リリカルなのは アナザーダークネス 紫天と夜天の交わるとき   作:観測者と語り部

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 一応、警告を。

 残酷な描写と差別的な描写があります。


〇望まない結末 それでも守護騎士はともにいる

 

 それは、突然の、あまりにも理不尽な出来事。理不尽すぎる結末だった。

 

 二人に近づいてくる複数の気配。隠すつもりもなく響き渡る大勢の人間が駆け寄ってくる足音。それを最初に感じ取り聞きつけたのは健全な、ナハトではなく怪我をしている忍のほうで。

 

 忍は現れた人物を怯えたように見つめ、そして自分の胸の内にいる大切な妹をあらん限りの力を使って突き飛ばした。

 

 久しぶりに姉の忍に会えた喜び、姉を救えたことの安心感、心を許せる血を分けた姉妹が側にいることで怠っていた警戒心。それらが重なって油断していたナハトは何もできずに忍の側から突き放されるしかなかった。

 

 怪我人とは思えないほどの力で投げられたように押されたナハトは、路地裏の地面を無様に転がり、何が起きたのか分からず困惑した様子で突き飛ばした自分の姉を見つめる。

 

「おね――」

 

「っあ……『すずか』! 逃げな…さい!」

 

 どうしてこんなことをするのか? そう問おうとしたナハトの声は、忍のなりふり構わないような叫びと共にかき消され、次の瞬間に起こった出来事に完全に言葉を失うしかなかった。

 

 ナハトの狼の耳がブンっという風切音を捉える。それが、何かを投げる際に腕を振るった音だと気付いた時は遅かった。いや、全てが終わっていた。

 

「あっ……」

 

 ナハトの目の前で忍が腕を伸ばしたまま死んでいた。左胸、ちょうど心臓を捉える位置に小刀が突き刺さり、彼女の命を絶っていたのだ。その腕を伸ばした姿はナハトを自分が死ぬと分かっていて助けた姿だが、ナハトには助けを求める姿に見えてしまう。

 

 忍は……殺される間際に悲鳴すら上げなかった。それは苦痛の悲鳴を叫ぶことも出来なかったのか、それとも大切な妹に心配を掛けまいと声を押し殺した結果なのか、ナハトには分からない。それでも思うのはもっと話したかったという想い。

 

 そもそも、ナハトにはどうしてこうなったのか分からない。理解したくもない。頭のなかが混乱していて、思考はグチャグチャで何が起きたのかさっぱり分からない。本当にどうしてこうなったのだ? 姉が悪い事をしたのか? どうして姉は怪我を……

 

 怪我を? そうだ。どうして姉は怪我をしていたのだ? あれは事故に遭って負うような怪我ではない。誰かに意図的に襲い傷つけた痕だ。誰かが悪意を持って姉を殺そうと追いつめ、そして今、彼女を殺した。ナハトから大切な人を奪った。

 

「よくも…よくも…お姉ちゃんをッ!!」

 

 その考えに至ったとき。ナハトの心から姉の悲しみを上書きして凌駕する感情が湧き上がる。ナハトを、大切な親友を、月村家が護ると誓った町の人々を、夜の一族の事情を知って密かに受け入れてくれた病院の人々を、それらを奪った時空管理局に抱いている圧倒的な感情。

 

 すなわち、憎しみという人間のもっとも強い感情。それがナハトの心を支配した。

 

 ナハトは立ち上がり、姉を殺したニンゲンを殺意を込めて睨みつける。頭に血が上り、何も考えられなくなる。いや、ただ殺すという一点のみに思考は支配されていた。

 頭も心も憎しみでいっぱいになれば、身体もそれに応えるように反応した。狼の尻尾と獣の耳は感情を表すかのように逆立ち、顔の表情は悪鬼羅刹のような恐ろしい顔に変貌する。身体中に力が溢れて止まらない。

 

 姉を殺したニンゲンの正体も、動機も、この際はどうでもいい。今は殺す。ただ殺す。憎いやつを全部殺す。

 ナハトの全てが憎しみと殺意に支配された時。彼女の身体は否応がなしに、姉を殺したニンゲンに向けて獣のように突進していた。

 

「ガアアアアアアァァァァァッ!!!」

 

