いと挨拶ということで、失礼のない格好に着替えようとして単純に選んだのが防護服だった。流石にジャージ姿で友人の家に訪問するのは気が引ける。月村家とは違って外面を気にしない程、親しいわけでもない。

 

 恭也のお下がりを着てラフな格好をしていたユーノ。なのはの私服を着せられていたアリシアも防護服姿だ。二人は単純に万が一のことに備えてだったらしい。転移の失敗で意図しない座標に飛ばされたら目も当てられない。なのはに伝えなかったのは、知らせる前に本人が防護服姿に変身したからである。

 

「色々と案内してあげたい場所は沢山あるけど、また今度で。今は母さんの様子を見る方が先だよ」

「すごい。この庭園って君のお母さんが個人で所有しているの?」

「う~ん、詳しい事は分かんないんだ。あっ、でも、庭園の概略を記したデータマップがあるから、ユーノなら何か分かるかもね。バルディッシュ?」

『Yes sir』

 

 アリシアが待機状態のバルディッシュをかざすと、空間投影モニターに時の庭園らしき外郭部が表示される。まるで3Dモデルのように投影された庭園は、巨大な城塞のようだった。彼の有名な天空の城を連想させるかもしれない。

 モデルの周囲にはミッドチルダらしき文字が多数投影されているが、なのはには読むことが出来なかった。

 代わりにユーノがアリシアからバルディッシュを受け取ると。色々と操作しつつ、なのはに庭園の概略を説明してくれる。

 

 なのはの常識では考えられないことだが、時の庭園は次元航行船であり星々の海を渡ることが可能であるらしい。

 内部には超大型の魔導炉を備えていて、自給自足の発電が可能だそうだ。しかも、多数の傀儡兵と呼ばれるロボットを備えていて、施設の防備も強力。下手すると管理局の次元航行艦と渡り合えるかもしれないとユーノは驚愕していた。

 

 次元航行艦がどれ程の強さなのか、なのはは知らない。でも、きっと凄い事なんだろうと納得しておく。

 

 彼女の興味はもっぱらアリシアの母親の事だった。一体どんな人なんだろうと気になって仕方がない。

 母のいない環境で育ったなのはが、親友の母親に興味を抱くのは必然だった。月村家の両親は別居していて見たことがないし、バニングス家の両親も企業のトップに立つ人間。早々会える機会もなく、なのはは他人の母親を知らない。

 

 お母さんとは一体どんな存在なんだろう? 父親とは何が違うんだろう? そんな漠然とした疑問ばかりが彼女の頭の中で広がっていくけど、質問しようにもアリシアの母親は病気らしい。どんな人なのか気軽に尋ねるべきかどうか、彼女は迷ってしまい。結局言えず仕舞いになっていた。

 

 アリシアは、にこにこと時の庭園のお勧めの場所や、お気に入りの場所を自慢しているし、ユーノは庭園の詳細なスペックを呟きながら学んでいる。

 それを、どこか上の空で聞いていたなのはだったが、ユーノが急に乾いた笑いを浮かべたことで意識を引き戻された。

 

「は、はは……、ねぇ、アリシアの家系って、かの有名なテスタロッサ家?」

「う~んとね、有名かどうかは分からないけれど、名字はテスタロッサだよ?」

「えっと、そういうことじゃなくて。なんて言ったら良いんだろう」

 

 いまいち会話が噛み合っていない二人。

 云々と顎に手を当てて悩んでいたユーノだったが、閃いたかと言わんばかりに頷くと、核心に至る質問を繰り出した。

 

「お母さんの名前って、プレシア・テスタロッサかい?」

「うん、そうだよ! 良く分かったねぇ~~」

「まあ、有名だからね……」

 

 何度も一人で頷きながら、納得した様子のユーノ。

 なのはは、そんな彼に聞いてみることにした。プレシアがどんな人なのかを。管理世界で有名ならば、その人となりも知っているかもしれない。

 バルディッシュの空間投影モニターを消して、丁寧な手つきでアリシアに返すユーノに、なのはは静かに声を掛ける。

 

「ユーノさん。プレシアとはそんなに有名な人なのですか?」

「ん? ああ、ごめんよなのは。キミには分かりにくかったよね。プレシアって人は――」

 

 プレシア・テスタロッサ。

 いわく次元世界でも数えるほどしかいないSSランクの魔導師。条件付きとはいえ、その魔力と魔法の行使力。処理速度、術式の制御、威力、どれをとってもトップクラスの、まさに大魔導師と言っても過言ではない人だったらしい。

 本職は有名な会社の技術主任。魔導炉の技術開発・運用者であり、現場を指揮する立場に居たそうだ。技術者としても優秀。時の庭園の魔導炉は彼女が一から設計を手掛けたオリジナル。既存の理論で組まれた新型の魔導炉。これだけでも莫大な利益と、いくつもの賞が取れるとユーノは断言する。

