あれから15分ほど、さくらさんは泣き続け、ようやく涙は止まったようだが、まだ眼は赤くなったままだった。
本当に今までずっと、こんな小さな背中で重いものを背負い続けていたんだね。
でも、さくらさんのこの涙は……これで最後にしてやるんだ。
「それじゃあ、きっちり決着つけるとしますか」
「……へ?」
「へ? って、僕は元々そのつもりでここに来たんですけど?」
「いや……それって、枯れない桜をなんとかするつもりで?」
「うん」
どんな未来になるにせよ、まずは行動あるのみだ。
「で、でも……どうするつもりなの?」
「わからない」
「……え?」
「いや、そもそも僕、魔法使いとかじゃないから何をどうすれば桜に干渉できるかなんてのはてんでアレなんで……。でも、一応コレも願いを叶える桜なんだし……義之を桜の力関係なく存在できるようにってできないかな?」
「そ、それは無理だよ。明久君達はともかく、義之君は魔法の桜から生まれた子なんだよ。魔法の桜による支えがなくちゃ……」
「そっか……。そういえば、さくらさんはどうやってこの桜を制御してたんですか?」
「えっと……この桜の中にある色んな人達の汚れちゃった想いを徐々に鎮めていた。でも、桜の中にある汚れちゃった想いが大きくなって……それも難しくなったから」
「ふ~ん……なら簡単じゃん」
「え? それって……」
「うん。この桜の中にある色んな人達の想いを一気に説得する!」
「…………」
あれぇ? 何か間違ってた? 何か、さくらさんの目がものすごい可哀想な子を見るそれになってるんですけど?
「あの、明久君……そんなに簡単な問題じゃないんだよ。人の想いっていうのはそういう方向の方が意外と強いものなんだよ。それを説得っていうのは……」
「で、でも……今まではさくらさんひとりだったけど、そこにひとりかふたりくらい加われば──」
「確かにひとりでやるよりはずっといいかもしれないけど……この桜の中にある想いの数はものすごいんだよ。そこにひとりやふたり加わったところで桜の中に眠るその想いの数に飲み込まれる事だって……」
どうやら思った以上に相当厄介な問題のようだ。
「でも……誰かがやらなくちゃ何も変わらない! 少しでも可能性があるなら全員幸せになれる道を進まなきゃ!」
「けど……そんな事をすれば、下手をすればそこで明久君の存在がなくなっちゃう可能性だってあるんだよ?」
確かに、さくらさんは魔法使いだから多少の事があってもなんとかなるだろうけど、僕が手を出そうものなら相当のリスクが待ち受けている事だろう。
「だけど……僕は諦めたくないから! 義之も、さくらさんも、この島のみんなも……誰だって欠けちゃいけないんだ! だからどんな危険があったって、僕は立ち止まりたくない! だから、お願いします! 僕を、枯れない桜の中に連れていってください! 本当にダメなら、はじき出しても構いません……でも一度だけ、ほんの一度だけでいいから! 僕にも、できることをやらせてください!」
僕はさくらさんに向かって土下座した。助けに来た奴が助けようとしている人に土下座ってのはどうかと思うけど、今はそんな事を言ってる場合じゃない。
例え僕の存在が危うくなろうと、この人達を助けたいから。
「…………わかったよ」
「え……本当に!?」
「うん。でも……本当に危なかったら、すぐにやめて桜の外に出るからね。一瞬でも気を抜いたら、本当に明久君の存在がなくなっちゃう可能性だってあるから、それと……君の大切な人がそれを望まないってことを、忘れないで」
「あ…………はい!」
さくらさんに言われて気がついた。他人にあれだけ言っておいて僕が忘れてどうするのだ。
そうだ。僕にだって大切な人がいる。僕の事を好きでいてくれる人だっているんだ。だから、なんとしても成功させてやる。
「それで、これからどうすれば?」
「うん。まずはとにかく桜の中に入る事が先だから、枯れない桜の幹に触れて心の中で念じてみて。僕が明久君と一緒に入れるようにするから」
「はい!」
僕はさくらさんの指示に従って枯れない桜に触れ、目を閉じた。
視界を閉じた中、僕の手にさくらさんの手が重なる感触が伝わり、僕の傍でさくらさんが何か呪文のようなものを口にするとふわっと身体が浮かんだような感覚に包まれた。
「……もう、入ったよ」
