【Arcanum Duo】- 遠山かなみの犯罪記録 - 作:suzu.
どうしてそんな話になったんだったか。そうだ、彼女は兄の話をしていたのだ。俺たちが敬愛してやまないこの世で最も素晴らしい人。
いつだったか、子どもの頃に兄と桜を見に行ったことがある。
春嵐もひと段落つき、穏やかな春の陽気に包まれた清明の頃。近所の川沿いを兄に手を引かれて歩きながら、東京の下町にとけて馴染んだ桜の姿を探した。
風に吹かれてひらひらと舞い散る桜吹雪を手で追いかけ、きれいだと言っては無邪気にはしゃいでいた幼い俺たちを見て兄はふいに立ち止まって言った。
『桜は春の喜びを運んでくる。だが、それも瞬きひとつの間に散っていく儚いものだ』
その時の兄の表情を今でも覚えている。
兄は少し膝を折って俺たちと眼を合わせた。兄の全てを射抜くような眼が俺たちを見ていた。それは兄が大切なことを言うときの決まりだった。
『だが、風に吹かれる桜も雨に濡れる桜も、散るために咲いている訳じゃない。それを忘れるな』
真剣な顔で言い聞かせるように、しかしどこか憂いを含んだ眼をして兄は言った。
時々、兄はそういう眼をして俺たちを見ることがあった。笑いかけてくれる時でさえその眼を向けられた。
それが不思議で一度だけ問うたことがある。どうしてそんなに悲しい眼をするのかと。すると兄は表情を失くして黙り込んでしまった。笑っている顔も怒っている顔も、全部好きだった兄の表情がすっと消え失せてしまった。途端に兄が誰か知らない人に見えて恐ろしくなった。以来、一度もそのことを口にしたことはない。
結局、なぜ兄が桜を見てあんなことを言ったのか、今でも分からないままだ。言葉通りの意味で捉えるべきではないのだろう。なぜならあの時の兄はその悲しげな眼を桜ではなく俺たちに向けていたのだから。
「――桜はね、本当は儚い花じゃないんだよ」
ゆっくりと言葉を探すように彼女は言った。
「風に舞って散る花は美しい。それは確かに刹那的で儚い情景だけれど、それは桜の美しさの本質じゃないの」
彼女はそう言うと茶色のコートの合わせを寄せて、そっと微笑んでみせた。風に煽られた髪の毛先が流れるような稜線を描き、俺よりわずかに長いその髪の一房が頬にかかっていた。
「じゃあ、何が美しいと思うんだ?」と俺は訊いた。
「強さかな」彼女は短く、だが力強く答えた。
しかし、どうにも桜のイメージと結びつかなくて俺は首を傾げる。それを見て彼女は悪戯が成功した子供のように満足気な笑い声をあげた。それから立ち止まって空を見上げるので、俺もつられて見上げるとしんと澄んだ冬の空が浮かんでいた。
「春が終われば桜の花は散ってしまうけれど、それと同時に、また春が来れば咲き誇る強さがある。何度でも、何度でも、毎年変わらず咲き誇ることを私たちは知っている。それを何百年も何千年も繰り返すから、――だから桜は美しい」
彼女は謳うように優しく言い、そのまま俺の手を取って再び歩き出した。
少し先を歩く彼女に追いついてその隣に並ぶと、俺は彼女の横顔を見つめた。俺より少しだけ長い紺色の髪がさらりと流れ艶々と輝いている。その毛先がかかる頬のすっきりとした線も、抜けるような肌の白さも、伏せた眼差しの長い睫毛の一本一本でさえ、俺の眼には何よりも儚く美しいものとして目に焼き付いた。
「じゃあ、他の花は? その法則でいうと一年草の花は駄目なのか?」
「まさか!」彼女は笑い飛ばすように振り返って言った。「結局みんな同じことだと思うの。花も草木も人も動物も、種という枠に捕らわれている限り出来ることは限られている。その中でどれだけ精一杯生きることができるかということだけが、その存在の美しさを決めるんだよ」
「なんだか、兄さんみたいなことを言うんだな」
「兄さんの受け売りだもの」
「なんだって?」俺はびっくりして言った。「いつそんなことを聞いたんだ? 俺は兄さんからその話を聞いた覚えはないぞ」
彼女は少し俯いた。たぶん俺の言葉は少し冷たかったのだろう。そんなつもりはなかったのに彼女を責めてしまった。
「向こうにいた時、聞いたの」
