リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき   作:観測者と語り部

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出会い

 なのはの夢は決まって、あの雨の日の悪夢だ。最初の内は、血まみれで迫ってくる男に怯える有様であった。しかし、対処法を見つけてからはそちらを率先して行うようになる。すなわち、なのはの手で男を殺すこと。

 

向こうが何かしてくる前に、あらゆる手段を講じて男を殺す。気分は最悪だが、追いつめられるよりは、遥かにマシだった。おかげでうなされることも無くなり、寝ている間に無意識に暴れて、自身を傷つけることも少なくなる。

 

 なのはは思うのだ。この夢はきっと人を殺したことを忘れさせない為の戒めなんだと。

 だから、最近は慣れてきている。小学三年生になった今でも見続ける嫌な夢だが、対処法が分かれば怖くない。己の心を押し殺して耐えればいいのだから。

 

 でも、他の夢が見れないのは寂しいと思う。人は遠い過去の記憶を夢として見ることがあるという。できれば、喪った母親と変貌した父が仲良く微笑んでくれる。そんな夢が見てみたいものだ。そう、なのはは願っている。叶わない望みだと分かっていても。

 

 今日も夢の中の海鳴市は雨が止まない。

 気が付くと雨の中、なのはは佇んでいて、そこから悪夢が始まる、筈だった……

 

(雨が止んでいる……でも、風が強い。どういうことでしょう?)

 

 その日の夢は一味違った。いや、何もかもが見覚えのない光景。今までとは違う夢。

 けれど、妙に現実味があってハッキリしている夢。

 

 雨が降り出しそうな曇り空の景色。風の強さや、肌に伝わる冷めたさ、目の前に広がる木々のざわめきまで、現実と寸分変わらない感覚が、なのはを包んでいた。ただ、いつもなら存在するはずのは肉体はない。まるで、意識だけそこにあるかのような感覚。例えるなら、リアルを肌で体感しつつ、映画でも見ている気分。そんな感じだ。

 

(これは、いったい? なっ!?)

 

 夢の中では一人の美少年が怪物と激闘を繰り広げていた。

 

 アリサの家に誘われた時、プレイする彼女の隣で見せて貰ったRPGに出てくるようなモンスター。ドロドロとしたヘドロのような物体を身に纏い、中から覗く赤い双眸で少年を見据える怪物。ソイツは、素早い身のこなしで少年に向けて体当たりを放つ。

 

「はぁっ!」

 

 同性のなのはでも、一見すると女の子と勘違いしそうな少年。彼は短く吐息を吐きだすと、両手で凄まじい速さの印を結んで手を怪物に突きだす。すると、どうだろうか。不可思議な文様をした、淡い緑色の魔法陣が飛びかかる怪物の巨体を弾いた。それは、すずかの家で鑑賞したアニメにでも出てきそうな光景。もっともDVDは忍さんの所持品だったが。

 

「妙なる響き、光となれ! 赦されざる者を、封印の輪に!」

 

 吹き飛ばされた怪物は体勢を立て直そうと、着地でもしようとしたのだろうか。しかし、少年が声高に呪文のようなモノを叫ぶと、怪物は四方八方から延びる光の鎖に捕らわれて動けなくなる。鎖は逃がすまいと絡みつき、怪物の体内に喰いこんで離さない。

 

「ジュエルシード、封印!」

 

 これで勝ったんだろうか? しかし、少年の顔付きを見ると苦悶の表情を浮かべていて、歯を喰いしばっている。どうやら抑え込むのに手がいっぱいのようだ。

 

(が、がんばって! 負けないでください!!)

 

 なのはは、知らずの内に少年のことを応援していた。夢とはいえ、恐ろしげな怪物と戦っている人間。ましてや同年代の男の子となれば尚更に励ましたくなる。幼い子供が悪役の怪人と戦う特撮ヒーローに声援を送るかのように。

 悪夢を見続けた少女にとって、この夢は久しぶりに見る、何らかの、別の夢だ。普段は冷静沈着に振る舞うのだが、こんなふうに童心に返ってしまうのも無理はないのかもしれない。

 そうして、なのはの声援を密かに受けながらも、怪物を封じようとする少年と、もがいて暴れまわる怪物の、一進一退の攻防が続いた。少年が優勢なのか怪物の方は徐々に縮んでいく。その様子に上手くいきそうだと安堵の表情を浮かべる少年だが……

 

(危ない! 気を付けてください!!)

