【Arcanum Duo】- 遠山かなみの犯罪記録 -   作:suzu.

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03.And I meet with sister

 

 記憶とは不思議だ。あの頃はなにひとつ意識しなかったことが、時を経るごとに写真を現像するかのようにくっきりと浮かび上がってくる。ゆっくりと時間をかけて目に見えるように浮き出てくる。

 最初は真っ白な色がひらりと漂っている。それから線をなぞってカタチを手に入れる。やがてカタチに様々な色が与えられ人の器になる。白くさらりとした肌の色、艶やかな濃紺の髪、薄く色づいた小さな唇、丸みのないすっとした頬。そして、そこにだけは何も浮かばない眼。

 ――そう、彼女だ。

 俺は限りなく完全な形で不完全な彼女の像を結ぶことができる。まるで濃紺の夜空をキャンバスにして散りばめた星々を結び描くように。どんな僅かな光でさえも彼女を描くことができた。眼前にいるかのように克明に。そして、その浮かび上がった彼女には眼だけが虚ろだ。俺はそれを確認する度にまだ繋がっているのだと安心する。

 まだ、大丈夫。そうまだ。でも、足りない。足りない。全然足りない。ぜんぜん――、

 

「っ――!」

 思考の闇から逃げ出すように急浮上した意識はぐちゃぐちゃに掻き回されたみたいに無残だった。全身から汗が吹き出して、心臓が早鐘を打っている。無意識の内に俺は浅い呼吸を繰り返した。上手く酸素が吸えない。

 やがて呼吸が落ち着いて、なけなしの意識がまとまり始めた頃、ようやく自分が何処にいるのかを思い出した。そうだ強襲科の体育館をいつもより早く出て、寮にも戻らず校内の端まで歩いて来たのだ。

 見渡せば日は沈んだところで、澄んだ冬空をすっぽりと覆った淡い蒼が見下ろしていた。

 まだ西の空は微かに白い。白はすぐに淡い水色へと色を変え、蒼、群青、藍、紺、濃紺、そして闇へ。西から東へゆるりと世界を取り囲んでいる。ざわり、と肌が粟立った。身体の奥から抑えきれないナニかが溢れそうになるのを必死で飲み込む。

 俺はこの時間が嫌いだ。日が沈み夜になるまでの僅かな時間。逢魔時《おうまがとき》。もうすぐ、闇が押し寄せてくる。

 空から視線を外し、固く握りしめていた手を無理やり解いて意識を逸らす。風はなかった。ただ凪いだ空気が冷たく張り詰めた夜の気配を運んできて俺の頬を撫で上げる。こめかみに流れる汗を感じながら俺は火照った身体が冷えていく心地よさに目を細めた。

 ようやく汗が引き平常通りに落ちついてくると、今度は自分が醜態を晒していた実感が押し寄せてくる。幸いにも人影を避けて学園の端まで来ていたため周囲には誰もいなかった。このまま寮に戻ってルームメイトたちの騒ぎに身を投じる気にはなれず、俺はさらに学園の端へと足を動かした。

 

 この東京武偵高校は、レインボーブリッジより南に浮かぶ『学園島』と呼ばれる人口浮島《メガフロート》の上にある。この学園島は東西500メートル、南北およそ2キロメートルにも及び、品川ふ頭と台場の隙間を埋めるように存在する。東京湾を行き交う船が通るには少々場所が悪いのだが、それでも台場との隙間を縫うようにして運航している。

 俺はその東の端に位置する遊歩道へと足を踏み入れた。右手側には薄暗い海がゆらめき、対岸には台場に立ち並ぶビルの光が見える。いつのまにか路灯に明かりが点いていた。瞬きをする間にさえも世界が刻一刻と色を変えていく。

 ふいに、軽やかなアップテンポの電子音が響いた。自分の携帯だと気づいたのは、音の発信源が自分のズボンのポケットだったからだ。武藤が勝手に設定した彼の好きなロックバンドのメロディは笑ってしまうほどこの場には似合わない。もしかしたら武藤は狙っていたのかもしれない。いつも陰湿気な顔をしている自分を思い浮かべて苦笑しながら、携帯を取り出して俺は凍りついた。