 彼女の口から絞り出されるのは獣の咆哮。

 瞳は夜の一族が力を発揮した時のように赤い。違う、それよりもさらに紅く、まるで血のように鮮やかだ。

 身を地面すれすれまで低くして大地を駆け抜けて疾走する姿はまさに獣。血に飢えた獣。人を、動物を、動くものを無差別に殺す狂い獣。

 

――今は、この身に流れる忌々しい一族の血も、授かりし守護獣の力も全て殺す力に変えよう。ただ、何も考えずに憎しみに任せて殺してしまおう。

 

 ナハトが考えていることは殺すことだけ、身体中から溢れんばかりの殺意に、憎しみに身を任せて。殺すべきニンゲンに異様に鋭い爪を振り降ろす。

 

 常人ならば論外。格闘技の達人でも、武術の達人でも、今のナハトの一撃を防ぐどころか反応すらできずに切り裂かれるだろう。下手すれば身体が引き千切れてバラバラにされるような一撃。今のナハトにはそれだけの力が発揮されていた。

 

「グッ、ガッ!?」

 

 だが、どういう事だろうか? そんな恐るべき必殺の一撃を忍を殺した相手は難なくいなした。

 ナハトは気が付けば男の反対方向。海鳴商店街の大通りへと投げられ、すれ違いざまに胸から腹にかけて袈裟懸けに斬られていたのだ。

 痛みはない。そんなもの既に超越していて何も感じない。ただ、切られた部分が無性に熱くてたまらないのは確か。

 

 ナハトは、自分があっけなく投げられたのは驚いたが、冷静な部分では先程の光景がスローモーションで繰り返される。

 

 何のことはない。相手はナハトが懐に入り込んだ瞬間、逆にナハトに近づいて黒いドレスの襟首を掴み、そのまま投げて、すれ違いざまに手にした小太刀で切り裂いただけに過ぎない。相手がナハトを凌駕する人間だったということだけだ。

 

 そんなことができそうな人間は少ない。まして、小太刀という特徴的すぎる武器と相手の身のこなし。そこから割り出される人間はナハトの記憶の中で四人だ。体格を考慮すれば二人。

 

 けれど、ナハトはその真実を認めたくなかった。

 でも、本当は最初に気が付いていたのかもしれない。姉の鮮やかすぎる切り傷と、止めを刺した時に飛来した凶器の小刀。そこで思い当たる節はあったのだから。

 

「どうして、ですか……?」

 

 仰向けに倒れていた身体をゆっくりと右手で支えながら半身を起こし、左手で切られた傷を押さえる。幸い、切り傷は浅く皮膚が切り裂かれただけだ。

 ただ、顔をあげてナハトが相対する人物を見上げた時。彼女の当たってほしくない考えは、残酷な現実となってしまう。

 そこに立っていたのは黒い装飾に身を包んだ不破恭也。

 親友であるシュテルの兄にして、月村忍の婚約者その人だったのだから。

 

「どうして俺が忍を殺したのか知りたいか『すずか』? それはな、お前たち夜の一族が、あの日。病院の人々を根こそぎさらって食べてしまったからだ。『なのは』を奪ったお前たちに対する復讐。だから、婚約者といえども忍は殺した。あらん限りの恐怖と苦痛を与えてな」

 

 淡々と他人事のように語る恭也の声は静かで、ナハトはそれが怖くてたまらない。何の感情を表さない。そうじゃない、よく見れば彼の瞳は汚泥がたまったかのようにどす黒い感情が秘められているじゃないか。ナハトと違って押し殺された同じ感情。相手を殺すという憎しみが。

 

 いつの間にかナハトの中から殺意と憎しみは消え、跡形もなく霧散していた。あるのは心から湧き上がる恐怖と怯え。恐れていた未来を目の当たりにした彼女は幼い身体を震わしていた。

 

(怖い…恭也さんが何を考えているのか、何をいるのか、分からない。怖いよ。震えが止まらないよ……)

 

 そんなナハトの様子に気づいているのか、いないのか、恭也は怯えるナハトを見下ろしながら言葉を紡ぐ。信じられないような真実を。

 

「だが、お前の姿を見て納得したよすずか。そんな化け物に変わり果てていれば、さぞ血が欲しくてたまらないだろう? 血に飢えていて我慢できないだろう。あの事件からお前は姿を消して、忍は俺に対してぎこちなくなったが、あの態度は俺に真実を知られるのを恐れていたからだろうな」

