風見学園体育祭。その最初の競技、借り物競争。
僕はスタートラインに立って軽くアップを済ませる。リレーとは違うからスポーツマンらしいアップまではいかないけど、場合によっては全力で走らないと間に合わないものもありそうだからな。
懸念すべきは僕の手元にどんな借り物が出てくるのかにかかっているな。
運による要素の強いものだと用意できなかったり実行できなかったりというまではいかないけど、内容が濃いというか……僕の社会的信用を失いかねないものが多いんだよね。僕の場合。
どうにかこの平和な世界では社会的な死は免れそうだけど、恥ずかしい思い出としてみんなの心に刻まれはするだろう。
そうならない事を祈るけど。
「はいは~い! 借り物競走の出場者はこちらに集合してくださーい!」
入場門で待機していた高坂さんが出場選手の呼び出しをしていた。
「どうも、高坂さん」
「あ、吉井。出場するんだ?」
「はい」
「ひとつ聞くけど、ズルなんてしてないわよね?」
「できるわけないじゃないですか。まだ走ってもいないですし、どんなズルができるんですか?」
「でも、杉並に頼んでこっそり借り物が書かれたカードをすり替えるとか……」
「なんか、杉並君なら簡単にできそうな気がしてきます」
確かに普段から神出鬼没。背後から出てきたかと思えばちょっと目を離した隙に消え去る。
ムッツリーニでもあそこまで存在感を感じさせないでいられるかどうか。
「まぁ。吉井じゃそんな頭の使うような事できるとは思えないか」
「だったら聞かないでくださいよ。そしてさり気に僕を馬鹿にしないでください」
「あはは。っと、時間だ時間。出場者の選手はここに一列に並んでくださ~い!」
高坂さんの呼び掛けで選手のみんなは一列に並んだ。僕もその中に入ってグラウンドへと入場した。
そして高坂さんの引率の下、入場を済ませた後スタートラインへと横一列でスタンバイしていた。
「位置についてー!」
そして高坂さんがどこから出したのか、スタート合図用のピストルを構えた。
「吉井ー! 頑張りなさいよー!」
「明久! ここは気楽に行け!」
「明久君! ファイトー!」
「よっしゃ、明久ぁ! 序盤からトップ狙っていけー!」
「明久、ファイト~」
「明久君~! 頑張って~♪」
3組の観覧席からみんなの応援の声が聞こえてきた。
そして周りにいる選手を見ると、見た限りはあまり足の速そうな選手はいない。
運動量で決まる競技ではないから基本文科系の男子を集めたって感じかな。これならなんとかなるかもしれない。
「よーい!」
パーン!
ピストルの音がグラウンドに響くと同時に僕は軽く地面を蹴り上げてスタートした。
うん。他のみんなもスタートは緩いけど、同じやり方じゃ運動量によっては差が出やすい。
そのおかげで軽いスタートにも関わらず僕がトップに躍り出た。さて、まず目の前に立ちはだかるのは何枚もの封筒が置かれていた複数の机だった。
とりあえず僕は真ん中に置かれている机の前で立ち止まり、その上に散らばっている封筒を眺めた。
何枚もある封筒にはそれぞれ一文字ずつ漢字が書かれていた。何かの心理戦みたいな要素も含めているのだろうか?
書かれている文字は『竹』、『川』、『草』、『桜』、『杉』というものだった。
どれにしたものか? 僕が悩んでいると後からやってきた選手達はとにかく速攻、目に入った封筒を適当に手に取って開いていた。
『げっ!? こんなの持ってる奴いるか?』
『ああ、これどうしたもんか?』
『うわ……なんて頼みづらいものを』
封筒を開ければ皆顔を歪ませてオロオロと右往左往していた。
どうやらどれも難易度の高い借り物が書かれていたようだ。
やはりここに書かれている文字には何の意味もないのかな? みんな難易度の高いものばかりだし、ここは僕も勘で選んでみるか。
そして僕は『杉』と書かれた封筒を手に取り、封を破って中にある手紙を広げた。
「えっと、なになに?」
手紙を広げて読むと、そこには恐ろしい事が書かれていた。
『女子の制服を着てゴールへ来い。女子の制服を着てのゴールイン、楽しみにしているぞ! by杉並』
「杉並────っ!!」
本当に裏で杉並君が動いていた。
よりにもよってなんて借り物を指名してくるんだあの男は!
