リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき   作:観測者と語り部

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〇八神家の新たな家族

 ダブルベットの上に寝かされていた少女は、意識を覚醒させ、うっすらと瞼を開けると起き上がろうとした。しかし、身体が思うように動かず、柔らかな羽毛を詰められた敷布団の上に倒れ込んでしまう。幸い怪我はなかったが、硬い地面の上だったら危なかった。それほどまでに勢いよく倒れたのだから。

 

「っあ……うぁ、あ……!?」

 

 信じられないかのように痙攣する手を見つめる少女。瞳は真ん丸に見開かれていて、自分の現状にどれほど驚愕しているのか、誰が見てもよく分かる様子だった。

 貧血にも似た気怠さが少女を蝕み、空腹と渇きが意識を朦朧とさせていく。足りない、少女は満たされていない。身体を維持するために必要な何かが欠けていると本能が訴えかけているが、それが何なのか分からなかった。

 不安で心細くなって泣きそうになる。うっすらと瞳に涙を浮かべてしまう。

 何か大切な繋がりを絶たれたような空虚な感覚。無理やり身体から何かを切り離したか、むしり取られたかのような。そう、いつも感じている"絆"のような心を満たしていた安心感。そこから流れ込んできていた暖かな光がないのだと理解してしまう。

 

「ああ……うああああ!! やだ、やだああああ!!」

 

 ついに少女は幼子のように泣きだしてしまった。少女自身も他のことも何もかもが思い出せず、そばにあった筈の大切な繋がりさえも失い、気が付けば見知らぬ部屋。身体は死にそうなくらい苦しい。

 それほどまでの事がいっぺんに襲い掛かれば、誰だって不安にもなるし、恐怖に駆られても仕方ないのかもしれない。

 

「おーさま、みんな、どこっ!? ひとりにしないでぇ!!」

 

 熱にうなされるような怠い身体で、震える手はベットのシーツを握りながら、少女はありったけの声で叫んだ。

 少女が出せる声で、今できる精一杯のシグナルを、助けを呼ぶ。もはや、錯乱している少女に、記憶を失う前の冷静沈着な面影はなかった。

 その声を聞いたのか、あるいは部屋の異変を察知したのか分からないが、部屋を結ぶ扉の向こう側から慌ただしい音が聞こえて少女はひっ、と怯えた声を漏らしてしまう。誰か、来る。

 もしかしたら、少女の求める存在が助けに来てくれたのかもしれないが、見知らぬ誰かなのかもしれない。後ずさりしようにも、布団にくるまって隠れようにも身体が言うことを聞かず、怯えたように扉を見据えることしかできなかった。

 果たして、扉を蹴破るようにして現れたのは、金髪の女性に抱えられた少女とポニーテールの凛々しい女性。勝ち気な雰囲気を纏う赤毛の女の子。

 何よりも少女の目を引いたのは屈強な体格を持つ、褐色の男性。少女の失われた記憶がフラッシュバックする。思い起こすのは、厭らしい笑みを浮かべて少女に手を伸ばす男の姿。だから、少女は怖くなってがむしゃらに急所を不意打ちして、眼を抉って、心臓、肝臓、胃、腎臓といった急所に"徹"を何度も何度も叩き込んで、蹲るソイツに鋭い鉄パイプの切っ先を何度も何度も突き刺して、手が赤く染まって、身体が赤く染まって、雨が降っていて、血が混じって、悪夢を見て嘔吐して……

 

「いや、いや、嫌々……いやああああっ!! こないで、あっちいって! 近寄らない、うえぇっ……」

 

「――っザフィーラ、ごめん! 部屋の外で待ってて。この子、男の人に反応して酷く怯えてる」

 

「……御意に」

 

 尋常ではない様子を見せる少女に、金髪の女性に抱えられた女の子は一瞬だけ怯む。それでも、少女の視線の先に誰がいて、何に怯えているのか察するとザフィーラと呼んだ男を退室させた。

 いろいろと限界が来て、咳き込むように嘔吐を繰り返す怯えた少女。幸い何も食べてないせいで、ベットに嘔吐物をぶちまけることはなかったが、酷く苦しそう。それに、怯える少女の姿は、足が不自由で満足に動かせない女の子から見ても悲惨すぎて、放って置けなかった。