それっきり彼女は黙ってしまった。
俺は彼女がローマでの話をすることはないと既に諦めていた。彼女は絶対に向こうでの話をしない。誰と会い、どんなこと見て、どんな話をしたのか、何一つ話題にしようとはしなかった。あまりにも頑なに口を開かないので、何か嫌なことがあったのかもしれないと思う。
だから今の話が向こうでの唯一の話題だったわけだ。その話が結局兄に戻るのも仕方がないように思えた。それで彼女が笑顔でいられるならどんな話だっていい。
俺と彼女は台場を歩いていた。特に何か目的があって来たわけではない。
昨夜、食後の片づけをしていると、ソファの上でテレビを見ていた彼女が唐突に言い出したのだ。テレビはクリスマス特集を映していて、今年一押しのデートスポットやクリスマスキャンペーンの情報、レストランのディナーから夜景の見えるホテルまで、ずいぶん俗っぽい番組を見ているのだなあと感心したぐらいだ。
ソファの上で足を抱えるように座っていた彼女は、「ちぃ兄さん、明日デートに行こう」と言った。兄妹でデートなんて倒錯的だなと思いもしたが、デートというのは建前にしか過ぎず、どうせ兄の代わりだと分かっていたので二言目には了承した。
それが昨日のことだ。
そろそろクリスマスということもあり、公園では何かのイベントを催しているようで、寒空の下にも関わらず休日を楽しむたくさんの親子連れの姿があった。
朝から澄み渡るように晴れた水色の空に、木枯らしを吹かす風が駆け抜けていく。公園に植えられた落葉樹の赤裸々な姿がいっそ憐れに思えるほど日一日と寒さは増し、すれ違う人々もコートやダウンジャケットの上からマフラーを巻き、手袋のない人はポケットに手を突っ込みながらすれ違ってゆく。それでも冬の日曜日の柔らかな日差しの下では、誰もがゆったりと歩いているように見えた。
夕陽の塔を過ぎて右に曲がったところでレインボーブリッジが目に入った。東京湾沿いに造られた遊歩道を歩き、途中でショッピングセンターと繋がったウッドデッキの階段を上る。レプリカの自由の女神像の前を通り過ぎると、海上バスの乗り場がある。そこにも休日を楽しむ人たちが大勢いた。
向こうから小さな子どもが一人かけてくる。手にはイベントでもらったふうせんの糸を握り、引っ張るようにパタパタと軽い足音をさせながら走っていた。足元も見ないで危ないぞ、と思ったとたん子どもはバランスを崩してこける。ああほらな、と心の中で呟いた。あの年頃の子どもは頭と手足のバランスが悪い、それなのにゆっくり歩くということをしない。とにかく走るのだ。
衝撃で手を離してしまったふうせんがふわりと宙を浮く。それを追って俺は駆け出した。いち、にの、さんっ――。助走をつけて跳躍。ぎりぎり間に合って届く範囲で糸を引っ掴むことができた。
振り返ると彼女がしゃがみこんで子どもを抱き起していた。子どもは痛みを感じるよりもこけた衝撃が大きいらしく、彼女に抱えられたまま眼を丸くしている。
「びっくりしたのね。大丈夫、大したことないわ」そう言って、彼女は手早く服についた汚れを払った。どうやら怪我はないようだ。
「ほら、これ。もう走るなよ」
呆然としている子どもの前にふうせんを差し出す。黄色いふうせんには、でかでかと会社のキャラクターらしきアヒルが描かれていた。どこかで見たアヒルだ。
子どもは差し出されるまま受け取ると、「うん」と気恥ずかしげな小さな声を出してまた走っていった。走るなと言ったそばからこれかと呆れる。
思い起こせば自分も子どもの頃はやたらめった走っていた記憶がある。どこからそんな体力が出てくるのかと思うほどちょこまかと動きまわっていた。大人の足に追いつくために走るのであろうか? 子どもに聞いてみたいがおそらく良い回答は得られまい。たぶんあれは無意識というより本能だ。
人ごみの向こうから子どもの母親らしき人物が名前を呼んでいて、子どもはその女性に向かって一目散にかけていく。子どもに気付いた母親のもとに、ほとんどタックルに近い形で飛び込んだ子どもは、何やら怒られながらも手を引かれて行ってしまった。