 

「えっ? なっ!!」

 

 それに気が付いたなのは、油断する少年に向けて咄嗟に叫び声をあげる。届くはずのない警告は果たして、少年に届き、彼も異変に気が付いた。

 収縮していた怪物の身体は、力を解き放つかのように弾け飛び。喰いこんでいた光の鎖を打ち砕く。無数の礫となって襲い来る怪物の破片。少年は光の壁を展開して防ぐも、衝撃で吹き飛ばされてしまう。木の幹に背中から打ちつけられ、怪物の攻撃で飛び散った破片が少年の額に直撃した。

 

 がっくりと崩れ落ちる少年。歯を喰いしばって必死に立ち上がろうとする彼は、脳を揺さぶられたせいなのか、上手く立ち上がることができないでいる。もしも、なのはの声が届かなかったら戦っていた少年はやられていたかもしれない。だが、何の因果か、こうして声は届き防ぐことが叶った。

 飛び散った肉体を、再び一つに集めて身体を再生する怪物。

 しかし、怪物も弱っているのだろうか、少年に止めを刺すことなく何処かへと逃げてしまう。

 

「逃がした……追いかけなきゃ……」

 

 怪物が逃げた方向に、震える手を伸ばして、這い蹲ってでも追いかけようとする少年。けれど、よく見れば無数に傷ついた怪我のせいで上手く体を動かせないようだった。民族衣装のような衣服にも血が滲んでいる。見るからに意識が遠のいて、瞼を閉じようとする少年。

 

 なのはは息を呑んで、少年に駆け寄ろうとした。目の前で誰かが傷つくことで、なのは生粋の優しさが揺さぶられていた。他人を思いやる心が彼を助けて、と叫んでいた。このまま放って置けば死んでしまうかもしれない。素人目から見ても酷い怪我だ。幸いにも父から怪我をしたときの応急処置の方法を叩き込まれている。止血して何処か安全な場所に運ぼうとして……

 

(っ……)

 

 気が付いた。

 この世界は自分が見ている夢の世界で、感じることはできても、触れることができない。

 せいぜい、なのはにできることは。

 

(しっかり! 気を強く持ってください。決して諦めちゃ、ダメ……!)

 

 少年を励ますことぐらいだった。

 本来は決して届くはずのない声。

 ここは夢の世界なんだから無意味なのかもしれない行為。それでも。

 

「さっきの、こえ……女の、子……の……」

 

 確かに、なのはの言葉は少年に聞こえていた。うっすらと瞼を開けて、瞳で虚空を見上げる少年。彼の翡翠のような瞳と、なのはの黒曜石のような瞳が交わった気がした。そこで、なのはの意識は揺らいでいき。

 

「不思議な……夢……」

 

 なのはは部屋のベットの中で目を覚ますのだった。

 

◇ ◇ ◇

 

「ふ~ん、つまり、今日のなのはは、いつも見ていた悪夢じゃなくて、正夢のような不可思議な夢をみたと」

 

「そういうことになります」

 

 神妙な顔をして俯くなのはの隣で、腕を組んでうんうん唸るアリサは首を傾げた。なのはの向こう側、つまりアリサの隣では、すずかがにこやかな微笑みを浮かべながら悩む親友を見守っている。

 小学二年生の時から、なし崩し的に友達となったアリサとすずか。なのはとしては乗り気ではなかったが、二人の積極的なアプローチの前に折れるしかなく。しかも、兄の恭也とすずかの姉である忍の後押しもあって、月村家の茶会にアリサと二人で呼ばれるなど、その仲を進展させるには充分すぎるほどの交流があった。

 おかげで、なのはは少しずつだが笑うようになる。

 笑うと言っても、他人から見れば微々たる表情の変化しかなく見分けるのは難しい。

 それでも、アリサとすずかにすれば、随分と心境の変化があったんだと、微笑ましい思いだ。少なくとも友達に悩みを打ち明けてくれるほどには心を開いてくれたらしい。

 

 相分からず何処か一線を引いていて、踏み込んでほしくない部分は、はっきりと拒絶の意思を見せる。けれど、誰だって隠し事のひとつはあるものだ。

 これからも徐々に知っていけばいいと、二人の親友はそう考えていた。

 

