バカとダ・カーポと桜色の学園生活   作:慈信

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第七十八話

 

「お主、よかったのかの? 何もこんな街中でなくとも、さくらパークなどそれなりに大きな娯楽施設でもよいのではないか?」

 

「ううん、いい。それより、初音島をあちこち回りたくて」

 

 茜……ではなく、藍はそう言って微笑んだ。

 

 そう。今、儂の目の前にいるのは茜ではなく、藍じゃ。

 

 そもそも、どうして儂が今こうして藍と街中を歩いておるのかというと、事は少し前……天枷が無事風見学園を卒業して一週間したところからじゃ。

 

 天枷が卒業してから茜はどこか浮かない顔をしておった。儂も最初は天枷が卒業して寂しくなったのではと思っておったが、時折身体を震わせていたことからそれは違うとすぐにわかった。

 

 もしかしたら藍のことかと思ったが、その時はすぐに尋ねることができなかった。

 

 じゃが、それからしばらくして芳乃家に戻ればすぐに茜が大真面目な顔で来訪してきた時は久々に驚いたぞい。それも──

 

『明日1日、藍ちゃんとデートしてあげてほしいの』

 

 開口一番にそんなことを言うもんじゃから尚の事驚いたわい。

 

 別段断る理由もなかったので、首を縦に振って応えたが、あの時の茜は随分切羽詰った雰囲気じゃったの。

 

「どうしたの?」

 

 藍の言葉で儂は現在に意識を戻した。

 

「いや、茜がお主とのデートを頼み込んだ時のことを思い出しての……。あの時の茜はいつになく真面目な顔をしておったからの」

 

「ああ、それ私が茜ちゃんに頼んだんだよ。1日、秀吉君とデートさせてほしいって」

 

「うむ……それはまた、何故そのようなことを望んだのかの?」

 

「ん~……特にこれといって理由はないんだけどなぁ。単に私が秀吉君とデートしたかったの。

 まあ、茜ちゃんには私の意図は伝わったと思うけど」

 

「やはりずっと同じ身体で過ごしただけあって心で通じておるのかの」

 

「あはは、姉妹ですから♪」

 

「正に一心同体といったかんじかの」

 

「それを言うなら二心同体だよ」

 

「魚ではあるまいし……」

 

「あはは、本当にね~」

 

 他愛もない会話をして笑うと藍は何気なく手を握ってきた。

 

 その握った手は何故じゃかひどく弱々しく感じるぞい。

 

「藍、お主体調はどうなのじゃ?」

 

「体調は至って絶好調で~す。だって、茜ちゃんの身体だもん」

 

「ならば言い方を変えて……調子はどうなのじゃ?」

 

「サイアクだよ。なんか、この世界から存在を拒否されちゃってるみたい。変な孤独感が私を包んでる。

 いっそ、このまま消えちゃった方が楽なのかもって感じ」

 

「それは、大丈夫なのかの……?」

 

「大丈夫だよ~。そんなあやふや感があるだけで、身体自体は健康そのものなんだから。こうやって秀吉君と

 歩いてる方が楽なの。大変なのは身体じゃなくて心の方だから」

 

「うむ、そうか……」

 

 奇妙な孤独感、世界から拒否される……か。そういえば、桜内も元はこの世に存在するはずのない者じゃったな。

 

 もしあのまま存在が消えようとすれば今の藍と同じになってたじゃろうか。

 

 いや、今ではもうそんな心配はいらんからここで考えても仕方はないのじゃが……。

 

 しかし、心……もっと言えば魂というべきか。存在を安定させる上で大事なものが今なお消えてしまいそうじゃという感覚がどんなものなのかは、いかに演劇に通じてる者でもその身で体験せん限りはわからんことなのじゃろう。

 

 儂とて人並みならぬ努力である程度のことを演じられるようにはなれても、今の藍の気持ちを理解するのは無理じゃ。

 

 それでも、せめて最後まで傍にいるくらいはできるじゃろうと思う。それで茜のためになるならの。

 