「ん……」
目を開けると、そこには枯れない桜と、真っ暗な空があった。
「……あれ? さっきの場所と変わってないような?」
「一目見ればそう見えなくもないかもね。でも、ここは確かに桜の内部なんだよ。周りを見ればわかると思うよ」
「周りを……っ!?」
さくらさんに言われて周囲を見回すとそこは恐ろしい光景だった。
夥しいほどの桜の木が並んでいた。それだけなら対して驚きはない。だが、その桜からはまるで憎しみや悲しみを言い表すような、黒いモヤのようなものが漏れ出ているのだ。
これは……Fクラスが放つ殺気なんかが可愛く思えるくらいおぞましいものだった。ただこの場で息をしているだけでもう吐き気をもよおしそうだ。
流石に負の感情も目いっぱい溜め込んでいるからか、とんでもない醜悪さだ。
「明久君、大丈夫?」
「だ、大丈夫です……これくらい!」
そうだ、こんな所で立ち止まっている場合じゃない。僕は今からこれらを説得しなくちゃいけないんだ。
僕はその場でゆっくり深呼吸して心を落ち着け、さくらさんに向き直る。
「心の準備ができました。やりましょう」
「……うん。でも、この願いの制御にはかなり神経使うから……下手をすればあの夥しい数の願いに飲み込まれる危険性もあるから──」
「お────い! あんたらぁ! いい加減、桜とかに頼ってばかりじゃなくて自分で何とかしようとかできないのかぁ!」
「──って、明久君!?」
僕がとにかく腹の底から叫んでみると周囲の桜を纏っていた黒いモヤのようなものが一気に舞い上がり、一塊になっていく。
どうやら僕の言葉に触発されてそれらが一気にそれぞれの汚れた願いを遂行しようと僕を標的にしたってところかな。
「あ、明久君! 君は急いでここから──」
「いいえ! まずはこいつらと真正面から向き合ってみます!」
「無茶だよ! あんな数の汚れた願い、明久君が飲み込まれちゃうよ!」
「大丈夫です! 今回だけでいいから、僕を信じてください!」
僕がそこまで言い切ると汚れた願いの塊が僕に向かって飛来してきた。
そして、その汚れた願いが僕を包んでいった。
「明久君っ!?」
視界の外でさくらさんの叫びが聞こえた気がしたが、正直そっちを気にする余裕はなかった。
『憎い……悲しい……消えろ……うざい……恨めしい……殺せ……消したい……いなくなれ……なんで俺だけ……ふざけるな……邪魔だ……アレは俺のだ……来るな……許さない……なら殺すか……やっちまえ……消えろ……殺せ……ころせころせころせコロセコロセコロセ殺せ殺せ殺せ殺せぇ!』
僕の脳裏に色んな人の憤りや嫉妬や怨嗟の声が流れ込んでくる。
これが多分、初音島にいる人達の抱えた汚れた心の内なのだろう。流石に心の中で抱えているものだからなのか、とんでもない醜悪さだ。
さくらさんは、こんなものを今までずっと押さえ込もうとしていたのか。こんなものを見て、普通でいられるとはとても思えない。
そのはずなのに、さくらさんはずっと、僕達に対して笑顔を崩す事なんてなく今まで通りに過ごしていたのか。
『寄越せ……お前が欲しい……俺に従え……殺させろ……こっちへ来いよ……』
くっ…………ダメだ。嫌な感じが身体中をまさぐって、意識が遠のいていく……。
なんだか……気の所為か、妙に見知った顔も多数そこにあるような気がする……。
それなら、大丈夫かな。そっちに行けば、楽になるんだよね。それなら、このまま眠ってもいいよね。
……………………って、
「なってたまるかああああああぁぁぁぁぁぁ!!」
腹の底から気合を入れ直して叫ぶと、僕を纏っていた黒いモヤのようなものは弾けて消えていった。
あちこちに散在しているモヤもそれに触発されたようにどんどん消えていく。
「はぁ……はぁ……どうにか、なったかな……?」
「明久君、大丈夫!?」
黒いモヤが晴れるとさくらさんが青ざめた表情で僕のもとへ駆け寄ってきた。
「あ、はい……どうにか……」
「ほ、本当に大丈夫? どこか、痛いとか苦しいとか……」
「ああ、大丈夫です。あんなの、僕のクラスメイトの怨嗟の声と同じかちょっと上って程度ですから」
うん。島中の人の怨嗟の声に少しばかり飲み込まれそうになったものの、憎しみや嫉妬の念を当てられるなんて文月学園じゃよくあることだ。