 やがて、アリサはなのはの悩みを聞いて結論を出したのか。顔をゆっくりとあげると、安心させるように穏やかな顔つきをした。

 なのはと付き合ってみて分かったことは、冷血そうに見えても、その心はすごく繊細だということ。本当は人一倍、寂しがり屋で優しい女の子なのだ。ただ、感情を表に出すのが苦手なだけ。内面を知ってしまえば可愛い妹みたいなものだ。

 だから、面倒見のいいアリサはつい助けたくなる。すずかも同じ気持ちだろう。

 

「難しく考える必要はないと思うわね。むしろ、いつもの悪い夢を見なくなった分、いい傾向なんじゃないかしら」

 

「そうでしょうか……」

 

「そうなの! ほら、むすっとしてないで。良いことがあった時は笑ってみなさい! アンタ、ただでさえ素直に喜ぼうとしないんだから、ね」

 

 なのはは言われた通りに笑おうとするが、今まで感情を麻痺させてきた影響なのか、どうすればいいのか分からなかった。心から嬉しいという想いが、湧き上がることは少ないのだ。まして、表情の出し方を忘れてしまったかのように、顔つきは変わらず人形のよう。

 だからなのか、アリサは一計を投じることにした。

 脇に居たすずかの顔を引き寄せると、頬を摘んで無理やり笑顔を形作る。そして、なのはに見せつけるかのように、弄られている、すずかの顔を近づけた。

 アリサの表情には悪戯っ子の笑みが浮かんでいて、なのはは、どう反応して良いのか分からない。

 

 まだだ、ここからがアリサの本番。友達を笑わせるための茶番劇。

 

「あ、ありひゃひゃん。いだい! いだい!」

 

「ほ~ら、なのは。これが笑い顔。い~ってして。あっはっはって声を出せばいいのよ?」

 

「もお~、ありひゃちゃん。おかえひ~~!」

 

「ちょっ、すずか!? 頬がひぎれる~~!!」

 

「ぢぎれでしまえ~~」

 

 すずかの頬を引っ張るアリサ。

 おかえしとばかりに、すずかも頬をひっぱらせたまま反撃に出る。

 開いた手でアリサの頬を引っ張ったのだ。

 

「ふふ、くすくすくす……」

 

((よし、笑った!))

 

 それが面白かったのか、二人が変な顔をしていたからなのか。なのはは思わず口元に手を当てて、微笑んでいた。

 可笑しくて堪らないといった様子で、肩を震わせている親友に、アリサとすずかも内心でガッツポーズ。顔を引っ張り合って変な表情を作りながらも、仲良くじゃれ合っているところを見せるだけだが、笑顔につられて笑わせることに成功したようだ。

 

 年相応の素直な喜びを見せるなのはは可愛らしい。

 いつもこのように明るくて、素直な女の子だったら、彼女はもっと素敵になれるだろう。

 それこそ、同じ女の子であるアリサが可愛いと思ってしまうくらい。なのはの笑顔は魅力がある。

 

「やっぱり、なのはってば、笑った方が可愛いわね」

 

「えっ……なっ、ななな……なにをいってるんですか……うぅ」

 

 そして褒めてあげたりすると、すごく照れ屋さんな彼女は顔を真っ赤にして、微笑むすずかの背中に隠れてしまった。

 恥ずかしすぎてアリサの顔もまともに見れないらしい。

 

 喧嘩とかずっとアリサよりも強いなのはだけど、心はとても弱いかもしれない。素直じゃない妹分の親友として、姉御肌なアリサは放っておけない。何よりも、アリサにとって、なのはとすずかは初めてできた友達。だからこそ、助けてあげたくなるのだ。

 

「な、なのちゃん!?」

 

「うぅ、うぅ、恥ずかしいのでこのまま……」

 

 すずがは驚いたようだったが、背中から腕を回してぎゅっと抱きついてくる恥ずかしがり屋さんに、優しく手を添えてあげる。まるで、母親がよしよしと娘を慰めているようだ。

 なのはの体温は意外にも高い。まるで、屋敷で飼っている猫のように暖かな温もりをすずかは感じていた。背中越しに感じる人肌の暖かさに、思わず心地よさそうに目を細めてしまう。そんな、ちょっとした二人だけの空間が出来上がっていた。

 

「ちょっ、ずるいわよ! アタシも混ぜなさい!」

 

 それを見て、除け者にされたと感じたのか、アリサもすずかに飛びついていく。

 何だかんだで仲のいい三人は、昼休みをこんな風に過ごしているのだった。

 