 

 そんな子供からすれば誇らしい母親は。ある時、魔導炉の実験に失敗して大規模な事故を起こしたらしい。

 幸い犠牲者は少なかったものの、当時は事故を起こした責任者としてマスコミを初めとする追求と弾劾を受けた。そして程なくして地方に異動後、失踪したという話だ。

 後に事件は会社が実験を強行したことが原因で、プレシアには何の罪もなかった。それどころか事態を収束させようとした人間の一人だった。世間は手のひらを返したように企業を責めて、会社は倒産。けれど、彼女は表舞台に戻ってくることはなかった。

 今の今まで噂すら聞こえなかったようで、ユーノは彼女がこんな所に居たことが驚きらしい。

 

 プライベートの事については一切不明だそうで、彼女がどのような生活を送っていたのかは分からない。少なくとも娘がいた事すら分からなかった。

 

 不謹慎かもしれないが、そういう意味ではアリシアと出会えた事は幸運なのかもしれない。もし、彼女の辿った道筋がひとつでも違っていたら。アリシアとなのはは出会う事すらなかっただろうから。

 なのははアリシアに会えて嬉しいと思っている。人の運命とは数奇なもので、出会いすらも定められているのかもしれない。それでも、彼女に会えたことは純粋に喜ばしい。もちろんユーノにも同じ気持ちだ。

 

 最近は、こんな私でも変わって行けたと思う。もちろんいい方向に。昔は随分と人を寄せ付けなかったのだが……異世界の人間と関わって価値観が変わったのだろう。なのはは、そう自分を納得させる。

 もしも、彼女の家族がいたのなら気が付いただろう。それは、なのはが元に戻っている証拠。本来の、優しくて、明るく可愛らしい女の子に戻っているのだと。

 

 結局、プレシアがどんな人物かは分からずじまいだった。せいぜい想像できるのは、仕事に生真面目で、責任感が強い人だったと言う事だけ。頭もよくて、きっと美人なのは間違いないだろうけど。アリシアの綺麗な顔立ちと、美しい金糸の髪を見ていれば、そう判断できる。

 

「へぇ、なのはは母さんの事について知りたいの?」

「えっ? ええ、母親の事をあまり知らないので、参考に良ければと思いまして」

「じゃあ、私が母さんのこと話してあげるねっ!! 大好きな母さんの事、なのはに聞いてもらえると嬉しい!!」

「じゃあ、お願いできますか?」

「うんっ!!」

 

 自分の大好きな母親の事について話題にされるのが嬉しいのか、アリシアは明るい雰囲気をよりいっそう輝かせて頷いた。

 

 ユーノは、なのはの母親の事をあまり知らないという言葉に違和感を覚えた。それでも、余所の事情に深く踏み入ることは躊躇われるのだろう。自分の好奇心を律すると、彼もアリシアの話に耳を傾ける。

 

 ユーノとしても稀代の大魔導師であり科学者でもあるプレシアがどんな人物だったのか気になるのだ。数々の賞を受賞するほどの遺業。自分とは研究分野の違いはあっても尊敬に値する人物。

 その数少ない人柄を知る機会。是非とも記憶に留めて置きたかった。後の将来、考古学者として歴史の研究をするならば特に。

 

「母さんはね、いつも仕事が忙しそうで、帰って来るたびに疲れた顔をしてるの。でも、わたしが笑顔で"おかえり、ママ!"って言うと、すごく嬉しそうな顔で"ただいま、アリシア"って微笑んでくれるんだよ。それにすっごく優しいの!

 マカロンのジャムもわたしの好きな味にしてくれる。ピクニックに出掛けた時は、美味しいサンドウィッチを作ってくれたし、ピクニックに行った先で懐いちゃった山猫のリニスを飼うのも許してくれたんだよ?」

「でも、仕事が忙しいと言う事は、なかなか家に帰って来れないのでしょう? その、独りぼっちで寂しくはなかったのですか?」

 

 アリシアの母を語る口調は活き活きしていて、身振り手振りを交えながらも一生懸命伝える様子が、彼女の母に対する愛情の表れと言える。

 "優しい"とか"すごく"を強調するかのように声を張り上げて、大きく腕を広げるのだ。その大げさすぎる表現からも、いかに彼女がプレシアを慕っているのか伝わってきた。

 

 なのはは微笑ましそうに。まるで自分の事のようにアリシアの話に耳を傾けていたが、ふと悲しそうな顔をすると、寂しくないのかと、問いかけた。

 彼女も不破家において孤独だった頃がある。誘拐されて、救出された直後の頃。どうしても兄の恭也が手を離せない時。彼女は独りぼっちだった。その孤独感、誰も傍に居ないという寂しさを知っているが故に。そう問いかけるのも仕方ないのかもしれない。