その分だけその手の事に耐性がついていたのだろう。手段も算段もあったわけじゃないが、あそこでの日常がこんな所で役に立つ日が来るとは思わなかった。
「よ、よかったぁ……」
さくらさんが安心しきったのか、その場に膝を着いた。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないよ……いきなり汚れた願いの塊を自分のもとへ呼び寄せちゃって……どうしてかその願いを霧散させたからよかったけど、下手をすればあのまま明久君の存在が消されてたかもしれないんだよ」
「あはは……すみません。ところでさくらさん……桜の方はどうすれば?」
「うん……明久君が汚れた願いを消してくれたおかげでしばらくは保ちそうだけど、いずれはまた汚れた願いが増え続けてあっというまにさっきと同じか、それ以上の大きさで育つ可能性があると思う」
結局、根元をどうにかするか、義之の存在がどうにか留まれるようにでもしないと結局さっきと同じことの繰り返しか。
流石にさっきのをもう一度やれと言われても出来るかどうかなんて怪しいものだ。
だからといって、これ以上さくらさんに負担も与えたくない。義之の事もどうにかしたいけど、魔法使いじゃない僕ができることなんてない。
ここまで来てただ汚れた願いを消してさよならなんてぬるい結果で終わりたくない。最高のハッピーエンドになり得るものが欲しいところだ。
だが、そんなものなんて何処に……、
「……ん?」
僕はある一点を凝視する。
「明久君、どうしたの?」
「いえ……なんか、あそこで……」
さっきまではあの黒いモヤが邪魔して見えなかったけど、それが晴れた今、周囲の桜の木の中に一箇所煌く光のようなものが見える。
「あれ、何でしょう?」
「……わからない。でも、汚れた存在じゃないのは確かだと思う」
「……とりあえず、行ってみますか?」
「うん。なんだか……すごく大切なものの気がする」
僕とさくらさんはひとつの光に向かって歩んでいった。
そして、目的の光のもとへ歩み寄るとその光はまるで生きているかのように鼓動を伝え、光を点滅させている。
「これって……?」
「……これ、義之君」
「義之……って、えぇ!? っていうことはまさか、これが義之の存在を支えてるものってことですか!?」
「うん……」
「ということは、これを義之にあげれば?」
「……うん、義之君の存在は確固たるものになる。この世界に存在する、ただひとつの命として生きられる……」
「…………しゃああああぁぁぁぁぁぁ!!」
これは思わぬ収穫だよ! 正直どうすればいいかなんてわからなかったけど、こんなところでまさかの幸運がやってきたよ!
やっぱり普段の行いだよね! こういう引きの強さは!
「じゃあ、早速それ義之に渡してやりましょうよ!」
「……うん」
「……さくらさん?」
「……ごめんね。これはちゃんと渡すから、明久君は先に行ってて」
「え? さくらさん?」
「うん。本当によかったよ……正直、僕ひとりじゃ無理だったろうけど……明久君が来てくれて、協力してくれて……そしたら、こんなにいい事が起こったよ」
「う、うん……だから、早く戻りましょうよ」
「……ううん。ごめん、僕はまだしばらく戻ることはできないんだ」
……一瞬、わけがわからなかった。
「な、何で!? 義之の存在はちゃんとここにありますし、悪い願いももうなくなった! 後は桜を枯らせれば万事解決じゃないんですか!?」
「ううん……明久君は魔法使いじゃないから、この手の事は理解できないだろうけど……何かの存在を無理やり確固たるものにさせたり、元々ここにいないはずの世界から誰かを呼んだり、過去に影響を及ぼすようなことはね、普通なら真っ先に世界そのものによって修正の力が働くの。でも、この初音島には枯れない桜があったから例外的にその力はなかったけど……もし桜が枯れて支えを失えば、世界の修正する力が現実世界でどんな影響を及ぼすかわからないんだ。
だから、それが完全になくなるまでは僕は戻ることはできないんだ」
「そ、そんな……やっとの事でハッピーエンドを掴めたかもしれないのに! それなのに! なんでさくらさんばかりがそんな役割をしなくちゃ!」
今までもずっと孤独の中にいて、ようやく本当の幸せが始まるかもしれないのに。それなのに世界や、運命は尚もさくらさんを不幸にするのかよ!