「ん~、ウィンドウショッピングにも飽きてきたかな~」

 

「うむ……ただ見るだけなら普段からもしとるからの。どこか普段行かないような場所ならよいのじゃが」

 

「あ、だったら神社行きたい」

 

「神社? うむ……何処かに神社などあったかの?」

 

「ちょっと歩くけど、ちょっとした山の近くに神社があるんだよ」

 

「うむ……ならば、一度足を運んでみるとするかの」

 

 儂らは藍の案内のもと、胡ノ宮神社という場所へ向かった。

 

「ふう……中々に長い階段じゃったの?」

 

「あれれ~? 秀吉君たら息切れ? ちょっと体力ないんじゃないの?」

 

「あの急な階段でふざけて体重などかけられればスポーツマンといえど、中々に堪えると思うぞい」

 

「うふh。おかげで楽チンでした♪」

 

 いたずらが成功して楽しんでいる時の藍の笑顔は茜の時と寸分違わんの。

 

 じゃが、それでも不思議と目の前にいるのが茜なのか藍なのかという区別がついてしまう。

 

「それよりお参りしようよ」

 

「う、うむ……」

 

 そういえば、今年の年始は生徒会合宿のスタッフじみたことをやらされたり、年末にできなかった大掃除に枯れない桜の騒動など参拝する機会がなかったからのう。

 

 いい機会じゃし、年始の分も含めて参拝しておくとするかの。

 

「何お願いしたの?」

 

「む……そうじゃのう。とりあえず、今年も平和な暮らしができればと願っておった」

 

「今だって十分平和でしょ~?」

 

「いや、そうじゃが……何分あっちでの暮らしが長かったから、どうにもこの平穏が束の間ではないかという不安もあっての」

 

 向こうでは心休まる時間など、多く見積もっても手の指を使えば簡単に計算できるほどしかなかったからの。

 

 それから参拝を済ませ、儂と藍は境内を見て回った。

 

「景色もいいよね、ここ……」

 

「そうじゃの」

 

 割と高いところにある故か、茂みの向こうには海が広がって見える。中々にいい眺めじゃのう。

 

「……実はね」

 

 目の前に広がる景色に黄昏とると、ふいに藍がしゃべり始める。

 

「この神社の裏道を抜けた先にね、私のお墓があるんだ……」

 

「なぬ?」

 

 さらっとすごいことを切り出したために儂は目が点になったと思うほどに驚いた。

 

「お主らはよく来てたのかの?」

 

「ううん。私はあまり気にしてないけど、茜ちゃんが頑なにあっちに行きたがらないんだよね」

 

「まあ、妹がここにいるというのに妹の墓など、あまり来たくはないじゃろうし……ん? おかしいの。ここが寺ならわかるが、何故神社の裏にそんなものを置くのじゃ?」

 

「あはは。違うよ。単にこの裏手の抜け道から行った方が近いってだけ。お寺は反対側の方だから普通に行こうとするとここからぐるって回らないといけないの」

 

「ああ、そういうことじゃったか」

 

 確かに遠回りするよりはいいじゃろうが、この地の主はそこをわかっておろうか。

 

 神社のすぐ近くに墓地など、縁起のいいものではなさそうなのじゃが。

 

「ん……しかしお主、行ってもおらんのによく知っておったな。そのようなこと」

 

「んもう、私が死んでからは行ってないけど、お墓は昔からそこにあるんだよ。場所を知らないわけないでしょ」

 

 それもそうじゃな。

 

「まあ、ママたちは正面から普通に行くけどね。裏道は私と茜ちゃんだけのひみつなの。先に着いてパパたちをびっくりさせたこともあったなあ」

 

 それを語る藍は遠い目をしておった。

 

「どうする? 近くにあるというのなら、お主の墓にも足を運ぶかの?」

 

「え? ……ううん、いいよ」

 

 一瞬迷った表情を見せるが、すぐに首を横にふる。まあ、茜が行きたがらないところに意識がないからといえ、本人の承諾もなしに足を運ぶのも忍びない。

 