 

 今でもなのはと家族の間では深い溝がある。自分ではどうしようもない程の疎外感。家庭内での独りぼっちの寂しさは続いていた。

 

 それは父の士郎も、姉の美由希も同じなのだろう。復讐に身をやつして心を自ら壊した不破家。激情に駆られるままに、閃光のように人生を駆け抜ける彼らは、酷く孤高でいて孤独だ。だから、誰もが声を掛けることは出来ない。同じ境遇を分かつ者か。家族という絆で結ばれた者にしか声は届かない。

 

 なのはが抱いたのは共感。境遇は違えど同じ孤独を味わった者として、アリシアがどんな気持ちだったのか知りたかった。そうすることで傷の舐め合いでもしたかったのか、或いはアリシアの言葉で救われたいのか。それは分からない。

 ただ、彼女はアリシアの語る母の思い出を聞いて、自分の知らない母の温もりを感じようとしたのは確かだった。

 

「う~ん、寂しかったのかなぁ? でも、使い魔のリニス。あれ? 山猫のリニス? とにかくリニスが居てくれたから大丈夫だったよ。

 それに、我儘を言って母さんを困らせたくないもん。だから、我慢するの。だって、ちゃんと帰って来てくれるし、寝る時は一緒だもん」

「そうですか。アリシアは良い子ですね。私なんて兄上に迷惑ばかり掛けてしまいました」

「そうなの?」

「ええ……とっても」

 

 アリシアの話はそれからも続き。なのは達はアリシアの謎めいた母親の事を少しだけ知ることになった。

 そして、同時に彼女の母親を、病から救ってあげたいという気持ちが強くなっていく。これ程までに娘は母を慕っているのだから。

 

◇ ◇ ◇

 

 なのは達は時の庭園の玉座の間を経由して幾つかの区画を移動する。

 自然の広がる区画は、驚くほどの大草原が広がって、奥地に森の生い茂る山がそびえている場所。本物の空と変わらない様に見える人工の空は綺麗だ。

 

 様々な本や資料を収め、何らかの実験に使う器具や施設が広がる研究用の区画。

 

 途中、大自然の区画でリニスのお墓参りをした。アリシアの姉とも、魔法の師匠ともいえる使い魔のリニスは既に息を引き取っていた。

 

 己の使い魔のアルフという狼がいるらしいが、彼女はアリシアに負担を掛けない為に子供の姿で眠り続けているらしい。彼女の見舞いは母親の後で、と言う事になった。

 

 本当に……アリシアは独りぼっちのようだ。少なくともバルディッシュ以外は誰も話し相手などいない。広すぎる住処にずっと一人で過ごす。どれ程の孤独だったのだろうか。少なくともユーノは想像が付かなくて顔をしかめていたのを、なのはは見逃さなかった。

 そして、数々の部屋それぞれに調度品が置かれ、住み心地の良さそうな居住区まで行くとアリシアは足を止めた。ここが目的地らしい。

 

「ごめんね。母さんは機械のベットに入って眠ってるから、お話は出来ないかもしれないけど、ジュエルシード集めをする前に顔を見ておきたかったんだ」

「いえ、気にしないでください」

「その、そんなにプレシアさんの容体は悪いの?」

「うん……母さんは――」

「そこに誰かいるのかしら?」

 

 ユーノが戸惑いがちにプレシアの具合を尋ね、アリシアが瞼を伏せて悲しそうに答えようとしたとき。

 部屋の中から女性の声が聞こえた。少年少女の幼さを残したソプラノの声とは違う。少しだけ低めに抑えられたような、落ち着いた女性の声。

 

「まさか、母さんっ!!」

 

 アリシアが叫び声をあげ、ノックもせずにスライド式の扉を叩き開けた。

 それは歓喜からくる叫びではない。焦りからくる切羽詰まった叫び。少女は友人の前にも関わらず、対面も何もないまま、一心不乱に部屋の中に飛び込んだ。

 一瞬、呆気に取られたなのはとユーノだが、慌ててアリシアの後を追いかけて部屋の中に飛び込んだ。

 

 そこに居たのは一人の妙齢と思われる女性。顔立ちは若く、二十代後半に見えた。

 髪の色は艶のあったであろう黒色。それにアリシアのようにとても長い。腰まで余裕を持って届きそうだ。

 瞳の色や髪の色はアリシアとまったく違うが、顔の輪郭はそっくりだ。アリシアの瞳と金糸の髪は父親譲りだろう。髪質はもしかすると母親譲りかも知れないが。

 病院着を着込んだ彼女こそが、アリシアの母、プレシアであることは間違いない。

 