もうこのまま時間切れまで往生するか? いやしかし、このまま何もせずに終わってしまうのも学園のみんなに失礼だと思う。何より、
『吉井──! 書かれたものはなんでも用意してやっからなんとしても一位を取れ──!』
『頑張って吉井君──!』
『ファイトー』
『ガンバ~♪』
『慌てるな明久! 落ち着いて探せ!』
ここまで応援してくれてるというのに最下位になるのは失礼なんてもんじゃない。
クラスの友人達が応援してくれている仲でぐだぐだとして最下位になった日には顔向けができない。
友人の喜ぶ顔が見れるなら、1回や2回くらい、全校生徒の前で羞恥を晒すくらいなんてことないさ!
そう決心し、僕は付属2年の観覧席へと向かった。観覧席に着くと僕は辺りを見回して目的の人物がいないか探した。
数秒もするとその目的の人物はあっさりと見つかった。
「あ、由夢ちゃん!」
「明久さん? どうかしましたか?」
「由夢ちゃん! 今すぐ君の制服を着させてほしい!」
「……何があったんですか?」
って、しまったー! 言い方を間違えた! これでは僕が女装趣味の変態みたいじゃないか!
羞恥のひとつやふたつくらいなんてことないと決心したばかりだけど、これは僕の社会的にマズイことにしかならない!
その証拠に由夢ちゃんに続いて他の生徒からの視線が冷たいものになって忌避しようとしてるし。
「ごめん! 端折りすぎた! 借り物に女子の制服があったから、お願いします! クラスメートのみんなのために協力して!」
「や、私達のクラスだって優勝を目指してないわけじゃないので……」
「体育祭終わった後でなんでも言うこと聞くから! なんだったら何か驕ってあげるから! お願い!」
「あぁ……わかりましたから、土下座までして頼まないでください。貸してあげますから」
「本当!? ありがとう、由夢ちゃん!」
とりあえず制服の問題は解決できそうだ。ただし、本当に問題なのはこの後だ。
スタートの合図が響き、明久達がスタートした。
スタートの瞬間から明久はトップに躍り出た。運動量に左右される競技でないのだからそこまで全力出さなくていいと思うのだが、明久の様子を見るとほとんど軽目のスタートらしい。
軽くであれだけのスタートとは、流石2・3階から飛び下りるほどの男。脚力に関しては並の人間を越えてるな。
そして一番に問題の借り物の書かれた紙の入った封筒のある机の前に立って何にしようか迷っているようだった。
何か気になる部分があるのか、明久が気になってる間に次々と他の選手が借り物の書かれた紙を手に取って表情を歪ませていた。
どうやら借りづらいものが書かれている奴が多かったようだ。
明久もその様子を見て軽く呼吸を整えて一枚の封筒を手に取り、中身を取り出した。
『杉並────っ!』
そして、何故か怒濤の叫びをグラウンドに轟かせた。一体何が書いてあったんだ?
杉並の名前を叫んでいたが、杉並が何か暗躍してたのか?