 

「違う……私、そんなこと、してない……人の生き血をむさぼったり、しない」

 

「ハッ、笑わせるな化け物が。じゃあ、俺に向けた殺意はなんだ? あの獣のような咆哮は? その耳と尻尾はなんだッ!? 誰がどう見ても化け物だろうがッ!! そうやって欲望に身を任せてお前は『なのは』を喰った!! 可哀想に……『なのはぁ』…怖かったろうに、裏切られて悲しかったろうに……それを、お前はッ、踏みにじった!! 忘れたとは言わせんぞッ!!」

 

「わた、わたし、そんな…こと、しません!! 絶対になにか、なにかの嘘ですっ!! 性質の悪い冗談!!」

 

「お前が何と言おうと構わんさ、嘘つきめ。これが証拠だ」

 

 蔑むような視線。軽蔑するような眼差し。口から吐き出されるのは怨嗟に満ちた叫び。ナハトが恭也の言葉を否定しても、ますます瞳の冷たさが増すだけだった。

 

 そんな彼がナハトの足元に投げ捨てたのは一冊の本。表紙や書かれた内容から、それが日記であることはすぐに分かった。

 問題なのは、日記の持ち主が忍であるという事だけだ。

 

「その日記は忍の部屋から見つけた決定的な証拠だ。最初は己の眼を疑ったさ……最後のページを見てみるがいい」

 

「そ、そんな……ウソ、なにかの、まちがい、だよ……」

 

 日記に書かれていたことは、ナハトにとって驚愕に値するには充分な内容だった。

 

 ある日、すずかが身体に流れる夜の一族の濃すぎる血筋によって、高熱をだし変異したこと。気が付けば彼女は狼の耳と尻尾をはやしていたこと。そして、変異した日からすずかの血の求める渇きが、飢えが強くなったことなど。

 

 極めつけに、血の欲望を満たし飢えから救うために病院の人を夜の一族の一部を使って、誘拐したこと。無関係の人間を、一族の事情を知って受け入れてくれた人々を妹の為に犠牲にしたことが、書かれていた。

 

 もちろん。こんなものはデタラメだとナハトは思うし、彼女は病院で何が起きたのか知っている。

 しかし、それを証明する手段や証拠は存在しない。存在しない以上、この日記が語ることが真実になってしまうだろう。

 それに、もう、手遅れなのだ。だってナハトの、『すずか』の姉は、忍は既に殺されてしまったのだから。もはやどうしようもない。

 

 ナハトには、何が正しくて、何が間違っているのか判断できない。負の感情に満ちた世界。時が止まったかのような灰色の世界。その滲み出る狂気と恐怖、闇にあてられてしまったのか思考が完全に凍り付いている。

 

 いつの間にかナハトの周囲を多くの人々が取り囲んでいて、見渡す限りの人の顔は憎悪に満ちていて、ナハトは身をすくませた。

 

「この化け物が、娘を返せ! あの子の未来を返せ!!」

 

「俺は入院していた爺ちゃんに恩返しがしたかったのに、それを、それをッ……!」

 

「見ろ、あの紅い眼を、獣の耳と尻尾を、口から覗く牙を!! あいつはおとぎ話に出てくる狼そのものだ!! ああやって人に化けて、人を騙して食べてしまうんだ!!」

 

「お母さん、あの人な~に?」

 

「見ちゃいけません! あれは恐ろしい怪物。目を合わせたら食べられてしまうのよ?」

 

「何が、月村家は町の人々を護ります、だ。むしろ、街を害する悪魔じゃないか。この化け物めがっ!! 俺たちの街から出て行けッ!!」

 

――そうだ、そうだ!

 

――いや、いっそのこと殺してしまえ!

 

――でも、どうやって?

 

――こっちには不破家の剣士様がいる。化け物から俺たちを護って、退治してくれる勇者様だぜ? 今も、もう一匹の化け物を殺してくれたじゃねぇか

 

――それに、こいつ一匹ならどうにかなる。あの傷だ。皆でかかれば倒せるぞ。

 

――そうだ。殺してしまえ。

 

――姉と一緒に八つ裂きにして首を晒せ。二度とこんな真似ができないように、他の化け物の見せしめにするんだ!!