 何より今の藍を前にして行こうなどとは儂も浅はかじゃったの。

 

「そうか……」

 

「さて、次はどこに行こうか?」

 

「うむ。こうなればお主の希望を全部述べよ。行ける限り儂もお供しようぞ」

 

「ふっふっふ。安請け合いしたこと、後悔させてやるぅ」

 

「儂を侮るでない。向こうでは姉上に散々こき使われておったからお主とのでかけで参るほど柔ではないぞい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あはは……疲れた~。秀吉君、以外とタフだね~」

 

「言うたじゃろ。そこらの男児よりはいくらか鍛え方が違うとな」

 

 実際、こちらとは違い、走り回ったりする機会が多い故な。

 

 あれからは島中のめぼしい所をあちこち歩き回った。まあ、小さな島とはいえ、1日だけで全てを巡れるわけではないので、いくらか厳選していったのじゃが。

 

 それでも1日中移動ばかりじゃったから疲れは残ってしまうのう。

 

「ふう……ここらで休憩ついでに飲み物でも買っておこうかの」

 

 儂は近場に自販機がないかと歩こうとしたが、

 

「ダメ」

 

 突然藍が儂の服を掴んで行かせまいとした。

 

「行かないで……ひとりにしないで」

 

「藍……」

 

 今の藍はさっきまでとは違ってひどく怯えてるような……かなり切羽詰っておる。

 

「私、もうダメだ……もう、そんなに時間がない」

 

「わかるものなのか?」

 

「うん。なんでか知らないけど、なんとなくわかる……」

 

「儂は、どうすればよい?」

 

「どうしよう……」

 

「うむ……とりあえず、茜を呼び出して何か考え──」

 

「待って……茜ちゃんに身体の主導権を渡す前に、したいことが……」

 

「なんじゃ?」

 

「携帯、出して……」

 

 自分で出そうとしないあたり、もう藍は自力で身体を動かすのも辛い状態なのじゃろう。

 

 儂は藍の言うとおりに彼女のバッグから携帯を取り出した。

 

「これじゃな?」

 

「みんなの声が、聞きたいの。お話、させて……」

 

「……承知した」

 

 それから藍は弱々しい力で一生懸命携帯を操作し、月島を始めに普段一緒に過ごすことの多い

 メンバーへと電話をかけていった。

 

 こちらにまで聞こえるほどの音量で他愛もない会話を少々じゃが、藍にとってはそれぞれのこのほんの少しの会話をとても大事そうにおこなっておった。

 

 最後の雪村に対しては幼い頃からずっと一緒だったからか、他のみんなより少し長めじゃった。

 

 儂はただその会話を眺めておった。そして、言いたいことを口にしたからか、電話を切った。

 

「大丈夫かの?」

 

「うん……ただ、やっぱり雪月花はいいなって」

 

「……そうか」

 

 月島や雪村は知る由もないじゃろうが、藍は茜と共に2人と過ごす日々が長い分思い入れも多いのじゃろう。

 

 藍はそっと携帯をしまうと歩き出す。

 

「何処に行くのじゃ?」

 

「最後の挨拶……そのために、ちょっとね」

 

「目的地は?」

 

「決まってるじゃない。今の私が生まれた場所だよ」

 

 藍の生まれた場所……藍の命が失い、気がつけば茜の中にいたと言う。つまりは2人の再会した場所とも言える所か。

 

 儂は黙って藍の後をついていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いくらか歩くと、そこはかつての『枯れない桜』のあった場所じゃった。

 

 いや、桜の木自体はあるのじゃが、そこは前のような桜はひとひらも残っておらなかった。

 

「今の私の意識って、ここから始まってるんだ。お母さんのお胎が最初の故郷だとするなら、ここは第2の故郷なのかも……」

 

 藍はそっと桜の木にそっと触れながら呟く。

 

「それを言うたら、儂らも似たようなものじゃな。いきなり目の前が真っ白になったら突然ここに瞬間移動したんじゃからの」

 