「大丈夫だよ。今度は、本当に…………本来なら、僕は桜と一体化して存在が消えてしまうかもしれなかった。でも、明久君はそんな未来を変えてくれたんだ。それだけで、もう感謝してもしきれない恩を受けたんだよ。だから、本当にありがとう」
安らかな笑顔で、さくらさんがそう言った。
「少し、時間が空くと思うけど……近いうちに必ず戻ってくるから。そしたら……家で、いっぱいお話しようか」
今までと違う、儚げなものでなく……心の底からの笑顔で、さくらさんは僕の手を握りながら言った。
「……はい。じゃあ、家に帰ってきたら、鍋パーティーしましょうか! そんでもって、さくらさんの好きな時代劇を目いっぱい鑑賞して、いっぱい語り合って、そんでもって、みんなで何処かに旅行に出かけましょうよ! あ、その時のために総力あげてバイトでもしてみるか? 僕と秀吉と、ムッツリーニでなんとかなるか。雄二は……ああ、やめとこ。霧島さんとの婚前旅行で手一杯になりそうだし」
「ふふふ……あははははははは! うん! 帰ってきたら、絶対ね!」
「はい! 前情報持っても腰抜かすほどびっくりさせるようなサプライズ用意するので!」
「うん、楽しみにしてるよ。だから……行ってきます」
「……いってらっしゃい、さくらさん!」
その言葉を最後に、僕の視界が真っ白になった。そして、最後に……さくらさんの笑顔を目に焼き付けた。
深々と……。桜が舞っていた。驚く程ゆったり……音もなく。
見渡す限りの桜が枝になっていた花びらを振り落としているように、桜の花びらが吹雪のように宙を舞い、地面へとゆっくり。
(これは……誰かの夢?)
久しぶりに見るな。他人の夢を見る……それが何故か俺に備わっていた能力みたいなものだった。
しかし、始めて見る夢だ。大抵は妄想じみたものを繰り返し見るものなのだが、こんな不思議な夢は始めてだ。
舞台は初音島のようだが……しかし、初音島なら桜の花びらが散るっていうのは変だな。
いや、よくよく考えれば桜が枯れないというこの島の桜自体が変な気もするんだが。小さい頃から当たり前のものとして見ていたために感覚が麻痺しているのかもしれない。
それから辺りを見回すと、一際大きな、枯れない桜が見えた。
そして、枯れない桜の幹でひとりの女性が立っているのが見えた。
そこにいたのは、俺のよく知っている人だった。
「……さくら、さん?」
「にゃはは……こんばんは、義之君」
「え?」
おかしい。ここは夢の中の筈だ。夢の中にいる人物が俺の声に応えてきた。
「あの、さくらさん……これは夢……じゃないんですか?」
そういえば、いやに自分の存在がハッキリとしていた。
「うん。これは僕の夢。ていうより、僕の意識の中っていうべきなのかな?」
「意識の、中ですか?」
「うん」
「そうだ……今どこにいるんですか? ずっと帰ってきてないし、学園にもいなかったみたいだから心配してたんですよ」
「にゃはは……ごめんね。でも、よかった。出る前に、義之君に会えて」
「え? それって……」
「君にね、はなさなきゃいけない事がいっぱいあるんだ。長くなりそうだけど、聞いてくれるかな?」
いつものさくらさんからは想像がつきづらい……真剣な瞳。
先の言葉の意味も知りたいが、さくらさんの話なんだ。ここで聞かなければいけない気がして、俺は頷いた。
「うん……まず最初に、謝らなくちゃいけないね。ごめんなさい」
「え? なんでさくらさんが謝らなくちゃ……ていうか、何を?」
「実はね。初音島で起こった事件は全部、僕の所為だったんだ」
さくらさんがいきなり予想外な事を口にした。
「どういうことです?」
もちろん、いきなり言われてもわけがわからないのでさくらさんに問いかける。
「枯れない桜……あの桜は、本当に人の願いを叶える力があるんだ。昔にも、ここに枯れない桜があった。正真正銘の魔法の木。人が人を大切に想う力を集めて、困っている人のために奇跡を起こす。願えば叶う。祈れば通じる……ひとりひとりの力が足りなくても、たくさんの心があれば、みんなハッピーになれる。
そんな夢みたいな桜の木があったの」