 

殺せ、殺せ、ころせ、ころせ、コロセ! コロセ! コロシテシマエ!!

 

 人々は恭也と同じ怨嗟の声を、憎しみの叫びをナハトにぶつける。ナハトには、それが耐えられない。

 怖い、やっぱり人間は恐ろしい生き物だ。早く逃げないと、逃げないと、どうなる? 殺される。いっぱい痛いことされて殺されてしまう。それは、嫌だ。そんなこと……絶対に……いやだ!!

 

「いやぁぁぁぁッ! こないでっ! こっちにこないで!!」

 

 ナハトは人々から向けられる憎悪と殺意に耐えられず、一心不乱に逃げ出した。人の垣根を飛び越え、恐怖に震える身体を必死に動かして逃げる。どこへ? どこでもいいから人間のいない場所に。

 

――逃げたぞ! 追え、絶対に逃がすな!!

 

――うおおおおぉぉぉぉぉ!! コロセ! コロセ!

 

「追いかけてこないでぇぇぇぇ! ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、赦して……! こんなのいやだよぅっ!!」

 

 ナハトにとって恐れていたことが現実になる。

 彼女は忘れてしまっていた。これが自分の見ている夢だという事を忘れてしまっていた。

 あまりにもリアルで、起こってほしくない事態が立て続けに起きすぎて、現か幻か判断ができなくなってしまったのだ。

 

 今の彼女に出来るのは追いかけてくる悪意に満ちた人々から逃げることだけだった。

 

◇ ◇ ◇

 

 何時間たったのだろうか? ナハトの体感時間は既に狂っていて、今が昼なのか夜なのかも判断できない。

 あれから、ずっと追いかけてくる人々から逃げ続け、気が付けば海鳴市にある廃ビルのなかにいた。

 

 ナハトの姿は酷い有様だった。目の下には隈ができ、頬は痩せこけて、光を映さない闇を凝縮したような瞳からは、生きる意志が見当たらない。あきらかに彼女は憔悴しきっていた。

 鉄柱のむき出しになった壁。コンクリートの破片や、割れた窓ガラスの破片が散らばる部屋で、ナハトはぐったりと倒れ込む。

 

――くそ、見失った。近くにいるはずだ探し出せ!

 

――絶対に逃がすものかよ!!

 

 ナハトの敏感な獣耳が外から聞こえてくる人々の声を捉えた。まだ、諦めていないようで、なんとしてもナハトを探し出すつもりのようだ。

 見つかる前に逃げ出さなければ、ナハトは殺されてしまうだろう。でも、どうでもいいのかもしれない……ナハトは人々から化け物、怪物と恐れられてしまった。なら、化け物は化け物らしく殺された方が良いのかも、そう思い始めていた。

 

 ナハトの近くで小さな足音が響く。聞こえてくる足音からして、子供なのだろうが、ナハトには逃げる気力も、隠れる体力もない。そのまま、見つかってしまっても構わなかった。

 

「『すずか』? ここにいるの『すずか』? アンタがいなくなって心配したんだから……」

 

「アリサ…ちゃ、ん? アリサちゃん!」

 

 果たして現れたのは、ナハトの親友のアリサ・バニングスだった。でも、おかしい。彼女の身体から感じられる魔力が少ない。アリサの瞳も闇を凝縮したような暗い瞳ではなく、宝石のように輝く青空のような瞳。

 この時点でナハトは、このアリサ・バニングスが偽物だと気が付くべきだったのだが、追いつめられて衰弱している彼女は思考がおぼつかず、現れた希望に手を伸ばしてしまった。それが最悪の、一生のトラウマを刻み付ける罠だとも知らずに。

 

 アリサが『すずか』を見つけて驚きに目を見開いた。その瞳に宿す感情は恐怖で、彼女はおもわず尻餅をついてへたり込む。

 

「アリサちゃん……どうしたの?」

 

 何があったのか分からず、鉛のように重い身体を引きずって、心配したように手を伸ばすナハトだが、帰ってきたのは悪夢のような言葉。

 

「こないで……来ないでよ! バケモノ!!」

 

「…………なん、で?」

 

 今、アリサは何と言ったのだ? ばけもの? もんすたー? 彼女の言っていた暗い過去を全て受け入れるというのは嘘だったのか?