 部屋の中には簡素なベット、大の大人が余裕で入りそうなポッドを備えた機械がある。

 恐らく、あの機械がアリシアの言う生命維持装置なのだ。なのははそう検討を付けた。

 

(顔色が優れませんね。アリシアの母親の病は本当に……)

 

 アリシアは眠っている母を優しく、丁寧に支えて抱き起していた。娘の力を借りて上半身だけ起こしたプレシアの表情は優しげだ。

 ただ、顔色は蒼白くて生気がなさそうに感じられる。彼女は目に見えて弱っているのがよく分かってしまう。食事を摂っていないのか頬は痩せこけているのが痛々しい。

 ジュエルシードと言う願いを叶える宝石を使ってまで、病を完治させたいというのも頷ける話だった。アリシアの母親は少しでも気を緩めれば儚く消えてしまいそうな感じがした。

 

「ダメだよ母さん! ちゃんと、あの中で眠ってないと……!!」

「大丈夫よ、"アリシア"。母さんは仕事が終わるまで、倒れたりしないわ。ちょっと忙しいけれど、この仕事が終わったら時間を作ってあげられる。小学校に上がる前の貴女に、今まで与えられなかった愛情も、楽しい時間も」

「……かあ、さん……」

 

 なのはは違和感を感じた。隣で立ち尽くすユーノも同じだったようで、小さく唇を開いて「えっ、あれ?」と疑問を漏らしている。

 アリシアが身体を抱き起してくれて、縋るようにプレシアにしがみ付き、身を案じるように訴えているのにも関わらず。彼女はアリシアの事を見ていない気がした。

 視線もちゃんと傍に居るアリシアに向けられている。娘の声にも気が付いている様子はある。だというのに、その瞳は別の誰かを見ているよう。まるでアリシアを通して、その面影を持つ別の誰かを。心なしか喋る言葉も、アリシアに向けられたものではないような。

 アリシアも慣れているんだろう。ショックを受けた様子もなく、悲しそうに俯いて小さな声で母さんと呟くだけ。それでも、瞳は涙で揺れていて、今にも泣きだしそうだった。

 

「……あら? そこに居るのは"アリシア"のお友達かしら?」

 

 プレシアが初めて気が付いたかと言うように、ゆっくりとなのは達を見た。

 思わず二人ともびくりと身体を震わせて、身を竦めてしまう。彼女の瞳は虚ろで、どこか夢心地のような感じがする。現実を認識できず、幻想を見ているような。

 確かにしっかりとなのは達のことを見ている。ちゃんと捉えて認識している。けれど、何処か致命的なずれを感じる。何かが噛み合わない。

 

「あっ、はい。ユーノ・スクライアと言います」

「ふっ、不破なのはと申します」

 

 声を上ずらせながらも、なのはとユーノは挨拶を交わす。プレシアの、その瞳を見ていると虚無に捕らわれてしまいそうで、失礼だが目を逸らすしかなかった。

 

「そう、こんな格好でごめんなさいね。せっかく"アリシア"のお友達が来てくれたのに、何のお持て成しも出来ないなんて。母として失格だわ」

 

 他人に聞かせるというより、まるで自分に言い聞かせるかのように呟くプレシア。

 その顔はどうしようもなく憂いに満ちていて、後悔に苛まれているかのようだった。

 なのははそれに、在りし日の父の姿を垣間見た気がした。士郎もこうやって。なのはのうんと幼い頃に、泣き崩れていたような。

 朧気ながらも覚えている。あの時の彼の顔は取り返しのつかない過ちを犯して。それを悔やみ続ける顔をしていた。自分を責めていた。

 

「本当に私は……いつも気づくのが、遅すぎる……ゴホッ、ゴホッ!」

「い、いやあああっ! 母さん!!」

「っ、大丈夫ですか――!?」

「二人とも落ち着いて!!」

 

 そうして、なのはが遠い記憶に想いを馳せていると、急にプレシアが咳き込んだ。顔を歪めて、苦しそうに何度も何度も。

 咄嗟に口元を手で抑えた彼女だが、指の隙間から血が零れ落ちてしまう。ゆっくりと肌を伝い、地面に滴り落ちるソレは、瞬く間に純白のシーツを赤黒く染めた。

 

 アリシアが目を見開いて、泣き叫ぶようにプレシアを呼ぶ。

 なのはも混乱していた。いきなりの吐血に何をどう対処すればいいのか分からない。

 

 そんな中でユーノだけが落ち着いていた。慌てたなのはを押しのけ、混乱するアリシアを引き剥がすと、プレシアに回復魔法を掛けていく。身体を蝕む病魔を根治させることは出来なくても、進行を抑え、症状を緩和することは出来る。