◇ ◇ ◇

 

「それでは、ここらへんで。私にも鍛錬があります」

 

「うっ、鍛錬ってあれよね。超スパルタなやつ……」

 

「なのはちゃん。あんまり無理しないでね。嫌になったら、うちに逃げてきていいよ?」

 

「そうね。アタシの家も頼りなさい」

 

「ふふ、お気遣いなく。それでは、またね、です」

 

 夕方の照らし出す帰り道で、下校途中の三人の少女たちは手を振り合いながら別れた。

 アリサとすずかはヴァイオリンの稽古とか、色々と習い事をしているらしいから、今日がその日なんだろう。二人そろって音楽教室に向かっていく。

 

 あまり人込みが好きではないなのはは、人通りの少ない場所を選んで帰宅していく。父からはあまり郊外を一人で歩くなと言われているが、なのはにとっては人が少ない方が気が楽なのだ。誰が誘拐犯なのか判断できないから、あえて一人になる事で誰も警戒する必要が無くなる。発想の逆転みたいなものだ。

 そうして、無意識に誰かの意識に吸い寄せられるようにして、獣道のような林の中を通っていたなのはだったが、妙に鼻に付く臭いのせいで顔をしかめた。もはや、なのはの中で嗅ぎなれてしまった臭いは、彼女を嫌な顔にさせるのに充分すぎる。

 それは血の臭いだった。偶に帰って来る姉が、身体に纏わりつかせているので良く分かる。いくら心地よい香りがするボディーソープで身体を洗っても誤魔化せないものだから、相当な数を斬ったんだろう。なのはの両手だって意識すれば漂ってくるから気持ちの問題だとは思うのだが、そう易々と割り切れるものではない。

 運の悪いことに、なのはの研ぎ澄まされた嗅覚は容易に臭いを嗅ぎ分けるし、意識してしまえば感覚も鋭くなってしまう。腕で鼻を覆っても、気休めにしかなからないほどだ。

 

(こんな所で味わうとは最悪な気分です。真新しい動物の死骸でもあるのでしょうか?)

 

 原因を考えながら、一刻も早く通り過ぎてしまおうと歩く速度を速めた時だった。

 

 血の臭いに刺激されて、感覚が戦闘時のソレへと切り替わっていたなのはは、立派に育った木々の幹に違和感を見つけてしまった。弾痕のような傷跡が残されていたのだ。

しかも、易々となのはの体格ほどもある木の幹を貫通しているらしい。恐るべき威力だ。飛来したと思われる方向に、慎重に歩み寄っていくと、草木にはいくつもの風穴が開いていて、可哀想に、枯れ始めた植物もいる。

 

 ここは人が通る道なんて在って、ないようなものだから、意図してこない限り、誰も異常を発見できないだろうと容易に想像がつく。そして、血の臭いを漂わせている元凶は、その奥にいると判断した。近寄れば近寄るほど臭いも濃くなっているからだ。

 警戒心の強いなのはは、本来であれば見なかったことにして立ち去るだろう。けれど、なのはは迂闊にも、吸い寄せられるようにして中心部へと歩み寄っていく。

 

(私は……ここを、知っている? ううん、この景色を見たことがある?)

 

 デジャヴとでもいうのだろうか。それは奇しくも、なのはが今朝方、夢で見た光景とまったく同じものだった。ゲームか、何かに出てきそうな怪物が、その身体をはじけ飛ばして付けた傷跡。ならば、この血の臭いの発するのは誰なのだろうか。アレは夢ではなかったのか?

 

 なのはは言い知れぬ不安をよそに、居ても立ってもいられなくなって駆けだした。臭いが強くなる方向を,近寄れば近寄るほど木々の損傷が大きくなっていく被害の中心部を目指す。

 そして、そこに彼はいたのだ。異国の民族衣装を着た傷だらけの少年が、夢で見た通りに血まみれになって倒れていた。

 慌てて駆け寄ると脈を測ると、なのはは安堵した。良かった生きている。弱々しいが確かに彼の脈はあって、ちゃんと生きて心臓はは動いていている。

 怪我をした少年を警戒するよりも、無条件で助けようとするあたり、彼女の性根は優しさで満ちていることが伺えた。

 

まだ、不破に染まりきっていない証拠だ。

 