枯れない桜……小さい頃からよく聞かされていた。願いが叶うを言われる桜の木。
噂の域を出ないものかと思っていたが、本当にそうだったのか。魔法の木……そう言われれば納得できる。
というより、枯れない桜なんて、魔法以外に説明する事などできないだろう。
わかっていながら、俺たちはそれをあえて見ないようにしていたんだ。
「でもね、魔法の桜には致命的な欠陥があったんだ。昔も、今の桜も。だから、枯らさなくちゃいけなかったんだ」
枯れない桜を細い指でなぞりながら寂しそうに呟いた。
「昔の桜が枯れてから……ふと思ったんだ。願えば叶う世界なんて夢物語だけど……世の中には叶わないまま寂しい時を過ごしているような人達がいるから、そんな人達がハッピーになれる力になれればいい。あの桜の欠陥を直せば、きっと幸せな世界ができるって思ってた。そう思って、僕はアメリカでずっと魔法の桜の研究をしていたんだ」
それから間を置いてさくらさんは寂しそうな瞳を枯れない桜の木へと移す。
「けど、独り桜の研究を続けているうちに外では時間はどんどん流れていって……ある時、急に寂しくなっちゃったんだ。大好きだった人達は、愛する人と結婚して子供を作って、暖かい家族を築いて幸せになっていくのに、僕は……いつまで独りぼっちでいなきゃいけないんだろうって」
「…………」
さくらさんの言葉に、俺は何も言えなかった。
知らなかった。さくらさんがそんな寂しい想いをしていたなんて。
「そして、本当はいけない事だったんだけど。今ここにある枯れない桜のサンプルを、初音島に持ち帰って……願ったんだ。僕にも家族が欲しいです』って。『もしかしたらあったかもしれない現在の、もうひとつの可能性を見せてください』って。そう願った」
そこで俺の頭にある予感が横切った。
変だと思わなかった事はなかった。でも、今が幸せだったから、記憶の奥底にしまってずっと目を向けなかった事実。
俺の最初の記憶は、枯れない桜と、さくらさんの笑顔だった。
それ以前の記憶が全くと言っていいほどない。というより、始めから存在していなかったかのように何もなかった。
「そして、その願いから生まれたのが……」
そう言ってさくらさんが俺をまっすぐ見た。
予感がなかったわけじゃなかった。でも、今こうして向き合うまでは確信が持てなかった。
だが、今のでようやくわかった気がした。
「じゃあ、やっぱり俺は……さくらさんの子供って事だったんですね?」
「そう。君はこの桜の魔法が引き起こした奇跡。本来この世界には存在してはいけないものだったの」
「…………」
「桜の魔法が届く範囲でしか存在できない。君がこの世に存在していたのは、魔法の力があったから」
「…………」
「でも、この桜はオリジナルとは違って、願いを叶えるルーチンに問題があったんだ。純粋でささやかな願いだけじゃなくて……誰の、どんなに汚れたものであろうと、善悪問わず叶えてしまう」
そういうことだったのか。あの数々の事故はみんな、この桜の……桜に込められた人々の願いだったのか。
「その所為で、音姫ちゃんや明久君に迷惑かけちゃった……」
「え? 明久も、知ってたんですか?」
「うん。明久君は偶然だったんだけどね……明久君、すごい友達思いだから……すごい抱え込んじゃったみたい」
音姉については驚きはしなかった。俺は音姉が魔法使いだというのを知っている。
この島を守る、正義の魔法使いという事を小さい頃に聞いていたから。
でも、明久も偶然にもさくらさんの事を知っていた。これで納得した。
明久にいつものような元気さがなかったのはこれが理由だったんだ。だからだったんだな。
あいつが急に何かを抱え込んでるように元気をなくし、誰に対しても無気力なままに、そして白河さえも遠ざけるようになった理由。
こりゃあ、簡単に相談できるわけがないわな。
「本当にごめんね。僕の所為で、島のみんなに迷惑をかけて。音姫ちゃんにも、明久君にも……義之君にも」
「……さくらさん。俺は、感謝しています。俺、幸せでした。俺は普通よりずっと短い時間でしか生きられなかったかもしれないけど……