 

 部屋の中にフィジカルヒールの光だけが淡く輝く。術者の内面を表したかのような優しい緑の光。

 ユーノは黙々と治癒魔法を行使し続ける。なのははそれを漠然と見守ることしかできなかった。せいぜい出来ることは泣き震える少女を抱いてあやすことだけ。「大丈夫だよ」とアリシアに言い聞かせながら、安心させるように背中をとんとんと、手のひらで叩く。

 

「お加減はどうですか?」

「はぁはぁ……身体が暖かい、少しだけ楽になった気がするわ。ありがとう、坊や」

「良かったです。でも、やっぱり、アリシアの言う通り、医療用の治癒装置で眠っていた方が良いです」

「そうね、そうかしら? ええ、そうしましょう。ごめんなさいね、迷惑を掛けたわ」

「お気になさらず、どうかゆっくり休んでください」

 

 プレシアはゆっくりと立ち上がる。ユーノは彼女の身体を支え、なのはも同じようにプレシアの身体を支えた。

 弱々しく治癒装置の所まで一歩一歩、ゆっくりと進んでいくプレシア。そんな彼女の手をアリシアは引いていた。己の手を引っ張って導いてくれる娘の姿に、母は慈愛の微笑みを向けるも、やっぱりそれは別の誰かに向けられている。だって……

 

「貴方たち二人。とても良い魔導師に成るわ。感じ取れる魔力から才能が伝わってくるもの。量も質も飛び抜けてる」

「私はプレシアさんの子供にだって、アリシアにだって同じような才能があると思います。私では太刀打ち出来ませんでしたから」

「ふふ、謙遜はいいわよ? 残念だけどアリシアには魔力資質があまりないの。その変わり頭はとても良いから、将来は学者さんに為るのかしらね。いつも"ママ"のお仕事を手伝うんだって張り切ってるのよ」

「…………」

「でも、もしも私の魔法の才能を受け継いでいたら、貴女にも引けを取らなかったでしょうね。貴女と一緒にインターミドル・チャンピオンシップに出場したら、きっと素晴らしい試合が見れたかもしれないわ」

「そう、ですか……」

 

 彼女はアリシアの事をちゃんと認識していないのだから。

 なのはの違和感は確たるモノとなって、彼女を悲しみのどん底へと急速に落していく。

 嗚呼、如何してこんな事になっているのだろうか。娘はこんなにも母の事を慕っているというのに、肝心の母親はそれを正しく受け取ることが出来ない。アリシアの親を想う気持ちも、プレシアの娘を想う気持ちも、致命的なまでにすれ違っている。その事がどうしようもなく悲しくて。

 なのはは、プレシアが治癒装置に入るのを手伝いながら、顔を伏せる。

 

「はやく、はやく元気になって笑ってね。母さん」

 

 腕に栄養剤の点滴を流し込むための注射針を差し込み、横たわったプレシア。

 その姿が治癒装置に備えられた円錐状の、半透明な蓋が閉まっていく事で見えなくなる寸前。

 アリシアは涙で瞳を揺らしながら、気丈にも笑顔を浮かべた。母の病の快方を願う少女は最後まで涙を流すことはなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

 プレシアの病は一種の記憶障害だった。周囲の人間が認識している時間と、本人の中で認識している時間が決定的にずれているらしい。少なくともユーノはプレシアの治癒データを見て、そう判断した。だが、それは単なる合併症に過ぎない。彼女の身体を蝕んだのは別にある。

 病の原因となったのは過去で起きた魔導炉の暴走による事故。その時に魔導炉から漏れた反応魔力素を彼女は大量に吸い込んでいた。体内に残留した魔力素は彼女の内臓を蝕んでいき。そして、運悪く脳に達してしまった。これがきっかけとなって、プレシアは今の状態に陥った。治癒データはそれを端的に示している。

 内臓の殆どがぼろぼろで機能が低下している状況。免疫系も大幅に低下していて、別の病も発症している可能性もある。

 

 ユーノが驚愕していた点は、プレシアが一切の治癒を行っていなかった事。早期に医療施設で処置を受けていれば、ここまで重傷に陥ることはなかった。

 そして、彼女の病は末期症状まで進行していて、手の施しようがない。それこそ奇跡でも起こらない限りどうしようも。高度なミッドの医療技術を持ってしても症状を緩和して、延命するのが関の山。

 どうして彼女はこんなになるまで自身の病を放っていたのかと、ユーノが歯ぎしりしながら呟いていたのを、なのはは隣で聞いていた。

 

