【Arcanum Duo】- 遠山かなみの犯罪記録 - 作:suzu.
本格的に冬の寒さが厳しくなりだした12月の第2月曜日。
冬のたおやかな日差しのもとで俺はまどろみの中にいた。窓の向こう側には淡い水色の冬空が広がり、すでに散ってしまった多くの落ち葉が地面に色を添えている。
静寂に満ちた教室の中でコツコツと響くチョークの硬質な音。その白い線が描くのは数字と記号の羅列。あれは何だったか、と俺はぼんやりする頭で考えた。すでに半分以上眠ってしまっている頭では満足な思考もできやしない。暗号みたいだな、と考えると唐突になにか暗号の構築式だったような気がしてきた。いや、違うか。
教室の後ろにある石油ストーブがポンと乾いた音を立てた。昼過ぎの教室はぼんやりとした空気に包まれている。もしかしたら教室内の酸素が足りていないのかもしれない。頭が霞んだようにうまく考えがまとまらなかった。
「遠山。おい、遠山キンジ!」
ふいに男の声が響く。はっとして前を見ると今まで後ろを向いて板書をしていた教師が憮然とした顔で俺を睨み据えていた。そこでようやく自分の名を呼ばれたことに気付く。
「は…、はい。何ですか?」
「ぼんやりしておいて、何ですかじゃないだろう」教師が不機嫌そうな声で言った。「まあいい前に出てこの問題を解きなさい」
そこで俺はもう一度黒板に書かれた記号式を眺める。それはまさに暗号だったが、これは暗号解読の授業ではない。俺は立ち上がり先生に向きなおって、「分かりません」と正直に言った。
男性教師はだろうな、と言いたげに一つ溜息をこぼした。
「じゃあ、遠山の斜め前。武藤、おい武藤! お前も起きろ!」
はい、とも、ふぁい、ともつかないような声をあげて、がばりと机から身を起こした武藤は黒板の式を見るやいなや、「ええーと! 車両重量をxに代入し走行抵抗係数と駆動馬力が……。ん、あれ…何の授業だったっけ?」
瞬間どっと教室が沸き、みな一様に笑い声をあげて腹を抱えだした。その中で武藤はまだ寝ぼけているのか、ぽかんと呆けている。
「ちげーよ、あれは振幅変調波の信号波公式だって」
「ええー? ストリーム暗号の構築式だよー」
「どっちも全然似てないって!」
武藤の珍解答に乗じて他の学生も騒ぎ出した。あれやこれやと意見を言い出し、先ほどまでのぼんやりとした空気が嘘のように活気にあふれている。ただその中に正解らしき回答はなさそうだった。みな勝手なことを言っては笑っているだけだ。自分も似たようなことを考えた気もする。
教室の前では教師が遠い眼をしながら片手で額を抑えていた。彼は臨時でこの高校にきたと話に聞いた覚えがある。2か月前までこの授業を教えていた教師は辞めてしまったからだ。
この時間の授業は数Ⅰだった。
ホームルームが終わると周りの同級生はとたんに活き活きとした顔になる。緊張感もなく代わり映えのしない一般教科 《ノルマーレ》の授業など、時間の無駄だと思っているのだろう。教室に居残って雑談に興じようとする者もおらず、一言二言互いに挨拶を交わしてはみな早々と教室を出ていく。時間を潰しているひまはない。溜息を一つ吐き出して、俺も他の学生たちと同じように筆記具だけを鞄に放り込んで立ち上がった。
「遠山君。この後、直接行くのかい?」
横から声をかけてきたのは同じクラスの不知火《しらぬい》だった。にこりと人が良さそうに微笑んでみせる仕草が堂に入っている。
「ああ、そうだな。このまま行くよ」と俺は答えた。
「じゃぁ僕もご一緒させてもらおうかな」と不知火は伺ってくる。
不知火とは同じ学科でもあるため行き先は同じである。俺は黙って頷いた。
数少ない友人の一人である不知火とは放課後も行動を共にすることは多い。それでも毎回こうやって一言確認してくる。普通の友人としては一歩下がりすぎているのではと思うが、それが俺としては絶妙な距離感だったので好ましく思っていた。
俺と不知火のやり取りを耳にしたらしく、斜め前の席にいた武藤がくるりと振り向いた。午後の授業を眠って過ごしていた武藤は、他の学生たちよりつやりと輝いた顔をしていた。
「じゃ俺は先行くわ。お前ら生きてたらまた明日な」
「うん、また明日」と不知火が言って軽く手をあげた。