「吉井──! 書かれたものはなんでも用意してやっからなんとしても一位を取れ──!」
「頑張って明久君──!」
「ファイトー」
「ガンバ~♪」
「慌てるな明久! 落ち着いて探せ!」
とにかく俺達は明久を応援した。何が書かれているかはわからないが、決して用意できないものではないはずだ。
例えそれがいやらしいものでも杉並の所為だと理解すれば誰も明久を責めはしないだろう。
そして明久は真剣な顔つきで2年の観覧席へと向かった。
数秒もすると由夢と話しているのが見えた。そして土下座をしてまで何かを頼んでいるようだった。
更に何秒かすると明久は由夢と共に校舎の方へ向かっていったようだ。
「明久、一体何を借りていくように書かれていたんだろうな?」
「うん。由夢ちゃんが一緒に行ったから、女の子の日用品だとか?」
「もしかしたら、制服だったり?」
「いえ、下手をすれば下着なんて?」
「や~ん♪」
「何!? 由夢ちゃんの肌に吸い付いた下着! くっ! だとしたら、羨ましい! 羨ましいぞ、明久の奴!」
「アホか。んなもんが借り物に出されるかっつの」
しかし、アレを書いたのが杉並というのなら、多少のラフなものを要求してもおかしくはない。
何を書かれているのかは知らないが、少なくとも男子にとっては恥ずかしい事が書かれていたのは間違いなさそうだ。
そして、数分もすると──
『ちくしょう────っ!!』
そんな叫びと共にグラウンドに飛び込む影が見えた。
「お、明久が戻ってきたみたいだ……ぜ?」
「……ふえ?」
「あら?」
「……うそ」
「マジか?」
俺達は目の前に広がる光景に言葉が出なかった。
何故か、明久が由夢の制服を借りてきた。言葉だけなら借り物競争で命じられたものを持ってきたように思えるだろう。
しかし、明久の場合は借りたは借りたでも……借り物を身につけた状態で。つまり、女装状態でグラウンドを走っていた。
しかも何故かものすごい様になっていた。
「え? あれ、明久なのか? 何故だ? 男の筈なのに、ものすげえドキドキしてる自分がいるんだけど?」
「うぅ……男の子なのに、なんで女の子の私より可愛いの?」
「なんだか……ショック」
「中々のレベルじゃない」
明久を見る目が驚愕や羨望に染まっていくのがわかった。なんで男があんなに女の服を着こなせるんだよ?
そんな事を考えてる間に明久がゴールした。
『はい! 3年3組一着! ていうか吉井、あんた何やってるの?』
『好きでこんな格好してるんじゃありませんよ! この紙に書かれてる通りにしていただけで!』
『紙? ああ、見せなさい。…………なるほどね。吉井も、わざわざ紙の指示通りにしなくてもいいのにね。どうせ杉並のいたずらなんだから』
『わかってるんですけど……指示に従わなかった場合、後でどうなるか』
『まあ、気持ちはわかるんだけどねぇ』
やはり杉並の指示だったらしい。だからと言ってよくあんな恥ずかしい格好ができたものだ。
「いやはや、ものすごい光景だな」
「おわっ!?」
噂をすれば杉並だ。俺の背後からいつものように突然現れた。
「杉並、あれお前の仕業だろ? 借り物の書かれた紙をすり替えておいてあんな事させたの」
「書いて一部すり替えたのは事実だが、誰に当たるかについてはランダムだ。吉井に当たったのは偶然だ。いやしかし、まさかあの指示を実行して……こうも見事な着こなしぶりを披露するとは流石に予想外であったぞ」
杉並は痙笑を浮かべていた。どうやら実行したのが予想外というのは本当のようだ。
そして明久の女装姿に呆然としながらもゆったりとした具合で二着、三着とスローペースだが、借り物競走が進み、15分が過ぎてようやく終わった。
『三人四脚に出場する選手は、スタート地点に集合してください』
「あ、今度は俺達の番だな。行くか」
「ええ」
「う、うん……」
俺は杏、小恋と一緒になって三人四脚出場のためにスタート地点へと向かった。
明久、大丈夫なのだろうか?