 彼は今、プレシアの治癒データをかき集めながら、彼女の寿命が何処まで持つのか計算している。

 もはやジュエルシードを使う事に何の躊躇いも見せていない。その上で安全にジュエルシードを運用できるのか計画しているようだった。暴走した時に即座に封印する方法から、願いを正しく認識させるにはどうするのか、時の庭園にある資料と自分の中にある遺失物の知識を照らし合わせて奔走している。

 

 寿命の予測はジュエルシードを集める所から、発動させる準備をするまでの期間のタイムリミットを割り出すため。いざ準備して間に合いませんでした、では話にならない。

 

 ついでに治癒装置の誤作動でプレシアが出て来ないよう、念入りにシステムのチェックまでこなす。その激務になのはも何か手伝おうとしたが、「なのははアリシアの傍にいてあげて」と、やんわりと断られてしまった。

 

 むしろ、なのはは、ジュエルシードの封印で忙しくなるのだから、休んで居て欲しい、とまで言われた。

 いわく裏方の仕事は僕の役目だからと。

 

 どうして其処までして無茶をするのかと、聞いてみると、彼もテスタロッサ親子の姿に思うところがあったらしい。それに、「他人を助けるのに理由はいらないし、友達なら尚更だよ」と語った。こんな事、苦じゃないと笑ってもいた。

 だから、知識が必要な部分は僕に任せろと、彼は胸を放って言い放つ。その姿にアリシアは真摯な態度で「お願いユーノ。母さんを助けてください!」と深く頭を下げ、彼は快く了承した。

 

 もちろん、なのはもユーノと同じ気持ちだ。なのはだってプレシアの事を助けたい気持ちは同じくらい強い。アリシアに母を喪う気持ちを味合わせたくない。だから……

 

「アリシア。私にもジュエルシード集めを手伝わせてください。わたし、お母さんがいないから。遠い所に行ってしまったから。だから、あなたのお母さんを助けたい」

「なのは――うん!」

 

 彼女は決意する。段々と高まっていったアリシアの母親を助けたいという気持ちは、現状を理解したことで揺るぎ無い決意として、なのはの中で固まった。

 その意志を伝えられたアリシアは、感極まって嬉しそうに、堪えていた涙の一筋を流す。ずっと独りぼっちで、時の庭園で過ごしていた少女。頼っていた親代わりのリニスを喪い、支えてくれる使い魔のアルフも眠り続けている現状で、全てを背負って行動していたアリシアは、初めて支えてくれる"親友"の絆を感じ取った。

 それが嬉しくて涙を流すのだった。

 

◇ ◇ ◇

 

「ここが一応、わたしの部屋だよ。なのは」

「では、あの子が?」

「うん、使い魔のアルフ。わたしにとっての妹だし、頼れるお姉ちゃんでもあるの」

 

 決意を新たにしたなのはは、アリシアに連れられて彼女の部屋を訪れる。後回しにしていたアルフの見舞いをする為に。室内では、なのはよりも幼い姿をした橙色が印象的な女の子がベットに横たわっていた。彼女がアルフだとアリシアは言う。橙色の長い髪から覗く、同色の狼の耳が特徴的で、元が狼だったと一目で分かるくらいだ。

 使い魔は動物を素体として作り出されるので、元になった動物の特徴が強く色濃く出るらしいとは、アリシアから道中で聞いていた。此処まで分かりやすいものなのかと一人納得しているなのはである。

 

「すぅ、すぅ」

「アルフ、負担ばかり掛けちゃってごめんね。でも、もうすぐ元通りだよ。そしたらいっぱい遊ぼう。アルフのしたい事。やりたい事にうんと付き合ってあげる」

 

 アルフが安らかに眠るベットに駆け寄ったアリシアは優しい手付きで、アルフの髪を撫でた。その仕草から、いかに彼女が自身の使い魔を大事にしているのかが分かる。なのはよりも断然子供っぽい性格の、幼げな少女が見せる大人っぽい一面。慈愛に満ちた年上の女性の表情。優しい眼差し。なのはの知らないアリシアがそこには存在した。

 

「それと紹介するね。こっちに居るのがなのは。初めて出来たわたしの友達なんだぁ。えへへぇ、すごいでょ~~?」

「安眠している手前、申し訳ありません。私は不破なのはと申します。以後お見知りおきを」

 

 アリシアに紹介されたことで、アルフの眠るベットの傍まで歩み寄ったなのはは、スカートを摘んで小さくお辞儀をしながら挨拶の言葉を口にする。

 

「もっと気楽に接してあげても良いんだよ?」

「これが性分ですので」

「まあいいや。立ったままだと辛いでしょ? ベットの隣に腰かけていいよ。話したいこといっぱいあるんだ」

「では、お言葉に甘えて。失礼します」

 