 だから、危険だと渋る家族に無理言って少女の側に降ろしてもらう。上体だけで身体を引きずるようにして傍に近寄ると、苦しむ少女を抱きしめて、あやす様に背中を叩く。

 怯えたかのようにビクッと身体を震わせる少女。しかし、抱いている女の子の姿が、見知った王様に似ていることに気が付いて安堵したように強張った身体の力を抜く。すがるように、しがみ付くように、目の前の存在に抱きついた。

 

「怯えんといて、怖がらなくてええよ。誰もあなたのこと、傷つけない。大丈夫やで?」

 

「おーさま、よかった。どこいってたの? 怖いよ、わたしをひとりにしないで……」

 

「うん、ごめんなぁ。わたしが悪かった。ちゃんと傍にいてあげるから、今は安心して眠るとええ」

 

「で、でも、ねむったら怖いゆめみるから、やだよぅ」

 

「ほんなら、わたしが一緒に添い寝してあげる。そしたら安心やろ?」

 

「ホントに? ホントにいっしょに寝てくれ……る、の? 怖い、ゆ、め……み、な……い?」

 

「なんなら子守唄でも唄おうか? ~~♪~~~♪」

 

 背中を叩いてあやされながら、少女の意識は心地よいまどろみの中へと誘われてゆく。少女の背後で金髪の女性が両手を突きだして、掌から翡翠の光を照射していることに気が付けないくらい眠くなる。

 それに、大好きな王様が添い寝してくれていうなら安心だ。かつて、こんなふうに怖くて、怯えていて、眠れなかった時も優しい兄が一緒に寝てくれた。だから、きっと大丈夫なんだろう。

 暖かな光を受けて、気怠さも、気持ちの悪さも吹き飛んで行って、とても心地よい。体調の悪さが嘘のように無くなると、不安も薄れていく。

 やがて、記憶喪失の女の子は、優しい歌声を聴きながら、目の前の存在。八神はやてにもたれ掛るようにして安らかな眠りについた。

 

◇ ◇ ◇

 

「やっぱり、わたし、この子の傍にいてあげようと思う。誰もいないのに気が付いて、怯えて泣き叫んでしまうような子を放っておけないんよ」

 

 主である優しすぎる少女。八神はやての言葉に渋面を作るのは守護騎士一同。シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラに至るまで理解できても納得はできないと言った表情をしている。それも、そのはず得体のしれない正体不明の女の子と一緒にいるというなら、どんな危険があるのか分かったものではない。

 はやてにしがみ付くようにして寝ている少女は、人間ではなかった。主の必死の叫びを受けて、急速に駆けつけた守護騎士は、傷ついた女の子を助けたが、しかし、纏っていた服が魔法でできた防護服だと知ると管理局の人間だと疑うのは必然。それでも、治癒して療養させた後に軟禁しておけば問題はなかった。

 問題なのは、治療して魔法で身体検査した結果、少女が魔法プログラムでできた、守護騎士と同一の存在だという点。

 しかも、身体を構成するプログラムの半分がシャマルと酷似していて、何者かが造りだした守護騎士プログラムのコピーなのかと疑ったくらいだ。

 目的が何なのか、それどころか記憶がなく正体も分からない。明らかに何者かと争って傷ついた怪我から、何らかの厄介事を抱え込んでいるということが推測される。

 一番の懸念事項は少女が魔法生命体ということだ。身体を維持してあげるのに魔力を喰う。蒐集した魔力を与えるわけにもいかず、大気中の魔力を吸収することも出来ない少女と守護騎士。なら、身体を維持するための魔力を誰が与えているのか? 簡単だった。目の前にいる八神はやてだ。

 ただでさえ闇の書の呪いに蝕まれているというのに、健気で優しすぎるはやては、助ける唯一の方法を教えられて、いとも簡単に承諾した。どんなリスクを背負うのか知ったうえで。