 そこに、あり得ない名前を見た。

 言葉も出ずただ限界まで見開いた眼に映るのは、携帯の小さなディスプレイに浮かんだ、それまで一度も表示されたことがない名前。互いに登録しても決してやり取りしなかった名前。彼女の名前。

 せっかく落ち着いた俺の頭の中は再びぐるぐると回り出す。――そんな、何でだ。どうして今――。そんな疑問ばかりが込みあげてくる。

 着信音は鳴りつづけ、それがメールではなく電話だという現実と共に、俺を急かし続けている。出ないという選択肢は初めから存在しなかった。俺は浮かんでくる疑問を無理やり押しのけ、震える指で通話ボタンを押した。

「――」

 ピ、と小さな電子音が聞こえ、電話の向こう側と繋がったことを知らせる。一瞬の空白。微かなノイズ音。もしもし――、と決まり言葉を言おうとした口が、痺れてしまったかのように動かない。

「――、――」

 一秒、二秒、と言葉にならない時間が過ぎ、緊張から自分の吐息だけが向こうに聞こえているんじゃないかと怯えた。何か言葉にしなければと思考のループを彷徨い始め、ようやく不自然に緊張した空気を破ったのは電話の相手だった。

『――久しぶり』

 電話の向こうから聞こえてきたのは、涼やかな甘さを含んだ女性の声だった。

 ――違う。俺じゃない。俺の声じゃない。

 記憶にあるものと違う声に俺は動揺を隠せなかった。

「おま、え……。どうして……」

『前』

「え?」

 短い言葉が指し示す意味が分からなくて疑問の声が零れ落ちた。少し間を置いてから、もう一度女性の声は繰り返した。

『前、見て』

 促されるまま俺は視線を上げた。

 先ほどより明度を落とした空は濃紺色に覆われ、視界の先をぼんやりと霞ませている。ひっそりと忍び寄ってきた闇色の気配の中に、等間隔に並んだ電灯がぽつりぽつりと明かりを灯らせ、幽かに遊歩道を照らしていた。その真っ直ぐ先の薄暗闇の中で、俺は白い姿が浮かび上がるのを見た。それが音もなくすぅっと近づいてくるのを感じたとき、俺は電話が繋がっていることも忘れてギリリと奥歯をかみ締めた。

 驚愕はとうに過ぎていた。今感じているのは恐怖でも苦渋でも落胆でもないが、そのどれもを僅かずつ抽出して混ぜ合わせた戦慄。きっとそんなものだ。

 初めは白いコートの色だった。ゆったりと歩み寄ってくる白い影はやはりどんな音もしない。茶色のブーツが差し込んだ電灯の光に晒された。それから堅苦しいコートの裾がふわりと揺れ、濃紺の髪が反射した。白色灯に照らされた頬は青白いほど透き通っており、すっと丸みのない頬のラインも細い首筋も薄く色づいた唇も知っている筈なのに、なんだか酷く脆弱なものに見えた。

 そして視線が絡み合い、濃紺色の……。髪と同じ濃紺色の瞳の奥に、意思という名の強い輝きが宿っているのを俺は見た。それはとても美しい光彩だったが、俺はそれに似た光を知っていた。目を合わせた瞬間にその視線に囚われてしまうほど強い引力を秘めた艶のある眼が誰と同じなのか、分かってしまった。

 ゆっくりと瞬きをして、彼女はことりと首をかしげ淡く微笑んで見せた。その動きでさらりと肩にかかる髪が揺れ、反射した光の粒が宙に散った。

 

 知らない。こんな彼女を俺は知らない。

 

 俺は呆然と突っ立ったままその光景に我を忘れて見入ることしか出来なかった。あまりにも唐突で、心の準備が出来ていなかったというよりも、本能が理解を拒んだというのが正しいだろう。だって、俺の目の前にいるのは彼女であってあの彼女ではないのだ。もちろん俺であったもう一人でもない。ただ彼女はそこに世界から切り取られたかのように存在していた。初めから、そうであったというように。

 小さな唇からふっと息が漏れ落ち、平淡だがよく通る凛と澄んだ声で彼女は言った。

「ただいま。ちぃ兄さん」

 そして俺は『妹』に会った――。

 

 

 


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