 眠る少女を起こさないようにそっとベッドに腰掛ける。

 改めて部屋を見回してみれば、なんと質素な部屋であろうか。

 居住区にある多くの部屋にはたくさんの調度品が飾られているというのに、この部屋にはあまり物がないようだった。

 あるのはそこそこ良さそうな使いこまれたベット。最低限の機能を保った机。そこに飾られている写真立て。たったこれだけしかない。

 着替えをしまうためのタンスやクローゼット。書物をしまうための本棚。空間モニターが主流なので分からないが、テレビのような映像装置もなさそうだ。観賞用の植物も、娯楽の為の遊び道具も、子供が持っていそうな物は存在しない。

 

 だからこそ、写真立てに飾られた一枚の写真は一際目立っていた。そこに映るのは美しい女性と幼いながらも利発そうな女の子。プレシアとアリシア。テスタロッサ親子の眩しい笑顔が収められた写真だった。特にプレシアの姿は見間違えるほどに綺麗だった。とても幸せそうな表情をしている。アリシアも真っ白な花弁が美しい花冠を頭にかぶせていた。母親に勢いよくしがみ付きながら、カメラに向かって元気よくピースサインをしている。

 背後の景色は話していたピクニックの時に撮ったのだろうか。見渡す限りの大草原が広がっているのが印象的。 

 写真立てから思い出話に行こう。幼いアリシアとプレシアが二人で映る写真

 

「その写真が気になるの?」

「ええ、二人ともすごく楽しそうで、私には眩しいです。これは何処で撮ったものなのですか?」

「うんとね、ミッドチルダの北西部、クルメア地方だったかな。わたしの生まれた地方とは比較的近い場所なんだ。リニスと出会った場所でもあるんだよ? ちなみに時の庭園はミッドチルダの南。アルトセイム地方。こっちは自然が豊かなんだ。おっきな森があるの」

 

 なのははミッドチルダという世界が未来都市のような自然が少なく、機能性が追及された都市群を先入観として抱いていた。魔法という技術に触れているなら特に。

 実際は、だいぶイメージと違いそうだった。アリシアの話からすると町の近くに大自然が広がっていそうだ。もしかすると自然と人間が上手く共存できた世界なのかもしれない。

 写真から掴み取れる情報は少ないが、海鳴の街の近辺でこんな大草原が広がっているなんて、聞いたこともない。そこからして違うのだ。

 もっとも、都会から遠く離れた田舎で過ごしていた可能性も否定できないが。プレシアは有名な研究者だった分、私生活はひっそりと静かに暮らしてたのかもしれなかった。と勝手な想像をしてみるなのはである。

 

 それにしても、アリシアの言動にはさっきから違和感があって、敏い不破家の少女は首を傾げていた。

 会話の合間が疑問形だったり、極めつけに呼称が変わっていたりする。プレシアの事を母さんと呼ぶ時もあれば、"ママ"と親しげに呼ぶ時もある。

 言葉に含まれた親密度は大して変わらないだろう。けれど、ニュアンスがまったく違うのだ。プレシアをママを呼んだとき、すごく甘えている感じがする。母さんと呼ぶ時は何処か遠慮がちなのに。

 自分の過去を話すときも、アリシアは自分の事のように嬉しがっているだけで、何処か他人行儀だ。まるで自分によく似た別の誰かの事を話しているような。

 どこかしっくりと来ない、気持ち悪い歯切れの悪さが目立って仕方がない。

 

「?……なのは、どうかしたの?」

「アリシア……いえ、何でも、ないです」

「もしかして疲れちゃった? もし、そうならごめんね。無理に付き合わせちゃったのかな……」

「そういう訳ではないのですけど」

 

 なのはは何て切り出していいのか判断できない。疑問点を付けば容易にアリシアの存在を崩してしまいそうな気がした。

 本人がどう受け止めているのか分からないのだ。ならば、部外者であるなのはが容易に口出しして良い事ではない。

 せいぜい、自分に出来るのは、その事で振り回されて苦しんでも大丈夫なように、助け舟を出せるようにすることだけ。

 

「私はアリシアがどんな存在でも受けとめます。だから、悩みがあったら、その、相談して下さい」

「……嬉しいなぁ。なのははやっぱり優しいや。いつだってわたしの欲しい言葉をくれるんだもの」

「そんなことないですよ。アリサの方が頼れますし、すずかよりも気遣いは下手っぴです」

「もう、謙遜しなくていいのに」

「あんまり、褒めないでください……照れます。

 そろそろ行きましょう。あまりユーノさんに頼るのもいけません」

「そっか。そうだね、そうしよう」

 

 またね、アルフ。と囁いたアリシアに続く形で部屋を後にする。

 来た道とは別方向。アリシアが近道だと教えてくれる帰り道を歩きながらユーノの元へ急ぐ二人。

 研究区画を横切って居住区を目指すルート。居住区と違ってどれも同じに見える扉や通路が広がる区画は迷いやすそうだ。実際に最初に使った道は、なのはが迷っても戻って来れるように、分かりやすい目立つルートにしただけで。本来であれば此方を主に使っているらしい。