「あはは……じゃあ、私たちって結構似た者同士なのかもね。だからかな……安心して茜ちゃんを託していけるのかもなぁ……」

 

 言い終えると、藍の身体がふらついた。儂は慌てて藍の身体を支えるが、もう自力で立ち上がれないのか、その場に座り込む。

 

「そろそろ、タイムアウトみたい。サッカーでいうなら審判が、時計を見てる頃かな……」

 

「お主はサッカーのルールを知っておったか?」

 

「知らなくてもそれくらいはわかるよ……」

 

「……茜には何も言わなくてよいのか?」

 

「茜ちゃんとはきいのういっぱいふたりで話したから。それより、秀吉君にもちゃんとお別れしないと……秀吉君と出会ってから、とっても楽しかったよ」

 

「そうじゃな……こんな出会い方など、そう滅多に体験できることではないぞい」

 

「うん。この思い出は茜ちゃんも含めた3人だけの共通の思い出だね」

 

 いつもの陽気な会話はなく、まるで絵本やアルバムを見たときの共通の感想を思い出しているようなそんなこともあったな的な雰囲気じゃった。

 

 まるでこれから息を引き取る人間がするような……いや、実際それに近いものじゃろう。

 

 元より彼女の肉体からは生命が消え、魂というか、意思だけという曖昧な状態だったのが戻ろうとしている。

 

 本来ならそれが正しいことなのじゃろうが……。

 

「お主は……まだ生きたいとは思わんのか? お主は茜が望んでおるからこそ存在しとるのじゃろう? それに、思い残すことだってまだあろう?」

 

「思い残す、こと……?」

 

「ああ。お主ひとりでできることは茜と身体を共有して大体はやっておろう? じゃが、誰かと何かというのはまだやりきれておらんのではないか? 本当の意味で……誰かとこうしたいものがあるのなら、それをやらんうちに消えるのも……嫌なのではないか?」

 

 悟すように言ってるが、これは単なる儂自身のわがままじゃ。儂とて、このまま藍にいなくなってほしくはない。

 

 茜も大事じゃが……藍のことだって同等に大事に思っておる。

 

「ひとつだけ……」

 

 藍は小さく呟くと、ゆっくりと手を伸ばし、儂の頬にそっと触れた。何かと思うとそのまま顔を近づけ、

 

「──っ……」

 

 口づけをした。……とはいっても、口と口というわけでもなく、頬に。

 

 やる人がいれば挨拶がわりにするような行為じゃった。そして顔を離すと、すとんと儂の胸に頭を寄せた。

 

「えへへ……流石にお姉ちゃんがまだなのに私がなんてのはズルいよね。だからほっぺたにした♪」

 

 そういってそっと顔をあげる。

 

「ずっと一緒にいて、好きな人ができたら……って、ちょっとした憧れだったんだ。まあ、最初で最後のキスだけど、あっちはお姉ちゃんのためにとっておかなくちゃ」

 

「藍……」

 

「ありがと……これでもう、思い残すことは何もないよ」

 

 そっと儂から離れ、ゆっくり桜の木の根元まで行くと、満面な顔をして振り向く。

 

「じゃあ、花咲藍……旅立ちます」

 

「藍……」

 

「秀吉君、約束してくれる? この先、どんな事があっても、君は茜ちゃんの味方でいて。茜ちゃんの事……好きなんでしょ?」

 

 藍に言われ、儂は考えにふける。

 

 儂は、茜の事は確かに好きじゃ……じゃが、それが恋愛によるものなのか、儂は目を閉じて今までのことを振り返る。

 

 初めて会った時からとんだいたずらっ娘で、時折不思議な雰囲気を醸し出して、そしたら二重人格──というか、ひとつの身体に2人分の魂が入ってた──じゃったり、それが突然消えようとしていると聞かされたり。

 

 出会いからの期間、思い出こそは少ない気もするが……儂はそれをこれまで生きた中で一番、満たされてると思っておらんかったか?