 こんな時に、不破の鍛錬には感謝せずにはいられない。叩き込まれた応急処置の方法が少年の命を繋ぐきっかけになるかもしれないからだ。

 民族衣装の上から手のひらを這わせるようにして、触診していく。肋骨や腕は折れていない。夢で見た限り相当な勢いで弾き飛ばされて、木の幹に叩きつけられたのに、むしろ折れていないのが不思議なくらいだ。まるで、攻撃や叩きつけられた衝撃を吸収したかのよう。

 それでも、彼が血をにじませていたことは覚えているので、背中辺りに裂傷でもあるのだろうと見当をつけた。

 なのはは申し訳ないと思いつつも、民族衣装を破こうとして、驚愕する。

 

「何ですか……これはっ、くぅっ!」

 

 瞬間的に力を込めて、勢いよく破ろうとしても、うんともすんとも言わないのだ。いったいどんな素材で、どんな編み方をすれば、このように破けない衣服が出来上がるのか、想像もつかない。それどころか捲ってみようとしても、上着はともかくインナーが肌にぴったりと吸い付いていて、断念せざるを得なかった。

 そうして触診しているうちに、なのはは違和感に気が付いてしまった。破れた衣服から覗く肌が綺麗すぎるのだ。明らかに切り傷があって血を流していた部分。血液が凝固した痕が残っている筈なのに、綺麗に塞がっていて、白い地肌が覗いていた。いくらなんでも自然治癒が速すぎる。

 思えば血をに滲ませるほどの怪我をしていたというのに、血だまりが少ないのがおかしい。地面には少量の血が染みついているだけだ。

 

 そういえば不可思議な術を使っていた気がする。淡い緑色の文様を浮かべた陣。あのおとぎ話の魔法のような術で自分に何かしたのか?

 なのはが考えても分からないことだらけだった。

 

 だが、急いで此処を離れなければならないだろう。それだけは確かだ。

 

 なのはの夢で見たことが現実で、実際に起こった出来事であるならば、少年を襲った怪物が近くに潜んでいるとも限らない。しかし、なのはは同年代の子供と比べて、身体能力が優れていると言っても、少年を運ぶのは些か骨が折れる。

 

(……仕方ありませんね)

 

 困った時に頼れるのは親兄妹。

 けれど、こんな見るからに訳ありの少年を父は警戒するだろう。兄は嬉々として助けてくれるだろうけど、疑心暗鬼な父はそうもいかない。姉は海外に行っているから、そもそも頼れない。

 説得に骨が折れるんだろうなぁ、と思いながらも、なのはは携帯電話を取り出して兄に電話を掛ける。父の士郎に通話したら絶対にひと悶着あるだろうから、まずは兄を頼ることにした。今は一刻も早く危険地帯を離れる必要がある。父の説得などと、そんな悠長なことをしてられない。

 

 連絡すると恭也はすぐにでも来てくれるそうだ。いつでも兄の恭也は頼りになるが、迷惑かけたことを申し訳なく思う。兄だって大学の講義とかあっただろうに。

 恭也が来る時間も惜しかったなのはは、ランドセルを逆から、胸側から背負い込む。そして手馴れた手つきで少年をおんぶして現場を離れて行った。

 とにかく、嫌な感じがする場所から一刻も早く逃げ出したかったのだ。本能が危険だと訴えていたから。

 

 なのはの予感は正しく。去っていく少年と少女を一対の紅い瞳が覗いていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 案の定、父の士郎は少年を不審な目で見ていたが、恭也の根気強い説得によって渋々と言った表情で匿うことを許可した。とはいえ一時的なものなので、場合によっては追い出すかもしれない。彼はそういう人だ。子供でも容赦がない。何せ、娘のなのはの鍛錬にすら手を抜かないから、やるときは徹底するだろう。

 

 少なくとも、なのははそう予想していた。

 

 血まみれになるほどの厄介事を抱え込んだ少年。危険な香りがする子供をわざわざ家に招きよせて、災いも一緒に連れ込むのを父は良しとしないんだろう。それが、裏社会に生きた復讐者の警戒心からなのか、家族を心配してのことなのかは判断が付かないが……

 正直、父の考えなど、なのはにはどうでも良い。ただ、お人好しな恭也となのはは、怪我をしている子供を前にして見捨てることなどできはしない。

 