 だから、守護騎士にとって記憶を失った少女は疫病神でしかなく、印象は最悪に近い。しかも、錯乱した様子を見たばかり。何かないとは絶対に言いきれない。下手すればはやてに危害が加わる可能性だってある。

 だから、守護騎士の代表としてシグナムは懸念事項を伝え、はやてを説得しようと試みた。

 

「お言葉ですが、主はやて。また、その娘がパニックに陥れば、意図せずとも主を傷つけてしまうかもしれません。ここは、ザフィーラ以外の我ら守護騎士に、面倒をお任せ頂けないでしょうか」

 

「ううん、シグナム。気持ちはありがたいけど、私じゃなきゃだめだと思う。さっき、この子。わたしのこと王様言うて、甘えたやろ? きっと誰か大切な人と私を重ねて見てるんや。だったら、私が傍にいた方が安心できる。それに、私自身もそうしてあげたい」

 

「ですが……」

 

「わがまま言うとんのは分かっとるし、みんなが私を心配してくれてるのも知ってる。でも、このとおりや!」

 

 そう言ってお願いするはやてに、シグナムは眉尻をさげて困ったような表情をするしかなかった。

 主の道具でしかなかった守護騎士を家族同然に接してくれて、人間としての心を取り戻させてくれたばかりか、衣食住の世話までしてもらっている身。仕える主の、しいては大切な家族のお願いとあっては無下にできるはずもなく。

 秘密裏に蒐集して、はやてを闇の書の主にすることで病を治そうとしている。その行いを隠している負い目。主の人を傷つけてはならないという約束を破った罪悪感もあって、シグナムは折れるしかなかった。

 

「はぁ……仕方ありません。ただし、シャマルを何と言おうとも傍に控えさせます。彼女なら何かあった時に対応できますから。それに、娘の魔力とも親和性が高いので、魔力不足で苦しませるような事態も防げます。よろしいですね?」

 

「ほんまおおきにな。シャマルもよろしく頼むで?」

 

「はやてちゃんの願いなら、何だって叶えちゃいますから気にしないでください」

 

「ちぇっ、今日ははやてと一緒に寝る予定だったのに……」

 

「ごめんなぁヴィータ。あ、なんなら、ヴィータも一緒にいてもいいんよ?」

 

「べ、別に、嫉妬とかしてねぇし。それに、大人数で居たら、ソイツが目覚めたとき不安にさせちまうだろ。なら、一緒に寝るのは今度でいい。行こうぜ、シグナム」

 

「そういう事ですので、私とヴィータは部屋から離れます。リビングにいますので何かあれば、お呼びください」

 

「……ほんまに、心配してくれてるのに、わがまま言ってごめんなさい」

 

 そそくさと、けれど名残惜しそうに部屋を出て行くヴィータの後に続いて、同じように退室するシグナムの背中に掛けられたはやての言葉。

 謝るのは我ら守護騎士のほうです。喉から出そうになった言葉を無理やり呑み込んで、気にしないでくださいと言うのが精いっぱいだった。

 後姿を見られているだけで良かったと思う。きっとシグナムの顔は、苦虫を噛み潰したかのように歪んでいただろうから。言えるわけがない、他人を傷つけて蒐集していることも、主に負担を掛ける記憶喪失の少女を秘密裏に消そうとしたことも。

 いったい、何度はやての御心を裏切れば気が済むのか。犯した罪を思えば決して許されないことも理解している。けれど、このまま主が死ぬ未来なんて容認などできなかった。自分たちがどうなっても構わない。でも、はやては死んでほしくない。なら、進むしか……道はない。

 

「……シグナム」

 

「ザフィーラ?」

 

 苦悩したまま廊下に出たシグナムに声を掛けたのは、壁を背にして腕を組んでいたザフィーラだった。迷走するように両目を持て、寡黙で多くを語らない守護獣。

 

「……あまり一人で背負い込むな。お前は我らヴォルケンリッターの将。我らのまとめ役。だが、我も、ヴィータも、シャマルも立場は対等、家族なのだ。苦悩、後悔、抱えた罪は同じように背負っている」

 