 

 ……そうじゃったな。ちょっと振り返れば実に単純じゃった。儂も、明久の事を言えんのかもしれんな。

 

「……ああ。儂は、茜が好きじゃ。じゃからその願い……然と受け取ったぞい」

 

「えへへ……よろしい。じゃあ、秀吉君。もうひとつお願い」

 

 それから藍は儂にあることを頼み込む。その頼みに儂は首を縦に振って応える。

 

「じゃあ、お姉ちゃんを……よろしくね♪」

 

 そう最後に言い放ち、藍──いや、茜の身体が、魂が抜けたようによろめき、そのまま倒れ込んだ。

 

「あ、藍……」

 

 儂は恐る恐ると茜の身体に歩み寄る。まだ藍が残っているのではないかと微かな願いを抱いて。

 

「おい、大丈夫か……しっかりするのじゃ」

 

「…………藍、ちゃん」

 

「茜……なのか?」

 

 茜が顔をあげると、その顔は……その眼は涙で溢れておった。

 

「秀吉君……藍ちゃん、消えちゃったよ……」

 

「……本当に、消えたのじゃな」

 

 儂の言葉に、茜はただゆっくりと頷いた。

 

「わかる……もう、藍ちゃん……どこにもいないんだって、わかるの……私、これからどうすれば……」

 

 儂とて、これからどうすればいいのかはさっぱりわからん。

 

 本来ならこれが自然な形の筈じゃが……この島の者たちが桜が枯れたことを異常に感じるように、藍と日常を共に過ごした茜には穴のあいたような空虚な心を残してしまった。

 

 じゃが、だからといってただそれを眺めるわけにもいかん。藍と約束したこともある。

 

「茜……少し良いかの?」

 

 儂は失意した茜に精一杯穏やかな口調を心がけ、話し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 藍が消え、数日ほど経った休日……。

 

 儂は茜を連れ、ある宿泊所へとやってきた。

 

「ほれ、ここじゃ」

 

「ここって……」

 

「お主なら見覚えがあろう?」

 

 聞くところ、ここは茜と藍が幼い頃に訪れたと言っておったところじゃ。

 

「なんで秀吉君が?」

 

「まあ、それは追々説明しよう。それより中へ入ろうぞ」

 

 儂は茜を連れ、中へ入った。そして儂らは旅の疲れを癒すためにそれぞれの温泉へと入った。

 

「広かったね……お風呂」

 

「そうかの? 儂のところはそんなに広くなかったぞい」

 

「多分、大浴場を日替わりで男湯、女湯って感じに切り替えてるんだよ」

 

「そうなのかの?」

 

「男湯行ったのに、知らなかったの?」

 

「男湯に行こうとしたら、女将たちに止められ、別の浴場に放り込まれたからの……」

 

「あはは♪ こっちでもおんなじ扱いなんだね」

 

「全くもって不可解なのじゃ……」

 

 儂は膝を着いた。こんな所でも儂の扱いは変わらんのか・

 

「ドンマイドンマイ♪ きっといつかわかってもらえるって」

 

 まるで愉快そうに笑う茜じゃった。じゃが……その笑顔はやはり無理をしているのがわかる。

 

 必死に乗り越えようとしているのもわかるが……やはり失ったものが大きいのじゃろう。そう簡単に割り切れるものでもなかろう。

 

「それより秀吉君。どうして、ここに私を連れてきたの?」

 

 茜の素朴な質問にどうしたものかと一瞬考えた。

 

 どうせ後にわかってしまうじゃろうが、目的に関しては今しばらく伏せて話すとしよう。

 

「今回の事は、藍との約束なのじゃ」

 

「約束?」

 

「藍が消えるより少し前に……茜に見せてあげてほしい景色があったようじゃ」

 

「…………」

 

 儂も藍が見せてほしいという景色を見たことがないからわからんが、一緒に訪れた茜は朧げにじゃが、わかっておるのじゃろう。

 