 暗殺術を叩き込まれたなのはだが、人を傷つけるのは大っ嫌いだ。喧嘩なんてもってのほかだから。万が一、人を殺めてしまうと思うとぞっとする。

 既に真っ赤に染まってしまった両手だが、そんな自分でも誰かを救えるのなら救いたい。ある意味、強迫観念にも似た想いがなのはを支配していた。

 

 だから、なのはは自らの手で少年を手厚く看病する。

 

 少年の強靭な服を脱がせることはできないので、衣服はそのままに布団に寝かせていた。傷もほとんどが塞がっているので施すことは何もない。それでも、汚れた手や顔を綺麗に拭いてあげたり、時折、うなされる少年の手を握るなどはする。

 もっとも、少年から苦しげな声が漏れるたびに、なのはは身体をそわそわと揺らしたりして、オロオロするのだが。結局は何もできずに手を握ってジッとするくらいしかできない。彼を安心させるかのように。かつて、恭也がなのはにしてくれたように。

 

 これくらいしか出来ない自分が歯がゆい。幼い頃に、あの日の後に、なのはを看病してくれた兄も、こんな気持ちだったのだろうか?

 今は少年が無事に目覚めてくれることを、なのはは祈った。

 

 そうして、日が沈み。夜の鍛錬が終わった後もなのはの看病は続く。

 ちょくちょく少年の様子が気になっては、起こさないように、静かに覗いているのだが、一向に目を覚ます気配はない。夢で見た時のように、吹き飛ばされた際、打ち所が悪かったのだろうか。それが原因で目を覚まさないのかと不安になる。

 

 そんな、なのはを恭也は大丈夫だと安心させるように諭した。脈拍も安定していて、呼吸の乱れもない。疲れが溜まって寝ているだけだからと言う。

 そして、なのはも無理はせずに眠りなさいと。

 

 なのはも、恭也の言葉に頷いて自分を無理やり納得させた。だから、寝る前の看病で今日は最後にするつもりだ。

 汗を浮かべた少年の身体を熱湯に浸した暖かなタオルで拭って、風邪をひかないように毛布をしっかりと掛けてやる。

 そうして静かに去るつもりだった。少年が目を覚ますまでは。

 

「「……えっ?」」

 

 二人は呆けたように固まる。なのはは少年が目を覚ましたことによる驚きで。少年は目の前に見知らぬ女の子がいた驚きで。少年の翡翠の瞳と、なのはの紫水晶の瞳が互いを捉えて離さない。

 

「あっ、うわぁ!!」

 

 やがて、動いたのは少年の方だった。慌てたように布団から上体を起こして、立ち上がろうとする。

 なのはを警戒してのものではなく、すごく可愛い女の子が隣に居るという恥ずかしさから、咄嗟に起こした行動だった。

 

「ま、まだ動いちゃダメです!!」

 

「っぅぅ……」

 

 なのはも、少年の行動に慌てて制止の声をあげるが、時すでに遅し。急に身体を動かしたことで、全身に残る鈍痛が刺激され、痛みで顔をしかめた少年は、身体を両手で抑えながらうずくまった。すぐさま、なのはは少年の背中を支えてあげると、ゆっくりと彼を布団に寝かしつける。

 

 傷は塞がっているとはいえ、全身を打撲したようなものだ。服に隠れた身体の節々は痣だらけに違いない。それに、半日ほど眠っていたので筋肉も硬くなっているし、安静にしていなければ怪我は悪化する。

 

 とりあえず落ち着かせるように、なのはは少年の手を両手で優しく握り込む。兄がそうしてくれた時、なのはも安心したから、こうすれば彼も不安になる事はないだろうという判断からだ。実際には手を繋がれた恥ずかしさでいっぱいなのだが、異性を認識するには、まだ早いなのはが知る由もなかった。

 

「落ち着いて。別にあなたを襲ったりはしません。ここは安全ですから。今、水を持ってきますから大人しくしていてください」

 

 自分の言葉に少年がこくりと頷いたのを確認すると、なのはは安心したように息を吐く。どうやら言葉は通じているらしい。そのまま、少年を刺激しない様に部屋を出ていくと、飲み物を取り行った。自己紹介や事情を聞こうにも、ひとまず落ち着く必要がある。

 そして、和室の畳部屋に残された少年はと言うと。

 

(あんな可愛い子に手を――)

 

 羞恥に染まった顔を布団で隠しながら、握られた右手を見つめていた。

 

 


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