黙ったままの俺に気を悪くすることもなく武藤は俺に、「じゃあな、キンジ」と、一言声をかけて慌ただしく教室を出て行った。学科は違っているが同じように三人一緒に行動を共にすることも多い武藤は、不知火とは違って友人には馴れ馴れしくするタイプの人間だ。その分、がさつで細かいところを気にしない性格でもあるので、相手にするときは適当にあしらうことができて気が楽だった。
クリスマス前の子供のように「待ち遠しい」と顔にかいた武藤の後姿を見送り、俺は再び溜息を吐いた。あいつのようにこの後を素直に楽しめれば学園生活もどんなに充実したものになるだろうか。しかし武藤と俺ではそもそも専門が違う。楽しめと言う方が難しいのではないだろうか。
「僕たちも行こうか」不知火が俺を振り返って言った。
俺は短くああ、と返事をして、不知火の後に続いて教室を出た。
廊下は足早に過ぎ去る学生であふれていた。その雑踏の中を同じように早足で並んで歩く。何気なく周囲の声を拾うと、その内容の大半は連絡事項やその確認、今後の予定や依頼といった極めて事務的なもので、まれに授業のノートを映させてくれ、といった学生らしい会話が混じっている。その中に自分に有益なものがないことを確認し、ふと思いついて前を向いたまま俺は不知火に声をかけた。
「そういえば、不知火」
「なんだい?」歩きながら俺の方を振り返った不知火が答える。
「お前、数学の授業分かってたんだろ。答えを言ってやれよ」
「僕の他にも分かってる生徒はいたよ」
どの授業でも優秀な成績を修める不知火ならば、今日の数学の授業くらいわけはないだろう。もちろん学科によっては数学や物理、化学といった知識が必須になるところもあるため、不知火以外にも一般教科の授業をきちんとこなせる学生も幾人かいるはずだった。しかし、いささか学生たちの知識が専門に偏りすぎているため、授業で問題をまともに解けるような学生は少ない。不知火のようなオールマイティな学生は、ここでは本当に珍しいのだ。
俺たちは一般教科の校舎を出て専門科棟が並ぶ校内を歩いた。カラカラに乾いた落ち葉が冷たい風に吹かれて足元を過ぎ去っていく。良く晴れてはいても、外の空気はひんやりとしていた。マフラーなどの防寒具がないと辛い季節だ。俺は学生服のポケットに手を突っ込んで、話の続きをするために口を開いた。
「さっさと答えを言ってみんなを鎮めればよかったんだ。お前はうちの委員長なんだから」
真っ先に問題を解けなかった自分が言うのもなんだが、うちの学生に発言させようと思う教師も教師だ。珍解答をした武藤にかぎらず、口を開けば何を言い出すか分かったものではない。だからああいった馬鹿騒ぎになる。途方にくれた教師の姿を思い起こして言った。
「じゃないと、また一般教科の教師が辞めるぞ」
「それもそうだけど……。でも、うちの生徒が勉強できないのは仕方ないよ」不知火は少し困った顔をして言った。「ここは一般教科の勉強をするための学校じゃないもの」
俺は何も言えなくなって黙り込んだ。不知火の言うことは正しい。一般教科の授業なんてものは体面を気にした学校側が受けさせている教養科目であって、俺たちが学びに来ているのは各々の学科の専門授業だ。普通の学校であれば、授業が終われば部活動をしたり友人と遊びに行ったりするのだろう。確かにこの学校にも普通の部活動はあるが、それに入る学生は多くない。ここでは放課後の専門科目授業こそが本業だからだ。
「別に良いんじゃないかな。必要なことは人それぞれ違うんだから」
そう言って、不知火は女好きのしそうな顔で涼やかに微笑んでみせた。顔が良い人間は何を言っても恰好よく聞こえる。また不知火は中身も人格者であったから、文句のつけようがなかった。どうしてこの学校に不知火のような学生がいるのかが不思議だ。彼のような学生は青年たちの模範として、正しい青春を送るべきなんじゃないだろうか。そう例えば放課後を部活動に励み、汗を流して心身を鍛え、チームメイトと友情を交わすようなそんな学生が『学生らしい学生』ではないだろうか。俺は横目で不知火の姿を見ながらぽつりと呟いた。
「お前ってサッカー部とか似合いそうだよな」
「サッカーは得意でも不得意でもないよ?」
「いや、こっちの話」
俺が何を言ったとしてもそれは例えの話でしかないのだ。この学校で必要とされることは、勉学ではなく技術、友情ではなく信頼なのだから。
それはつまり、こういうことだ。
俺や不知火が所属する学科の専用施設。俺たちの目的地であるこの学校の体育館――強襲科専用施設――の中からは、銃声が鳴り響いていた。