家族や、友達や……かけがえのない大切なものと出会えた事は、本当によかったって思ってます。俺にこんな大切な時間を与えてくれた事に感謝してます。
だから、ありがとう……母さん」
そう告げると、さくらさんの瞳から涙が溢れ出した。
「う……はは……明久君の言う通りだよ。本当に、みんな……優しいよ……」
明久の奴も言ったのか。なんだか先を越されたようで釈然としない感があるが。
それからしばらくさくらさんは涙を流し、それが少しばかり乾いたところで再度俺を見つめた。
「さて……色々話したい事はあるんだけど。そろそろ時間になりそうだから重要な事から片付けていこう」
さくらさんがそう呟くと何もない宙からそっと光の球を手のひらに顕現させた。
その光はなにやら懐かしい……というより、ものすごい既視感のようなものを感じる。
まるで、その光と自分は同じような感覚がする。
「これは、義之君の存在を確かなものにさせた力の源。義之君の魂と言ってもいいのかもしれないね」
「俺の……存在?」
「うん。元々君はこの島の……枯れない桜の周囲でしか存在できない不確かなものなんだ。そしてこれは君の存在を維持するための力……枯れない桜の中で、
ようやく見つける事ができた」
「これが……」
「これで……君の存在は確かになる。曖昧なものでなく、普通の……ただひとつの命を持つことができる」
そう言ってさくらさんの手から光が離れ、俺の目の前で浮遊した。
俺の心臓の鼓動に合わせるように光を点滅させるとしだいに俺の中へと溶け込んでいった。
「さて、僕は行かなくちゃ」
「え?」
「本当なら、僕はあそこで消えてたかもしれなかったんだ。でも……明久君が頑張ってくれたおかげで、君が消えずに済んだし……今はそれだけですごく嬉しいんだ。しばらく会えなくなっちゃうのは寂しいけど……すぐに、戻ってくるから」
「さくらさん……」
話は読めなかった。ただ一言、さくらさんはしばらく出かけるといった感じでそう告げた。
「……じゃあ、戻ってきた時は……いっぱいお話しましょう。それまで……待ってますから」
それだけ言った。
本当は、もっと話したいことはあったけど、一緒にいたいけど。
今までの事、そしてこれからの事をいっぱい話したかったけど、今それが叶う事はなさそうだ。
だから今は、旅立とうとしているこの人を……俺に命を与えてくれた人の顔を、この目にしっかりと焼き付けておこう。
「じゃあね、義之君」
ただ一言、そう言ってさくらさんは桜吹雪の中へと消えていった。
「……いってらっしゃい、母さん」
それからは底なし沼に入ったように身体が沈んでいく感覚に包まれていき、意識が遠のいていった。
恐らく、深い眠りの底から覚めようとしているのだろう。
俺は夢の世界から覚めていった。
「ん……」
目が覚めると、妙な気だるさが身体を…………包んでない。
いつもなら他人の夢を見せられた後はとてつもない眠気が襲って大体は二度寝をしてしまうのだが、今回はそれがない。
というより、身体の底から力が湧いてくるような、そんな感覚に包まれている。
「俺、生きているんだよな……?」
正直、今まで何も知らないまま日常を過ごしていたので夢の中でさくらさんの言っていた事が実感できない。
もちろん、さくらさんのことだから全部本当なのだろう。だが、それを自覚するには少しばかりな。
「まあ、考えても何も始まらないな」
どうせ今まで普通に暮らしていたんだ。それはこれからも変わらない。
あの人がくれた時間を、生きていく。あの人が俺を守ってくれたように、これからはあの人の帰ってくるこの場所を守らなきゃいけないな。
「ん~……まだちょっと早いけど、朝ごはんの支度でもするか」
俺は着替えると下へ降りて朝食の準備を始めるのだった。
今日はいやにさわやかな気分なので弁当用にも何か作っておこう。
定番に卵焼きを多めに作っておこう。そして野菜にトマトとレタス……キュウリも入れておこうかな。
「あぁ~、おはよう……」
「お、明久か。おはよう」
「おはよう、義之…………義之?」
「あ?」
明久が俺の身体を隅から隅までじっくり見ていた。一体何だ? 正直気持ち悪いのだが。
「えっと……義之、なんだよね?」
