【Arcanum Duo】- 遠山かなみの犯罪記録 -   作:suzu.

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00.The first and last promise

 

 遠山かなみの存在を知ったのは、俺が中学に上がってからのことだった。

 その日、成田空港の到着ロビーは普段の姿をひそめ、どこか暗愁の影さえ忍び寄ってくるような気がした。がらんとした空間にどこまでも続く煌々とした照明が現実感を削り、物音ひとつない研ぎ澄まされた空気はじりじりと焦燥を煽った。

 ロビーに映し出される電光掲示板が最後のフライト情報と共に電源を落としてからずいぶんと時間が経ち、すでに日本時間の日付は変わっていた。最終便の乗客が通り過ぎていくのを眺めたのは、もう1時間も前のことだったか。

 最終便こと、アリタリア航空が運航するボーイング767が到着したのは、通常ならば約12時間のフライトを2時間ほどオーバーしてからだった。原因は乱気流の影響だったが、そもそも出発自体が遅れたらしく、降りてきた客はみな一様に疲れた顔をしていた。それが一時間前のことだ。今やサービス店舗はとっくにシャッターが下りたし、見回りに来た警備員がちらりと俺を一瞥して去ったきり誰も現れない。

 異様な静けさに満ちた成田空港第一ターミナルに、俺は一人きりでベンチに腰かけて、自分が今まで認識してきたものと現実との違いについて考えていた。失ったものが何なのか。得られたものは何なのか。そして、これからのことを。

 

 人という生物はどうやら俺が思っている以上に繊細で複雑なものらしい。哲学なのか雑学なのか要点の曖昧なそんな話を人づてに聞いたなら、へぇそうなのかという感想で済まされるのだが、それが自分の話なのだから、普通代表とはいかないまでも自分は平凡な人間だと疑いもしなかった俺にとっては、まさに寝耳に水もいいところである。

 特に未だ解明されていない脳にいたっては小さな宇宙と呼ばれるほどだという。人類最終の謎であろう宇宙。どうやって創られたのか、それとも最初からそこに在ったのか。最初とはいつなのか。そことは何処なのか。そうやって究極の問いへと堕ちていくのは、人という存在も同じなのだと気づく。そう、――意識とはどこから生まれるものなのか。それは宇宙という最もマクロの単位でもなく、素粒子という最もミクロの単位でもなく、脳という次元の単位で生まれてくるものであり、意識を共有することはできない。

 本当にそうなのだろうか、と俺は考える。脳を構成する物質とそれを取り巻く宇宙と、それぞれの個としての境界は存在するのだろうか、と。

 実のところをいうと、そんな話はどうだってよかった。ただ俺にとって問題なのは、俺と彼女の境界はどこにあるのだろう、ということだけだ。

 人ひとり数える時の単位は、脳の数なのか、それとも意識の数なのか。もし意識の数なのだとしたら、意識のない人間はヒトではないのか。それは人形《ヒトガタ》と呼ぶのか。助数詞は一体なのか。俺と彼女、合わせて一人なのか。それとも一人と一体なのか……。

 境界線なんてどこにもないのだと思いながらも、その隔たりを感じずにはいられない。何も考えなければそれで済むのかもしれない。違和感を飲み込んでしまえばそれで終わりなのだとは頭のどこかで分かっている。それでも、問い詰めてしまうのが人という生物のどうしようもないさがなのだろう。いつだって終わりのない円環から抜け出せずにいるのだ。

 

 こつ、静まり返ったロビーに響く微かな足音。妙にリアルなそれにはっと顔をあげた。

 ゲートのちょうど入口の辺りに、まるで最初からそこに居たかのように立ちすくむ白い影が視界に入った。――ああ、彼女だ――俺は反射的に座っていたベンチから立ち上がり、ゆらりと足を踏み出した。揺れる視界の中で白い姿から一瞬たりとも眼を逸らすことなく歩を進める。ふわふわと、夢の中を歩いているような感覚だった。

 純白のロングコートに身を包んだ彼女は、それ以上動くつもりはないようだ。俯いた顔に濃紺の髪が影をおとしていて表情は分からなかった。だが俺にはそれが泣きそうなのを堪えているように見えた。

 彼女の前までたどり着いた時、ようやく俺は気づいた。彼女が微かに震えていることに。その事実がどうしようもなく俺の中をぐちゃぐちゃに掻き乱して、一瞬にしてそれまで考えていたこと――何を言おうだとか、どんな顔をしようだとか、そういったどうでも良いことを吹き飛ばしてしまった。

 だからなのか、俺は最初に彼女にかけた言葉が何なのか思い出せない。何か一言、短い言葉だった気がする。彼女の名を呼んだのかもしれないし、もっと別の言葉だったかもしれない。声に出したつもりで、何も言葉にならなかったのかもしれない。無意識の言動だったし、俺自身何も考えられてなかった。後から思えば酷く緊張していたのだと思う。いや怯えていたといった方が正しい。そう、お互いに。

 俺はただ待つことしか出来なかった。一言だけ口にして、言葉にしたつもりになって、あとは彼女の前で黙って立ち尽くすことしか出来なかった。傍から見ればずいぶんと奇妙な光景だっただろう。良かったのか悪かったのか、その場には互いの他に誰もいなかったのだけど。