 ああ、しょうがないか。狼の耳と尻尾は、人間にはない。化け物と呼ぶには十分すぎるだろうから。

 そんな考えが、ナハトの心を通り抜けていく。正直……信じられない、認めたくない。

 

「すずか……アンタ、人間じゃないなんて……」

 

「アリサ、ちゃん……ちがう、わた、し、そんなんじゃ……」

 

「来ないで! アンタなんて友達じゃない! 化け物なんて友達じゃない!」

 

 必死にすがろうと伸ばした手を払いのけられた。哀願するように言葉を尽くしても拒絶された。アリサは、そのまま逃げるように何処かへと走り去ってしまう。それはナハトにとって望まない結末だ。訪れてほしくない未来だ。

 

「あっ……あぁ…………」

 

 ナハトは掠れるような声を絞り出しながら、静かに一筋の涙を流す。伸ばして拒絶された手が力なく地面に落ちてしまう。

 たとえ偽物でも、それが現実なのか夢なのか判断ができなくても、大切な人に拒絶されるという行為はナハトの心をバラバラに引き裂いてしまうには充分で、彼女の瞳から生気が完全に消失してしまった。

 

(もういいや……もう、疲れたよ……)

 

――じゃあ、死にたい?

 

 心を閉ざし、世界を認識することをやめたナハトの耳に、頭のなかに、声が聞こえる。無邪気な声。無邪気で残酷な声だ。

 それは、聞いたことのある声で、生きてきた中で一番聞いたことのある声だった。

 そう、自分自身の声だ。

 

(分からない、でも、どうして私は普通じゃないの……? ニンゲンだったら、同じ人間だったら、こんな気持ちにならないのに……)

 

 悲しみに満ちて、悲痛の叫びをあげるように、一人心の中で独白するナハト。

 その独白を聞いて、心の中の声は悪い方向へと、面白おかしそうに導いていく。ナハトの心理をさらに悪い方向へと導いていく。

 

――だったら、余計な部分を引き裂いちゃえばいいんだよ。とっても簡単でしょ? それだけで、人間と同じ姿になれるよ?

 

(いらない部分? それは何…? ねぇ、わたしに教えてよ)

 

――アナタが目を背けているモノ。見たくない部分。ほら、あるじゃない。夜の一族としての特徴を表したような部分が。人間にはないところが。

 

(狼の耳、狼の尻尾、一族の紅い眼と鋭い牙……?)

 

――そうだよ? それをね、アナタ自身の手で引き千切って、抉り捨てればいいんだよ?

 

 そうだ。気に食わない部分は千切って捨ててしまえばいい。この紅い瞳も、恐ろしい牙も、人間にはない狼の尻尾と耳も人間にはない。

 それを、削り取れば人間と同じじゃないか。簡単に人間と同じになれる。人間になれば迫害されることも殺されることもない。

 

 ナハトにとって心の内から聞こえてくる不気味な自身の声が語ることは、とても魅力的な内容に聞こえた。おぞましい言葉が魅力的に聞こえる時点でナハトの心は狂っているのだろう。

 

 少なくともそれで人間と同じになれるのなら、それでいいと彼女は思ってしまったのだ。

 

 そうして、ナハトが両手を頭から生えた狼の耳を、根元から掴んで引き千切ろうとしたとき!!

 

――やめてぇぇぇぇぇ!! そいつの言葉に耳をかしちゃダメだよっ。自分を、傷つけないで、お姉ちゃん!!

 

 どこからともなく聞こえてきた鈴の音のように美しく、太陽の光のように心にしみわたる声。けれど、泣きそうな声がナハトの意識を引き戻した。

 

◇ ◇ ◇

 

――オオオォォォォ……

 

「ふむ、主の友人が危機的状況に陥っているのを感じて具現化してみたが、これは酷いな」

 

 蒼き猛る守護獣。彼は周囲を見回してそう言う。

 何も無いはずの闇の空間。その一点に邪な悪意が集まり、一人の少女を包み込んでいる。誰がどう見てもナハトの姿だった。

 彼女の顔色は優れず蒼白だ。心なしか微かにうめき声をもらしている。いや、確実に苦しみの声をあげている。

 

 ならば、夜天の書の守護獣たる己の為すべきことは何か? 簡単だ。苦しみに嘆く少女を救い、その原因を取り除くこと。それが、現実世界で何もできなくなった己ができる主への手向け。

 

「すぅぅ、ふっ」

 

 人の形を成した守護獣は呼吸を整えると、鋼のような肉体に力を込め、手甲を付けた両の腕を構える。その腕から振るわれる剛腕は一撃必殺にして、数多の攻撃を弾き除ける絶対防御となるだろう。守護獣自慢の攻防一体の業だ。

 

――オオオオォォォッ!!