 ようするに、気にするなと言いたいのだろう。普段は物静かだからこそ、言葉に重みがある。

 シグナムは少しだけ気が楽になったような気がした。はやてに心配かけないよう、戦闘で消耗した様子をみせないよう演技しているのに、家族に心配されるようでは、いけない。

 一人で思い悩んでいるよりは、家族みんなで思い悩んで、どうすべきか考えた方が良いに決まっている。未来のことも何もかも。

 

「そうだな。すまなかった、ここのところ蒐集が巧くいっていないせいで、少し気分が滅入っていたようだ」

 

「……風呂は沸いている」

 

「そうか。なら、気分転換に湯浴みをするとしよう」

 

 どこまでも優しい気遣いをみせる守護獣に、シグナムは思わず微笑むのだった。

 

◇ ◇ ◇

 

 翌日、ディアーチェが高町家に居候して共に朝食を迎えている頃。いつもなら八神家も同じように賑やかな食事風景を迎えるのだが、今日はちょっと違っていた。具体的に言うとある人物の食事に手間取っている。

 もちろん、ある人物とは記憶喪失の女の子だ。昨日の夜はお風呂に入ることができなかったので、はやてと一緒に朝風呂に浸かり、暗めの栗色の髪を洗ってあげて、風邪をひかないように身体をよく乾かしたまでは良かった。

 しかし、はやてのおさがりのパジャマに着替えさせて、さあ、ご飯にしようとしたところで問題が生じた。トラウマなのか、心理的ストレスの影響なのか、少女は食事を満足に食べることができず、吐いてしまったのだ。これには、はやても守護騎士一同も困り果ててしまった。

 少女の好物を作ろうにも、そもそも記憶がないので聞き出すことは不可能。病院で栄養剤でも処方してもらう手はあるが、早朝なので開院していない。急患扱いで担ぎ込むのは最終手段だ。

 云々と唸って知恵を振り絞る一家。あるとき、はやては本で見た知識を実践することにした。それは、少女の目の前でおいしそうに料理を食べて、食欲を促すという方法。選んだ料理は、できるだけ消化器官に負担を掛けないおかゆ。たまごを溶かし、塩で味付け、梅干しを載せた一品。うまそうに食べる役はヴィータ。選ばれた理由は、単純に下手な演技をせずに子供らしく食べてくれるからという理由だった。本人は不服な様子だったが。

 

「これ、超ギガうまな料理だな。食べやすくて、味もしみてて、うめぇうめぇ!」

 

「こらこら、ヴィータ。そんなにがっついたらあかんよ? この子の分が無くなってしまう」

 

「だって、ホントに旨いんだからしょうがねぇだろ? おかわり!!」

 

「はぁ~、あれだけ食べたのに食欲旺盛やなぁ」

 

「育ち盛りなんだよ。きっと」

 

 少女の眠るベットの上で茶番劇を繰り広げる二人。上体を起こして、不安げに何事かと事の成り行きを見守っていた少女も、あ、う、と戸惑うような声を漏らしながら、何か言いたげに手を伸ばしては、引っ込める。

 不意にごぎゅるるる~~と腹の虫が鳴る。少女のほうからだった。はやてとヴィータが顔を見合わせて、少女のことを見つめると、顔を羞恥に染めて布団をかぶってしまう。けど、恐る恐るといった様子で、小動物のようにおかゆに視線を向けているのが、なんとも可愛らしい。

 いい傾向だ。体調の悪い少女に食欲があることを確認できてほっとするはやて。それに、ヴィータも何だかんだで人畜無害そうな少女の様子に、警戒心を緩めて、にやけていた。

 

「お前も食うか? うまいぞ、激うまだぞ?」

 

 はやてが、優しく"きみもたべる?"と言う前に、ヴィータはニカッと笑いながら、おかゆを掬ったレンゲを差し出す。

 一瞬だけ、ビクッと身体を震わせた少女だが、敵意がないと知るとコクコクと頷きながらレンゲに口を開いてあーんした。自分で握って食べないのかよと心の内で愚痴りながらも、丁寧かつ繊細におかゆを食べさせてやる。

 すると、一瞬だけウッと唸った少女は、しかし、ゆっくりと咀嚼しておかゆを呑み込んだ。お気に召したのか花が咲いたような笑みを浮かべて、おかわりを催促するかのように再び口を開く。