 どれくらいの時間が過ぎたのか分からないほど張りつめた空気の中、ようやく彼女はゆっくりと顔を上げ、俺は見た。濃紺色に彩られた昏い底なしの眼を。と同時に本能的に理解する。あれには何も無いのだと。それがどういうことなのか、俺には分からなかった。ただ理解しただけだ。頭でではなく感覚で。

 彼女の眼の奥に何も無いのを見て、何も存在しない事実を知って、俺は――安心した。何の疑いもなく、ただ羊水に包まれた赤子のように、たまらなく安心した。不自然な反応だとは思いもしなかった。

「もう良いじゃないか」

 気づけば俺はそう口にしていた。なぁ、もう十分だろう。言い聞かせるように言葉を重ねる。彼女は瞬きをひとつしただけで何も言わなかった。

「認めるしかないんだ、俺たちが別々の人間だってことを。俺たちの間には確かに境界線がある。今まで見えてなかっただけで、きっと最初から別のものだったんだよ」

 嘘だった。

 別々であって良いはずがない。最初から別のものなら、このぽっかりと抜けおとしたような喪失感はなんだというのだ。嘘でもなんでもこの隙間を埋めるには認めるしか道がなかった。彼女が居ない一年余りで俺が出した結論だった。考えて、考えて、閉じた円環から抜け出せなくなって、考えるのをやめた俺が出した結論。

「独りは嫌だ。――嫌なんだ」

 彼女が呟くように言った。どこかで聞いたことがあるような声だと思った。思ってから、それがレコーダーを通して聞く自分の声と同じであることに思い当たる。

「独りじゃない。"ひとり"が"ふたり"だっただけだ。だから何だっていうんだ。それだけのことだ。何も変わらない。何も変わるものか」

「俺が消えたらどうする?」

「探すよ」

 短く答えてから少し口を噤んだ。彼女は続きを待っていた。俺は考えることを止めてしまった頭の代わりに、心のどこかから浮かんでは消えてゆく、うたかたのような言ノ葉を拾い集めてなんとか言葉にしようと躍起になった。

「探して、見つけて、それで一緒にいれば良いじゃないか」

 ずっと一緒に。もう一度言いかけてそれは叶わなかった。

「何で……、何でそんなこと言うんだよ」彼女はおそろしく乾いた声で言った。「何でそんな簡単に一緒にいるって言えるんだよッ!」表情ひとつ変えずに彼女はホールを震わせんばかりの声で叫んだ。どうやら俺の言葉は彼女の琴線に触れたらしかった。

 キィンと残響が余韻をのこして消えていくのを耳の奥で捉えて、彼女が僅かに乱した息が整うのを静かに待ってから、俺は何でもない様に言った。

「本当のことだからさ」

「……本当って?」

「本当は本当だよ。偽りの反対」

 彼女はそれっきり黙ってしまった。彼女が何を思い、何を考えているかなんて見当もつかないし、俺には理解できないことも分かっていた。ただ、気を抜けば吐きそうなほど気持ちが悪かった。白を黒と言って、黒を白と言うよりずっといびつで救いがたい衝動だった。彼女が理解できないという現実が受け入れられないのか、それとも自分のエゴに吐き気がするのかも分からない。

 やがて彼女は諦めたように掠れた声で言った。

「ひとつだけ、頼みを聞いてほしい」

「いくつでも構わない」

「ひとつで良いんだ。ひとつじゃないと意味がない」

 彼女はほんの少しだけ微笑んだように見えた。相変わらず濃紺の瞳は何も映していなかったが、彼女は小さな唇を震わせながら言った。たったひとつの願いを。

「俺を、忘れないで」

 そっと小指を、彼女の前に差し出した。

「約束する。忘れない」

 一瞬ためらった後、恐々と自分の小指を差し出す彼女の指を捉えて絡めると、俺たちは小さな声で呪《しゅ》を唱えた。――指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます――それは契約の詞。決して破らぬという誓いの辞。

 唱え終わって小指が解かれてから、彼女が何かを呟いた。それは本当に微かな声だったが俺には届いていた。彼女自身、俺に聞こえるとは思ってなかったかもしれない。

 だが、確かに声は届いていたはずなのに、俺はそれがどんな言葉だったか思い出せないのだ。その時の彼女の眼も表情も。

 初めの時と同じだった。さすがに二度続くと不自然さを感じたが、彼女は何も感じていないようだった。俺だけが彼女との齟齬に怪訝な顔をしていた。そんな俺を彼女はただ黙って見ているだけだった。

 

 ――それが、彼女と最初に逢った日。そして最後に彼女に逢った日のこと。

 結局のところ、俺はそうするしかなかった。正しい選択だったとは思わない。後悔しているかと問われれば後悔していないと答えるし、満足しているかと問われれば満足していないと答える。この感情を何と呼べばいいのか分からないし、今でも分からない。

 考えたってどうにもならないなら、考えない方が良いに決まっている。閉じた円環から抜け出す必要なんてない。ここには始まりもなければ終わりもない。わざわざ自分で終止符を打つ必要もない。世界で最も安定したカタチ。

 その日俺は何かを失った。でもまだ見失ってはいない。糸一筋の細さで繋がっている。そう、まだ俺たちは繋がっているのだ。いつか彼女も気づくだろう。その時、彼女は俺を見てくれるだろうか。俺を見て、笑ってくれるだろうか。それまで俺は嘘を吐き続けるだけだ。いつか真実になるまで。

 さて、この感情をなんて呼ぼう――。

 

 

 


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