 

 守護獣の明確な敵意に反応してか、黒い闇に映える紫色の邪気が不気味な咆哮を叫んだ。一見すればスモッグのような靄にしか見えないソレは、姿に似合わず、とてつもない悪意を秘めている。まるで、数百年の間に溜め込んだ呪いのよう。

 

 守護獣ですら油断すれば闇に呑まれてしまいそうなチカラをソレは秘めている。目の前にあるのは断片に過ぎないのだろうが、それでも、ああやって心の弱い人間を取り込み精神的に追い込んで、絶望に至らせることで廃人にしてしまう。どんなに力があっても心が弱ければ、この邪気を克服することはできないのだ。

 

 だからこそ、守護獣や彼女たちは取り込まれた人の意識を助ける。それが、小さくともいずれは大きな反撃の狼煙となることを知っているが故に。

 

――どうか、私に力を貸していただきたいのです。長きに渡る闇の書の悲劇を終わらせるために。

 

 守護獣の脳裏に浮かべるのは凛とした少女の声。優しくも、どこか畏れ多く自然と平伏してしまいそうな少女のカリスマに満ちた雰囲気。

 

 守護騎士が長年にわたり闇の書の手足となって蒐集している間にも、闇の書が破壊を振りまいている時にも、永遠ともいえる時間を一人で戦い続けてきた少女の姿。

 

 彼女は闇の書に囚われた全ての人々を救うという。だから、闇の書の守護騎士、ヴォルケンリッターの一同も協力することにした。かつての一番大切な主の側にいることを犠牲にして、彼らは戦い続ける道を選んだのである。

 

 わざと主を騙し、大切な四人の友人たちの糧になったのも必要なこと。

 

 全ては、繰り返し重ねてきた罪を清算する為。自分たちの過ちを正すために。

 

 それが、大切な主『はやて』を悲しませる結果になるとしても。最終的に、あの心優しき少女『はやて』を救うことができるという。なればこそ――

 

「我は蒼き守護獣。ここは彼女の見ている悪夢故に、名は名乗れぬ。だが覚えておくがいい、我は貴様らを滅し――」

 

 守護獣が叫びと共に怒涛の勢いで、ナハトを悪夢に包み込む邪気に突っ込んでいく。左腕を振るった勢いで邪気を振り払い、流れる清流の如く発生した青色の障壁が弾き飛ばす。

 

――ヌオオオッ!!

 

 もう一度、ナハトに取りつき、そのままの勢いで守護獣を取り込もうとする邪気を、彼は右手の平を向けて城壁の如く堅牢なシールドを展開して寄せ付けない。それどころか邪気は、その捉えられぬ構成体を周囲から生えた白銀の軛が串刺しにしていた。邪気は身動きが取れない。

 

「最愛の主と、その大切な友人を護りぬく――」

 

 守護獣は目を瞑り、両腕を交差させて集中する。手の指を折り曲げ力を込めると関節がゴキゴキッと乾いた音を立てた。

 足元に展開させた白銀のベルカ式魔法陣が輝きを増し、守護獣の身体から膨大な魔力が溢れていく。人に仇なす邪気を完全に滅さんと力を溜め、やがて、ゆっくりと開かれた両の眼が眼前の怨敵を見据える。そして。

 

「守護獣だああぁぁぁッ!!!」

 

 そのまま交差させた両腕を勢いよく振るうと、溜めに溜めた膨大な魔力が解き放たれ、白銀に輝く無数の軛が邪気を埋め尽くさんばかりに圧殺して消し飛ばした。

 

 なればこそ、主と大切な御友人を仇なす者を守護獣は赦しはしない。

 

◇ ◇ ◇

 

(んぅ…・ここ、は……?)