 

「あー、あー!!」

 

「たくっ、しょうがねぇな。ほら、慌てずにゆっくりと食うんだぞ?」

 

「こくこく」

 

 愚痴りながらも、満更でもなさそうにおかゆを食べさせていくヴィータ。その様子がおかしくて、はやては思わずクスクス笑いながら"ヴィータってお姉ちゃんみたいやね"と言うと、八神家の末っ子だったヴィータは激震が走ったかのような衝撃を受けた。

 つまり、この少女を受け入れればヴィータも姉になれるという事。ヴィータの中で得体のしれない少女が妹分になっていく。意外と面倒見が良い鉄槌の騎士は、しだいに少女の存在を受け入れていた。

 

「お、かわ、り……おかわり!!」

 

「まだ、食うのかよ……すげぇ食欲だ。さっきまでの様子が嘘みてぇ。はやて!」

 

「うん、シャマル~~! おかゆのおかわり持ってきて~~!!」

 

「は~い!」

 

 はやての呼び声を受けて、すぐさまお盆におかゆのおかわりを載せて現れるシャマル。まだ、心を許していないのか、シャマルを警戒していた少女。すぐにおかゆに視線が行ったのか気にしなくなる。しかし、それでも少女の身を案じたシャマルはおかゆを手渡すと、すぐに退室していった。

 また、同じようにレンゲにおかゆを掬って食べさせようとするヴィータ。少女は震えていた腕を確認するかのように動かし、手をグーパーして問題ないと思ったのか、おかゆのよそわれた皿とレンゲに手を伸ばす。自分の手で食べてみたいようだ。

 不意に身体を上手く動かせなくて、おかゆを布団の上にこぼしてしまうと渡すのを躊躇するヴィータだが、隣ではやてが頷いたのを見て皿とレンゲを差し出す。少女は嬉しそうに受け取ると、がっつくように、米の一粒までむさぼるような勢いで食べ始めた。

 

「はむはむ! もきゅもきゅ! ごっくん!」

 

「はは、旨いだろ? 食べられるようになってよかったな」

 

「コクコク!!」

 

 あまりにも美味しそうに食べるものだから、呆れるのを通り越して笑ってしまう。ヴィータが頭を撫でてやると少女はくすぐったそうに目を細めて、気持ちよさそうだ。気分は子犬の面倒を見る飼い主といったところか。

 優しげに見つめるはやてとヴィータ。それに、何か感じ取ったのか、少女はおかゆをレンゲで掬うと、差し出してくる。どうやら、食べたいのかと思ったようだ。

 

「はい!」

 

「わたしらはええんよ。もう、ご飯食べたからお腹いっぱい」

 

「ああ、だから安心して全部、食いな」

 

「ほん、と、に?」

 

「嘘ついてどうすんだよ? いいから、食べなって。そしたらはやても喜ぶからさ」

 

「……うん!」

 

 昨日の錯乱していた様子とは一転して、優しい思いやりを見せる少女の意外な一面に二人は微笑んだ。

 きっと、本来は心優しくて性根の良い子なんだろう。なら、一刻も早く記憶や感情を取り戻してほしいと思う。今よりもずっと楽しくなるはずだ。

 そいういえば、とはやては気が付いた。今更だが自己紹介を済ませていなかったのだと。記憶喪失余はいえ、もしかすると名前や住んでいた場所は覚えているかもしれないし、いつまでもあなたとか君では不便だ。

 

「わたし、八神はやて」

 

「あ、あたしは八神ヴィータ。よろしくな。おまえはなんて言うんだ?」

 

「はやて……ヴィータ……? なま、え……うっ、ぐっ!」

 

 だが、少女は二人の名前を聞いた途端に、両手で頭を押さえてうずくまってしまう。おかゆが半分ほど残っている皿がベットから転げ落ちて中身をぶちまけるが、はやてとヴィータは、そんなことも気にならないくらいに慌てた。

 苦しげに荒い呼吸を繰り返し、焦点の定まらない瞳が誰かを探すかのように揺れ動く。やがて、はやてに弱々しく左手を伸ばすと、はやても安心させるように伸ばされた手を両手で包んだ。ヴィータも過呼吸で苦しまないように優しく背中をさする。

 はやては視線でヴィータに"魔力不足で苦しんでいるのか?" と問う。それに、ヴィータは首を振って否定した。どうやら何か別の原因で激しい頭痛に襲われているようだ。なら、考えられるのは失った記憶を思い出そうとして苦しんでいる?