その姿を見送ってからようやく彼女は立ち上がった。
「寒桜を覚えてる?」と彼女は親子が去った方向を見ながら訊ねた。
「カンザクラ? 聞いたことあるな……。冬の時期に咲く桜だったか?」と俺は記憶を探りながら言った。
「そう。冬に咲く桜」彼女は応えた。「雪のように白い桜。冬の間だけ咲き続ける――雪の花」力強い、生命の美しさ。繰り返す永劫の死と再生の象徴。そう呟くように彼女は言った。
それも兄との記憶にあった話だ。いつだったか、冬に咲き続ける桜があると兄が言っていた。華道でよく使う桜なのだと聞いた気がする。冬の花としてお家元の庭などに植えられ、時期が来ると枝ごと切って活ける。春の桜のように満開になることはないが、ぽつりぽつりと11月ごろから2月まで咲いては散るを繰り返すらしい。
「寒桜か……」子供の頃を思い出して、ぽつりと零す。
結局その桜は今になってもお目にかかったことはない。探せばどこかに植えてあるのだろうが、残念ながら桜の名所は知っていても寒桜の花見スポットは聞いたことがない。東京の郊外に行けば案外普通に植えてあるかもしれない。
「ちぃ兄さん」
いつの間にか彼女は靴を脱いで砂浜へ降りていた。冬の海だ。夏には水遊びでそれなりに賑わう砂浜も今や閑散としていて、端の方に暇を持て余した大学生たちがふざけ合って足を浸しているくらいだ。
それでも彼女は迷わず海辺の方へと歩いて行く。後を追おうと砂浜に足を踏み入れ、少し考えてから俺も靴を脱いだ。水に浸かるためでは断じてない。砂が靴に入るのが気持ち悪いから最初から脱いでしまえという魂胆だ。
彼女はワンピースの裾を少しだけ摘まむとそのまま海の中へと入った。ゆるやかに波打つ浅瀬を数歩だけ進み、ふくらはぎの下あたりまで浸かるとゆっくりと俺を振り返る。後ろに広がる薄蒼い空と光で逆光になったその姿が一瞬兄と被った。
「早く、春にならないかなあ」彼女は言う。
「春になってもまだ水遊びには早いな。風邪ひくぞ」俺は言った。
大丈夫だよと海風に髪を遊ばせながら彼女は呟いた。
冬の柔らかな日差しが眩しくて俺は少し目を細めた。こんなに穏やかな休日は本当に久しぶりだった。武偵高での殺伐とした日常が嘘のようで、俺も彼女も普通の高校生だったなら毎日がこんな感じなのかもしれないと思った。
「桜を見に行くの」ふいに彼女が言った。「春になったら桜を見に行くの。ちぃ兄さんと兄さんと私の三人で」
それは聞き分けのない子供が駄々をこねるようでありながら、叶わないと知りながらも望みを口にする諦めた調子でもあった。
俺は頭をがしがしと掻き一つ嘆息してから海へ入った。やはり水は冷たい。気温より水温の方がやや高いとはいえ、海から上がった後の方が寒いだろう。少し乱暴に波をかき分けて彼女の前まで来ると、手を差し出してきっぱりと言った。
「分かった。兄さんが帰って来なくても俺が傍に居てやるから。それで良いだろ?」
彼女は少しだけ驚いた顔をした。それから、ふわりと花がほころぶように笑い、「ありがとう、ちぃ兄さん」そう言って彼女は飛び込んできた。
軽い身体を難なく受け止めて俺は彼女を抱きしめた。こんな場所で、しかも向こうに大勢の人がいると頭では分かっていたが、今は気にならなかった。これが見たかったのだ、自分は。彼女が笑ってくれるなら俺はどんな願いでも聞き入れてやろう。それがたとえ兄の代わりでも。
その時、彼女の携帯が鳴り響いた。
目覚まし時計のように味気のないその着信音は、彼女が分かりやすいからと使用しているものだ。そっと離れると、彼女は携帯を取り出し耳にあてた。
「――はい。了解です。ただ今向かいます」手短に通話を終わらせた彼女は、通話終了ボタンを押して携帯をコートのポケットにしまい込んだ。
「事件か?」そう俺は聞いた。
「ううん、準備が終わったみたい。残念だけどデートはここまでだね。本当のところ、私が日本に帰って来たのは休暇を楽しむためでも、東京武偵校で研修するためでもないんだよ」彼女は含んだように笑いながら言った。
「さぁ、ちぃ兄さん。双極兄妹《わたしたち》の出番だよ――」