「そこに、茜を連れてやってほしいと……あやつに頼まれたのじゃ。できることなら3人で行きたかったのじゃろうが、まさかあのようなことになろうとは思わなんだのじゃろう。最後の最後に、儂にそれを託したのじゃ。儂自身も藍の見せたい景色というものに興味があったのじゃからお主と一緒に来たわけじゃが。そこに行けばきっとお主の抱えているものも消えてくれると願っての」

 

「そう……だったんだ。ごめんね、気を遣わせちゃって」

 

「気にするでない。これは儂がそうしたいと思ったからじゃ。気遣いだと思うのならそう思えばよいが、

 飽く迄儂はただお主と藍の言ってた景色を目にしてみたいだけじゃ」

 

「そう……」

 

「さて、色々聞きたいことはあろうが、明日は日が昇る前に登山するのじゃから、早い内に寝るとしよう」

 

「うん」

 

 儂らは一言二言言葉を交わしてから寝入った。

 

 そして未明──儂らは欠伸をしたり背伸びをしたり、若干眠気を残しながら旅館を発った。

 

 今はシーズンじゃないからか、儂ら以外の登山者が見えないうえに辺りが薄暗いため、行きは味気ないものじゃった。

 

 じゃが、山道は思ったよりも急じゃった。じゃが、藍が見せたいものを知りたいからか、茜は弱音も吐かずに黙々と歩き続ける。

 

 やがて周囲が明るくなり始めた頃、ようやく儂らは頂上にたどり着いた。そして、いよいよ夜明けの時じゃった。

 

「「あ……」」

 

 目の前に広がる景色を前に、2人同時に声をあげた。

 

 山すそに広がる雲海。遠くから徐々に昇り始める太陽。まさかこんな景色が見られようとは……。

 

「藍ちゃん……」

 

 茜はようやく藍の気持ちを受け止めることができたのじゃろう。彼女の名前を呟き、そのまま黙する。

 

「……藍ちゃん、この景色を私に見せたかったんだね」

 

「そうじゃな……」

 

「……見たよ、藍ちゃん。ずっとここを私に見せたかったんだね……。よかった、見られて……来てよかった……」

 

「……ここだけじゃなかろう」

 

 儂は茜の傍に立って言葉を紡ぐ。

 

「儂らはまだ色々なものを見れるじゃろう。数えきれないほどの景色をこれから見続けることになろう。そしてそれを胸に刻み続ける。もちろんひとりだけではない」

 

 それから茜の方へ向き直る。

 

「できることな、その……これから見る新しい景色を、共に胸に刻み続ける気はないか?

 儂とお主の、ふたりで……」

 

「…………」

 

「儂は──」

 

「……その言葉、藍ちゃんが初めて私の中に現れた日に言ってくれた言葉とよく似てる……」

 

「む?」

 

「そうだよね。藍ちゃんが現れてそう言ってくれたから、あの時の私は立ち直れたんだ。明るい子になろうって、頑張れたんだ。そして、今は秀吉君が同じ景色を見たいって言ってくれてる。私って、幸せなんだね……」

 

「…………」

 

「藍ちゃんが見られなかった景色、見たかった景色……ひょっとしたら、見たくなかった景色だって見なきゃいけないかもしれない。でも、頑張って藍ちゃんの分も見ていこうと思う。だから……」

 

 それから茜は儂の方を見て言った。

 

「これからも、私と一緒に、おんなじ景色を見ていこうね、秀吉君」

 

 茜の顔には黄昏時の陽光のような輝きがあった。もう茜の胸に空いた穴が埋まったのじゃろう。

 

 いや、きっと藍が埋めてくれたのじゃろう。本当に共有したかった景色を見せることで足りないピースを埋めてくれた。

 

 ここからは何もできてない。真っ白なものを儂らがつくっていかねばならん。じゃから──

 

「無論じゃ。これからずっと一緒じゃ。ずっと……儂と共に、数多の景色を見ようぞ」

 

 ──これからの景色と、彼女の笑顔をずっとこの胸に刻み続ける。

 

 そして、大切な彼女との時間を……色々な者たちに。そして、儂らにかけがえのないものを見せてくれた彼女に伝えたい。

 


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