「それ以外のなんだよ?」
「…………しゃああああああぁぁぁぁぁぁ!!」
「おわっ!? いきなり何だよ!?」
他人の事を凝視したと思ったら今度は大声を上げてドタバタしはじめたんだが。
「義之だよね!? 義之なんだよね!? そうなんだよね!?」
「何故3度も聞くんだよ!? そうだって言ってんだろ!」
「いよっしゃあああぁぁぁぁ! うまくいったんだあああぁぁぁぁ!」
そういえば、さくらさんもだけど……こいつのおかげでもあるんだよな。俺がこうしていられるのは。
いつか何かお礼はした方がいいのか。
「とりあえず……今は静かにしててくれ」
通学路にて……。僕は今大変喜ばしい気分で通学路を歩いていた。
それというのも……。
「おい、さっきから何で俺をチラチラ見てるんだよ?」
「いや、なんでも」
「今朝から気持ち悪いぞ、お前」
義之がちゃんとここにいるって事だ。
うまくいったかどうかずっと気になってたけど、この調子ならきっと成功したんだろう。
代わりにさくらさんとはしばらく会えなくなっちゃったけど。でも、いつかまたみんな揃って、笑顔でいられればと思う。
そんな事を考えて通学路を歩いていると音姫さんの背中が見えた。
ただ、その背中が非常に寂しく見える。
「音姉、おはよう」
「……うん」
「音姉? どうした? なんだか調子悪そうだけど……」
「うん…………えっ!?」
音姫さんがハッとした表情で義之を見つめて固まっていた。
「な、何だ?」
「お……弟君?」
「そ、そうだけど?」
「ど、どどど、どうして!?」
「いや、何が──」
義之の言葉は最後まで繋がれることもなく、音姫さんが義之の肩をガバっと掴んだ。
それからマジマジと頭から足までじーっと見つめる。
「お、音姉まで何?」
「ねえ、弟君。どこか痛む所は? 頭とか……目眩は?」
「ないけど」
「ない? ないって?」
「いや、だから別にどっか具合悪いとかないよ」
「自分の存在が希薄に感じるとか、孤独を感じるとか、手足の先の方の感覚があまりないとかは?」
「いや、そんなの全然」
随分ピンポイントな質問だった。恐らく、義之を支えるものがなくなった時に起こりうる症状なのだろう。
だが、昨日のあの一件でその症状が起こることは二度とないことだろう。
「…………」
「ていうか、俺より音姉の方が大丈──」
「具合悪くないの!? 本当に? 元気なの!?」
「ええ? いや、そりゃ元気だけど……今日は随分と快適な朝を迎えてたけど……」
「っ!?」
義之の言葉を聞いて音姫さんは信じられないといった風に義之を見る。
「ほ、本当に!? なんともない!? 元気なのね!?」
「いや、本当だって。音姉、いつにも増して心配しすぎだって」
義之が苦笑を浮かべながら音姫さんをなだめようとしていた。
「……」
「音姉?」
「よ……」
「よ?」
「よかったあああああぁぁぁぁぁぁ!!」
「ぐおっ!?」
大きな声を出して音姫さんが義之にガバッ、と抱きついた。
「おぉ……」
登校時間なのだから結構生徒の目があるというのにも関わらず、音姫さんの大胆な行動に周囲の目が一気に集中する。
「お、おおお、音姉!?」
「ああ、よかったぁ! でも、どうして!? ああ、でもでも、そんなのいい! 弟君が、弟君がなんともないんだから、もういい──────っ!!」
「ぐ、ぐるじぃ……音姉っ。む、胸が! 胸が当たって……ていうか、圧迫されてる! 窒息する!」
「よかったよ────っ!!」
「むぎゅっ!」
おお、今度は義之の顔をその胸に押し付けるように抱き寄せてるよ。
「お、音ね……い、息が……た、助け……」
義之が抜け出そうとしてるものの、音姫さんの力が強いのか抜け出せずにいた。
音姫さんの喜びたい気持ちは理解できるけど、これ以上は義之の命が危ないので助けてあげた方がいいだろう。
この後、遅刻寸前まで音姫さんを鎮めるのに苦労したのと……この行動を見てとある女子とゴリラの追いかけっこがあったのは余談だ。
とにかく、これからまた新しい日常の章へと入るのだった。
これから……後末で、これまた不思議な体験が続く事を、僕はまだ知ることはなかった。