「うぅ……こんな大衆の前で」
「だ、大丈夫です! 私達、何も見てませんから! ですよね?」
潸然と泣いている僕に由夢ちゃんの寛恕さいっぱいの言葉にクラスメートが頷いた。
うん。やっぱりこの学園の人達はいい人ばかりだよ。由夢ちゃんの人徳というのもあるだろうけど。
とりあえず、特殊な趣味を持つ変態というレッテルを貼られずには済んだようだ。
杉並の奴、今度見つけたら文句を言ってやる。
『それでは、位置に着いて!』
「あ、明久さん! 兄さん達が走るようですよ!」
「ん? ああ、そういえばこの競技は義之達が」
確か、月島さんと雪村さんと組んで出るって言ってたね。
月島さんが目に見えて緊張してるけど、ここはなんとか頑張ってほしいところだ。
『よーい!』
パーン!←合図の音。
ドサッ!←義之達が倒れた音。
スタートと同時に義之達が転んでしまった。
「何やってるんでしょうか、兄さんは?」
「多分、些細なすれ違いで右足と左足を出す順番を間違えたんじゃないかな?」
スタートする前に義之が何か指示をしたっぽいし、雪村さんは問題ないと思うけど、月島さんが義之の指示を間違って受け取ってしまったのだろう。
義之が右足からという言葉を自分が左足を出せばいいと間違えたとか。人一倍他人に思いやりを与える月島さんなら十分考えられる事だ。
そしていざリスタートするかと思えば……
『うわっ!?』
『わっ! ととと!』
また転んでしまった。しかも、今度は義之の顔が月島さんの胸に埋もれた状態で。
「兄さん、何やってるんですか」
「ははは……なんともすごい……」
義之って、ラッキー体質っていうか……本当にラブコメの主人公みたいな人だよね。
『よ、義之……顔どけて?』
『わ、悪い! わざとじゃないんだ!』
『そ、それはわかってるから、早くどけて~!』
『わ、わかった。……あれ?』
『よ、義之?』
『すまん。何だか後頭部から何かで固定されて動かない』
『せっかくだから、もうちょっと感触を楽しんでおきなさい』
何故か雪村さんが義之の頭を押さえ込んでいた。
『何? 何が起こったの?』
『あ、杏が……俺の頭を押さえてやがる……』
『えぇ~!?』
『こういうハプニングは中々ないから、いい経験でしょ?』
『そういう問題じゃねえだろ! いいから頭上げさせてくれ!』
『そうだよ~! どいてよ~!』
目の前で桃色の光景が広がっていた。それを羨望の眼差しで見つめるものもいれば……
「兄さん……そんなに胸の大きな人がいいのかしら?」
「ゆ、由夢ちゃん? 一応、あれは事故なんだよ?」
隣にいる由夢ちゃんのように嫉妬する人もいる。
というか、直接こちらに向けているわけでもないのに由夢ちゃんから発せられる嫉妬のオーラが怖い。
『あ、杏どいて~! 義之が死んじゃう!』
『う……ぐぐ……ふぅ』
『よ、義之?』
『あら? …………窒息してるわね』
『そんな冷静に言ってる場合じゃないよ! なんか痙攣起こしてるし!』
「まずい!」
どうやら義之がまずい状況にあるらしい。いや、それは見ればわかるけど。
とにかく急がなければ義之の生命が危険水域まで下がってしまう。そうなる前に急いで手を討たなければ。
僕は大急ぎで自分のクラスの観覧席へ向かい、そこから必要な物を持ってすぐさま義之の下へ駆けつけた。
「義之っ!」
「あ、明久君! 義之が~!」
見れば義之の痙攣が酷くなってる気がした。僕は急いで義之の容態を診た。
「…………うん。これくらいなら。二人共、ちょっとごめん」
僕はハサミで二人の足をつないでいる手拭いを切って義之の体を仰向けの状態にしてシャツをめくった。
「きゃっ!」
「ひゅ~」
流石に女子の前で他人の男の裸体を晒すのは申し訳ない気もするけど、今は命を左右する緊急事態だからそんな些末事を気にしてる場合じゃない。
僕は持ってきた物を足元に置いて準備を始めた。
「あれ? 明久君、それって何?」
「……AEDね」
「二人共、危険だから下がって!」
僕はAEDからコードを伸ばしてシートを義之の体に貼り付けた。
「このくらいなら……100ちょっとでチャージ! 3・2・1! ほいっ!」
「ふぉぶぁ────っ!?」
「よしっ! ふっかーつ!」
どうにか義之の命を救う事はできたようだ。
「よ、義之~……」
「へぇ~。手馴れたものね」
「伊達に死線を毎度さまよっていないから」
「……明久君って、どんな日常送ってたの?」
今までに幾度も死地へと去って行こうとする人がいたからもうこの程度の蘇生ならお手のものだった。
「あの~、一命取り留めたのはいいけど……」
「はい?」
目の前にスターターをやっていた生徒会の人がやってきて……
「もう、みんなゴールしちゃってるよ?」
「…………あ」
こうして、三人四脚は最下位という結果に終わってしまった。