 

 ナハトはぼんやりと薄れる意識に包まれながら、目を覚ました。どうやらいつの間にか気絶していたらしい。

 思考はハッキリとしないが、耳の付け根がとても痛い。指で触ってみると、ぬるっとした生暖かい感触がして、すぐに怪我をしていると理解した。

 指先を目の前にやれば、赤い血が付いていて指先から滴り落ちていく。

 

 ぼんやりする頭を片手で押さえながら、ゆっくりと起き上がり周囲を見回すと、追いかけていた人々が倒れ伏している。自分がやったのだろうか? ナハトには、どこからが夢で、どこからが現実なのか分からなかった。

 ただ、知らぬ間に意識を失っていたことだけは分かる。そして、悪夢を見ていたことも。

 

「無事か? 我が主の無二の友人にして、我が半身よ」

 

「えっ、だれ……!?」

 

 いきなり声を掛けられてナハトは身が竦みあがった。ぼんやりとした意識が急速に覚醒していき、声のかけられた方向へ振り向く。

 

 そこにいたのは、蒼い武胴着に身を包んだ褐色の肌を持つ男だった。身長がナハトの二倍くらい高く、筋骨隆々で体格も良い。何より特徴的だったのは頭の横から生える狼の耳とちらりと背中から覗く狼の尻尾だ。

 色もナハトと同じで、どことなく形が似ている気がする。

 

 ナハトは、この男が誰なのか知っている。知っているが、名前が思い出せない。そこだけ虫食いされたように、霞が掛かったかのように引き出せない。

 

「貴方は、ッ……あたま、が…いたい」

 

「無理に思い出す必要はない。この夢の世界で存在を認識してしまうと、お前の力となっている我は完全に実体化する。今は、それを望む事態ではない。どうしても呼びたければ守護獣とでも呼ぶがいい」

 

 守護獣と名乗る男の言葉にナハトは素直に頷く。なんとなく、心から信頼する何かが男にはあったからだ。

 なんというか、ナハトと守護獣は他人ではないような、ナハトはそんな気がした。

 

「あの、守護獣さん…貴方はどうしてこんなところに?」

 

 ナハトの疑問に守護獣と呼ばれた男は重々しく頷くと、おもむろにナハトに近づいて、目線を合わせるようにしゃがみこんだ。

 表情は硬く引き締められていて、何を考えているのか分からないが、その瞳はナハトを心配そうに見つめているのがナハトには分かってしまう。ナハトを心配する姉と同じような瞳をしていたから。

 

「本当なら我はでしゃばるつもりなどなかった。が、あまりにも見て居られぬ状況。故に駆け付けたまでだ。お前を傷つける者は我が退けた」

 

「ッ……」

 

 守護獣の言葉を聞いてナハトは思い出す。トラウマがフラッシュバックする。

 思わず彼女は身体を抱き締めてしゃがみこんでいた。

 それを、守護獣は優しく抱き上げる。まるで、幼い我が子をあやすかのように。

 

「えっ、あっ、あの?」

 

「無理に思い出す必要はない。あれはしょせん悪夢。偽りの幻。だが、抜け出すには切っ掛けがいる。我が、この悪夢からお前を解放してやろう」

 

「ど、どど、どうしてお姫、さま、抱っこ!?」

 

「フッ、気にするな。主にもよくこうしていた。もっとも、主は我の狼の姿がお気に召していたようだから、回数は少ないのだがな」

 

 男気溢れる守護獣の優しい腕に抱かれて、あたふたするナハト。それに加えて父親のように優しく微笑まれて、父性を感じ、ドキドキする。思わず顔が高揚してしまう。

 こんなふうに、誰かに優しく抱きかかえられたのはいつ以来だろうか? 珍しく瞳が動揺しながらも、ナハトは感じる温もりに安心して、ようやく気を抜いた。

 

◇ ◇ ◇

 

 海鳴市の街を一人の男が小さな姫君を抱えながら歩いている。

 あれほど不気味に静まり返り、時間が停滞し、灰色の空に覆われていた海鳴市は、暖かな夕日が差し込み安らかな静寂に包まれていた。人々の姿や動物の気配。虫の鳴き声すら聞こえない寂しい世界だが、暖かさだけは感じられる不思議な世界だ。

 