 だめだ。こういった記憶や心理に関する病気や怪我の知識に疎く、門外漢なはやてではどうすれば良いのかさっぱり分からない。せいぜい、こうして手を握ってやることが精いっぱい。落ち着かせるために水を汲みに行くことすらできず、この状況で足の不自由な自分が恨めしかった。もっと自由に動ければできることは増えるのに。

 

「大丈夫か、しっかりしろ!」

 

「なま、え……わたし、だれだった……? おもいだせない、おもいだせないよ……」

 

「あんま無茶すんな。無理に思い出さなくてもいいんだ」

 

 自分が何者なのか思い出せず、不安げに呟く少女を慰めるようにヴィータは声を掛ける。

 それでも、少女はうわごとのように名前を求め続けるだけだ。よほど大切な名前だったんだろうと、そして名前が必要なんだろうと、はやては思った。だから。

 

「あなたとは澄んだ夜空に星々が輝く日に会えた。だから、あなたは今日から八神星光や。優しい星の光みたいに皆を照らしてくれる。きっとセイちゃんはそんな子だと思うから。どうかな?」

 

 つい、名付けてしまった。

 

◇ ◇ ◇

 

 海鳴市の何処かにあるセーフハウス。

 黒いロングコートで身を隠し、黒い長髪を束ね、女性と見間違うかもしれない容姿を持った男は、扉をノックもせずにすり抜ける。

 そう、文字通りすり抜けたのだ。扉を開けるという動作を必要とせずに。まるで、無機物が水のように変化して、その中を泳いだとでも言わんばかりだ。

 やがて、セーフハウスの中に入った男は、室内で盗聴している猫の耳と尻尾を持つ女性に声を掛けた。

 

「そっちの様子はどうだ?」

 

「うにゃあ!! び、びっくりした。頼むからさ、いきなり背後から声をかけないでおくれよ。アンタ、ただでさえ気配がないんだから」

 

「それは失礼した。今度から気を付けるよ」

 

 絶対に嘘だと女性。リーゼロッテは思う。この男、こっちが驚く反応を見て楽しんでるのだ。現に口元が薄い笑みを浮かべているのが、その証拠。

 どうやら、男が帰ってきたという事は、用事とやらは済んだらしい。

 

「しっかし、アンタもお人好しだねぇ。あの子たちが心配しないように写真とメッセージをわざわざ送り届けるなんて」

 

「海鳴市に釘付けにする打算もあった。下手に次元世界を動き回られるよりはよほど監視しやすいからね。そっちは?」

 

「だめだね。聞いてる限りじゃ、シュテルって子は完全に記憶喪失。たぶん、何もかも忘れてる」

 

「……そうか。一応、万が一に備えて八神はやての髪留めに超小型発信器を仕込んであるけど、なの……シュテルが記憶を取り戻せば誘拐未遂を起こす可能性もある。監視を強めて貰ってもいいかい?」

 

「りょーかい。ま、アンタと向こうの父様の頼みとあっては断れないし……アタシも父様に、あんな未来は迎えてほしくない。協力は惜しまないから何でも言っておくれ。ウュノ」

 

「ありがとうリーゼ。さっそくだけど、本局の腕のいい技師に心当たりはある? どうも、身体の調子が悪いんだ。一度、本格的にメンテナンスをしておきたい。このままじゃ、闇の書にプログラムすら撃ち込めなさそうだ」

 

「なら、一人だけ適任がいるね。マリエル・アテンザ。たぶん彼女ならアンタの身体を弄っても問題ない。腕は確かだ」

 

 陰で暗躍は進む。リーゼ姉妹とウュノと呼ばれた男の行動。それが何をもたらすのか?

 それは、誰にも分からない。

 


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