 

 そうして歩くこと数分。巨大な両開きの扉の前を通った瞬間。なのはは顔をしかめ、口元を咄嗟に抑えることしかできなかった。

 嗅ぎ慣れてしまった臭い。嗅ぎ過ぎて本能的に嫌気を催す臭い。幼い頃に刻み付けられた嗅覚への特定の刺激は強烈な不快感となってなのはを襲う。それは、父と姉が纏いすぎた臭いであり、なのはから彼らを遠ざける一因ともなっているモノだ。

 

 尋常ではないくらいの血と腐臭が、両開きの扉の奥から漂ってくる。部屋の存在を示すミッドチルダ語をレイジングハートに直訳してもらえば、其処は動力炉直結の保管庫と書かれているらしい。よほど大切なのか見るからに厳重なセキュリティが施してありそうだった。隣には壁からせり出したコンソールが目立っている。

 

 なのはにとって不幸だったのは、不破の武術を学ぶものとして五感が非常に優れていた事。常時、自分の意志で抑制しているのだが、血の臭いを嗅いだことで枷が外れたらしい。血の臭い=危険という図式が防衛本能を呼び覚ました結果だった。

 この臭い、常人には嗅ぎ取れない。現に前を歩くアリシアは何にも感じていないのか平然と前を歩いているのだから。

 

「うげっ……ッ、むぐぅ……」

 

 込み上げてきた吐き気を辛うじて抑え込む。本当に気持ち悪い。早くここから離れたい。

 だというのにショックでふら付いた身体は言うことを聞かず、壁伝いで歩かなければ倒れてしまいそうだった。

 あまりにも刺激が強すぎて、身体が拒絶反応を起こしたらしい。身体の過剰な反応は時として人を傷つける。一種のアレルギーのようなものだ。

 

「あれ……なのは!? 大丈夫? 気持ち悪いの!?」

「ふるふる……」

 

 なのはは大丈夫と言おうとして首を振る。息を吸うのも気持ち悪いのに、言葉なんか吐きだしたら耐えられそうにない。せめてもの意思表示が精一杯だった。もはや仕草でさえ、良し悪しをのどちらを表すのか判断できないほど。

 アリシアはなのはに肩を貸すと、気持ち悪くなった自分に負担を掛けないよう、ゆっくりと歩いてくれる。

 少しずつ、少しずつだが、確実に不気味な扉から離れていく二人。

 

 なのはの顔は無意識に歪んでいた。瞳は涙目になっていて、彼女がどれほど辛かったのか端的に表している。泣くことを忘れた彼女が、防衛本能として涙を流しそうになったことも、不快指数の強さを表していた。

 アリシアが申し訳なさそうに言う。

 

「そっか、わたしは普段から気にしてなかったけど。他の人はそうじゃないよね。ごめんなさい……」

 

 その口ぶりから彼女はソコが何なのか知っている様子だった。

 声を出した瞬間に吐いてしまいそうだったので、視線で訴えかける。ここは何なのかと。

 その眼差しにアリシアは、はっきりと瞳を逸らした。顔を伏せ、表情を隠す。ただ押し殺した声で一言呟くのがせいぜい。

 

「此処は…………そう、……捨て場! 生の、とか、処理しきれなかった、ものが……わたしの、庭園の、管理が……ずさん、だから……」

「…………」

「お願い、あんまり、聞かないで欲しい、の……できれば、忘れて…………」

 

 例の両開きの扉は、保管庫と記された場所はアリシアにとっても良くない場所らしい。

 いや、もっと恐ろしい何かだ。あそこは開けてはならない禁忌の扉。パンドラの箱が収められた扉。

 其処にはきっとアリシアの最大の秘密が隠されているのだと、なのはは確信する。同時にもっとも触れてはいけない場所だとも悟る。不安定な金色の少女がもっとも弱さを見せる程だから。

 なのはは忘れることにした。いや、信じたくなかっただけなのかもしれない。

 

 多種多様にある血の臭い。草木が切り刻まれた臭い。刺身などの生物(なまもの)から、豚肉、牛肉、鶏肉に至るまで違いがある。

 保管庫から漂ってきたのは、幼い頃に知ってしまった嗅ぎなれた臭い。トラウマを刺激するほどの腐臭。

 なのはとしても本当に信じたくない。きっと違うんだと思いたい。

 

 だけど、あそこから漂ってきたのは間違いなく。

 

(あそこに保管されているのは……遺体、なのでしょうか……)

 

 人の血の臭いに他ならなかったのだから。

 

 


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