 商店街の大通りには何もなかったかのように元通り。走り回って滴り落ちたナハトの血の跡も、忍の遺体も、人々の憎悪も何もない。

 守護獣が言っていたことは本当のようだ。

 

「……っ」

 

「………」

 

 あれからというのも守護獣とナハトは一言も話していない。もともと無口なのか守護獣は喋ろうともしないし、ナハトは抱きかかえられた今の状況が恥ずかしすぎて口ごもってしまう。

 

「すまないな……」

 

 不意に言葉を紡いだのは守護獣と名乗る男だった。ナハトは彼が何に対して謝っているのか分からず混乱する。

 

「あ、あの、どうして、謝るんですか?」

 

「いや、お前にとって我と同じ、獣の耳と尻尾は重荷になってしまっていると思うとな」

 

 守護獣から語られる内容にナハトは息を呑む。確かにナハトにとって、この獣耳と尻尾は畏怖すべき対象だ。夜の一族にも種類があり、ナハトの叔母だった女性は桃色をした狼の耳と尻尾を持つ。

 吸血衝動を抑えるだけでも必死なナハトにとって、隠しづらい狼の尻尾と獣耳はあまり好きではなかった。

 

 親友がモフモフの暖かさや感触を喜んでくれているのは嬉しいのだが。

 

 しかし、息を呑んだ内容はそこではない。守護獣の語る『我と同じ』という部分だ。

 

「我と同じって、どういうことですか? 貴方とわたしには関係があるの?」

 

「なに、お前は我にとって娘みたいなものだ。大した意味はないさ」

 

 そこで守護獣は言葉を止めて、ナハトの事を見た。ナハトを抱えたまま片手を離すと、彼女の傷ついた獣耳を優しくいたわるように撫でる。

 不思議と痛みはない。それに、何処か心地よい。気持ちが良くて目を細めてしまいそうだ。

 

「むすめ…?」

 

「むっ? ここが夢の起点なのか。どうやらお別れのようだな」

 

 守護獣の語る言葉を疑問に思ったナハトが問いかけようと、さらに言葉を紡ぐが、それは唐突に終わりを告げる。

 男の言葉と共に夢の世界が、街が、空が、日差しが消えていく。守護獣と名乗る男の姿も、徐々に消えていく。

 突然の別れにナハトは言葉を失うしかない。もっと話したいことがあるのに、彼と自分には浅からぬ因縁がある気がするのだ。

 それをナハトは知りたかった。きっと大切なことだから。

 

「まっ、まって、貴方は本当にだれなの!? わたしは絶対に貴方を知っているはずなのに…どうして思い出せないの!?」

 

 いつの間にかナハトは何もない闇に包まれ、身体は水の中にいるようだった。

 守護獣は消えゆく夢の世界と一緒に光の粒子となって消えていく。その顔は、ナハトを見つめる瞳は優しく、娘を見つめる父親のように優しい微笑みを浮かべている。

 彼は何かを呟いている。ナハトには良く聞こえない。仕方なく、口元をみて何を言っているのか読唇する。

 

「……ッ」

 

 それを理解した時、ナハトは言葉を失った。ようやく彼がだれなのか思い出す。彼は、ナハトの大切な親友の家族。そして、ナハトの命の恩人。

 

――あまり、自分を傷つけないでほしい『すずか』。傷ついたお前を見れば主は悲しむだろう? 我は主『はやて』の力になれぬが、お前は違う。お前は主の側にいる。だから、我らの代わりに優しい主を頼む。

 

――忘れるな、我ら守護騎士一同。常にお前たちと、主と共にある。さらばだ……

 

「ッ…うっ、ぐすっ…あり、がとう、ざふぃーら、さん……」

 

 自らの存在を犠牲にして新たな命を与えてくれた存在。守護騎士。

 本当は自分たちが『はやて』の、ディアーチェの傍に居たかったろうに。それを捨てて彼らは、主のかけがえのない友人の糧になったのだ。

 それを、大切な人の為に自らを犠牲にして、新たな命を与えてくれた恩人をナハトは蔑ろにした。受け継いだものを引き千切って捨てようとした。

 その事に気づいてナハトは涙を流す。そして、自分を悪夢から助けてくれたことに、嬉し涙を流しながらナハトは礼を言う。

 今はそれだけがナハトにできる最大限のお礼だったのだから。

 

 


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